詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

頭がくらくらしてきた。

2020-10-13 21:25:40 | 自民党憲法改正草案を読む
毎日新聞には、こんな記事。

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e5%89%8d%e5%b7%9d%e5%85%83%e6%96%87%e7%a7%91%e6%ac%a1%e5%ae%98-%e6%9d%89%e7%94%b0%e5%89%af%e9%95%b7%e5%ae%98%e3%81%8c%e4%b8%80%e6%ac%a1%e7%9a%84%e3%81%ab%e5%88%a4%e6%96%ad-%e3%81%a8%e6%8e%a8%e6%b8%ac-%e5%ad%a6%e8%a1%93%e4%bc%9a%e8%ad%b0%e4%bc%9a%e5%93%a1%e4%bb%bb%e5%91%bd%e8%a6%8b%e9%80%81%e3%82%8a%e3%81%a7%e9%87%8e%e5%85%9a%e4%bc%9a%e5%90%88%e5%87%ba%e5%b8%ad/ar-BB19Y0dZ?ocid=LENOVODHP17&fbclid=IwAR2kC0MXkAlKksLsrA_Eh6Jf_D6O_e-u73oyAm-6lH4IZ2KQa7go9Q-8Eq0

「杉田氏の一存で決めるはずがない」とも強調。「学術会議が推薦する新会員候補105人の名簿を受け取った杉田氏が、警察か内閣情報調査室に身辺調査を指示し、政府批判の言動が判明した6人の任命拒否を一次的に判断。その報告を受けた官房長官が了解を得た。当時は自民党総裁選前で、長官は菅氏ではないかと想像する」-という見立てを披露した。
↑↑↑↑
首相になる前から、知っていた。
きっと、このことが明確になると、菅は「私はそのときは首相ではない。この案件は、『菅首相案件』ではない。首相の私の責任(問題)ではない」という詭弁へ逃げ込むのかなあ。
「菅」という人物は共通するが「官房長官」「首相」と肩書がちがうから、「官房長官」のときのことは「首相」の責任ではない、「菅官房長官は熟知しているかもしれないが、菅首相はぜんぜん知らない」と。

頭がくらくらするぞ。
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もう、むちゃくちゃ。

2020-10-13 16:30:58 | 自民党憲法改正草案を読む
「日本学術会議新会員」の「6人任命拒否」問題の「続報」がネットに次々に報道されている。
「出典」を明記すべきなのかもしれないが、ちょっとややこしい。あまりに多くて、書き切れない。
フェイスブックに書いたことを転写しておく。(フェイスブックの「タイムライン」の書き込みは、すぐに行方不明になる。)

東京新聞
https://www.tokyo-np.co.jp/article/61394?fbclid=IwAR2glIqTXE9ZuZweMN3GsjxFyxZyeBBzju1K37wTzocdgoiINB2xo4nP4bo
「杉田和博官房副長官が内閣府の提案に基づき、任命できない人が複数いると、菅義偉首相に口頭で報告していた」
↑↑↑↑
この「内閣府の提案」というのは、いったいどういう意味だろう。
「内閣府」は人間ではない。「内閣府」が提案できるわけがない。誰かが提案している。
先日見た「シカゴ7裁判」という映画では、主人公が「所有形(たとえば、われわれが、our)」をつかってしまうことが問題になっていたが、日本語は、こういうあいまいな言い方でことをすませてしまうことが多い。
こういう表現を許してはならない。
ジャーナリズムは「ことば」を生きているのだから、ことばの問題をもっと追及すべきだ。
杉田がこう言っているから、それをそのまま伝えるでは、テープレコーダー(もう、言わないか・・・・)、あるいは広報にすぎない。
しっかりしろよ。

情報速報ドットコム
https://johosokuhou.com/2020/10/13/38269/?fbclid=IwAR2tCB1pGoEgad0PxMLUNe2p4DwFvXU_t20IYJNVL_M_2n8RH6Fl408O6Ck
杉田副長官も元公安トップであり、そのような人が学者を選別したという事実に批判の声が強まっているところです。
↑↑↑↑
こういう表現は、まだるっこしい。
「批判の声が強まっている」ではなくて、ジャーナリストとしてこの問題をどうとらえていくか、それをきちんと書かないいけない。
上のような書き方では「批判の声は高まっている」が情報速報ドットコムはそうは思わない、と主張しているとも受け取ることができる。
いま問われているのは、「学問の自由」に対して、あらゆる言論がどのような態度をとるか、である。
「学問の自由」が侵害されれば、「言論の自由」も「思想の自由」も侵害される。
それも「公安トップ」(杉田は「元」であると主張するだろうが)が関与している。
戦前の思想統制がはじまっている。
そしてそれは「2012年の自民党改憲草案」の先取りといえる。
学者が国の政策に反対意見を言うのは「緊急事態」にあたると定義して、学者を逮捕するということが起きるのだ。
しかもその全てが「法解釈を見直した/変更した」というだけの説明でおこなわれるのだ。

朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASNBF0F3XNBDUTFK011.html?fbclid=IwAR3UKIbr--wEdeF4_UTPYx03OvSU541NLWZ2cRX1tz7owFcrt0_5oB7cV8Q
杉田和博官房副長官が事前に首相に対し、「任命できない候補者がいる」という趣旨の報告を行った。
↑↑↑↑↑
そうだとすると、管は、杉田の判断に基づいて99人を任命したことになる。「任命できない候補者」を管が選んだわけではない。
管が選んだとしても問題があるが(最初の批判は、そういうものだった)、管が選んだのではないとしたら、それはもう「内閣総理大臣が任命」ではない。
「日本学術会議法」は、こう規定している
第七条 日本学術会議は、二百十人の日本学術会議会員(以下「会員」という。)をもつて、これを組織する。
2 会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。
完全に「違法行為」にあたる。
弁解(?)すればするほど、「墓穴」が大きくなる。
はたして「杉田が独断でやった」と杉田の更迭だけで処理できるかどうか。
杉田を官房副長官に任命した責任も問われるだろう。

NHKのサイト
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201013/k10012660911000.html?fbclid=IwAR2tCB1pGoEgad0PxMLUNe2p4DwFvXU_t20IYJNVL_M_2n8RH6Fl408O6Ck
加藤官房長官は、日本学術会議の会員の任命について、「菅総理大臣に、任命にあたっての考え方の説明があって、共有され、それにのっとって作業が行われて、起案された。最終的に菅総理大臣が決裁したというプロセスだ」と述べました。
↑↑↑↑
そうであるなら、管が「任命にあたって、どういう考え方を説明したのか」ということをいうべきである。
もし管が「考え方を説明した」のなら、それは「選別をした」ということと変わりがない。「選別基準」は管がつくったのである。杉田が独断でやったのではないということになる。
「105人の名簿」は見ていなくても、「105人」から何人かを除外しろという指示を出したことになる。
「見ていないから知らない」という安倍流の「ぼくちゃん、何も知らない。ほくちゃん、何もしていない」は通用しない。
森友学園問題では、安倍は「ぼくちゃんが指示をしたという証拠は、どこにもない。だれもぼくちゃんから指示を受けたとは証言していない」と逃げた。
しかし、今回は、加藤が「菅総理大臣に、任命にあたっての考え方の説明があって、共有され」と、証言している。
記者会見に出席している記者は、菅の説明がどのようなものだったか、その説明を「共有」するために、どういうことがおこなわれたのか、そのことを聞くべきである。
「そのときの菅の考え方というのは、どういうものですか? 考え方を説明したというが、その記録(文書)はあるか」
こういうことを聞かないといけない。
どの記事を読んでも、非常にまだるっこしい。
記者は、記者会見の現場に居合わせ、質問できるという「特権」をもっている。
言われたことをそのまま「はい、わかりました」と受け止めるのではなく、ちゃんと質問しろ。



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尾久守侑『悪意Q47』

2020-10-13 09:51:18 | 詩集


尾久守侑『悪意Q47』(思潮社、2020年09月01日発行)

 尾久守侑『悪意Q47』のQ。私はどうしても魯迅の「阿Q正伝」を思い出してしまう。尾久守侑が魯迅やカミュを意識しているかどうかはわからないが、私は「内容」というよりも「文体」に魯迅やカミュの影響のようなものを感じる。ことばが短く、平易で、しかもリズムがある。「悪意Q47」について書くべきなのかもしれないが、ちょっと目の調子がよくないので手抜きして(?)「反故」。(尾久さん、ごめんなさいね。)

 市大の学生さんが遊びに来るというので、昼過ぎから予定を空けて待っていた。
午を食べたあと暫く眠って、はっと丸窓から外を覗くと日がもう沈みかけていた。
寝過ごすことは滅多にないので、無闇に立ったり座ったりして落ち着かない。妻
をよぶと、皆帰ったという。私がいなくて随分残念がったろうねと云うと、なに
をおっしゃるんですか、あなた散々話をして、それで厭になってみんな帰ったん
ですわなどと云う。

 なにが書いてあるというわけでもないが(というと尾久は起こるかもしれないが)、なにがという「内容」よりも、私は文章のリズムに惹かれて読んでいる。こういうことは最近は非常に少ない。そして「内容」を読むのではないと書いたことと矛盾するかもしれないが、ここに書かれていることは「正確」だと感じる。「正確さ」に対して信頼が生まれる。それは、たとえば句読点の正確さが、そう感じさせるのである。
 「内容」ではなく「文体」を信頼してしまう。
 これは危険なことかもしれない。しかし一方で、「内容」を信頼し、鵜呑みにするよりもいいかなあ、とも思う。「内容」はうさんくさいが、ことばを動かすリズム(文体)は借りることができないものである。そこには「肉体」がある。だから、信じていいと、私は思っている。
 そして、何の根拠もなく言うのだが、この尾久の「文体」は日本語だけを読んできたひとのものではないと思う。日本では、私たちは一般に「第一外国語」として英語に触れるが、英語を読んできた人のリズム、日本語のニュアンスを一度洗い流している感じがする。「明晰さ」への意思のようなものを感じる。「こう書けば通じるだろう」という漠然とした意識ではなく、この部分はこう書かなければ明晰にならないという意識、他者には伝わらないという意識を感じる。
 詩集の帯に、建畠晢が「この詩人の感覚のレンズは不可思議な屈折率をもつ。そこを通過する言葉の光線は蠱惑的な分岐を余儀なくされるのだ。」と書いている。具体的にどの作品のどの部分に建畠が「蠱惑的な分岐」を感じたのかわからないが、私はそういうものを感じない。どこまでも「明哲」と感じる。「明哲」に徹することが、他者と言葉を共有する方法である、と尾久は感じているのではないか。
 あ、これでは、どこまで書いても詩集の感想にはならないかもしれない。
 私は、尾久の文体が好きである。とても読みやすい、と書くだけでおしまいにすればよかったのかもしれない。
 でも、何か書きたい。
 「アド・バルーン」を読む。

