詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「言い逃れ」ではなく、「言いがかり」

2020-10-28 16:43:38 | 自民党憲法改正草案を読む
朝日新聞デジタル
(https://www.asahi.com/articles/ASNBX4R1NNBXUTFK00G.html?fbclid=IwAR23_-EBvgBrFfNF-bwpPcbGW0dzRTMaLtGCbpFuKBqGigmxQ74LC6hxmvI)
が、菅の「代表質問」を記事にしている。テーマは「日本学術会議」。「6人任命拒否」問題。見出しは、

首相、学術会議の任命理由「答え差し控える」 代表質問

記事のなかに、こう書いてある。

「個々人の任命の理由については人事に関することで答えを差し控える」と改めて説明を拒否した。
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こういう「言い方」は、ふつうは、それを公表すると該当人物が不利になるときにつかうのではないか。
簡単に言いなおすと、たとえば6人が研究費を私的流用していたとか、学生にパワハラ、セクハラをしたことがあり、それを公表してしまうと本人が不利になるし、被害者の学生にも影響が出る。

6人に配慮をして「任命(拒否)の理由」を明らかにしないというのならわかるが、6人は「理由を公表しないでほしい」と言っているわけではないだろう。むしろ公表を求めているのではないか。
最初から菅に「任命権」(人事権)があるなら別だが、6人は「学術会議」の推薦を受けている。推薦を受けているということは「人事手続き」がとられているということである。その「手続き」を一方的に拒絶するのは、6人に対してだけではなく「学術会議」に対しても問題がある。

「表面的な言い逃れ」は単に「言い逃れ」という問題ではおさまらない。
「言い逃れ」は「言いがかり」を生み出す。
私がこういう文章を書いていることに対して、「中国から金をもらって菅批判をしている」という「言いがかり」を簡単にしてしまう。(いわゆる、デマ、フェイク)
そして、その「根拠」を求められても「個別の問題なので、答えを差し控える」といっておしまいにする。
きっと、これからそういうことが起きる。そして、そのとき、たとえば「逮捕」というようなことがあったとしても、菅は「逮捕」は警察が法に従っておこなったことであり、私は知らないし、そういうことに口を挟むと警察の自立性(司法の独立性)を損ねることになるから、それは慎むという具合にことが進んでいく。

実際、今回起きたことを見つめれば、菅のやっていることが「言いがかり」だとわかる。
「6人が政府の方針を批判したことがある、だから任命しなかった」が理由だと仮定する。
なぜ、それが「言いがかり」になるか。
単純である。
国民はだれでも政府を批判する権利を持っている。
「学者」であろうが、「議員」であろうが、一般市民であろうが。
国は、国民が政府を批判するからといって、そのひとを排除する権利を持っていない。もし「排除」するとするならば、その根拠となる「法律」を示さないといけない。「法律」を明示しないかぎり、国は国民のどんな行為をも受け入れないといけない。
国民はいつでも自由であり、その自由は憲法が保障している。
つまり、国は国民の自由を侵害してはならないと規定している。

これからどんどん、政府が「言いがかり」で国民の自由を侵害する。
今回の事件は、その第一歩なのだ。
「学者」の世界は、ふつうの国民からは遠い。何をしているかわからない。そういう「わからない」ところから、菅は手をつけている。
これは、とても危険だ。

菅の答弁を「言い逃れ」ではなく、「言いがかり」から見つめなおさないといけない。
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破棄された詩のための注釈27

2020-10-28 16:01:58 | 破棄された詩のための注釈
破棄された詩のための注釈27
                        谷内修三2020年10月28日

 折り畳みのパイプの椅子があり、高窓から光が差し込んでいる。つかわれていなかった部屋のよどみのなかで、その午後の光がうるんでいる。
 欲望についていけなくなった主人公は、「うるみ」ということばに倦怠と希望を託したいのだが、つぎのことばが動かない。

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為平澪『生きた亡者』

2020-10-28 10:29:04 | 詩集


為平澪『生きた亡者』(モノクローム・プロジェクト、2020年10月19日発行)

 為平澪『生きた亡者』を読むには体力がいる。「肉体」が弱っているときは、読むのがつらい。いちばん軽そうな(?)「台所」でも、私の「肉体」はとても苦しくなる。

そこには多くの家族がいて
大きな机の上に並べられた
温かいものを食べていた

それぞれが思うことを
なんとなく話して それとなく呑み込めば
喉元は 一晩中潤った

 「大家族」の食卓の風景として読むことができるが、家族が多いだけで、その家族につながりが感じられない。「大きな机」というのも「食卓」とは違う感じがする。「卓」と「机」がどう違うのか。見かけは同じようだが「卓」には「卓越」というようなことばがあるように、何か特別なものという感じが含まれるが「机」にはそれがない。「卓」ならば「食べるためにつくった特別なもの、食べ物を大切にするという意識が卓にこめられている」と強引に「意味づけ」できるが、「机」ではそれができない。そのために何か「殺伐」という感じを受けてしまう。
 さらに、

