池田清子「G」、徳永孝「ポリゴナム」、青柳俊哉「生まれえぬバラ」(朝日カルチャーセンター福岡、2020年10月19日)
タイトルの「G」について、地面に背中を丸めて座っている人間の感じがする。座っているけれど、Gの最後の一角が垂直なので、立っていることをあらわしている、という感想が受講生のなかから飛び出した。
飛び出した、と書いたのは、私がびっくりしてしまったからだ。私は、そういうことは一度も考えず、即座に「G」は重力と思って読んでしまった。
あまりにびっくりしてしまって、そこに踏みとどまることができなかった。文字の形と人間の肉体の関係というものについてみんなで話し合ってみるべきだったなあといまごろになって反省している。詩は、どこにあるか、わからない。ひとりひとりが驚き、たちどまり、何かを発見したとき、そこにはいままで存在しなかったものが明らかになっているはずなのに、そのそばを素通りしてしまった。
つぎは気をつけよう。
さて。
私がこの詩でいちばん感心したのは二連目の「合間に」という一行の呼吸。そして、その指し示すものの関係。
ごくふつうに一連目から三連目までを「日記時系列」として書き直せば、「テーブルの前の椅子に座り/合間に/家事をすませ/(それから)パソコンの前の椅子に座り/合間に/用事をすませ」になる。ただし、日常の感覚から言うと、たぶん逆。「家事をすませ/合間に/テーブルの前の椅子に座り/(それがすんだら)用事をすませ/合間に/パソコンの前の椅子に座り」になるかな、と思う。家で、テレワークで仕事をしているのでなければ。
池田の書き方からは、「家事/用事」と「テーブルの前に座る/パソコンの前に座る」という生活のなかの重点が逆になっていることがわかる。暮らしぶりがわかる。そして、私が散文形式で書き直したような「時系列」を気にしていないこともわかる。必要不可欠なこと(家事/用事/睡眠)と必要不可欠ととは言い得ないかもしれないこと(テーブルの前の椅子に座る/パソコンの前に座る)がぱっと分類(仕分け?)して、それを「合間に」ということばで整え直している。
うまく説明できないが、この分類と再統合の処理の仕方に、池田自身の「暮らし方(思想)」が「肉体」の動きとして具体化されていると思う。たしかな「存在感」がある。こういうことをことばのなかに反映できるというのは、とても重要なことだと思う。分類と再統合によって「座り/座り」「すませ/すませ」ということばのリズムも生まれる。このリズムも、私にはやはり「肉体の思想」として感じられる。
三連目まで客観的なことばを動かし、四連目で「楽になってしまった」「喜ぶようになってしまった」と感覚を語る。ここにも自己を見つめる落ち着いた分析がある。分析した結果、五連目で自分に命令する。自分の肉体を動かすために意識を動かしている。
ことばがとても自然に動いている。ことばを整えることで肉体までが整えられる。この肉体とことばの強い結びつきが、とても静かで気持ちがいい。
最終連の一行。「二足歩行ロボットが 笑ってる」の「笑ってる」も「反省」しながら、「反省」にはまり込んでいない余裕があってほっとする。
池田は、この五連目と最終連の間に、
せっかく人間に生まれついたのだから
という一行を書こうかどうしようか悩んだ。最終的に書かなかった、と言った。私は、いまの形がいいと思う。「人間」ということばがなくても「ロボット」を出すことで、池田が「人間」を強く意識していることがわかる。「人間」を書いてしまうと、より明確になるかもしれないが、少し「認識」のおしつけという印象が生じるかもしれない。
*
一連目の「知ってる?」と三連目の「知ってる?」の呼応によって、この詩が「対話」構成になっていることがわかる。「かたくりって知ってる?」という行に「花」を補って「かたくりの花って知ってる?」にすると「この花知ってる?」との呼応がいっそう明確になる。そしてまた、なぜ三連目で「花」が省略されているか、ということも意識できるようになる。「花」について語っているという認識の共有がことばを省略させる。
何かが省略される。そして省略されたものこそがいちばん大事。それは「肉体」にしみついて思想になってしまっているから省略される。それがキーワードというのが、私の詩を読むときの姿勢。キーワードを探して、読む。
そして、この省略という視点から見ていくと、一連目と二連目の間、一行空きの部分にも何事かが省略されていることがわかる。
