詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2020年10月21日

2020-10-21 23:59:05 | 考える日記

2020年10月21日(水曜日)

 魯迅を読む。読み返す。
 魯迅は、私に「正直」を教えてくれた人である。その「正直」は、何とも言えず悲しい。
 「故郷」には、こんな文章がある。

 私は横になって、船底にさらさらという水音をききながら、いま私は私の道を歩いていることをさとった。

 この「道」ということばに、私は、どうしようもなく胸を打たれる。
 この「道」の対極に、「故郷」の場合、彼の幼友達の「閏土」がいると考えるのは簡単である。しかし、それでは閏土に「道」はないのか。いや、あるのだ。「阿Q」に「道」があるのとおなじだ。
 魯迅は「道はある」とは言わずに「道になる」と書く。

 それは希望でも、絶望でもない。「道」は現実であり、「道」は歩くしかないのである。

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鈴木ユリイカ『私を夢だと思ってください』

2020-10-21 10:56:56 | 詩集


鈴木ユリイカ『私を夢だと思ってください』(書肆侃侃房、2020年09月17日発行)

 鈴木ユリイカ『私を夢だと思ってください』の魅力を語るには、「虹 はじまりのはじまりのうた」「未来」のような作品についてこそ語らなければならないのだが、スケールが大きすぎて「尺度(距離感)」の取り方がむずかしい。
 私は私にできる接近方法をとる。
 「宇宙語」という作品。

どうしたのだろう?
私が眠っているとき
私のなかに宇宙がゆっくり入ってきて
朝焼けの空に変わり 熱くなり
冷たくなり 喉が渇き
宇宙は去って行った

 「私のなかに宇宙がゆっくり入ってきて」という一行が強烈である。「私」と「宇宙」を比較すると、どうしても「宇宙」の方が大きい。だから一般的には、「私」が「宇宙」のなかに入っていく、というのは「論理」として理解しやすい。しかし、鈴木は逆に書いている。「宇宙」という巨大なものが「私」のなかに入ってきた。「論理」的にはありえないことが起きた。その「論理」としてはありえないことは、「論理」ではなく「感覚/印象」のようなものを引き起こす。
 「朝焼けの空に変わり 熱くなり/冷たくなり 喉が渇き」ということばは、どう読むべきか。どう「ことば」を補うと、私の「論理」に近づいてくれるだろうか。私は「私のなか」ということばを補う。

「私のなかは」朝焼けの空に変わり 「私のなかは」熱くなり
「私のなかは」冷たくなり 「私のなかは」喉が渇き

 この「私のなか」を「私の肉体」と読み直すと、私にはさらにわかりやすくなる。

「私の肉体は」朝焼けの空に変わり 「私の肉体は」熱くなり
「私の肉体は」冷たくなり 「私の肉体は」喉が渇き

 「宇宙」は「物理」や「天文科学」でいう「宇宙」ではなく、「私の存在を超越する巨大なもの」の比喩と理解すれば、その巨大なものによって「私の肉体/肉体の内部(感覚/精神を含む)」が強い刺戟を受けた。
 こう読み直せば、なんとなく、鈴木の「肉体」に近づいたような気がする。これはもちろん「誤読」である。私は鈴木のような体験をしたことがないので、私のできる範囲で(私の肉体が可能な範囲で)、鈴木のことばを「読み替えている」だけである。
 こういう特権的な体験をしたあと、「肉体/人間の思想」は、どう変わるのか。

私はひどく疲れ やり直しがきかないほど気が滅入った

 これは、また、非常に不思議な感じがする。特権的な体験をしたあと、人間は特権的な存在になる、と私は考えているが、鈴木は「疲れ」「気が滅入っている」。いわば「宇宙/特権的な存在」によって、祝福されたのではなく、否定されたような感じ。
 ここから、どうやって回復していくか、「私」をとりもどしていくか。

けれども鶏の卵ほどの小さな宇宙が
二つばかり残っていて
私の胸のあたりをぐるぐる回っているらしい
一つの卵はだんだん成長し
小さな森になり 小さな葉と根をつけ
枝も揺らしていた
もう一つの宇宙は小さな詩を書く卵になり
眼鏡をかけるとその詩を読める気がした

 「詩」を発見する。そしてその「詩」は「書く」と動詞が先にあり、次に「読む」という動詞がつづいている。
 「詩」を書き、その「詩」を読む、読めるようにする。つまり発表する。そういうことで、「世界」と新しい交渉を始める。
 そういうことが象徴的に語られているのだと、私は「誤読」する。
 途中を省略し、作品の最後。

