詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アーロン・ソーキン監督「シカゴ7裁判」(★★★)

2020-10-11 18:02:41 | 映画
アーロン・ソーキン監督「シカゴ7裁判」(★★★)

監督 アーロン・ソーキン 出演 エディ・レッドメイン、マイケル・キートン(2020年10月11日、キノシネマ天神、スクリーン2)

 「裁判映画」だから、やっぱりことばが主役。
 そして、この「ことば」のあつかいが、この映画ではとてもおもしろい。映画のなかでも「コンテキスト」ということばが出てきたが、ことばの意味は文脈によって違ってくる。何を言ったかと同時に、どういう状況で言ったか。
 エディ・レッドメインは学生の運動家である。非常に弁が立つ。しかし、そのことばは「あいまいさ」を含んでいる。「我々の」という「所有形」を多用する。彼がだれかと一緒にいるとき、つい「我々の」ということばをつかう。一緒にいても「我々」ではないことがある。
 具体的に言えば、この映画で描かれている七人は、1968年、シカゴで開かれた民主党全国大会の会場近くに集まった七人である。ただし、その七人は、それぞれ所属している団体がちがう。立場がちがう。たまたまデモを先導したという理由で「ひとまとめ」に逮捕され、ひとまとめに起訴されている。そのなかには、どうしても相性の悪い人間がいる。エディ・レッドメインはヒッピーが嫌いだし、ヒッピーはエディ・レッドメインを嫌っている。「我々」なんかではないのだ。たとえ「我々」というときがあったとしても、それぞれが自分の「コンテキスト」を生きている。しかも、自分の「コンテキスト」を守ろうとしている。
 七人のなかにひとり「ボーイスカウト」の世話係(?)のような「暴力否定主義」のおじさんがいて、こどもに「どんなことがあっても暴力はダメ」と言っているのだが、法廷で思わず法廷の官吏を殴ったりもする。自分で自分の「コンテキスト」を逸脱してしまう。七人以外にアフロ系の男も起訴されていて、彼は彼で「コンテキスト」の格差に怒りをぶちまける。
 あ、ずれてしまった。
 ことばの「コンテキスト」にもどしていうと、エディ・レッドメインのことば「友人が警官の暴行を受けて負傷した。血を流した。彼の血は我々の血だ。我々の血がでシカゴの街で埋めよう(これは正確なことばではない、私がテキトウに書いている)」というようなことを言ってしまう。これが「暴動を煽った」と認定され、七人は有罪になる。
 このエディ・レッドメインことばは、「11人の怒れる男たち」で、長引く会議、対立する意見にいらだち、陪審員のひとりが「殺してやる」と叫ぶのに似ている。ほんとうに血を流せ、街を血でみたせ、ほんとうに殺してやる(殺意をもっている)というのではなく、おさえられない怒りが「血を流す/殺す」という「比喩」を呼び寄せている。しかし、「コンテキスト」を無視すれば、これは「脅迫」になるし、「殺人の予告」(意思表示)にもなる。
 逆の「コンテキスト」も示されている。公園で集会を開きたいと言ってきたヒッピーに対して市役所の担当者がダメだという。「ダメといわれても集まる」「どうすれば解散するか」「10万ドルくれれば集まらない」。この「10万円よこせ」は状況次第では「恐喝」になる。しかし、担当者は「恐喝」とは感じていない。犯罪性を感じていない。
 というぐあい。
 そして、これは、また「ことば」が語られない「コンテキスト」をも浮かびあがらせる。この裁判自体が、政府の、ベトナム戦争に反対する学生、ヒッピーは国策の邪魔だという「コンテキスト」によって引き起こされている。暴動があったから七人を逮捕するというのではなく、七人を逮捕することでベトナム戦争反対という運動を抑えつけるという「コンテキスト」を完成させようとしている。法廷では語られないことばが、じつは裁判そのものの「コンテキスト」になっている。
 あ、ずれているのではなく、私の書いていることは徐々に「本筋」にもどっているのか。
 これが、最後の最後で、じつに感動的な「コンテキスト」を破壊することばを噴出させる。政府の意図を叩き壊す。
 最終陳述を認められたエディ・レッドメインが、裁判が始まった日から判決の日までに死んだ兵士を名前、5000人近くの名前を読み上げる。ベトナム戦争で死んだ兵士の名前。その人たちへの追悼を、自己主張にかえる。法廷が拍手でつつまれる。
 七人がやったこと。それはベトナム戦争への抗議、ベトナム戦争を拡大する政府への抗議だったのだ。アメリカ人が理不尽な根拠でベトナムに派兵され、多くの兵士が死んでいる。ベトナム人も死んでいる。この政権を許すことができない。
 「コンテキスト」と「コンテキスト」の戦い。そのなかで、ことばはどんなふうに動くか。ことばをどう動かしていけるか。これは映画であると同時に、ことばと「コンテキスト」の問題を考えさせる作品である。言い直せば、非常に政治的で、民主主義とは何かを問う作品だ。民主主義とは、ことばがどれだけ自由に自分自身の「コンテキスト」を確立し、それにしたがって他者と向き合うことができるか、どれだけ多くの「コンテキスト」を用意できるか、という問題である。つまり、「多様性」の問題である。
 いま日本では「問題ありません」「指摘はあたりません」という菅の「コンテキスト」だけが横行している。ジャーナリストに求められているのは、多くの国民と共有できる「コンテキスト」の形成だが、何人がそれを自覚しているか。菅と一緒にパンケーキを食べるという胸焼け、吐き気をもよおさせる「コンテキスト」を菅と共有しているだけだ。
 こういう映画がつくられるアメリカの自由を非常にうらやましく思う。