夏目坂を半分も下ると空は茜色に染まって、わっとはしゃぎながら記憶が駆けて
いった。笑いながら母親たちが後から坂を降りてゆくのはありふれているが、大
概はそこで意味を見失ってしまう。

 書き出しの文章は、新感覚派(川端康成とか横光利一とか)の文章を思い起こさせる。坂を下ると空が茜色に染まるわけではなく、たまたま夕暮れの時間に坂を下っているということなのだが、それを関係があるかのように「翻訳調」の文体に仕立て上げる。「記憶」とは「遠い記憶=こども時代のこと」である。こどもが駆け下りていくのを見ながら、昔はこんなふうに私も駆け下りていった、と母親たちが思い出し、語りながら坂を下りている。それだけのことである。そこに「意味」などない。「意味を見失ってしまう」というのは、ただそれだけのことである。
 それだけのことであるけれど。
 「意味を失ってしまう」ではなく「意味を見失ってしまう」と尾久は書いている。なぜ「見失ってしまう」ということばを選んでいるか。それは、母親たちが「記憶(こども)が駆け下りていく(自分たちを追い抜いて行ってしまう)」のを見ているからである。
 「見失ってしまう」の「見」には「肉体」が刻印されている。意識が「肉体」の確かさで存在している。この「肉体」のあらわしかたが、非常に効果的なのだ。「文体」のなかへ読者(私のことだが)の「肉体」を誘い込み、「肉体」を事件のなかへ参加させる。
 私はカミュの多くを知らないし、魯迅も多くを知っているわけではないが、そして具体的にどの文章といま言えるわけではないが、魯迅の文章を読んでいて感じるのも同じものである。魯迅がそこにいる。その「現場」に私の「肉体」が誘い出されていく。「肉体」として、ことばを体験する。魯迅のことばによって、私の「肉体」のあり方が鍛えなおされる感じ。
 「反故」にもどって言えば、

寝過ごすことは滅多にないので、無闇に立ったり座ったりして落ち着かない。

 この「無闇に立ったり座ったりして」を、私は自分の「肉体の記憶」で体験する。私の「肉体」はそういうことをしたことがある、と覚えている。
 こういう感覚を呼び覚ます、こういう感覚の「現場」へ私を誘い込み、もう一度体験させる。そういうことができる文体を尾久はもっている。
 再び「アド・バルーン」。こんな行もある。

わあわあと騒いでいる記憶らは、一瞬の隙に茜空から降りてきた怪人に連れ去ら
れてしまう。いまどき珍しいアドバルーンだなあと、懐古趣味の大人を油断させ
て、その実はなにも宣伝などしていないのだ。

 こどもたちは、記憶のこどもたちそのもののように、ふと見つけたアドバルーンに夢中になって騒いでいる。そういうことを「怪人に連れ去られる」と比喩にしている。ここには、ほら、こどものころの「肉体」、「怪人に連れ去られてみたい」という欲望のようなものがそのまま表現されているでしょ? それは「夢」なのだけれど、夢というには生々しすぎる「肉体感覚」。
 こういうものを、正確に表現できる「文体」が、私は好きだ。
 「片足」の書き出し。

 季節、いつだっけ。ふとわからなくなる。誰かが一人だけいなくなってしまう
ことについてかんがえていて、僕らは生協で買ったパンをかじりながら図書館の
まえのオブジェに腰掛けている。たすけること、たすけられなかったこと。

 「たすけること、たすけられなかったこと。」は医者の仕事を指して言っているようだが、医者ではなくても、「たすけること、たすけられなかったこと」を「比喩」として体験したことは、多くのひとにあると思う。「誰かが一人だけいなくなってしまう」。それは「わけがわからない」。「いつ」だったか、「季節」さえはっきりしない。ただ「いなくなった」ということだけを思い出している。「いなくなった」とわかったときの、不思議な感じ。そのとき、「肉体」は非情にも「パンをかじ」ったりしているのだ。情を裏切り、存在してしまう「自然」としての「肉体」というものがある。それは情を裏切り、存在をやめてしまう「肉体」もまた「自然」であることを教えてくれる。
 尾久の「文体」の厳しさと明晰さは、こういうところからも来ているのかもしれない。








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