詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

破棄された詩のための注釈25

2020-10-23 20:30:16 | 破棄された詩のための注釈

破棄された詩のための注釈25
                        2020年10月23日

 花瓶の花を捨てるとき、まだ枯れていない一輪の薔薇を選び、コップに活けた。水の高さを気にして、何度も捨てたり注ぎ直したりした。窓から入ってくる光がつくるテーブルの上の水の影と水の光。そして薔薇の色。
 描きかけの手をとめ、席を立った。捨てた花の中から朽ちた葉っぱだけの一本を追加した。それは「ニュアンス」を定義するためだった。あらゆる存在には共通するものと異質なものがある。その差異を語り直すことが「ニュアンス」を定義することである、という注釈をつけるためである。
 たしかに花びらが生きているように色を変えた。しかし、それは花自身の変化なのか、時間が動いたせいなのか、あるいは意識の錯誤なのか。
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自助・共助・公助と学術会議

2020-10-23 15:57:50 | 自民党憲法改正草案を読む
自助・共助・公助と学術会議

 他のところで書いたのだが、少し追加してまとめ直しておく。
 東洋経済のウェブサイト(https://toyokeizai.net/articles/-/381397)に載っていた記事を読みながら考えたことである。見出しに「『10社以上でクビ』発達障害46歳男性の主張」と書いてあった。
 発達障害の人は、社会の中では「少数者」である。発達障害のひとの存在は、それは非常に見えにくい。こんな例えはよくないのかもしれないが、たとえば車椅子の使用者にならば「見える」。そして階段をスロープに変えればある程度そのひとの「自由度」が高くなるということもわかる。どう対処すればいいか、ほかのひとにもある程度わかる。しかし「発達障害」の場合は、よほど詳しいひとでないかぎり、どう対処するのがいちばんいいのか、見当がつかない。また、そういうひとが差別/排除されても、理不尽とは思いにくいかもしれない。記事の中にもあったが「きょう初日のひとよりも仕事が遅い」などと非難しているひとからみれば、この男性は「排除」されても何の問題も感じないだろう。逆に仕事がスムーズに進むようになったと喜ぶかもしれない。
 世の中には「見えにくい少数者」が大勢いる。
 そういうひとたちが「排除」されたとき、多くのひとはその「排除」に気がつかない。首になった男性が、どんな生活をしているか、どんな苦境に陥っているか、それも「見えない」。こういうことが、これからの大きな問題になる。「見えにくい少数者」は「少数者」であるという理由で「排除」されやすいのである。「排除」されたも、だれも気づかないという危険が、すぐそこまで来ている。

 こいうことがなぜ「学術会議」と関係があるかというと。
 「少数者の運命」というのは「学術会議」にもあてはまることだからである。学者は、絶対的に「少数者」。
 そして、悲しいことに、「学者」を差別すること( 排除すること) に対して、多くの人は「良心の呵責」を感じない。「発達障害」のひとの仕事を奪ってしまうことに対しては、後ろめたく感じるひとがいるかもしれないが、6人の学者が「学術会議の会員に選ばれなかった」からと言って、そのことを「親身」になって考える人は少ないだろう。
 理由は簡単。
 ふつうのひとから見れば、「学者」は自分たちより優れている。優れているひとに配慮なんかする必要はない。配慮が必要なのは、「学者」になれない国民の方である。「学者」になれず、資本家につきつかわれている労働者の方である。「学者」は自立しているから、それで十分じゃないか……。
 こういう「国民の心情」を菅(と自民党)は巧みに利用している。
 「目に見える少数者(たとえば車椅子使用者)」と同時に「目に見えない少数者(たとえば発達障害のひと)」がいる。
 この「目に見えにくい少数者」から排除していくことが、いま、日本で横行している。
 「学者」の排除のあとは、個人の思考/嗜好/指向が狙われる。「少数者」から排除される。「少数者」の排除は、「多数者」には「私には関係ないから、知らない」という無関心のなかで拡大していく。
 「分母」が小さくなれば、いままで見過ごされていた「少数者」がどんどん強調されるようになる。
 マスクをしていないひとに「マスクをしてください」と注意する。そのとき注意されたひとが「すみません」と言う前に「お金がなくて買えないんです」と答えれば、「注意したのに反抗された。公共精神がない反抗的な人間だ」というレッテルで排除される。「お金がなくてマスクが買えないひと」は「少数派」だからだ。
 冗談のように見えることが、冗談ではなくなる。
 その第一歩が「6人の学者の任命拒否」である。
 「気に食わないから排除する」が菅の政治によって始まっている。
 そして気に食わないひとを見つけるのに、どうも警察が関与している。警察国家(密告社会)が急速に動いている。

