詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

一色真理『幻力』

2020-10-25 17:24:16 | 詩集


一色真理『幻力』(モノクローム・プロジェクト、2020年10月19日発行)

 一色真理には一度だけ会ったことがある。詩人があつまる懇親会で、たまたまおなじテーブルに座った。二言三言、ことばを交わしたが、何を話したかは覚えていないが、およその年齢とか肉体の雰囲気とかは、それなりにわかった。私よりも年上である。私のようにそわそわしていない。一色の肉体のなかには「重り」のようなものがあって、それが動かないかぎり、全体が動かない。たとえ何かを食べている、飲んでいるとしても、それは手を動かし口を動かしているのであって、肉体は別のところにあって動いていない。そういう、なんとも不気味な感じの人間であった。その肉体を、私は詩を読みながら、思い出した。
 「暗喩」。

きみはことばに出会ったことがあるか?
ぼくは一度だけある
そのときことばは静かに眠っていた。
だから起こさずに、ぼくは無言で立ち去ったのだ。

--ことばは眠っていてさえ、美しかった。

もう何年も、あるいは何十年も前のことだ。

 この書き出しの「ことば」を一色にあてはめようとすると、まったく逆になる。一色は「静かに起きていた」。懇親会なので、多くのひとは「意識/思想」を眠らせて、表面だけが社交的ににぎやかに浮き上がっている。ところが一色は、目覚めていて、静かに全体を見つめている。この眠らない意識を眠らせることは、一色には不可能なことなのだろう。この眠らない意識(思想)と対話するのは、懇親会のような場所では不可能である。だから私は二言三言、挨拶程度のことばで口をつぐんだのだと思う。
 もちろんそのときここに書いてある通りに思ったわけではない。いまだから、つまりその場から離れているから、平気で書くのである。言い直すと、こういうことは、初対面の人に面と向かっては言わない。
 ことばには、動ける場所と動けない場所がある。いろんな意味で。

ことばは目が見えない。
耳も聞こえない。
自分の足では歩けない。
だから、ことばのいそうな場所を探して
暗がりから暗がりへと探し回らなければいけない。

そう。ことばは深い暗闇の中でしか生きられない。

 この「暗喩」のなかのことばはすべて刺戟的だ。それこそ詩集全体を暗喩する(象徴する)作品だといえるかもしれない。こういう強烈な作品の前では、私のことばはどうしても抽象的になる。つまり、逃げ出してしまう。私は、もっと、自分の手でつかめるものをつかんで、それを放さずに、その人の肉体(思想)がつたわってくるのを待ちたい。だんだんつたわってくる「熱」を自分で肉体で受け止めたいと思う。
 「検閲」という作品。

ある日きみのノートに、血溜まりのような真っ黒い月が昇ってくる。
昨夜、きみがボールペンで書いた「月」という丸文字。
よく見ると、真ん中に線が一本多い。

それからだ。きみの夜空に毎晩、巨大な「目」が昇り出したのは。
きみの書いた誤字を一つも見落とすことのない
真っ赤に見ひらかれた「超自我」が。

 「暗喩」で「ことば」と書かれていたものが、ここでは「月」と「目」という文字の違い(誤字)として書かれている。それはたいていは見落とされる。なぜか。「コンテキスト」というものがあり、それは「誤字」を勝手に「正しい文字」に認識し直し、「文字/単語としてのことば」よりも「全体」を把握するように人間の意識を誘うからである。「コンテキスト」が目覚めているとき「単語」は半分眠っていても「意味」は成立する。
 こんな例をここで出してしまうのは間違っているのだが、たとえば安倍が「云々」を「でんでん」と読む。だれもが「でんでん」ではなく「うんぬん」だと理解して、「でんでん」は間違っていると判断する。「コンテキスト」感覚がそうさせるのである。
 しかし、「誤字」はほんとうに「誤字」なのか。そうではなく、「誤字」という形であらわれたもう一つの「コンテキスト」なのではないか。そのことばを書いた人だけが持っている「コンテキスト」。「暗喩」にあったことばを借りて言えば「暗闇」という名の「コンテキスト」がある。書いた人の「肉体の奥」にあるコンテキスト。(安倍の「でんでん」は「肉体」とは無関係の、単なる無教養である。もちろん無教養は無教養でひとつの肉体なのだが、いまは、そのことを考えない。)
 「誤字」を通して、その「肉体の奥/闇」の「コンテキスト」が動き始める。世界を見つめなおしていく。それは

