詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中神英子『一歩』

2020-10-29 11:24:23 | 詩集
中神英子『一歩』(私家版、発行日不明)

 中神英子『一歩』は手作りの本である。コピーを袋とじにして、表紙はヒモで閉じてある。中神が撮ったのだろか、蝶のカラー写真が挿入されている。斎藤茂吉の短歌も挿入されている。ほかは詩が二篇と長い「あとがき」。
 「白紙」という作品。

夜の机にノートが光っている
その上に青白い胡蝶の実が
滅ぶように去った女の嘆きで濡れている
「ここに書いておかなければならないことが
あったんです」
彼女はそれを淀んだ話で濁した

 古くさい(?)静けさがある。この場合の「古くさい」は肯定なのか、否定なのか、書いたものの、私にはまだわからない。なんとなく「古くさい」と感じた。それはこの詩集の「手作り感」にも通じている。あ、いまでも、こういう方法があるのだ、それを実行している人がいるのだという驚きと、安心と、不安。
 「古くさい」の「否定的」な部分を言えば「女の嘆きで濡れている」。「肯定的」な部分を言えば「淀んだ話で濁した」。
 この「淀んだ話で濁した」の「淀んだ」と「濁した」のたたみかける重さが、不思議な手触りとして響いてくる。言ったことばよりも、その「言い方」に中神が身を乗り出している。こういう「肉体の感じ」をもったことばが、私は好きである。
 「肉体」に重心を起きながら(あるいはそこを出発点としてと言えばいいのか)、ことばは「精神(意識)」の方へ動いていく。

それから
ノートはただの白紙ではない使命を覗かせる

青白い胡蝶の実が転がっている

 「それから」は「そのあと」という「時系列」をあらわしている。「その結果」でもある。彼女が「淀んだ話で濁した」がなければ、「白紙」は存在しなかったのである。「淀んだ」と「濁した」が「白紙」を輝かせる。
 そこに、不在の、実現しなかった「書いておかなければならないこと」があり、それは「青白い胡蝶の実」として象徴される。「青い胡蝶の夢」と読み直すと、嘘になってしまう。「胡蝶の実」という「もの」だからこそ、事実という詩が生まれる。

瞬間に押し出される人の言葉は
不確実で曖昧なことが多いけれど
この世は大抵それで動いている
歪んだ歯車でまったく構わない

 これは「意識/精神」そのものを「説明」している。「説明」であることが詩を窮屈にしているとも感じられし、その窮屈さが「深み」への入り口であるとも言える。ここでは、私は「肯定」も「否定」もしない。
 すこしつまずく感じがするが、つまずいたのか、踏み台を踏んだのか、判断できない。たぶん飛翔のための踏み台と考えた方がいいだろう。

白紙を抱いて去って行ったものら
その歩みの跡が
黒い地面に金の粉のようにしんみり光って
地平までずっと続いている

一日の手綱を取るものがつぶやく
「なぜ、あんなに煌きだけが残るのだろう」

 「煌き」と呼ばれているのは「白紙」だが、それを煌めかせているのは「胡蝶の実」よりも「淀んだ」「濁した」ということばかもしれない。「淀んだ」「濁した」は「しんみり」ということばで「煌き」に静けさを与えている。
 「白紙を抱いて去って行ったものら」の「ら」のなかには中神自身も含まれる。中神は、このとき「女」と一体になっている。その「一体感」もまた「煌き」であり、静けさである。

 豪華な詩集もいいけれど、こういう手作りの小さな詩集で、静かに詩を読むのもいいなあ。それこそ、「煌き」が残る。





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「言い逃れ」と「言いがかり」(その2)

2020-10-29 10:25:07 | 自民党憲法改正草案を読む
「言い逃れ」と「言いがかり」

   自民党憲法改正草案を読む/番外409(情報の読み方)

 2020年10月29日読売新聞(西部版・14版)に国会代表質問の詳細がのっている。その内の学術会議に関する菅の答弁。(番号は、私がつけた。)