 脱線したが。
 コロナ感染拡大という状況の中にあって「マスクを買えない少数派」から、私はこんなことを考えるのである。
 菅は「自助・共助・公助」と言った。コロナ感染という社会の中では、「自助」は、たとえば手洗いの励行ということがある。そしてマスクの着用もそのひとつだ。その「自助(マスクを着用する)」ということが経済的にできないとき、「それでは町内会でマスクを買って助けましょう」というのが「共助」という形で必ず働くかというと、そうではないときがある。「町内でマスクを買えないひとがいる。そのひとを助けるのは共同責任だから、みんなでマスクを提供しよう」という形で動かないときもある。
 「町内からコロナ感染者が出たら、みんなが困る。共同責任になる。マスクを持たないひとが出歩かないように監視しよう」という動きが出ないとも限らない。「食事を一回抜いてマスクを買えばいい。マスクを着用するのは自己責任だ」という「責任の押しつけ」が始まらないとは限らない。
 「学者」のひとたちは理性的だから、そういうことは起きない/起こさない、と言えるかどうか。
 たとえば「6人の任命拒否」。その6人に対して、「政府方針を批判するようなことをいうから任命されないのだ。任命されないのは自己責任。6人のために予算が減らされたり、ほかのひとまで政府方針を批判していると思われるのは心外だ」というひとが出てこないとは限らない。菅と会談した梶田は、私には、そういう人間に思える。6人がいなければ、学術会議はいままでの活動ができたのに、と思っているかもしれない。そうすると、そこから6人の問題を「共同責任」のように詰問されるのは困る、6人は学術会議とは関係がない。「排除してしまえ」ということが起きかねないのだ。
 学術会議の会員になりたいのなら、「自助努力」が必要。政府方針を批判するのは「自己責任」でやれ。他の学者に迷惑をかけるな。会員に任命されなかったからといって「共助(任命拒否を撤回しろという運動)」を会議に求めるな。そういう運動が起きないとは限らない。
 「学者以外の世界」では、実際、そういう動きが起きていると思う。任命されなかったのは本人の責任。任命しなかった菅に問題はない。「学問」は菅が会員に任命しなくてもできるはず。「自己責任」で自分の好きな研究をすればいい。
 こういう「むちゃくちゃ」が起きる。実際、起きている。
 なぜか。
 「学者」という存在が、多くのひとからは「見えない少数派」であり、同時に「特権的な少数派」として認識されているからである。「見えない少数派」が「見えないまま」ならふつうのひとは何も言わない。突然「見える」状態になって、しかも、何かわけのわからないことを言う。「学者が国民よりえらいなら、自分で問題を解決すればいい。頭がいいんだから、それくらいできるだろう」。多くのひとは「心情の共有」へ向かって、一致団結していく。

 こうした動きが危険なのは、「少数派」よりも「多数派」こそが「正しい」と考えてしまうことだ。ある社会の中から「少数派」は排除する運動が始まると、それは次々に「少数派」探しに拡大する。「少数派」が「共助」を阻害している。「少数派」がいなければ「共助」は簡単に、確実に実行できる。「少数派排除」が「多数派団結の方法(手段?)」として動き始める。
 最初は「学者」、つぎは芸術家、つぎはスポーツ……とあっという間に拡大するだろう。それは、先に書いたように「マスクをつけていない/マスクを買う金がない」というようなところにまであっという間に拡大する。「政府を批判する集会に参加していた」とか、「政府を批判する文章をネットに書いた」とか、「学者」よりももっと「見えない少数派」を狙い撃ちするだろう。
 たとえば、この私。こういう文章を書いている人間が、ある日突然、こういう菅批判の文章を書かなくなったとして、いったいだれが気にするだろう。「見えない人間」が「消えた」だけである。世の中は、何一つ変わっていない。
 世の中は何一つ変わっていない。6人が任命を拒否されても、学者はあいかわらず自分の好きな学問をやっている。6人だって、勤務先を首になったとかという話は聞かない。何も変わっていない。
 しかし、「何も変わっていない」という印象を演出しながら、急激に変わっていくのである。「解釈の変更」という、それこそ「見えにくい動き」を利用しながら、変わっていくのである。その動きの中に、菅は「自助・共助・公助」を盛り込んだ。「自己責任・共同責任」を強いるように仕向けている。



