青柳俊哉「水色のゆうぐれ」、池田清子「折り返し」、徳永孝「花」(朝日カルチャーセンター福岡、2020年10月05日)
この詩には、「わからないけれど、ここがいいなあ」と感じるところと、ほんとうに「わからないところ」がある。
私がいいなあ、と感じるのは「わたしたちがいくども歩みすぎて/うたいかえしてきた道であった」という二行と、「永遠に熟していく秋の穂が堆積していて/子どもの涙のように あふれだしてくるのだった」の二行。
前者は、とても自然なリズムがある。歩み「すぎて(過ぎて)」、うたい「かえして(返して)」の往復が「いくども」になり、それが自然に「道」になる感じがなんとも美しい。「道」は、その「往復」によって次第に「道」になる。最初から「道」があるのではない。
この自然に「道」になるという感じの「自然」は、「あふれる」という感じ。
意識して往復するのではない。知らず知らずに往復してしまう。そうすると無意識の内に「道」ができる。ひとは「無意識」を歩く。
「そこは」「そこには」と書くとき、青柳は、「どこ」を想定していたのか。「秋の穂が堆積していて」ということばを読むと、「地上」という気がしないでもないのだが、私は思い切って「誤読」する。
「雨まじりの 柿の木のうえの空間を/からすがまぶしくなきながら飛びすぎていく」と書かれている「空間」、つまり「空」を。「空」には常識的には、もちろん「道」はない。しかし、その空を見上げながら歩くとき、なんだか空を歩いている気持ちになる。とくに、こどもならばね。その「幸福感」が「子どもの涙のように」あふれてくる。
つまり一連目の「至福」が二連目で言い直されていると感じた。この瞬間、青柳はおとなでありながら、「子ども」になっている。
わからなかったのは「からすがまぶしくなきながら飛びすぎていく」の「まぶしく」という副詞のつかい方。カラスの声の鋭さをまぶしく、と言ったのか。青柳はからすの声を聞いた瞬間の印象と説明したが、わかったようでわからない。
また三連目の「ゆきのしろ」もわかりにくい。「水」へのつながり、「水」の一形態として「ゆき」が選ばれている。その「ゆきのしろ(雪の白)」と「そらのあお(空の青)」が融合し「水色」が生まれ、それは「水音」へと別の感覚、視覚から聴覚への移行があるのだが、これはあまりに「論理」になりすぎているような気がする。また、二連目の「柿」(秋)と「ゆき」(冬)では、季節がちがうなあと感じる。季節の移行期(またぎ)と考えればいいのかもしれないが、少し整理した方か読者には親切かもしれない。
*
「七回転んだら七回起きるけど」というのは、言われてみるとそうですねえ。でも、これは「科学」(物理?/数学?)の問題ではなく、「ことば」の問題。一種の「ごろ」感覚だと思う。転んでも、起きる。倒れたままではない、ということを印象づけるには、どうしたって転んだ数より起きる数の方が「わかりやすい」。
よくわからないが、私は、そう思う。「ことば」は弾み(勢い)でつかうものなのだ。そして、その「弾み」のなかに、きっと詩がある。「物理的/数学的正しさ」ではなく「こう思いたい」という欲望がことばになる瞬間の「間違い」。それが「詩」というものかもしれない。
では、この詩のなかの「間違い」は何? どこが間違っている?