 マイケル・キートンが重要な役どころで、ストーリーを予告する形で登場する。「ミスター・マム」のときから、とても好きだ。マイケル・キートンが出ていると知って、見に行ったのだった。ときどき、目のなかに顔がある、という印象になる。目に引きつけられる。 











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木村草弥『修学院夜話』

2020-10-11 11:43:43 | 詩集


木村草弥『修学院夜話』(澪標、2020年11月01日発行)

 木村草弥『修学院夜話』は、糸井茂莉や高貝弘也、柏木麻里のことばの運動とはまったくちがう。「天子諸芸能のこと、第一御学問なり」に、こんな部分がある。42ページ。

後水尾院については、近衛家に伝わる『陽明文庫』の資料や禁裏の近くに居た僧侶の日記など、資料が多いと言えるだろう。
これは私の詩であって、論文ではないので、なるだけ平易にしたいのだが、説明しないと分かりにくくなるので、最低限にして資料を引きたい。

 「これは私の詩であって」とわざわざことわっている。そうことわらないと、読者は詩とは思わないかもしれない。それを懸念している。
 糸井も散文スタイルで書いているが、それを読者が「詩ではない」と思わないことを確信しているだろう。高貝、柏木は行分けだから、もちろん「詩ではない」と読者が言うはずがないと思っているだろう。
 これが木村と、糸井、高貝、柏木を完全にわけている。

 さて。

 それでは木村にとって、詩とは何なのか。
 いや、こういうことは作者に言わせてしまっては意味がない。

 私が、どう感じるか。
 たとえば、おなじ42ページのつづき。

それらの資料を読んでいると「儲君」という今では聴き慣れない単語が出て来る。
これは、元はと言えば中国古代の漢代に発する制度だということである。
儲君=皇太子と考えていいのだが、どっこい複雑である。

 「聴き慣れない単語」とは知らないことばである。だからこそ木村は調べている。そして「元はと言えば中国古代の漢代に発する制度だということである」と説明している。ことばを、いまの、自分の(私たちの)コンテキストのなかでとらえなおしている。ただし、こういうことは簡単ではない。複雑なことが起きるのである。ことばの「意味」はいつでも「イコール(=)」ではない。
 ここからは、木村の考えであるかどうかは、わからない。つまり、私の「誤読」を書くことになるのだが。
 この「ことば」をとうして「イコールではない」というものの世界へ踏み込んでいく。イコールを求めながら(理解することを求めながら)、イコールではないもの、「ずれ」を見つけ出し、それをつかみとる。その運動そのものを木村は「詩」の体験と呼ぶのである。あるいは「詩」の実践と呼んでもいい。
 これを、なんといえばいいのか、実にテキパキと進める。無駄がなく、速度にゆるぎがない。この正確さに、私は引きつけられる。言い直すと、そこに「詩」を私は感じている。ことばが自分の目的に向かってひたすら動いていく。その力に私は「詩」を感じている。
 それは、こんな具合に展開する。「八条宮智仁親王添削歌」(67ページ)、後水尾院が若いときに八条宮智仁親王から添削を受けたことについて書いている。先に後水尾院の歌、次に添削された歌を引いている。(行空きと歌番号は省略)

