詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

吉田文憲「残された顔」

2020-10-19 10:20:03 | 詩(雑誌・同人誌)
吉田文憲「残された顔」(「午前」2020年10月15日発行)

 吉田文憲「残された顔」は、唐突にはじまる。

ここに残された顔があり、
この場所からさまよい出したものがいるのだ。

 ことばのひとつひとつは「わかる」。知らないことばがない。けれど、具体的に何を言っているのかわからない。この「わからなさ」が唐突ということだ。
 「ここ」も、わからないといえばわからないが、「残された顔」がさらにわからないので、「ここ」のことは忘れてしまう。吉田がいる場所くらいの感じで納得して「残された顔」に意識がひっぱられる。それが「ある」。
 では、「顔を残していったもの」は何?
 それが二行目で説明されていることになる。「さまよい出した」。うーん、「顔を残す」ということを明確に意識していたのかなあ。「さまよう」には意識の暗がりがある。「顔を残す」ということを意識するというよりも、「顔をもっていくこと」を忘れてしまったということかもしれない。ほかのものに意識を奪われた。そのために「顔をもっていく」ということを忘れてしまった。その「忘れられたもの」が残っている。そうすると「顔」というのは、そういう「意識の忘れもの」の「象徴」かもしれないなあ。
 「意識できなかった意識という、意識の忘れもの」は、まあ、ことばにはできないなあ。
 同時に、「さまよい出した」ものも、それがいったい何なのか、ことばにするのはむずかしい。「さまよい出す」という「動詞」だけが、明確なものとして「ある」。
 「ここ」は「この場所」と言い直されているが、「ここ」「この場所」とはどこなのか、これもはっきりとはわからない。
 「さまよい出す」は、次の連で言い直される。

川に沿って進んだ
ふしぎなものが目の前を通りすぎていった。
赤い旗。斑の小犬。
蔓草は枯れており、風にあたって背後でがさがさ鳴っていた。
草の上を光るものがゆっくり動いている。
わたしはすいかずらの匂いの下を歩いていた
          その道の下にさらにひとつの遠い影が落ちている。

 「さまよい出す」は、とりあえず「進む」ことなのだ。「ここ」ではないところへ行くこと。「川に沿って進んだ」の主語は不明確だが「わたし」と仮定できる。
 私は、顔を残し、さまよい出たものを追いかけるようにして動いている(ここから別の場所へ移動している)ということになるかもしれない。
 そのとき「残された顔」とは「わたしの顔」なのか、「他人の顔」なのか。この判断は、保留にしておくべきか、いま考えるべきか。
 「わたし」は「ここ」から「ここではないところ」へ動く。「さまよい出したもの」を追いかけるとき、「わたし」は「さまよい出したもの」になる。そういう「二重性」を意識して、ことばを追いかけてみる。
 「ふしぎなものが目の前を通りすぎていった。」はすぐに「赤い旗。斑の小犬。」と言い直されるが、それはどこからやってきたのか。もしかすると「さまよい出したもの」を追いかけている「わたし」から「さまよい出した新しい存在」ではないのか。「さまよい出したもの」を追いかけるとき、その追いかけるわたしから、次々に何かが「さまよい出してくる」。そして、それが世界をつくっていく。
 「風にあたって背後でがさがさ鳴っていた。」と、次の行では「背後」が出てくるが、「背後」も「背後」へ向けて何かが「さまよい出す」ことによって生じたものと考えることができる。最初から「背後」があるのではない。
 たぶん、そうなのだ。
 最初からあるものは、何もない。「さまよい出す」ことによって生まれてくるものがあるだけなのだ。
 「残された顔」も最初から「残された顔」というものがあるのではない。「さまよい出したもの」があって、はじめて「残された顔」というものが「ある」。いつも「二重性」という構造が存在する。「ことば」と認識、「ことば」と世界。
 あるいは、ことばによって分節されるということだけが。
 「さまよう」だから、明確な目的はないかもしれない。そして、明確な目的がないときでも、世界は存在してしまう。
 ことば(意識)は、どこまでも「さまよい出す」ことができる。そして、「顔(ことば)」を残し続けるのである。

わたしはすいかずらの匂いの下を歩いていた
          その道の下にさらにひとつの遠い影が落ちている。

 「下」ということばが二度くりかえされる。「下」には意味があるのだ。「意識」ということばを私はつかったが、「意識下」ということばがある。匂いの「下」を歩くとき(さまよい出すとき)」、その「下」ということばに呼応するように、わたしがあるいている「道の下」にもうひとつ「道」があり、そこにはさらに「わたし」から先に「さまよい出した」影が動いている。そして、その「意識下」とはそのまま「残された顔」になる。
 意識の二重化は、さらにその意識を二重化させる。ことばは、いつでもそういうに二重化をどこまでも「さまよい出す」ものである。
 こういうとき、ふいに、「残された顔」がなつかしく思い出される。その肖像を描くことはだれにもできない。でも、あの瞬間、あの場所に、確かに「残された顔」があり、その「残された顔」という認識(言語化された意識)は永遠に残り続ける。





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