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山本かずこ『恰も魂あるものの如く』

2020-10-23 09:39:25 | 詩集
山本かずこ『恰も魂あるものの如く』(ミッドナイト・プレス、2020年09月23日発行)

 山本かずこ『恰も魂あるものの如く』を手にして、私は「あっ」と声が漏れた。それは次の瞬間、「しまった」という気持ちになった。
 つい先日、本棚からはみだしてしまう本を整理するために『故郷』をブックオフに出したところなのだ。私は山本と面識はないが、『故郷』はとても好きな詩集である。『詩を読む詩をつかむ』に感想が書いてあるので、ここでは繰り返さないが、忘れられない詩集の一冊である。この本だけは、と思い、残してあったのだが、つい手離した。最近、山本の詩を読んでいなかったので、ふっと気が緩んだというか、魔がさした感じ。私の肉体の中に、ふっと生まれた「間」。そこから、こぼれ、どこかへこぼれてしまった……。
 「しまった」という気持ちを消すことができないので、どこまでことばが動いてくれるか、動かすことができるかわからないが、感想を書いてみる。
 「還暦の鯉」は、巻頭の詩。やはり「最初に読む詩」というのは印象が強い。

還暦の鯉をよんでいると
さかなのにおいがしてきた。
ずっと前、
新聞の薔薇の花をみていると
薔薇のかおりがしてきたことがあったが、
きょうはのは
還暦の鯉だった。
生きているとおもった。
生きているさかなのにおいだ。
釣り糸の先で
逃げたくて、はねている。
そのはねた水がわたしの顔にとびちっている。
「さわってみいや」
父が言った。
「こわいき、いやや」
とわたしが言った。
五歳だった。
父は、
還暦の鯉に同情はないだろう。
父が死んだのは、五十六歳だった。
わたしは、
「還暦」という言葉の釣り針にまずひっかかり、
いまは、水中にて、もがいているところか。
やがて、浮上する、そのしばらくのあいだ。

 注に、「還暦の鯉」は井伏鱒二の随筆とある。
 書き出しの「さかなのにおいがしてきた。」は井伏の文章がリアルだ、と言いたいのだと思う。この「におい」は「生きている」と言い直されている。魚屋の魚の匂いではなく、水の中で泳いでいる魚。けれど、水のなかの魚の匂いは、ほんとうはわからない。私はかいだことがない。私が知っているのは、水から上がった魚の匂いである。山本が言っている「生きている(におい)」は、やはり水から上がった魚(水を奪われた魚)の匂いだろう。それは、逆に言えば「死に直面しているにおい」でもあるだろう。
 井伏の随筆を知らないので、断言はできないが、井伏は「還暦」のとき釣り堀に行って魚を釣った。そのときのことを書いているのだろう。釣り上げた魚が、肉体に残っている水を、あばれながらまきちらしている。
 それを山本が感じるのはなぜか。その魚を肉体で覚えているからだ。井伏の随筆を読みながら、山本は山本の肉体が覚えていることを思い出している。
 父と魚釣りをした。山本がせがんだのではなく、父が山本を連れていったのだろう。父は釣れた魚が自慢である。だから「さわってみいや」というようなことも言う。
 ここからが、非常に、微妙だ。
 山本は、ほんとうに「魚の生きているにおい」をかいだのか。あるいは、「父の生きているにおい」をかいだのか。区別はできない。「魚の生きているにおい」は「父のいきているにおい」なのだ。そして、そのとき、二つのにおいを結びつけているのは「生きている」という「事実」なのだ。さらに、「生きている」ということばといっしょと思い出してしまうのは、魚も父も「死んでいる」からなのだ。「生きている」のなかには「死んでいる」が含まれている。だからこそ、なまなましい。
 父は五十六歳で死んだ。だから「還暦」についてあれこれ思うことはない、というのは悲しいユーモアである。山本は、私を、少し笑わせる。しかし、少し笑うと、その笑いが自分を裏切っていることに気づき、さらに悲しくなる。
 山本が五歳だったとき、父は何歳だったのだろう。五歳のときとはっきり覚えているのは、父の死が五歳に刻印されているからだろう。山本が五歳のとき、あるいは、この釣り堀の体験の翌年(六歳のとき)に死んだのではないのか。そうすると、「生きている」は、単に水から上げられてあばれている以上の意味を持ってくる。「さわってみいや」「こわいき、いやや」にも別の感情が混じってくる。
 私は「誤読」するのである。つまり、自分の「肉体」で山本のことばを読んでしまうのである。
 私の父の兄、つまり叔父は胃がんで死んだ。叔父の家は山の中腹にある。そこから私の家まで降りてくる。私は叔父と二人でテレビを見ていた。両親は野良仕事に出ていて、家には私以外いないからである。しばらくして「家に帰る」と言う。しかし、歩いて帰れない。私は叔父をおぶって坂道をのぼる。そのとき、叔父の腹が、私の背中にぺったりとはりつく。肉体を維持する力がなくなって、ぺたりとはりつく。胃がんそのものが背中から私の肉体に侵入してくるのではないと思うくらいの、ぺたりである。私は小学五年か六年だった。だから、非常にこわかった。死と生が、いっしょに動いている感じがしたのである。
 あるいは、兄が事故死したとき、その息子(つまり甥)が、周りの人に言われて遺体に直面する寸前、あとずさりした、というようなことも思い出したりする。
 「死んだ」という状態になる前に、「死ぬ」という動きがある。その「死ぬ」という動きは、同時に「生きている」という動きである。「状態」ではない。だからこそ、「こわい」のかもしれない。
 脱線したかなあ……。
 この釣りの思い出のあと、「還暦」ということばに山本はこだわる。それは父が「還暦」前に死んだということに関係があるというよりも、山本の年齢に関係があるのだろう。先に書いたように、私は山本とは面識がない。彼女が何歳か知らない。だが、この詩を書いたころは「還暦」前後だったのだろう。父が「還暦」を知らないけれど、山本は「還暦」を知る年になった。父より長く生きている。さて、これから、どうなるのか。
 そのことを、あれこれ思うのだろう。
 そうすると。