①必ず推薦通りに任命しなければならないわけではないという点は、内閣法制局の了解を得た政府の一貫した考えだ。
②個々人の任命理由は人事に関することで差し控える。
③任命を行う際には総合的・俯瞰的な活動、専門分野の枠にとらわれない広い視野に立ってバランスの取れた活動を行い、
④国民に理解される存在であるべきだということ、
⑤民間出身者や若手が少なく、出身や大学にも偏りが見られることも踏まえて、私が任命権者として判断した。任命を変更することは考えていない。

 この答弁からわかることは、菅のやっていることは「言い逃れ」と「言いがかり」であるということだ。
 こんな「やくざ手法」に対抗するには、菅のやっていることが「違法」であると指摘するだけではダメだ。もっと「俗なことば」で批判しないといけない。もっと「日常的なことば」、だれもが「理不尽」と実感できることばで批判しないといけない。
 「言い逃れ」「言いがかり」ということばで、菅のことばを分類してみる。

①「内閣法制局の了解を得た」と言っているが、その「了解」をあらかじめ学術会議に伝えているか。言い直せば学術会議の了解をとっているか。国会でも表明しているか。その記録はあるか。「後出しじゃんけん」のように「内閣法制局の了解を得た」というのは「言い逃れ」である。
②「個々人の任命理由は人事に関する」というとき、それは個人に配慮しての措置が基本だろう。理由を明らかにすることで、該当者、その関係者が不利益を被るときは「理由」を明らかにしない。また該当者も、「理由を明示しないよう」求めることもできるだろう。ところが、今回は、該当者が「理由」説明を求めている。不利益を被ったものが「理湯」を求めているのにそれを明示しないのは「言い逃れ」である。
 ここからさらに、こんなことを考えてみる。ひとはだれでも自分の「不利益」になることをいわなくてもいい。裁判でも「黙秘権」が認められている。憲法にも第38条に「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」と書いてある。菅が、いまやっているのは、これである。「理由」を説明すると菅が「不利益」になる。だから、言わない。NHKの番組のなかで菅は「説明できることと、できないことがある」と開き直っている。これは「言い逃れ」である。

③6人の活動が「総合的・俯瞰的」「専門分野の枠にとらわれない広い視野に立った活動」ではない、という根拠はどこにあるのか。6人が政府の方針を批判している。「政策決定」は6人の「専門分野」ではないかもしれない。だとすれば、その6人こそ「専門分野の枠」にとらわれず「広い視点」で意見を述べている。「総合的・俯瞰的」に活動している。菅が気に食わないからといって、6人が「総合的・俯瞰的」「専門分野の枠にとらわれない広い視野」を持っていないというのは「言いがかり」である。
 菅は、何と何を「総合」したのか、どのような立場から「俯瞰」したのか。どの「専門分野」を問題にしたのか。何も明示していない。
 菅の方が、批判を聞き入れるだけの広い視野を持っていないし、総合的・俯瞰的に考えることを放棄している。
 「総合的・俯瞰的な活動、専門分野の枠にとらわれない広い視野」ということばは意味のない「言いがかり」である。
④「国民に理解される存在」もまた意味のないことばである。6人の学者の何を国民が理解できるか。「専門分野」に関して言えば、その専門家しか理解できないだろう。国民が理解できないことを理解している(研究している)からこそ「学者」なのである。国民に理解できるのは、その人が「専門分野」以外で(あるいは専門分野に関する何か日常的なことで)何をしたか、何を言ったかである。
 6人は政府の方針に反対意見を述べた。この事実は、私には理解できる。(たぶん、ほかの国民にも理解できる。)このとき、6人の意見に賛成であるか反対であるかは問わない。理解できるからこそ、賛成、反対が言える。
 菅が言いたいのは「国民に理解される存在」ではなく、「政権が賛成できる存在」である。これを「国民に理解できる存在」と言い換えて批判している。政権を国民に、賛成を理解と言い換えた「言いがかり」である。
⑤「民間出身者や若手が少なく、出身や大学にも偏り」というが、絶対数ではなく「割合」で見るとどうなるのか。たとえば国会議員でも東京都から出馬し当選した人の数は、島根県から出馬し当選した人の数より少ない。けれど、絶対数が少ないからといって、それが「不平等」ということにはならない。むしろ議員一人当たりの「有権者」が問題になる。つまり「一票の格差」が。もし「民間出身者や若手が少ない、出身や大学にも偏り」ということを理由にするならば、6人の選任によって全体のバランスがどう変化するのか、その詳細な情報が必要だろう。「専門分野」によっては、ある特定の大学でしか研究されていないということもある。そういう「情報」を提供していないのは、単なる「言いがかり」である。

