鈴木ユリイカ『私を夢だと思ってください』(2)(書肆侃侃房、2020年09月17日発行)
鈴木ユリイカ『私を夢だと思ってください』の魅力を語るために、私は、こんなことを試みてみる。
1
はじめ あなたは
アカシアの林の中で動いていた
林の冷たい純粋な目が
じっと私を見つめた 私は声をあげた
誰かが細い木の間を横切った
数知れぬ木の葉が微かに動いていて
灰色の光る池では重い櫂の音がして
人々がボートですべって行った
重い水の底では重い木の根が伸びていて
白いパイプをたぐりよせ
地下で 誰かがオルガンを弾いている
2
そのとき ほとんど苦しみのように
私は感じていた
これが 未来であると
私は恐怖にかられて丘を駆けのぼった
すると見えたのだ
なだらかな緑の線から下の方にひらける
白い市街を超えて
一本の虹がすうっと薄い青の海に逃げていくのを
「1」と「2」。どの作品が好きですか? 詩のタイトルが「虹 はじまりのはじまりのうた」「未来」だとしたら、どちらがどの作品ですか? 「1」には「虹」も「未来」も出てこない。けれど「2」には「虹」も「未来」も出てくる。
さあ、どうします?
鈴木ユリイカの作品を読み続けている人なら、「答え」が出せるかもしれない。しかし、私は鈴木の詩を読み続けているとは言えない人間なので、自分でこういう「質問」をつくってしまったのに、その「答え」が出せない。
さらに問題なのは、私の「引用」にはとんでもない嘘が隠されているのである。
その「嘘」がわかりますか?
「嘘」を指摘するには、「根拠」が必要だけれど、その「根拠」? 「読んだことがあるから」では、ダメ。私の引用をはじめて読む人には、その「根拠」の方が「嘘」に感じられるかもしれない。
さて。種明かし。あるいは、ほんとうの「質問」のはじまりというべきか。
実は「1」と「2」は「虹 はじまりのはじまりのうた」と「未来」の書き出しを入れ替えたもの。ほんとうは、こう書かれている。
はじめ あなたは
アカシアの林の中で動いていた
林の冷たい純粋な目が
じっと私を見つめた 私は声をあげた
誰かが細い木の間を横切った
私は恐怖にかられて丘を駆けのぼった
すると見えたのだ
なだらかな緑の線から下の方にひらける
白い市街を超えて
一本の虹がすうっと薄い青の海に逃げていくのを
(虹 はじまりのはじまりのうた)
そのとき ほとんど苦しみのように
私は感じていた
これが 未来であると
数知れぬ木の葉が微かに動いていて
灰色の光る池では重い櫂の音がして
人々がボートですべって行った
重い水の底では重い木の根が伸びていて
白いパイプをたぐりよせ
地下で 誰かがオルガンを弾いている
(未来)
と、私は書きつづけているが、これは実は「大嘘」のはじまりかもしれない。「嘘」か「ほんとう」かは、鈴木にしかわからない。詩集を開いて読めば「正解」がある、という人がいるかもしれないが、「誤植/乱丁」かもしれない。
こういうことを考えると、「大問題」が始まる。「詩はだれのものか」「ことばはだれのものか」という問題である。「ことばは、ことばのものである」という言い方を私は好むのだが、そう答えたとしても、たとえば「はじめ あなたは」で始まる行は、二連目に「私は恐怖にかられて丘を駆けのぼった」で始まる連のことばを必要としているという根拠をどう説明できるか。「数知れぬ木の葉が微かに動いていて」で始まる連では、なぜいけないのか。
こういうことは考えれば考えるほどわからなくなる。
詩は、どう読むべきなのか。
これに答えることはできない。私は、私自身が詩をどう読んでいるかを語るしかない。私は詩を「論理」とは思っていない。詩のことばに「脈絡」があるとしても、それは「論理」の脈絡ではないと考えている。だから「論理」として、そこに書かれてことばを読まない。詩は「論理(脈絡)」として完結するのではなく、詩はことばが誕生する瞬間に完結する。「論理(脈絡)」を拒絶して、そにた、ただ存在するものなのだ。
「短い」方の例で考えてみる。
そのとき ほとんど苦しみのように
私は感じていた
これが 未来であると
鈴木は「未来」を感じた。「これが 未来である」と直感した。「感じた」ということばをつかっているのは、そこに「論理」がないからだ。もし「論理」があるとすれば、それは「感じ(感覚)の論理」であり、鈴木固有のものである。