■ふるほどは庭にかすみし春雨をはるる軒端の雫にぞしる
降るとなく庭に霞める春雨も軒端をつたふ雫にぞ知る
■みる度にみし色香ともおもほえず代々にふりせぬ春の花哉
 見る度に見しを忘るる色香にて代々にふりせぬ春の花かな
(略)
こうして見て来ると、八条宮の添削が、極めて的確であることが判る。しかも添削に当たっては、なるべく後水尾院の元歌の語句を残して巧く直してある。

 事実を積み重ね、そのあとで思ったこと(自分のこころがどう動いたか)を書くというのは「散文」のスタイルである。森鴎外のスタイルである。その散文のなかの、何が「詩」なのか。
 「判る」。発見が「詩」なのだ。その「判ったこと」というのはどこで起きているか。木村の「肉体」のなかで起きている。そして、それが「肉体」の外へ飛び出してきている。「わかった(こと)」は後水尾院の歌と八条宮の添削の間にあり、その「間にあるもの」は木村が指摘するまでは「ことば」としては存在していない。「ことば」にした瞬間に存在し始める。ことばは「後水尾院の歌と八条宮の添削の間にあるもの」と木村の「肉体」をつないだのである。その瞬間、それは「歌と添削の間」にあるのか、木村の「肉体」のなかにあるのか、という区別を超越して存在する。
 木村は、木村が「判ったこと」に、「極めて的確」「巧く」とことばを重ねている。「判る」だけでは、ことばが止まらなかったのだ。これを「ことばの暴走」と考えれば、多くの「暴走することばの詩」につながる。暴走の仕方がちがうだけで、木村のことばも「暴走」するのである。しかし、それは「判る」ということと関係している。

 事実をひとつひとつ確かめ、積み重ねる。そのあとで、「ことば」を「暴走」させる。しかし、その「暴走」はとても小さく見える。これは木村が抑制しているのである。事実を積み重ねることばの動きにも抑制が効いているが、暴走にも抑制が効いている。だから暴走には見えないかもしれない。むしろ、木村は暴走を見せないようにしているとさえ言える。
 その拮抗に、私は、さらに「詩」を感じる。

 紹介の仕方が逆になったかもしれないが、この詩集は、実は「二ツ森幻視」と「修学院夜話」の二部構成になっている。「二ツ森幻視」は、いわゆる行分け詩である。そのなかの「最後の審判」。

フランス、コンクのサント・フォア教会の「タンパン」
タンパンとは教会の扉の上部の半円形のアーチ部分
キリストの上げた右手に神の国、
下げた左手に地獄の有様が彫られている
十二世紀初めから一一三〇年頃の作品である
シート会の聖ベルナールは先立つクリュニー会の華美さを嫌った
イエス・キリストの清貧な生活に帰れ、ということである
だが、そのシトー会にしてからが讃美歌合唱に血道をあげていた
ロマネスクの時代は「ヨハネ黙示録」の時代と言われる
『新訳聖書』の最後を飾る歴史物語が定着していった

 サント・フォア教会へ行った。そこで知ったことを書いている。建物の描写から始まり、信仰の変化について書いている。「時間」(歴史)を人間の変化として見ている。そのことだけが、私に理解できることだ。そして、私は、この木村の「時間(歴史)」と人間を結びつける視点が、木村の文体を鍛えていると感じる。この鍛えられた簡潔な文体は信じられる、と感じる。
 












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学術会議新会員6人の任命拒否問題

2020-10-11 09:45:13 | 自民党憲法改正草案を読む
学術会議新会員6人の任命拒否問題。
いろいろ思うが、これはやはり自民党憲法改正草案(2012年)の先取り実施だと思う。
草案の「前文」に、こう書いてある。

我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。

全ては「経済活動」に結びつけられている。
「学問(教育)」は「経済活動/成長」に結びつくものだけが正しいという主張だ。
国が目指す「経済成長政策」に反対するものは除外(排除)する。
そういう「総合的、俯瞰的」視点から6人は排除されたのだろう。
つまり、「総合的、俯瞰的」という抽象的な表現は、「経済成長戦略」なのである。

日本で起きていることは、みんな、これ。
安い賃金で働く労働者を増やす。その結果、資本家がもうかる、というのが自民党の狙っている「経済成長」。
その「経済成長」のために外国人労働者を使い捨てにし(期間が過ぎたら日本から追い出し)、日本人の賃金を外国人労働者のレベルにまで引き下げる。正規職員を非正規職人に入れ替え、賃金レベルをどんどん引き下げる。

菅が、学術会議の「予算」を問題にしているが、この「低賃金」(労働者に払う金を少なくする)という戦術は、「学問」の分野にまで及んできた。
「学者」に金を払うなら、ほかのことに金を使おう、ということである。
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