詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池田清子「悔い」、青柳俊哉「雨の音に乗って」

2020-03-03 10:52:59 | 現代詩講座
池田清子「悔い」、青柳俊哉「雨の音に乗って」(朝日カルチャー講座福岡、2020年03月02日)

悔い           池田清子

私は やさしかった
魂の自由さえあれば
他は外のことだった
私のやさしさは
冷たさだった

そのやさしささえ
いつのまにか消えた

怖さに添うことができなかった

やさしい言葉に
別の意味を探した

答えを求められたのに
忘れたふりをしていた

希望や正しさに
後ろ向きでついていった

ただ ただ 悔いる

ごめんね

 「魂の自由さえあれば/他は外のことだった」の二行に受講生は注目したのだが、私が「ここをどう読むか」と問いかけたのは二点。
 ①動詞だけを追っていくとき、そこに変化はないか。その変化どう読むか。
 ②「やさしい(やさしさ)」ということばが繰り返されるが、それはだれの「優しさ(やさしい)」か。

 ①動詞(用言)の変化。「やさしかった」「ことだった」「つめたさだった」「消えた」「できなかった」「探した」「ふりをしていた」「ついていった」と過去形がつづく。そきあとで「悔いる」と一回だけ「現在形」があらわれる。
 「悔いる」はもともと「過去」を悔いるのだけれど、そのことが動詞の活用の変化でいっそう明確に書かれている。何かを思い出して、それを悔いている。
 何を悔いているのか。
 それが②を中心に見ていくと浮かび上がってくる。
 一連目の主語は「私」。「私のやさしさ」という一行がはっきり示しているように、「やさしさ」は「私」の属性である。二連目の「その」やさしさは、「私のやさしさ」である。「その」は「私の」と言い換えればわかりやすいのだが、「私の」ではなく「その」と書き換えているのは、一行目の「やさしさ」とは別のものだと気づいたからである。「やさしさ」はいつも同じ形であらわれるものではなく、変化する。「私のやさしさは/冷たさだった」、何か面倒に感じて、ただ「やさしく」振る舞っていただけであって、それがだれかにとってほんとうに必要なものであるかどうか考えていなかった。そういう「形式的(?)」なやさしさも消えた。ここには、「悔いる」が先取りされている。「悔い」が含まれている。客観的に自分をみつめていると言ってもいい。だからこそ「私の」ではなく、「その」と書くのである。
 そのあと、四連目の「やさしい言葉」はだれのことばか。「私の」を補うことはできない。「私」ではないひとの、「やさしい」ことばなのだ。「私のやさしさは/つめたさだった」が、その人のことばは純粋に「やさしい」のである。それなのに、「私」は、そこに「冷たさ」(別の意味)を「探した」。そう読むことができる。
 五連目の「答えを求めた」のも、「私」ではないだれかであり、「私」はそのことを「忘れたふりをしていた」。もしかすると、「忘れたふり」をすることが「やさしさ」だと思ったのかもしれない。しかし、それは「冷たさだった」。一連目に書いたことが(一連目で言い残したことが)、ここで言い直されている。
 六連目も同じである。それまでの連に、「私」と「あなた」を補うと、次のようになる。

「あなたの」やさしい言葉に
「私は」別の意味を探した

「あなたに」答えを求められたのに
「私は」忘れたふりをしていた

「あなたの」希望や正しさに
「わたしは」後ろ向きでついていった

 これは、どういうことだろうか。三連目の「怖さ」がキーワードになる。この「怖さ」はだれのものか。「私」のものであると同時に、「あなた」のものである。たとえば、それは「死」。「死」は死んで行く「あなた」にとって「怖い」何かである。同時に、「私」にとっても「怖い」。自分が死ぬわけではないが、「あなた」がいなくなる「怖さ」。ここには、「私」と「あなた」が「怖さ」ということばを中心にして絡み合っている。その絡み合いをひきずりながら四、五、六連目が書かれている。そこにはふたりの「対話」がある。
 「希望や正しさ」は、たぶん、「まだ生きられる」という願いのことだ。「私」は積極的にそれを語り、「あなた」を励ますのではなく、「希望(祈り)」を語る「あなた」に「絶望」しながらついていった。「対話」しながら、ついていった。「後ろ向き」とは、「あなた」の向いている方向をみつめるのではなく、「あなた」と違った方向をみつめていた、ということだろう。
 でも、いま、「あなた」はいない。「対話」はない。そして「対話」できなくなって、はじめて「対話」が不十分であった。つまり、「やさしい」ふりをして、「冷たく」接していたのだったかもしれないと「悔いる」。
 「ごめんね」は、いま、ここにいない「あなた」への「対話」のはじまりである。返事は返って来ないが、はじめるしかない「対話」なのである。
 だから、切実で、美しい。

 詩は、書かれていることばと同時に、書かれていないことばを探して読むと、「書いた人」になることができる。そのとき手がかりになるのが「動詞」である。「動詞」のなかでは何かが動く。「肉体」が動くときもあれば、「感情」が動くときもある。



雨の音に乗って   青柳俊哉

冬至の日の 
光がうまれようとする新月の朝の
雨の音に 
わたしのすべての意識と感覚を  
乗せて遊ぶことができるなら
きのうの雲の中にも
しられることのないとおい星雲の塵の中の
水の粒子のうまれる瞬間にさえ
そして そこからひろがる新しい水音のひびきにも
帰ることができるような気がして
庭の南天や月桂樹の葉にはねる
雨の音をきいている