やがて、浮上する、そのしばらくのあいだ。

 というのは、非常に微妙なことを書いていることになるが、「微妙」は「論理的」に読むから「微妙」になる。
 釣り針にひっかかっても、すべての魚が釣り上げれら、死んでいくわけではない。釣り針がはずれ、もう一度水の中に帰ることがあるし、釣り上げられたら釣り上げられたで、そのときにしか知ることのできない世界がある。それを「生きる」ことができるだろう。
 そう思うとき、いま、山本はどんな「生きているにおい」を発しているのだろう、とも私は考えてしまう。
 会ったことはない。写真を見たこともない。何も知らない。何も知らないけれど、山本という人間の「肉体」を思うのである。
 この作品の「父」もそうだが、『故郷』に出てくる「母」もしっかりと「肉体」をもっている。ことばが「頭」ではなく「肉体」から、そのまま出てくる、という感じで動いている。
 人間はだれでも、母とも父とも違う人間(個人)になるために生まれてくるのだと思うが、私は同時に、ああ、山本は両親の肉体を山本自身の肉体として引き継いで生きているなあ、と感じるのである。両親を「他者」と呼ぶのは変だけれど、山本の肉体は他者と共存して生きている、ということを、私はなんとなく感じる。
 井伏の随筆がどういうものか知らないが、それを読む山本は、読んでいるとき父を思い出しているだけではなく、井伏とも一緒に生きているのだろう。一緒に生きているという実感が、本を(活字を)超えて、父にまで繋がっているのだろう。
 「生きている」ということばが、畳みかけるように、二度書かれているが、この「生きている」がこの詩のキーワードなのである。だから、最終行は、ほんとうは、

やがて、浮上する、そのしばらくのあいだ生きている。

 なのである。「しばらくのあいだ」は、まだまだつづく。山本の新しい詩集は、そのことを告げている。だからこそ、『故郷』を手離したことが、何とも悔しい。これからも山本は詩を書きつづけるだろう。
 「生きている」ということばはつかわれていないが、それが隠れている作品に「夏の写真」がある。

おそろいの
赤いりんごの浴衣を着ていた
妹より
わたしのほうが
まだ
背が高かったころの夏休み

一枚の
写真が残っている
かけっこが大好きだった
妹のおでこには
転んだときにできた
すり傷がある

この夏を境に
妹の背丈はぐんと伸びてゆくのだけれど
そんなことは
まだ だれも知らない

 「生きている」ということは、「だれも知らないことが起きる」ということである。「だれも知らない」から私たちは「生きている」(生きてゆける)のだ。そして、これから起きる「知らないこと」は自分の肉体で受け止めるしかないのである。
 魯迅ではないが、道はあるのではなく、道はなるのだ。ひとが、道なのだ。
 と、書いて、あ、そうか、私は山本のことばに、魯迅に通じる「正直」を感じていたのか、といま、あらためて思う。





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