きみの書いた誤字を一つも見落とすことのない

 を超越して、逆に、ほかのひとが世界を描写する文字が「誤字だらけ」であることを指摘し、それを見落とさない。「きみの書いた誤字」こそが正しく、流通している「文字」は「誤字」である。これは、だから、戦いの宣言、宣戦布告なのである。
 「きみの誤字」を「正しい」と断定するのは「超自我」である。「正しい」としか言わない。他者を受け入れない。「絶対的正しさ」が「超自我」である。「自我」ならば間違いもするだろうが、「自我」を超えている。

高原の牧場には昨日まで、真っ黒い「うし」が草を食んでいたのに
今日はレタス畑に、もう真っ白い「うじ」が湧いてしまった。
昨夜、きみがたった一つ、文字を書き間違えてしまったために。

 「超自我」から言わせれば、「うじ」が間違いなのではなく「うし」が間違いなのだ。「うじ」を見ない「コンテキスト」、「うじ」を排除すること(隠すこと)で成り立っている(成り立たせている)「コンテキスト」が間違いなのである。つまり、流通している世界そのものが間違いなのだ。
 別なことばで言い直せば、一色は、常に流通している世界の「コンテキスト」を告発している。その告発の手段として、たとえば「うじ」という「暗喩」をつかう。「うじ」という「暗喩」を一色自身の「肉体の闇」から探し出し、解放する。「うじ」ということばが生きている「コンテキスト」そのものを動かそうとする。

 私は先に、巨大なものはつかみきれない。自分の手でつかめるものを頼りに、そこにあるものに触れる、というようなことを書いたが、これは一色の場合もおなじなのだろう。「自分の手でつかめるもの」というのが、たとえば「うじ」である。あるいは「月/目」の「誤字」である。他人(流通する世界)から「誤字」と呼ばれてしまう何かである。そう認識するところから、一色の「コンテキスト」は拡張を始める
 問題は。
 ここから先は、どう書いていいのか、よくわからないが。書かずに私の内部に隠しておいてもいいのだが、思っていることは書いた方がいいだろうと思って書く。
 問題は、「誤字」であると、だれが指摘するかである。(安倍の場合は「でんでん」は間違っていると指摘するひとが周囲にいなかった。)そして、その指摘に対して一色がどう反応できるかである。「他人のコンテキスト」と「自我のコンテキスト」が出会ったときに問題になるのは「コンテキスト」というような抽象的なものではなく、むしろ「肉体」そのもののあいまいな強さである。「コンテキスト」がどうであろうが、そんなことは関係なく「肉体」は存在してしまうのだ。そのために「コンテキスト」の対立がいっそう激しくなるということも起きる。
 「宿題」という作品には、そういうことが書かれている。

今日はやけにぼくの「め」がよく見える。地面に落ちた「なし」の
実に群がる「あり」の顔が、一匹ずつ見分けられるくらいに。それ
はぼくの顔見知りの「あり」たちだった。わざとらしく、ぼくに目
配せして見せるやつもいる。ぼくはもちろん、ものも言わずにそい
つを踏み潰したけれどね。白い汁が出て、気持ちがいい。

 「白い汁が出て、気持ちがいい。」のは「ぼく」の「コンテキスト/肉体」であって、「あり」の方は「気持ちがいい」はずがない。しかし、その気持ちがいいはずがないありに、「ぼく」は「ほら、気持ちがいいだろう」と自分の気持ちを押しつけることもできるのである。「テキスト」のなかでなら。そして、そういう「テキスト」が世の中には存在している。
 もしかすると一色が「あり」で、流通している世界が「ぼく」ということもある。そして、一色はそういうことを「肉体」で体験してきているかもしれない。そうでなければ「白い汁が出て、気持ちがいい。」という「テキスト」が「コンテキスト」のなかへ拡大(自己拡張)していくという運動はできないだろう。
 この「葛藤」というが「内戦」に、さて、どこまでついていけばいいのだろうか。どこまで、私は持ちこたえることができるだろうか。
 そこに一色が「正直」を抱えたまま生きているということはわかる。また一色の「コンテキスト」に触ることで生きる力を獲得する人もいるだろうと想像できる。しかし、私は懇親会で同席したときのように、ここらあたりで身を引く。一色の「重り」は私にはあまりにも重い。ついていくには、私は年を取りすぎている。




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