「雑草じゃないよ」と「ぼくも雑草と思ってた」の間には「えっ、雑草じゃないの?」ということばがある。それは「ぼく」以外の人のことばである。そのことばがあるからこそ「ぼくも」と「も」がつかわれている。そして、この省略された「えっ、雑草じゃないの?」という声はだれの声なのか。徳永は問題にしていない。問題は、「ゆうこ先生」が何を言うかである。徳永は「ゆうこ先生」はなんて言うかなあ、ということを意識し、期待しているのである。そのこころの動きが、一連目と二連目のあいだに隠されている。「ゆうこ先生」は三連目にならないと「ことば」としては登場しないが、それに先立って存在している。存在しているがことばにならずに「肉体」のなかに隠れている。書かなかったのは、それが徳永には「わかりきったこと」だからだ。こういう「わかりきったこと」こそが人間の思想。いちばん大事なもの。「ぼく」は「ゆうこ先生」が「好き」なのだ。
この「好き」は徳永のことばとしてではなく、「ゆうこ先生」のことばとして出てくるが、このとき「ぼく」は「ゆうこ先生」と「好き」という感覚(こころの動き)を共有しているのだ。「ぼくはゆうこ先生が好き」とは書いていないが、共有される感覚がある。
こういう感覚(感情)の共有があるからこそ、「ゆうこ先生」は「かたくりって知ってる?」と聞く。それは、単に花を知っているかだけではなく「かたくりの花って好き?」という問いかけであり、また「かたくりの花が好きなわたしのことを好き?」という問いかけでもある。だからこそ、そのことばが忘れられず「って言ってた」ということばが動く。
若々しい恋だなあ、と思う。
私の印象では「わたしは かたくりの花も好きだな」と「かたくりって知ってる?」のあいだに一行空きがあった方が、対話の揺らぎというか、呼吸が感じられると思うが、どうだろうか。
*
西洋の光景のようだが、「十二光の小さな像を髪に飾る少女」や「巡礼」「寺」は日本の光景にも感じられる、という声があった。私も「十二光」からは「十二面観音」を思い出した。
ことばの特徴として、ことばがイメージをつむぐ。そして、そのイメージはだんだん焦点を一点にしぼって固定するというよりも流動していく。「遺構」から「川」へ、さらに「庭園」「バラ」へ。しかも、その「バラ」は「生まれえぬバラ」。存在していない。
イメージの流動/変遷をいちばん明確に語るのは「少女はうすい一枚の鳥となり」である。「少女」と「鳥」は別の存在である。しかし、「少女」は「鳥」に「なる」。しかもその「鳥」はただの鳥ではない。
「うすい一枚の鳥」。
このことばは「うすい一枚のバラ(の花びら)」のように感じられる。少女はバラを通して鳥になる。そのバラは「一枚」という独立した形をとっている。散ったのかもしれない。散って、落ちるのではなく、風に舞ってかろやかに飛ぶ。ただし、そのバラは「生まれえぬバラ」。存在しないものが、ことばとして存在して動く。あるのは、ことばを通して「想起するイメージ」であって、「実在」ではない。実際に存在するのは「想起する」という運動、想起とともに動くことばだけである。
だからこそ、こういうことも起きる。
その「バラ=少女=鳥」はほんとうに「少女」なのか。「わたしの髪を同じ色の波でなびかせようとする」の「同じ色」とは何と同じなのか。前の行の少女のと同じ色だろう。そうであるなら、このとき「わたし」は「少女」になり、同時に「バラ」になり、「鳥」になる。
渾然一体となってイメージが動く。「生まれえぬバラ」そのものが「わたし/生まれえぬ少女」という感じ。少女は生まれていないから、「少女=わたし」であっても矛盾しないという「自画像」。
私は、こういう「ことば」でしかありえない世界というものが好きである。
しかし、
この最終行は、それではどうなるのだろうか。私は、ここには「わたし」があらわれない方がいいと思ったが、青柳は「全体が夢のイメージで、夢から覚める感じ」というようなことを語った。あ、なるほど。
**********************************************************************
★「詩はどこにあるか」オンライン講座★
メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。
★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。
お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com
また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571
