詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「公金」はだれのもの?

2020-10-06 09:21:04 | 自民党憲法改正草案を読む
「公金」はだれのもの?
   自民党憲法改正草案を読む/番外402(情報の読み方)

 「日本学術会議」の問題について、菅が新聞インタビューに答えている。 2020年10月06日の読売新聞(西部版・14版)は1面、2面、4面、10面で記事を書き分けている。2面が「要約」にあたる。見出しは2本。(番号は、私がつけた。)

①任命見送り正当性強調
②首相「学問の自由 侵害せず」

 ①については、記事ではこう書いてある。

 学術会議には多額の公費が投入されていることなどから、任命権の行使は当然とした。
 学術会議の年間予算は約10・5億円。内訳は人件費など事務局の費用に約5・5億円、政府などへの提言活動に約2・5億円、国際的な活動で約2億円などとなっている。

 公費を出しているから「任命権」がある。これは、一見正しいように見える。しかし、「日本学術会議法」に「政府が予算を出しているから、任命権は政府にある」と規定しているか。そんなことは書いてない。
 だいたい「公金を出しているから、何かに対して権力を行使する権利がある」というのはおかしい。
 「公金」のもとである「税金」は、政府の考えに反対の人も収めている。日本学術会議は、菅が設置した機関でもなければ、自民党が設置した機関でもない。
 もし、自分の考えを補強するための「機関」が必要だというのなら、菅なり、自民党が「自費」で設置すればいいのである。
 「公金」をつかうかぎりは、そこに自分の意思を恣意的に反映させてはいけない。
 「公費を投入しているから任命権がある」というのは錯覚である。「公費」には必ず政権批判者の収めた税金も含まれている。公費は菅の私費ではない。

 ②については、こう書いてある。

 「学問の自由」を侵害しているとの指摘に対しては、「全く関係ない。どう考えてもそうではないでしょうか」と語気を強めた。学術会議の会員であるか否かにかかわらず、大学などで自由な研究活動が行えるとの思いがあるとみられる。

 「学術会議の会員であるか否かにかかわらず、大学などで自由な研究活動が行える」という論理は、菅の決定を支持するひとの間で多く聞かれる論理だが、そういうひとは菅のいう「自由」に、金の問題をからめて見つめなおすといい。
 すでに菅は「公金を出しているから任命権がある」という旨のことを言っている。大学には公金が支出されている。つまりどんな研究にも公金が支出されている。公金を出しているのだから、その使い道を指定する権利があると、菅はいつでも言い直せる。そして、実際にそういうことが起きるだろう。
 そういうことをさせない、というのが「学問の自由の保障」である。そして、それは「権力は学問の自由を侵害してはならない」という、権力に対する「禁止規定」なのである。菅は、憲法が、権力がしてはいけないこと(禁止規定)で構成されているという基本的な事実を忘れ、憲法の精神から逸脱している。
 簡単に言い直せば「憲法違反」をしている。
 学者は、公金をつかって権力が望まないことを研究する自由を持っている。それを公金を支出しないという形で拘束するのは、憲法で禁じられている。
 どんな活動にも金がかかる。そして、その金の額の大きさは、何ができるかの規模の大きさにも関係してくる。「学術会議の会員であるか否かにかかわらず、大学などで自由な研究活動が行える」というのは空論である。会員であった方が(予算を多く持っていた方が)、より自由な研究活動ができる。

 どんな分野でもそうである。
 金がないと「自由な行動(自分の思いのままの行動)」はできない。金がなくても、自由にものは考えられる。金がなくても運動できる。金がなくても詩は書ける。小説は書ける。音楽活動はできる。「詩集出さなくたって、詩を書いていれば詩人でしょ?」「音楽活動ってコンサートだけじゃないでしょ? 家で一人で歌っていても音楽でしょ?」
 こういうことは、すべて実際に、そういうことをしていないひとの主張。
 すぐれた学問、芸術、スポーツには「公金」が支出されている。それは「公金」を支出することでそれを助成するためである。活動をしているひとは「公金」をもらうために活動しているわけではないだろうが、公金を受け取ることができれば、それを有効につかいさらに活動を推し進めることができる。自分の成長にもつかえるし、これから育ってくるひとのためにもつかえる。
 そして、こういうとき、どういう分野であるにしろ、何がすぐれているのかというのは「専門家」以外には判断がむずかしい。100メートル競走のようにタイムでわかることもあるが、多くのことは「客観的基準」があるようで、ない。誰に、何に「公費」を支出するかは、「専門家」に助言を受けるしかない。
 菅は「公金を支出する」権利を持っている(予算を提出できるのは与党だけである)。しかし、どの研究に金を出し、どの研究に金を出さないか(金を受け取る権利を持つ「会員」をどうやって選別するか)を決める権利を持っていない。もし、ある学問が研究に値しないというのなら、その「証拠」を示さないといけない。公金を支出しているからこそ、「公平」でなくてはいけないのだ。