 しかも、問題なのは、この「言いがかり」が「後出しじゃんけん」であるということだ。
 最初から学術会議のメンバーについて、どの分野は何人、どの大学は何人、さらには出身地別には何人、という基準があって、それを逸脱しているというのなら「民間出身者や若手が少なく、出身や大学にも偏り」とは言えるが、それがないなら、単なる「言いがかり」。一票の格差は、国民は法の前に平等であるという原則を逸脱しているが、菅の6人拒否には、そういう「明確な基準」がない。
 ただ6人を拒否したいがために、学術会議にまで「言いがかり」をつけている。つまり、「あり方の見直し」を主張している。
 「論点のすりかえ」というものではなく、「言いがかり」である。「言いがかり」で学術会議の存在をねじ伏せようとしている。

 私たちがここから考えなければならないのは、このことである。
 菅は国民に対してどんな「言いがかり」でもつけてくるだろう。そして気に食わない国民を排除しにかかるだろう。
 すでに政府方針に反対する官僚は異動させると明言している。官僚の世界の異動は国民にはよほどのことがないかぎりはわからない。「左遷」といわれても実感がない。「左遷」されても給料は一般国民よりもいいとなれば、「左遷」をどう判断して判断していいか、実感できない。単に、誰か知らない人の「出世」が遅れた、くらいにしかわからない。自分の家系に無関係だから、そんなことを気にする余裕はない。「学者」もおなじ。私の知らない「専門分野」のことを研究している人が会員に任命されなかった。会員になれなくても研究(学問)はできるはず、関係ない。「わからない世界で、わからないことが起きている。」でも、それは自分の生活とは無関係だから、気にしない。
 でも、その「わからない世界」が、私たちのすぐそばにもある。
 私はこういう文章を書いているが、おなじマンションに住むひとの何人がそのことを知っているか。だれも知らない。私が何をしているか、わからない。その「わからない人間」がある日、菅を批判する文章を書いたということで警察に逮捕されたとする。そのとき多くの人にわかることは、私が菅を批判したから逮捕されたということだけであって、私の批判が妥当かどうかは、だれも判断しない。だれも判断しないけれど、あ、菅を批判すると逮捕される可能性があるということだけは、わかる。
 そういうことが、私たちから遠い世界、「学者の世界」でこれからはじまるのだ。菅を批判すると冷遇される。きっと予算が削減される。それでは自分の望む研究ができない。自分のしたい研究をするためには予算が必要。菅を批判するのはやめておこう。そう考える人が出てこないとは限らない。そういう動きは、よそからは見えない、見えにくい。だから危険なのだ。国民から遠いところから徐々に「排除」の枠が押し迫ってくるのである。
 こういうことに対抗するには、菅のやっていることは「違法行為」であるというまっとうな批判だけではダメだ。(枝野のやっているような正当法では限界がある。)菅のやっていることは「言いがかり」をつけて気にくわない人間を排除するという暴力団の手口だと言う必要がある。気取っていてはダメだ。日常の論理、暮らしの感覚(日常使っていることば)で語らないといけない。
 私たちの身近にある「事実」から出発して、菅を批判することだ。
 たとえば「いじめ」。いじめも菅の手法だ。おなじ構造だ。パワハラもおなじだ。「あいつ、家でうんちせずに、学校でうんちしている。まだ、くさい。どうして家でうんちをしてこいなのか」というようなわけのわからない「言いがかり」からはじまり、それが拡大していく。いじめられたくないから、いじめる側に加担する。いじめられるひとを擁護するといじめられてしまう。
 「言いがかり」と「言い逃れ」しかできない「幼稚な人間関係」が政治を動かしている。その「幼稚性」を問題にしないといけない。菅を「教養がない」と批判した人がいるが、「教養がない」ではなく、「幼稚」なのだ。「幼稚な知恵」をふりかざして「言いがかり」で「大将」になって威張っている。








*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



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アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

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