**********************************************************************
「詩はどこにあるか」8月号を発売中です。
162ページ、2000円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079876
*
オンデマンドで以下の本を発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
G 池田清子
テーブルの前の椅子に座り
パソコンの前の椅子に座り
座卓の前の床に座り
車の座席に座って
合間に
家事をすませ
用事をすませ
寝床に入る
座っている方が
楽になってしまった
股関節が座った形を
喜ぶようになってしまった
立って歩けよ
かかとに
しっかり
Gを感じよ
二足歩行ロボットが 笑ってる
タイトルの「G」について、地面に背中を丸めて座っている人間の感じがする。座っているけれど、Gの最後の一角が垂直なので、立っていることをあらわしている、という感想が受講生のなかから飛び出した。
飛び出した、と書いたのは、私がびっくりしてしまったからだ。私は、そういうことは一度も考えず、即座に「G」は重力と思って読んでしまった。
あまりにびっくりしてしまって、そこに踏みとどまることができなかった。文字の形と人間の肉体の関係というものについてみんなで話し合ってみるべきだったなあといまごろになって反省している。詩は、どこにあるか、わからない。ひとりひとりが驚き、たちどまり、何かを発見したとき、そこにはいままで存在しなかったものが明らかになっているはずなのに、そのそばを素通りしてしまった。
つぎは気をつけよう。
さて。
私がこの詩でいちばん感心したのは二連目の「合間に」という一行の呼吸。そして、その指し示すものの関係。
ごくふつうに一連目から三連目までを「日記時系列」として書き直せば、「テーブルの前の椅子に座り/合間に/家事をすませ/(それから)パソコンの前の椅子に座り/合間に/用事をすませ」になる。ただし、日常の感覚から言うと、たぶん逆。「家事をすませ/合間に/テーブルの前の椅子に座り/(それがすんだら)用事をすませ/合間に/パソコンの前の椅子に座り」になるかな、と思う。家で、テレワークで仕事をしているのでなければ。
池田の書き方からは、「家事/用事」と「テーブルの前に座る/パソコンの前に座る」という生活のなかの重点が逆になっていることがわかる。暮らしぶりがわかる。そして、私が散文形式で書き直したような「時系列」を気にしていないこともわかる。必要不可欠なこと(家事/用事/睡眠)と必要不可欠ととは言い得ないかもしれないこと(テーブルの前の椅子に座る/パソコンの前に座る)がぱっと分類(仕分け?)して、それを「合間に」ということばで整え直している。
うまく説明できないが、この分類と再統合の処理の仕方に、池田自身の「暮らし方(思想)」が「肉体」の動きとして具体化されていると思う。たしかな「存在感」がある。こういうことをことばのなかに反映できるというのは、とても重要なことだと思う。分類と再統合によって「座り/座り」「すませ/すませ」ということばのリズムも生まれる。このリズムも、私にはやはり「肉体の思想」として感じられる。
三連目まで客観的なことばを動かし、四連目で「楽になってしまった」「喜ぶようになってしまった」と感覚を語る。ここにも自己を見つめる落ち着いた分析がある。分析した結果、五連目で自分に命令する。自分の肉体を動かすために意識を動かしている。
ことばがとても自然に動いている。ことばを整えることで肉体までが整えられる。この肉体とことばの強い結びつきが、とても静かで気持ちがいい。
最終連の一行。「二足歩行ロボットが 笑ってる」の「笑ってる」も「反省」しながら、「反省」にはまり込んでいない余裕があってほっとする。
池田は、この五連目と最終連の間に、
せっかく人間に生まれついたのだから
という一行を書こうかどうしようか悩んだ。最終的に書かなかった、と言った。私は、いまの形がいいと思う。「人間」ということばがなくても「ロボット」を出すことで、池田が「人間」を強く意識していることがわかる。「人間」を書いてしまうと、より明確になるかもしれないが、少し「認識」のおしつけという印象が生じるかもしれない。
*
ポリゴナム 徳永孝
この花知ってる?
ポリゴナムというんだよ
雑草じゃないよ
ぼくも雑草と思ってた
薬局の花だんに
名前の書いた紙がさしてあった
ゆうこ先生に見せたら
雑草なんて言ったらかわいそうよ
わたしは かたくりの花も好きだな
かたくりって知ってる?