「折り目があったら/対称になる」は正しいかどうかわからないが、「正しい」に近い。対称になるように折ってしまう、ということかもしれない。対称になるように折る方が簡単。「ジグザグ」の折り方は、あるのかもしないが、きっとむずかしい。
そして、紙を折るのは簡単だが、布はむずかしいかも。いや、布は「折る」というよりも「畳む」でしょう。
そうすると四連目に「間違い」があることになる。布は折るものではない。畳むもの。それを「折る」と考えている。なぜだろうか。
この「布」には実は最終連の「糸」と繋がっているのだ。「紙」のままでは最終連に「糸」が登場できない。「糸」を呼び出すためには「布」が必要だった、「布」という「弾み」が必要だったのだ。
間違うことが求められていたのだ。予感されていたのだ。
では、「糸」とは何か。縦糸、横糸が交差して「布」になる。でも、ここに書かれている糸は、もっとちがう感じ。「布」になることを求めていない。むしろ、恋人と恋人を結ぶ「赤い糸」。運命の「糸」。一本であること。
その「糸」は、いまは切れてしまっている。一本ではなく、向こう側のない日本になってしまった。だから、「折り返す」(過去へもどる)ことで、「つなぐ」ではなく「重なる」。切れたものは「つなぐ」のがふつうだが、それができないとわかっているからせめて「重なりたい」。
「場所」と書いているのは、紙を「折る」という行為が、面積(場)を重ねるからである。実際は「時」と考えてもいいかもしれない。二人が「糸」で結ばれていた「時」と。
*
「日本の花」と「西洋の花」が対比される。それは一連目「話している」と三連目「聞く」という動詞と向き合う。そのとき「Mさん」と「わたし」が対比というよりも重なる。(池田が書いている最後の「重なる」に通じる。)
これは美しい光景である。でも、その「美しさ」がいまひとつ伝わりにくい。なぜだろうか。「日本の花」と「西洋の花」の対比の仕方に「むら」があるからだ。日本の花には「春の小川の岸」や「白秋」という具体的な描写、人間が登場するのに、「西洋の花」はバラ」しか出てこない。
いや、色や大きさ、咲き方の違いが書かれているというかもしれないが、あまりにも抽象的。もう少し具体的な描写の方が「花」を思い浮かべやすい。
なんでもないことのようだが四、五連目の「わたし」の省略と復活には、詩がある。「わたしは聞きながら想う/それぞれに咲く 日本の花 西洋の花//どちらも好き」の方が「Mさん」(話す)と「わたし(聞く)」の関係がわかりやすいのだが、その対比を隠しておいて(想像させておいて)、最後に「わたし」を出す。この瞬間、最後の一行は、
わたしはMさんが好き
ということばになる。もう少し言い直せば「わたしは日本の花でも西洋の花でもなく、そのどちらでもなく、Mさんが好き」ということばになる。「私は花もMさんも、どちらも好き」よりも、もっと強く言い直したのが「わたしは日本の花でも西洋の花でもなく、そのどちらでもなく、Mさんが好き」である。
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水色のゆうぐれ 青柳俊哉
からすの声の中の
至福につつまれる 水色のゆうぐれ
雨まじりの 柿の木のうえの空間を
からすがまぶしくなきながら飛びすぎていく
そこは
わたしたちがいくども歩みすぎて
うたいかえしてきた道であった
そこには
永遠に熟していく秋の穂が堆積していて
子どもの涙のように あふれだしてくるのだった
ゆきのしろから そらのあおへめぐっていく
水音の層のように
この詩には、「わからないけれど、ここがいいなあ」と感じるところと、ほんとうに「わからないところ」がある。
私がいいなあ、と感じるのは「わたしたちがいくども歩みすぎて/うたいかえしてきた道であった」という二行と、「永遠に熟していく秋の穂が堆積していて/子どもの涙のように あふれだしてくるのだった」の二行。
前者は、とても自然なリズムがある。歩み「すぎて(過ぎて)」、うたい「かえして(返して)」の往復が「いくども」になり、それが自然に「道」になる感じがなんとも美しい。「道」は、その「往復」によって次第に「道」になる。最初から「道」があるのではない。
この自然に「道」になるという感じの「自然」は、「あふれる」という感じ。
意識して往復するのではない。知らず知らずに往復してしまう。そうすると無意識の内に「道」ができる。ひとは「無意識」を歩く。
「そこは」「そこには」と書くとき、青柳は、「どこ」を想定していたのか。「秋の穂が堆積していて」ということばを読むと、「地上」という気がしないでもないのだが、私は思い切って「誤読」する。
「雨まじりの 柿の木のうえの空間を/からすがまぶしくなきながら飛びすぎていく」と書かれている「空間」、つまり「空」を。「空」には常識的には、もちろん「道」はない。しかし、その空を見上げながら歩くとき、なんだか空を歩いている気持ちになる。とくに、こどもならばね。その「幸福感」が「子どもの涙のように」あふれてくる。
つまり一連目の「至福」が二連目で言い直されていると感じた。この瞬間、青柳はおとなでありながら、「子ども」になっている。
わからなかったのは「からすがまぶしくなきながら飛びすぎていく」の「まぶしく」という副詞のつかい方。カラスの声の鋭さをまぶしく、と言ったのか。青柳はからすの声を聞いた瞬間の印象と説明したが、わかったようでわからない。
また三連目の「ゆきのしろ」もわかりにくい。「水」へのつながり、「水」の一形態として「ゆき」が選ばれている。その「ゆきのしろ(雪の白)」と「そらのあお(空の青)」が融合し「水色」が生まれ、それは「水音」へと別の感覚、視覚から聴覚への移行があるのだが、これはあまりに「論理」になりすぎているような気がする。また、二連目の「柿」(秋)と「ゆき」(冬)では、季節がちがうなあと感じる。季節の移行期(またぎ)と考えればいいのかもしれないが、少し整理した方か読者には親切かもしれない。
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折り返し 池田清子
七転び八起き
うーん
七回転んだら七回起きるけど
人生の折り返し
うーん
どこで折り返す?
