アーロン・ソーキン監督「シカゴ7裁判」(★★★)
監督 アーロン・ソーキン 出演 エディ・レッドメイン、マイケル・キートン(2020年10月11日、キノシネマ天神、スクリーン2)
「裁判映画」だから、やっぱりことばが主役。
そして、この「ことば」のあつかいが、この映画ではとてもおもしろい。映画のなかでも「コンテキスト」ということばが出てきたが、ことばの意味は文脈によって違ってくる。何を言ったかと同時に、どういう状況で言ったか。
エディ・レッドメインは学生の運動家である。非常に弁が立つ。しかし、そのことばは「あいまいさ」を含んでいる。「我々の」という「所有形」を多用する。彼がだれかと一緒にいるとき、つい「我々の」ということばをつかう。一緒にいても「我々」ではないことがある。
具体的に言えば、この映画で描かれている七人は、1968年、シカゴで開かれた民主党全国大会の会場近くに集まった七人である。ただし、その七人は、それぞれ所属している団体がちがう。立場がちがう。たまたまデモを先導したという理由で「ひとまとめ」に逮捕され、ひとまとめに起訴されている。そのなかには、どうしても相性の悪い人間がいる。エディ・レッドメインはヒッピーが嫌いだし、ヒッピーはエディ・レッドメインを嫌っている。「我々」なんかではないのだ。たとえ「我々」というときがあったとしても、それぞれが自分の「コンテキスト」を生きている。しかも、自分の「コンテキスト」を守ろうとしている。
七人のなかにひとり「ボーイスカウト」の世話係(?)のような「暴力否定主義」のおじさんがいて、こどもに「どんなことがあっても暴力はダメ」と言っているのだが、法廷で思わず法廷の官吏を殴ったりもする。自分で自分の「コンテキスト」を逸脱してしまう。七人以外にアフロ系の男も起訴されていて、彼は彼で「コンテキスト」の格差に怒りをぶちまける。
あ、ずれてしまった。
ことばの「コンテキスト」にもどしていうと、エディ・レッドメインのことば「友人が警官の暴行を受けて負傷した。血を流した。彼の血は我々の血だ。我々の血がでシカゴの街で埋めよう(これは正確なことばではない、私がテキトウに書いている)」というようなことを言ってしまう。これが「暴動を煽った」と認定され、七人は有罪になる。
このエディ・レッドメインことばは、「11人の怒れる男たち」で、長引く会議、対立する意見にいらだち、陪審員のひとりが「殺してやる」と叫ぶのに似ている。ほんとうに血を流せ、街を血でみたせ、ほんとうに殺してやる(殺意をもっている)というのではなく、おさえられない怒りが「血を流す/殺す」という「比喩」を呼び寄せている。しかし、「コンテキスト」を無視すれば、これは「脅迫」になるし、「殺人の予告」(意思表示)にもなる。
逆の「コンテキスト」も示されている。公園で集会を開きたいと言ってきたヒッピーに対して市役所の担当者がダメだという。「ダメといわれても集まる」「どうすれば解散するか」「10万ドルくれれば集まらない」。この「10万円よこせ」は状況次第では「恐喝」になる。しかし、担当者は「恐喝」とは感じていない。犯罪性を感じていない。
というぐあい。
そして、これは、また「ことば」が語られない「コンテキスト」をも浮かびあがらせる。この裁判自体が、政府の、ベトナム戦争に反対する学生、ヒッピーは国策の邪魔だという「コンテキスト」によって引き起こされている。暴動があったから七人を逮捕するというのではなく、七人を逮捕することでベトナム戦争反対という運動を抑えつけるという「コンテキスト」を完成させようとしている。法廷では語られないことばが、じつは裁判そのものの「コンテキスト」になっている。
あ、ずれているのではなく、私の書いていることは徐々に「本筋」にもどっているのか。
これが、最後の最後で、じつに感動的な「コンテキスト」を破壊することばを噴出させる。政府の意図を叩き壊す。
最終陳述を認められたエディ・レッドメインが、裁判が始まった日から判決の日までに死んだ兵士を名前、5000人近くの名前を読み上げる。ベトナム戦争で死んだ兵士の名前。その人たちへの追悼を、自己主張にかえる。法廷が拍手でつつまれる。
七人がやったこと。それはベトナム戦争への抗議、ベトナム戦争を拡大する政府への抗議だったのだ。アメリカ人が理不尽な根拠でベトナムに派兵され、多くの兵士が死んでいる。ベトナム人も死んでいる。この政権を許すことができない。