喉元は 一晩中潤った

 とは、どういうことだろうか。「温かいものを食べて」「喉元が」「潤う」というのはたしかにそういうことがあるだろうけれど、私の肉体は「喉元」を意識しない。食べたときは「腹」だ。
 なぜ、「喉元」なのか。
 その前の「話す」「呑み込む」が「喉」に関係している。
 こでは、だれも食べていないのだ。少なくとも「食べる」ということを楽しんでいない。「それぞれが思うこと」を「話す」。ことばが発せられる。そして、そのことばは発せられるだけではなく、ときには「声」にならずに「呑み込まれる」ときもある。そのとき自分の声を呑み込むだけではなく、他人の「肉体にいれたくないことば」も「呑み込む」のである。「喉」のなかで自分のことばと他人のことばがぶつかる。その衝撃を「呑み込む」と言ってもいい。
 こんなことが「潤い」であるはずがない。でも為平は「潤った」と書いている。しかも「一晩中」。
 ここには書かれていることば(ことばになっていることば)とは別のことばが沈んでいる。それこそ、ことばそのものに「呑み込まれている」。
 そういう「いやな感じ」が漂っている。

天井の蛍光灯が点滅を始めた頃
台所まで来られない人や
作ったご飯を食べられない人もでてきて
暗い所で食事をとる人が だんだん増えた

そうして皆 使っていた茶碗や
茶渋のついた湯飲を
机の上に置いたまま 先に壊れていった

 「来られない」「食べられない」という否定を含むことばが「暗い」で増幅され、「壊れる」ということばにたどりつく。いやだなあ。しかも「壊れていった」のは茶碗、湯飲ではなく「皆」(人間)なのだ。
 これ為平は、念入りに、こう言い直す。

カタチあるモノはいつかは壊れるというけれど
いのちある人のほうが簡単にひび割れる

 困るのは、それが「ひび割れる」ということだろう完全に「割れてしまう」のではなく、カタチはまだ残っている。遠くから見れば「ひび」はわからないかもしれない。しかし、遠くから見ればわからないからこそ問題は根深い。もしかすると「ひび」は本人にしかわからないかもしれない。そういう「傷」というものがある。

温かいものを求めて ひとり
夜の台所で湯を沸かす
電気ポットを点けると 青白い光に
埃をかぶった食器棚がうかびあがる

 「多くの家族」がいたのに、ここでは「ひとり」しかいない。しかも、この「ひとり」は台所の電気をつけずに、電気ポットにだけスイッチを入れる。そうすると、その小さなランプが台所の食器棚を照らす。埃を浮かびあがらせる。
 私は完全に気が滅入ってしまう。

夜に積もる底冷えした何かがこみあげて
沸騰した水は泡を作ってあふれかえる

 「あふれええる」のは「沸騰した水」ではないだろう。だいたい、「湯」をわざわざ「沸騰した水」と分析的(?)にいう必要もない。でも、為平にとっては「湯」ではなく「沸騰した水」なのだ。しかも、それは「泡」をつくっている。そこまで執拗に「もの」を分析しないと落ち着かない。
 この、なんといえばいいのか「湯」という変化してしまったものを拒絶し、それがあった「元の形」にこだわって言い直すということばの運動が、きっと詩の(詩集の)全体を貫いている。
 それはそれですごいことだと思うが、きょうの私の肉体は、そういう「元の姿(ひとり/他人と隔絶した個人)」にこだわることばの運動に、どうもついていけない。ぞっとしてしまう。

 私は「おばさんパレード」というタイトルで女性の詩集の感想をまとめてみたいなあと思っているが、そのとき思い描く「おばさん」というのは、簡単に言えば「意地悪おばさん(おばあさん、であってもいいなあ)」。自分の生き方に開き直って、それをさらけだす。批判できるなら、どうぞ批判して。反撃してやるからね。そういう感じ。逞しい。生きてるものが勝ちなんだから。この「勝ち」は「価値」なんだよなあ。つまり「肉体になった思想」。私は、そういう「ことば」が好き。
 為平のことばも「さらけだし」には違いないが、開き直りの「肯定感」ない。それが私にはつらい。「肯定感」のなさにひかれる人もいると思うが、私にはつらい。





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ヌードを見るのは誰か

2020-10-28 08:59:10 | estoy loco por espana

Jose Maria Pecciの写真


柱が非常に印象的。(板かもしれない)
タイトルは「ヌード」。たしかにヌードの絵が柱の左側の床に置かれている。
しかし、男の視線はその絵を見ていない。
まるで柱の影に誰かがいて、そのヌードを見ている感じ。
ヌードを見るといっても、視線はあくまで相手の視線を見つめているので、視界のなかにヌードが入ってくるだけ。
もし柱の影にいる誰かのヌードを見る人がいるとするならば、それはこの写真を見ている私たちだ。


El pilares es muy impresionante.
El titulo es "Desnudo". Ciertamente, un cuadro desnudo se coloca en el suelo a la izquierda del pilar.
Sin embargo, la mirada del hombre no ve el cuadro.
Es como si alguien estuviera detras del pilar y el hombre observara al desnudo.
Incluso si miras al desnudo, su linea de vision es solo mirar la linea de vision de la otra persona, por lo que el desnudo simplemente aparece en su vista.
Si alguien ve el desnudo de alguien detras del pilar, somos nosotros mirando esta imagen.
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