詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

浜江順子『あやうい果実』

2020-10-27 10:47:17 | 詩集


 浜江順子『あやうい果実』を読み始めてすぐ私は疑問に思う。浜江はいつもこんなふうに話しているのだろうか。
 「あはれあれは森色毒色」のなかほど。

                 毒の官能は蛍の光
と混在しはじめ、蛍と織り成し、怪しく蠢くほどに、森
はひたすら沈黙を古い鍵に塗り込める。

 詩なのだから日常のことばと違っていてかまわないのだが、私は、どうもついていけない。なんとなく、高校時代に読んだボードレールを思い出す。高校生にはなじみのないことば、しかしかすかに聞いたことのある強烈なことばがボードレールのなかでは響いていた。「毒の官能」がそれに似ている。高校生だから、知っている官能というのは自慰くらいのものである。そこにも毒はあるかもしれないが、ボードレールの書いているのは「女の毒(他人の毒/絶対的他者の毒)」である。私とは違う存在が、私を誘い出す。その瞬間に触れてしまう「異質(自分の知らなかったもの)」。それによって、自分が自分でなくなってしまう。そういう「運動」がボードレールのことばのなかにあった。私の知らないものが「ことば」としてそこにあり、その「ことば」に触れることが私を私ではなくさせてしまう。強烈なシンナーのような錯乱と愉悦。私は「ことば」そのものに頼って、何かを感じ取ろうとしていた。そんなことを思い出す。
 知っていることではなく、知らないものを、「ことば」に頼って引き寄せている。そのために、「ことば」が「肉体」にならないうちに動いている。つまり、「硬さ」をそのまま残している。「現実」とふれあっていない、という印象が、そのまま「異化」として動く。浜江は、「私は知っている」というかもしれない。ボードレールも、私は知っている、という位置でことばを動かしている。しかし、私は浜江の「私は知っている」をそのまま納得できない。浜江は「ことば」を知っている。ボードレールは「ことば」というよりも「事実」を知っている、という違いを感じてしまう。ボードレールが詩を書いた時代よりもはるかに時間がたっているのに、ボードレールの書いた「ことば」が浜江の肉体で消化されず、「ことば」のまま、そこに提出されている感じがする。「事実」を知っているのではなく、「ことば」を知っている、という印象が残る。
 私は、どうも、この「私はことばを知っている」という印象が残る作品が苦手である。その「ことば」が「詩的言語」であったり、「最先端哲学用語」であったりすると、私の苦手意識はさらに強くなる。「知っていることば」ではなく「知っている事実」を知りたいと私は思う。
 この作品とはまったく「ことばの性質」が違う作品も浜江は書いている。「フルエ」という詩は、こうはじまる。

フ、フ、フ、フルエがきて
加速するフカカイが
フクロウの声を一瞬、さえぎる時
ブワーッとフクレるナイフを
フルワセル

訳の分からないフカカイが
さらにフカヅメしながら
内臓に食い込み
鋭いナイフとなった

 「フ」という音からはじまる音が交錯する。脈絡はない。脈絡はあとから付け足し、いつでも「意味」になる。それは、高校生のときに読んだボードレールとおなじ。(私にとって、という意味である。)知らないことばであっても、「意味」を強引につくってしまう。「意味」をつくって、納得するのである。
 「加速するフカカイ」という音は、とても美しい。何度でも読みたくなる響きがある。この音楽にのって、イメージの飛躍がはじまる。「フクレる」は怒りを感じさせる。怒りは「ナイフ」という凶器を呼び寄せる。凶器をつかむと「肉体」が震える。その震えはナイフの震えと一体化する。怒りとは、また、フカカイなものである。「理由(訳)」はもちろんあるのだが、それに自分がのみこまれてしまうというのは、やはりフカカイなことである。自分の感情なのに、自分では制御できない。自分が自分でなくなる。その瞬間のフカカイさ。それが加速する。
 「フ」は「フカヅメ」にまで乗り移り、その「フカ」は「深い」ではなく「サメ」につながり、サメのナイフ(牙)は内臓に達する。「深爪」も血を呼ぶだろうが、「フカ(サメ)の爪(ナイフ)」は内臓にまで食い込む。そういう「夢」を見るとき、浜江はサメ(フカ)に襲われているのか、それともナイフをふりまわすサメ(フカ)になっているのか。怒りのことを思うと、浜江はサメ(フカ)になっているのだろう。フカになりながら、サメに襲われる相手、その流血を想像し、興奮している。
 その興奮は、こう書き直される。