 講座では、まず最初に筆者が詩を読む。そのあと、別の人が同じ詩を朗読する。耳で聞いていただけのときと、自分で声を出して読んだときでは「肉体」の動きが違う。
 この詩では前半の五行は読みやすいが、そのあとが読みづらいという声が出た。「イメージがつくりにくい」という。前半は身近な光景なのに、途中から「星雲」と遠い風景になる。
 なるほど。
 このとき「イメージ」というのは、どういうふうにつくられているのだろうか。
 大雑把に言えば、前半は、「わたし」が冬至の朝、雨の音を聞いている、感じ。一枚の「絵」のように思い描くことができる。「意識と感覚」ということばは出てくるが、「意識と感覚」をイメージするというよりも、一人の人間、冬至の朝、雨が降っているという「日常的な」風景を思い描く。これは思い描きやすい。
 それに対して「星雲」はかなり想像力がいる。現実には見えない。しかもそれが「しられることのない」ところにあるのだから、最初から「日常」を否定し、想像しなければならない。そこから「塵」「水の粒子」(ともに小さい)、「水音」と変化していく。一連目にも「雨の音」は出てきたのだが、「絵」のなかにおさまってしまう。後半では「絵」におさまりきれない。イメージが変化し続けるからである。
 こういうときは、こう考えてみよう。「絵」を思い描くのではなく、「映画」を思い描いてみよう。映像が動いていく。その「変化」そのものこそがイメージなのだ、と。
 一連目も「冬至の日の/光がうまれようとする新月の朝の/雨の音に」と描かれるものは変化しづけている。「の」の積み重ねによって、カメラが動いていって、次々にあたらしいものを映し出す。たまたま「日常」みているものがことばになっているので、動いている感じがしないが、実は「の」の力によって「存在」がつながれ、移動している。
 この「の」の力を利用した「連続(つなげる)」運動は詩の中盤でも同じである。いわば、中盤は前半の「言い直し」になる。前半では言いきれなかったことを、さらに深めて言い直している。そのとき、やりは「の」によるものからものへの移動がイメージなのだ。映画を見るように、前に書かれたものは「記憶」のなかにしまいこみ、新しく、いま、目の前にあるものだけを見るようにすれば、イメージをつかむことはそんなにむずかしくないと思う。
 そして、では、このとき何を描きたくて作者はこんな書き方をしたのかと考えるとき、「の」の連続のほかに、何か、ほかのことばが共通していないかを探すと、理解しやすくなる。

光がうまれようとする

水の粒子のうまれる瞬間

 ここに「うまれる」という共通の動詞がある。「うまれようとする」と「うまれる瞬間」には、微妙な時差があるが、入れ替え可能なものだと私は思う。
 青柳の書きたいことは、この「うまれる」という動詞と関係があると思う。存在していなかったものが存在する。その不思議。「新しい」何かが存在するということをはじめる。それまでなかったものが「存在する」ようになる。
 そして、その「変化」の瞬間を、青柳は「帰る」という動詞をつかって結晶させようとしている。「新しいものがうまれる」、しかし、そこは「新しい場所」(知らない場所)ではなくて、青柳が知っている場所、帰ることができる場所なのである。「行く」ではなく「帰る」という動詞をつかっている。
 ここにポイントがある。
 雨の朝、という現実がある。その現実を、常識のままとらえるのではなく、「意識と感覚」を解き放ってしまう。それは、いわば、自己解体だ。そうすると、それは「宇宙」の誕生のような世界へまで広がっていく。まだ、何も形が決まっていない。どんなものでも、その不定形(星雲)のなかからうまれてくることができる。
 日常を渾沌とした宇宙にまで解体し、そこから青柳自身が「うまれる」。それは「うまれなおし」である。このとき、青柳が頼りにする(?)のが「水」であり「水の音(のひびき)」である。
 いま、青柳がいるのは、自分の部屋かもしれない。しかし、青柳の肉体とそこにはなく、雨になって南天や月桂樹の葉をたたいている。いや、それは同時に存在している。部屋の中にいながら、同時に雨にもなって葉をたたく。それだけではなく、雨にたたかれる葉っぱにもなっていれば、そのときの「雨の音」にもなっている。
 そういう世界が描かれている。 「光」は「水の粒子」が「うまれる」という動詞のなかでとけあったように、あらゆる存在(「わたし」を含む)がとけあい、同時に、瞬間瞬間、ひとつの形をとって動くという世界がここにある。















*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(45)

2020-03-03 09:54:41 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

水の思想

大きな瀧でも骨格がない
生まれるとすぐから落下がはじまるからだ

 この二行からは「上昇」が生きるということであり、それを支えるのが「骨格」ということになる。この「骨格」は「思想」と言い換えられそうだが、それでは水には「思想」がないことになる。
 嵯峨は、言い直す。

しかし 水には思想がある
七色の論理でつづられる一つの無形の思想が

 瀧のまわりにできる「虹」を「思想」と呼んでいる。飛沫のなかで姿を現わす輝かしく美しいもの。光と呼応する存在。
 しかし、私は、この詩を好きになれない。「思想」が美しくなければならない理由などない。「七色」である必要はない。






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