「コンテキスト」と「コンテキスト」の戦い。そのなかで、ことばはどんなふうに動くか。ことばをどう動かしていけるか。これは映画であると同時に、ことばと「コンテキスト」の問題を考えさせる作品である。言い直せば、非常に政治的で、民主主義とは何かを問う作品だ。民主主義とは、ことばがどれだけ自由に自分自身の「コンテキスト」を確立し、それにしたがって他者と向き合うことができるか、どれだけ多くの「コンテキスト」を用意できるか、という問題である。つまり、「多様性」の問題である。
いま日本では「問題ありません」「指摘はあたりません」という菅の「コンテキスト」だけが横行している。ジャーナリストに求められているのは、多くの国民と共有できる「コンテキスト」の形成だが、何人がそれを自覚しているか。菅と一緒にパンケーキを食べるという胸焼け、吐き気をもよおさせる「コンテキスト」を菅と共有しているだけだ。
こういう映画がつくられるアメリカの自由を非常にうらやましく思う。
*
マイケル・キートンが重要な役どころで、ストーリーを予告する形で登場する。「ミスター・マム」のときから、とても好きだ。マイケル・キートンが出ていると知って、見に行ったのだった。ときどき、目のなかに顔がある、という印象になる。目に引きつけられる。
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監督 アーロン・ソーキン 出演 エディ・レッドメイン、マイケル・キートン(2020年10月11日、キノシネマ天神、スクリーン2)
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そして、この「ことば」のあつかいが、この映画ではとてもおもしろい。映画のなかでも「コンテキスト」ということばが出てきたが、ことばの意味は文脈によって違ってくる。何を言ったかと同時に、どういう状況で言ったか。
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具体的に言えば、この映画で描かれている七人は、1968年、シカゴで開かれた民主党全国大会の会場近くに集まった七人である。ただし、その七人は、それぞれ所属している団体がちがう。立場がちがう。たまたまデモを先導したという理由で「ひとまとめ」に逮捕され、ひとまとめに起訴されている。そのなかには、どうしても相性の悪い人間がいる。エディ・レッドメインはヒッピーが嫌いだし、ヒッピーはエディ・レッドメインを嫌っている。「我々」なんかではないのだ。たとえ「我々」というときがあったとしても、それぞれが自分の「コンテキスト」を生きている。しかも、自分の「コンテキスト」を守ろうとしている。
七人のなかにひとり「ボーイスカウト」の世話係(?)のような「暴力否定主義」のおじさんがいて、こどもに「どんなことがあっても暴力はダメ」と言っているのだが、法廷で思わず法廷の官吏を殴ったりもする。自分で自分の「コンテキスト」を逸脱してしまう。七人以外にアフロ系の男も起訴されていて、彼は彼で「コンテキスト」の格差に怒りをぶちまける。
あ、ずれてしまった。
ことばの「コンテキスト」にもどしていうと、エディ・レッドメインのことば「友人が警官の暴行を受けて負傷した。血を流した。彼の血は我々の血だ。我々の血がでシカゴの街で埋めよう(これは正確なことばではない、私がテキトウに書いている)」というようなことを言ってしまう。これが「暴動を煽った」と認定され、七人は有罪になる。
このエディ・レッドメインことばは、「11人の怒れる男たち」で、長引く会議、対立する意見にいらだち、陪審員のひとりが「殺してやる」と叫ぶのに似ている。ほんとうに血を流せ、街を血でみたせ、ほんとうに殺してやる(殺意をもっている)というのではなく、おさえられない怒りが「血を流す/殺す」という「比喩」を呼び寄せている。しかし、「コンテキスト」を無視すれば、これは「脅迫」になるし、「殺人の予告」(意思表示)にもなる。
逆の「コンテキスト」も示されている。公園で集会を開きたいと言ってきたヒッピーに対して市役所の担当者がダメだという。「ダメといわれても集まる」「どうすれば解散するか」「10万ドルくれれば集まらない」。この「10万円よこせ」は状況次第では「恐喝」になる。しかし、担当者は「恐喝」とは感じていない。犯罪性を感じていない。
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あ、ずれているのではなく、私の書いていることは徐々に「本筋」にもどっているのか。
これが、最後の最後で、じつに感動的な「コンテキスト」を破壊することばを噴出させる。政府の意図を叩き壊す。
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