この鈴木固有の「感覚の論理」を言い直せば、「苦しみ」と「未来」は「辞書の定義」では同義ではないということだ。つまり、そういう「定義」は一般には共有されていないというだけで十分だろう。
しかし私たちは同時に「苦しい未来」や「未来の苦しみ」というものを体験していないにもかかわらず感じることがあるし、そういうことばをつかうこともある。「そんなことをしていると、この先(将来/未来)、苦しむよ」というような言い方をごくふつうにつかう。
そうすると、鈴木固有の「感覚の論理」が「日常的常識(論理)」になってしまう。この瞬間に、詩は、ことばの自由はなくなってしまう。
詩が詩であるためには、詩のことばが詩のことばであるためには、常に「論理」を破壊しつづけなければならない。
その「欲望(あるいは本能というべきなのか)」にしたがって、次の「連」のことばが動く。
これは一連目「未来」を別なことばで言い直したものであるといえば、そこには「論理」があるのが、具体的にはどういう論理か。
数知れぬ木の葉が微かに動いていて
灰色の光る池では重い櫂の音がして
人々がボートですべって行った
重い水の底では重い木の根が伸びていて
白いパイプをたぐりよせ
地下で 誰かがオルガンを弾いている
「数知れぬ」の「知れぬ」が「未来を証明する論理である」と言うことはできる。「未来」は「知らない」のなかに隠れている、と。
しかし、それよりも「動いていて」の「動く」という動詞こそが「未来」であるといえるだろう。「動く」は「音がする」「すべって行く」「のびる」「たぐりよせる」「弾く」と変化し、とどまることがない。この動きは「連続」ではなく、むしろ「否定/超越」である。それは「動詞」の変化が「主語」の変化と同時に起きていることをみればわかる。「主語(あるいは主題と言った方がいいかもしれない)」は、こう変わっていく。「木の葉」「櫂の音」「ボート」「木の根」「パイプ」「オルガン」(オルガンは「主語」というよりも「目的語」だが……。)
ここには「一定したもの/固定のもの/不動のもの」がない。そして、その「固定されたものがない」ということが「普遍」として、その瞬間瞬間に、噴出している。
このときの感覚の自由さ、想像力の広さ、それが「ことばの運動」そのものを解放する。拡大する。鈴木は、ことばの「領域」を固定しない。
「虹 はじまりのはじまりのうた」には、こんな展開がある。
あなたはモーツァルトのディヴェルトメントの
最初の楽章の中に居た
私はその音楽をきいた
はじめてパリのアンヴァリッドのバスの待合所に
立っていたとき
マロニエの微光の中に
あなたは現れ すぐ消えた
それから あなたは
真夜中の国際電話の声の中から現れ
真昼の都市のように輝いた
「あなた」は神出鬼没である。「モーツァルトの音楽」と「マロニエの微光」は別のものだが「あなた」が「現れる」ということでは一致している。「真夜中」と「真昼」も違うものだが「あなた」が「現れる」ということでは一致している。そして、それが「一致している」といえるのは「現れる」が同時に「消える」を含んでいるからである。
「固定される」ということがないのだ。
「あなた」はいったい、
どこにいるのか?
氷河の上にいるのか?
何億というアジアの人々の中で泥のように考えているのか?
南米のどこかの鉄砲の中で革命の馬を走らせているのか?
「ことば」が発せられるとき、「あなた(詩/もの/存在)」は現れ、同時に、次のことばによって、それは破壊され、消えていく。新しいことばだけが次々にあらわれつづける。時間と場所の限定を超えて、自在に。
それが鈴木の詩であるならば、私は、その「ことばの運動」に「結論」を求めない。ただ、その瞬間瞬間の「ベクトル」としての動きだけを受け止める。それは、いつも私の「肉体」を突き破る。それが楽しい。そして、それが楽しく感じられるのは、鈴木の想像力というものが「頭」でつくりだされたもの(人工的なもの/借りてきたもの)ではなく、いつも「肉体の伸びやかさ」をもっているからだ。
「意味」を考えず、ただ「この行が好き」「ここがかっこいい」と思って、私は鈴木の詩を読む。大坂ナオミのサーブがかっこいい、あるいは黒いマスクがかっこいい、というような感じ。
それ以上のことを言えるほど、私は鈴木の詩を知らない。
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