もう脳のフルエは止められない
 ナイフをフルエ
 ナイフをフルエ
 ナイフをフルエ
フルエをナイフに込め
血の臭いを充満させる

 「脳のフルエ」。それは「肉体」のフルエを超越し、「ナイフ」のフルエも超越する。もっと形而上的なものだ。(「形而上」ということばを、浜江は「月下の穴」という作品のなかでつかっていた。)つまり「後出しじゃんけん」のように、簡単に別の意味に転換できる軽さを持っている。言い直すと「フルエ」は、この瞬間から「震え」ではなく「奮え(興奮)」にかわり、興奮をくぐり抜けることで「振るえ」にかわる。怒りに充血した脳が、「ナイフを振るえ」と肉体に命令するのである。怒りという「脳のフルエ(奮え/興奮)」を「ナイフに込め」るとは、ナイフが「怒った脳になる」ということである。「怒り」そのものに変身することである。「怒り」といういわば「肉体」の内部にある見えないものが「ナイフ」という「事実」に転換する。
 ここのところ。
 ほから、ボードレールの「知らないことば」が「事実」にかわるのと似ていない?
 「ことば」を通ることで、はじめてあらわれてくる「事実」がある。「ことば」が「事実」を作り出すのだ。
 そして、それは身近な、いつもつかっていることばのなかでも起きる。私は、こういう日常的なことばの暴走が好きだ。ことばが肉体そのものになって暴走し、ことばをさらに過激にする。
 だれのものでもない浜江のことばが動いていると思う。浜江には会ったことがないが、浜江の「肉体」が見える気がする。

ナイフの暴走が
さらにフルエ
フル、フル、フルエ
もうすぐ死者になるものもの
果てしないフルエも
肉にフーインさせ
闇へとフルフル進む

 「フル、フル、フルエ」には意味はない。とくに「フル、フル」は単に音としてあるだけだ。音楽だ。その音楽の愉悦(超越)が「死者」を呼び寄せる。この部分が、この詩のハイライトである。「フル、フル、フルエ」の「フル、フル」には意味がないが、意味がないからこそ、それは浜江によって書かれるしかない「全体的な何か」である。言い換えが聞かない「瞬間的な事実/絶対的な事実」がある。それは「フルフル進む」という形へと転化しながら無意味をいっそう強くなる。

残されたものへのフアンも
フーインし
フカカイなフルエが
ブキミなフリョクをいっそう大きくする

刺すフルエと
刺されるフルエが
地下を一直線にすすむとき
フルエはついに頂点にまで拡散する

フサガる大地と
フサガる想いと
時をフルフル、フク、フエが
もうフッカツすることはない

 「語呂合わせ」でことばが動いているだけ、と思う人もいるかもしれない。でも、その「語呂合わせ」(音楽)のなかに、突然、「事実」がまぎれこむのだ。「加速するフカカイ」「フカカイなフルエ」「ブキミなフリョク」(不気味な魅力、ではない)という音楽が「頂点(エクスタシー/自分の外)」へと拡散すると、もうそこには「無」しかない。何も「フッカツ」しない。「ことば」はただ疾走し、そのスピードのなかで「詩」になるだけなのである。
 「蛤蝓揺れたら」もおもしろかったが、書いている時間がなくなった。



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