私を眺めている
あの空が私なら
あそこに書かれている詩をいまに
読むことができるだろう
みんなで勇気を出して生きるための詩を

 ここでは逆に、「詩」を読み取り、それを「詩」に書き留めるということが語られている。
 しかし、これは「逆」のことではなく、先に書いたことの言い直しなのである。
 「特権的な存在」(インスピレーション、と考えてみるといいかもしれない)が、「詩」を書く。詩を存在させる。それは「特権」に触れた詩人にしか読み取ることができない。そして、インスピレーションに触れること自体は多くの人が体験するが、その特権的インスピレーションを「ことば」として読み取り、書き写す(書き留めなおす)ということは、さらに特権的な人間、つまり詩人にしかできない。
 「憑依」ということばがあるが、鈴木は「憑依されること」を受け入れ、「憑依された特権」として「詩(宇宙語)」を書いている。
 こういうとき、「詩」(憑依することで姿をあらわす宇宙)は「ことば」をとおしてだけ表現されるのではない。「詩」にはさまざまな変容がある。たとえば、「ドラム」もまた「宇宙語」である。
 「AIR--ホセ・クラヴェイリニフに続いてうたう」は、「ドラムに憑依した宇宙」に「再憑依された詩人/鈴木」が「ことば」をつかって語る詩である。

遠い
アフリカにドラムになった男がいた
ドラムが鳴り響くときらめく河の鰐があくびして這い出し
ドラムが鳴り響くと森林の動物たちは目を覚まし
好奇心にかられて 人間たちの踊りをながめた
宇宙の闇に消えていくドラム
心臓になったドラム 血のしたたるドラムよ
おお 歴史は確かに動いているのだ
遠い アフリカは四千年の闇から目覚め
夜明けに幾つもの国が生まれた

 「目を覚まし」「目覚め」と動詞と名詞で言い直されることば。そして、その動詞と名詞は「生まれる」という別の形に突き進んでゆく。この変化は、さらに言い直しつづけられる。

空に太鼓が鳴り響くと
一本の木がゆっくり立ち上がり葉という葉を震わすだろう
空の太鼓が鳴り響くと
夜の果物という果物があまく香り
月と舟の間で揺れるだろう
空の太鼓が鳴り響くと
高校生のオーケストラの下の弦楽器がふしぎな音で鳴りだし
つづいてホルンやチューバが鳴りだし
ウエストサイド・ストーリーは始まるだろう

 「目覚め」は「共振/共鳴」としてひろがり、次々にあたらしい世界(宇宙)が「始まる」。「始まる」は「生まれる」の言い直しである。
 だが、それは必ずしも「祝祭」というか「幸福」だけではない。

空の太鼓が鳴り響くと
ボスニアの廃墟に子どもたちが集まってくるだろう
子どもたちよ おお 子どもたちよ
地雷を踏んで手足を吹き飛ばされた子どもたちよ
チェリノブイリで放射線をあび甲状腺手術を受けた子どもたちよ
飢えて路上で物乞いをしているのにすっかり忘れられた子どもたちよ
子どもたちを抱きしめてやさしく揺すってやらなければならない
そして「ずーっと ずっと だいすきだよ」と
いってやらなければならない
なぜならわたしたちはいつか死ぬのだから

 不幸な子どもたち、悲劇の子どもたち。その子どもたちにもドラム(空の太鼓)は響く。子どもたちも、空の太鼓(ドラム)が語る「宇宙」に共鳴する。
 「祝祭」には不幸や悲しみ、死さえも含まれる。すべてが存在するのが「祝祭」である。

わたしたちはいつか死ぬ

 しかし、ただ死ぬだけではない。

空の太鼓が鳴り響くと
夜な夜な愛し合う恋人たちの体の不思議な花花は
汗をかきながら開くだろう
おお すっかり忘れさっていた歯にあたらしい果実
唯一つの人間の勝利 というより体のなかに残っていた
やさしい子どもを呼び戻すだろう

 「いのち」はつづいていく。「未生」のものが「いのち」となって、生まれる。ことばは何度も言い直され、語られ直される。そしてひろがり、「宇宙」になるのだが、そこには必ず「いのち」がある。

 この詩のなかに、こんな行もある。

空の太陽が鳴り響くと
ときに疲れ果て暗く寂しい日に
ひとりの神が「われ渇く」とかすれた声でいうとき
空はたちまち大声をあげて泣き叫び
アジアの空はモンスーンが吹き荒れるだろう
ひとりの神が渇くとき別の神が雨の中からよみがえるだろう

 「太鼓」は「太陽」と言い直されている。そのなかの、「われ渇く」「神が渇くとき」さらに「疲れ果て」ということば。それは「宇宙語」にも書かれていた「渇き」「疲れ」でもあるのだが、それを含めて「祝祭」なのだ。「現代の詩」(現代の祝祭)というものは、苦しみの中からの「復活」のことなのだ。鈴木のことばは「人間復活(いのち復活)」の騒音となって耳を突き破る。この響きわたる巨大な音を聞き取る鼓膜を、実は、私はもっていない。だから「弱音」に返還して、「誤読」して、こんな感想を書くしかない。


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