って言ってた
一連目の「知ってる?」と三連目の「知ってる?」の呼応によって、この詩が「対話」構成になっていることがわかる。「かたくりって知ってる?」という行に「花」を補って「かたくりの花って知ってる?」にすると「この花知ってる?」との呼応がいっそう明確になる。そしてまた、なぜ三連目で「花」が省略されているか、ということも意識できるようになる。「花」について語っているという認識の共有がことばを省略させる。
何かが省略される。そして省略されたものこそがいちばん大事。それは「肉体」にしみついて思想になってしまっているから省略される。それがキーワードというのが、私の詩を読むときの姿勢。キーワードを探して、読む。
そして、この省略という視点から見ていくと、一連目と二連目の間、一行空きの部分にも何事かが省略されていることがわかる。
「雑草じゃないよ」と「ぼくも雑草と思ってた」の間には「えっ、雑草じゃないの?」ということばがある。それは「ぼく」以外の人のことばである。そのことばがあるからこそ「ぼくも」と「も」がつかわれている。そして、この省略された「えっ、雑草じゃないの?」という声はだれの声なのか。徳永は問題にしていない。問題は、「ゆうこ先生」が何を言うかである。徳永は「ゆうこ先生」はなんて言うかなあ、ということを意識し、期待しているのである。そのこころの動きが、一連目と二連目のあいだに隠されている。「ゆうこ先生」は三連目にならないと「ことば」としては登場しないが、それに先立って存在している。存在しているがことばにならずに「肉体」のなかに隠れている。書かなかったのは、それが徳永には「わかりきったこと」だからだ。こういう「わかりきったこと」こそが人間の思想。いちばん大事なもの。「ぼく」は「ゆうこ先生」が「好き」なのだ。
この「好き」は徳永のことばとしてではなく、「ゆうこ先生」のことばとして出てくるが、このとき「ぼく」は「ゆうこ先生」と「好き」という感覚(こころの動き)を共有しているのだ。「ぼくはゆうこ先生が好き」とは書いていないが、共有される感覚がある。
こういう感覚(感情)の共有があるからこそ、「ゆうこ先生」は「かたくりって知ってる?」と聞く。それは、単に花を知っているかだけではなく「かたくりの花って好き?」という問いかけであり、また「かたくりの花が好きなわたしのことを好き?」という問いかけでもある。だからこそ、そのことばが忘れられず「って言ってた」ということばが動く。
若々しい恋だなあ、と思う。
私の印象では「わたしは かたくりの花も好きだな」と「かたくりって知ってる?」のあいだに一行空きがあった方が、対話の揺らぎというか、呼吸が感じられると思うが、どうだろうか。
*
生まれえぬバラ 青柳俊哉
遺構のうえの 水のない川のほとり
さびれた庭の鉄骨階段の上にひらく
生まれえぬバラ
月の光の燦爛(さんらん)とながれる部屋で
小さなバラのグラスをさしだす少女
十二光の小さな像を髪に飾る少女は
わたしの髪を同じ色の波でなびかせようとする
夜があけて 少女はうすい一枚の鳥となり
巡礼の坂をあざやかに飛翔する
そして 風にひるがえる寺の
新緑の葉(は)末(ずえ)にとまり
立ち去るわたしを見おくる
西洋の光景のようだが、「十二光の小さな像を髪に飾る少女」や「巡礼」「寺」は日本の光景にも感じられる、という声があった。私も「十二光」からは「十二面観音」を思い出した。
ことばの特徴として、ことばがイメージをつむぐ。そして、そのイメージはだんだん焦点を一点にしぼって固定するというよりも流動していく。「遺構」から「川」へ、さらに「庭園」「バラ」へ。しかも、その「バラ」は「生まれえぬバラ」。存在していない。
イメージの流動/変遷をいちばん明確に語るのは「少女はうすい一枚の鳥となり」である。「少女」と「鳥」は別の存在である。しかし、「少女」は「鳥」に「なる」。しかもその「鳥」はただの鳥ではない。
「うすい一枚の鳥」。
このことばは「うすい一枚のバラ(の花びら)」のように感じられる。少女はバラを通して鳥になる。そのバラは「一枚」という独立した形をとっている。散ったのかもしれない。散って、落ちるのではなく、風に舞ってかろやかに飛ぶ。ただし、そのバラは「生まれえぬバラ」。存在しないものが、ことばとして存在して動く。あるのは、ことばを通して「想起するイメージ」であって、「実在」ではない。実際に存在するのは「想起する」という運動、想起とともに動くことばだけである。
だからこそ、こういうことも起きる。
その「バラ=少女=鳥」はほんとうに「少女」なのか。「わたしの髪を同じ色の波でなびかせようとする」の「同じ色」とは何と同じなのか。前の行の少女のと同じ色だろう。そうであるなら、このとき「わたし」は「少女」になり、同時に「バラ」になり、「鳥」になる。
渾然一体となってイメージが動く。「生まれえぬバラ」そのものが「わたし/生まれえぬ少女」という感じ。少女は生まれていないから、「少女=わたし」であっても矛盾しないという「自画像」。
私は、こういう「ことば」でしかありえない世界というものが好きである。
しかし、
立ち去るわたしを見おくる
この最終行は、それではどうなるのだろうか。私は、ここには「わたし」があらわれない方がいいと思ったが、青柳は「全体が夢のイメージで、夢から覚める感じ」というようなことを語った。あ、なるほど。
**********************************************************************
★「詩はどこにあるか」オンライン講座★
メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。
★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。
お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com
また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571
**********************************************************************
「詩はどこにあるか」8月号を発売中です。
162ページ、2000円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079876
*
オンデマンドで以下の本を発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com