 ところで。(補足だが)
 読売新聞は、とてもおもしろいことを書いている。「学問の自由」に対する学者の意見として、こうい声を紹介している。

 学術会議は17年、防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」に反対する声明を出したが、一部の研究者からは「安全保障に関わる研究の禁止を大学などに強要していることこそ、学問の自由の侵害だ」と不満の声が出ている。

 これは、一見正しそうに見える。
 でも、これって、単なる「内輪もめ」の話であって、権力(政権)とは関係がない。それこそ「学術会議」が何をいおうと、その人が研究したいのなら自分で研究すればいい。菅の論法をつかえば、別に大学で研究しなくてもいい。
 言い直そう。
 読売新聞が紹介していることは、菅とは関係が6人を任命しなかったこととは関係がない。菅が「安全保障に関わる研究の禁止を大学などに強要している」わけではない。
 「学問の自由」というとき、問題としているは「(政治)権力」と「学問」の関係である。
 読売新聞は、その「政治権力」と「学問の自由」という問題を、学者内部の意見の対立の次元に引き下げて、「学問の自由を侵害しているのは学者だ(学術会議だ)」と主張することで、菅を援護射撃している。






*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#安倍を許さない #憲法改正 #読売新聞



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谷川俊太郎「夜のバッハ」を読む

2020-10-06 07:51:13 | 現代詩講座


谷川俊太郎「夜のバッハ」を読む(2020年10月05日、朝日カルチャーセンター福岡)