折り目があったら
対称になる
来た道をそっくり帰るのは
いやだ
ジグザグの折り目は作れないし
真ん中ではなく
少し端から折るといいかな
紙ではなく
ふわふわの布を
自由に折るといいかな
それは
もう折り返しとはいわないなあ
うーん
でも一本の細い糸でつながって
不細工に折り返って
一瞬でもいい
重なりたい場所がある
「七回転んだら七回起きるけど」というのは、言われてみるとそうですねえ。でも、これは「科学」(物理?/数学?)の問題ではなく、「ことば」の問題。一種の「ごろ」感覚だと思う。転んでも、起きる。倒れたままではない、ということを印象づけるには、どうしたって転んだ数より起きる数の方が「わかりやすい」。
よくわからないが、私は、そう思う。「ことば」は弾み(勢い)でつかうものなのだ。そして、その「弾み」のなかに、きっと詩がある。「物理的/数学的正しさ」ではなく「こう思いたい」という欲望がことばになる瞬間の「間違い」。それが「詩」というものかもしれない。
では、この詩のなかの「間違い」は何? どこが間違っている?
「折り目があったら/対称になる」は正しいかどうかわからないが、「正しい」に近い。対称になるように折ってしまう、ということかもしれない。対称になるように折る方が簡単。「ジグザグ」の折り方は、あるのかもしないが、きっとむずかしい。
そして、紙を折るのは簡単だが、布はむずかしいかも。いや、布は「折る」というよりも「畳む」でしょう。
そうすると四連目に「間違い」があることになる。布は折るものではない。畳むもの。それを「折る」と考えている。なぜだろうか。
この「布」には実は最終連の「糸」と繋がっているのだ。「紙」のままでは最終連に「糸」が登場できない。「糸」を呼び出すためには「布」が必要だった、「布」という「弾み」が必要だったのだ。
間違うことが求められていたのだ。予感されていたのだ。
では、「糸」とは何か。縦糸、横糸が交差して「布」になる。でも、ここに書かれている糸は、もっとちがう感じ。「布」になることを求めていない。むしろ、恋人と恋人を結ぶ「赤い糸」。運命の「糸」。一本であること。
その「糸」は、いまは切れてしまっている。一本ではなく、向こう側のない日本になってしまった。だから、「折り返す」(過去へもどる)ことで、「つなぐ」ではなく「重なる」。切れたものは「つなぐ」のがふつうだが、それができないとわかっているからせめて「重なりたい」。
「場所」と書いているのは、紙を「折る」という行為が、面積(場)を重ねるからである。実際は「時」と考えてもいいかもしれない。二人が「糸」で結ばれていた「時」と。
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花 徳永孝
Mさんが話している
日本の花は白や紫
春の小川の岸に咲く
すみれやれんげ
白秋の詠う
からたちの花 白花たんぽぽ
黄花たんぽぽ
西洋の花はバラ
ピンククリーム色
赤 白 黄色
大輪 小輪
八重 四季咲
聞きながら想う
それぞれに咲く 日本の花 西洋の花
わたしはどちらも好き
「日本の花」と「西洋の花」が対比される。それは一連目「話している」と三連目「聞く」という動詞と向き合う。そのとき「Mさん」と「わたし」が対比というよりも重なる。(池田が書いている最後の「重なる」に通じる。)
これは美しい光景である。でも、その「美しさ」がいまひとつ伝わりにくい。なぜだろうか。「日本の花」と「西洋の花」の対比の仕方に「むら」があるからだ。日本の花には「春の小川の岸」や「白秋」という具体的な描写、人間が登場するのに、「西洋の花」はバラ」しか出てこない。
いや、色や大きさ、咲き方の違いが書かれているというかもしれないが、あまりにも抽象的。もう少し具体的な描写の方が「花」を思い浮かべやすい。
なんでもないことのようだが四、五連目の「わたし」の省略と復活には、詩がある。「わたしは聞きながら想う/それぞれに咲く 日本の花 西洋の花//どちらも好き」の方が「Mさん」(話す)と「わたし(聞く)」の関係がわかりやすいのだが、その対比を隠しておいて(想像させておいて)、最後に「わたし」を出す。この瞬間、最後の一行は、
わたしはMさんが好き
ということばになる。もう少し言い直せば「わたしは日本の花でも西洋の花でもなく、そのどちらでもなく、Mさんが好き」ということばになる。「私は花もMさんも、どちらも好き」よりも、もっと強く言い直したのが「わたしは日本の花でも西洋の花でもなく、そのどちらでもなく、Mさんが好き」である。
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作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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