 谷川俊太郎「夜のバッハ」(『ベージュ』、新潮社、2020年07月30日発行)を読んだ。

立ち枯れてしまった意味の大通りを
幼児の一団がよちよち歩いて行く
ほつれたセーフティネットにひっかかって
老爺が一人雀のようにもがいている

議会では夥しい法案が葬られ
台所では昔ながらの豆が煮えている
地下深くゴミと化した歴史は埋められ
ウェブは無数の言葉を流産している

終わりを先延ばしして物語は始まった
既に言われたこと書かれたことに
望ましい沈黙が象嵌されている

未来の真実は現在の事実を模倣するだろうか
夜のバッハが誰に聞かれるともなく
人々の耳に近くチェンバロで呟いている

 受講生に感想を求めたところ、「一行目、立ち枯れてしまった意味、がいきなりわかりにくいのだけれど、いまの社会を憂えている」「いまの社会の状態を危惧している。反対する気持ちが表れている」「いまの社会の、ことばのあり方、ことばの形骸化について異議を唱えている」「現実と、バッハの神聖な音楽、精神性が対比されている」。
 うーん、なんだか、おなじような感想がつづいてしまった。最後の感想は、いきなり結論のような感じで、抽象的だ。共通しているのは、この詩に「いま」を見ていること。そしてその「いま」をけっして肯定しているとは感じていないこと。
 私は、受講生に感想を求めておいて、それを否定してしまうことになるのがちょっといやなのだが、こういう「要約」的な感想というものになじめない。バッハの精神性を持ちだしてくるのは的確だと思うけれど、ちょっと抽象的。もっと具体的感想を聞きたい。
 とくにむずかしいことばはつかわれていないけれど、わからなかったところはないかな? ということから問いかけなおしてみる。
 「幼児が突然出てくるところがわからない」
 「なぜ台所で豆が煮えている、という描写が出てくるのかわからない」
 「望ましい沈黙が象嵌されている、の望ましい、が何を指して言っているのかわからない」
 あ、ちょっとおもしろくなってきた。
 で、こんなふうに質問する。
 「なぜ、幼児が突然出てくるかわからないということだったけれど、幼児の一団がよちよち歩いて行く、という様子はわかる?」
 「それは、わかる」
 「それじゃあ、この詩のなかに幼児とは反対のことばはない?」
 「老爺」
 「ほかに反対というか、対になることばはないかな?」
 「一団(大勢)と一人」
 「歩いていくともがいている(歩けないでいる)」
 「感想のなかに、対比ということばがあったけれど、そこに注目すると、この詩からいろいろなものが見えてくると思う。一連目では幼児と老爺が対比するような形で書かれていることになると思う。二連目では、どうだろう。議会と対比されているのはなんだろう」
 「台所」
 「どうして?」
 「議会は公的な場所。台所は公的ではない」
 「議会ではことばがやりとりされる。台所では、ことばではなく豆が煮られている」
 「議会では法案が葬られるけれど、台所では料理が完成する。未完成と完成」
 「議会はウェブとも対比されている。でも、両方ともことばが飛び交うというのでは、共通している」
 「対比なのに共通もある、ということだね」
 「葬られると反対のことばは? 共通のことばは?」
 「埋められる、は共通している」
 「流産している、も共通するものがある。法案も赤ん坊も生まれてこない」
 「夥しいと無数も似ている」
 「葬られた法案と、ゴミと化した歴史も共通するかもしれないね。葬られ、ゴミとなってしまった法案。その歴史」
 こう読み進んでくると、ことばの「意味」は「辞書」に書かれているだけの「定義」ではないということが、だんだん肉体の中に入ってくる。言い直されたり、あたらしいことばが追加されながら、「いいたいこと」がすこしずつ見えてくる。「いいたい」ことが形になってくる。
 まだまだ、生まれる前の形だけれど。
 一連目、二連目には、わりと具体的なことが書かれている。「幼児」「老爺」「台所」「豆」などは、すぐに目に浮かぶ。
 これは「起承転結」でいえば、「起承」にあたる。だからいくらか似ている。そのために、また、わかりやすいと感じる。「わかる」というのは、ことばが重なり合い、それが「意味」に近づいていくことだと思う。
 三連目は、調子ががらりと変わる。一気に抽象的になる。だからこそ「望ましい」もわかりについ。「望ましい」自体はわかるけれど、なぜ「沈黙」を修飾しているのか。修飾すること(ことばが結びつくこと)で意味がどう変わるのか、それがわかりにくい。
 「終わりを先延ばしにして物語は始まった、というのは、わかったようでわからない矛盾した言い方だね。でも、物語、ということばはわかるよね。この物語に似たことばは、一、二連目になかったかな?」
 「歴史。歴史は、物語」
 「歴史って、何?」
 「いままで起きたことを記録したもの」
 「何で記録する?」
 「ことば」
 「既に言われたこと書かれたこと、というのは、既に言われたことば、書かれたことば、のことだね。歴史につながるね。ことばは、二連目の議会やネットにも関連している。議会、ネットでのことばは葬られたり、流産したりしている。でも歴史として書かれたことばは、葬られても、流産してもいない。そこにある。そこに、ことばはあるのだけれど、それだけが歴史の全てでもない。きっと書かれていないこと、ことばがある。書かれていないことばを言い直すと、どうなるかな?」
 「沈黙」
 「そうだね、沈黙にはことばがない。それは、議会に対する台所の豆みたいなものかもしれない。何か生活を支える実質的なもの。ことばに記録されないけれど、暮らしのなかで生きつづけていく命のようなもの。それが現実の世界にははめ込まれている。そのことばになっていない暮らし、いのちのようなものを、谷川は望ましい、と言っているだと私は思う」
 最終連。
 「未来と対比されているのは?」
 「現在」
 「真実と対比されているのは?」
 「事実」
 「でも、真実と事実、って違うもの?」
 「?」
 「歴史はくりかえすと言われることがある。繰り返しは、同じこと。おなじは、模倣、にもつながる。未来は、現在を繰り返し、事実を真実に高めるということかなあ。くりかえされ、生き残るもの、たとえば台所で煮える豆、というのは事実であると同時に、ものを料理して食べて人間は生きていくという暮らし方の真実を語っているかもしれない。バッハは、古典。古いもの。歴史。でも、その音楽はいまも聞かれている。それは、音楽のなかに、台所で煮える豆のよう真実、ことばにされることのない沈黙、のぞましい沈黙があるからかもしれない。呟く、というのは小さな声だね。小さな声は沈黙とは言えないけれど、聞こえにくい声。耳を澄まさないとわからない。いまもだれかの台所で、豆が煮えている。豆を煮ている人がいる。そういうことは、ことばにしてみないと、はっきりとは想像できない。でも、ことばにすると、はっきり見えてくる」
 詩は、意識していなかったものを、ことばにすることで見えるようにするものかもしれない。










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