詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2020年10月30日(金曜日)

2020-10-30 16:15:20 | 考える日記
 私はまだボーヴォワール「アメリカその日その日」を読んでいる。こんなことが書いてある。

ほんとうの若者は、人間の未来に向かって自己を超出しようと懸命になる若者であって、自分に割当てられた領分に迎合的な諦めを以て閉じこもる若者ではない。

 まるで、いま私が日本の若者に対して感じていることそのままだが、ここで「いまの若者は」と言ってしまうのでは年寄りになってしまう。
 ホーヴォワールのことばを借りて、私自身が「若者」にもどってみることにする。「人間の未来に向かって自己を超出しようと懸命になる」ということを試みたい。
 いくつになっても「自己を超出しよう」とすることはできるはずだ。本を読む。そこでみつけた「ことば」を自分に引きつける。その「ことば」を頼りに、自分を動かしていく。この小さな行為も「自己を超出しよう」とする試みであるはずだ。
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青木由弥子『しのばず』

2020-10-30 10:04:50 | 詩集


青木由弥子『しのばず』(土曜美術社出版販売、2020年10月10日発行)

 青木由弥子『しのばず』の、「光る花」は青木のことばの運動の特徴をよくあらわしているかもしれない。
 後半を引用する。

私は暗がりの中で人の手を求めていた。いつかし部屋は、ニオ
イショウブとミソハギの茂る水辺に変わり、もうどこにも行か
なくてもよいのだと、柔らかな日差しが頬に告げる。

 ゆきすぎるものを追うのではなく
 霧のむこうを探り求めるのでもなく
 いのちのあふれこぼれるきざしを
 ふいにもれおちることばにからめとること
 蜘蛛の巣にかかってもなお羽ばたきを失わない
 蝶の翅が照り返す光を丁寧に写し取ってゆくこと

向う岸は見えない。ただ水面をゆらす風が身の内を抜けてい
くのを感じている。

 散文形式と行分けがが混在している。そして散文形式の方は「客観的」であり、行分けは「主観的」という印象がある。どちらのことばにも「感情/意識」は含まれているが、行分けの方は「感情/意識」が動くままに動いている。「散文」の方は、何かしらの抑制が働いているという感じがする。
 たとえば「柔らかな日差しが頬に告げる。」という翻訳調の言い回し。「日差し」は人間ではない。動物(小鳥とか犬とか)のように声を持たない。声を持たない「もの」が「告げる」というのは、独特の用法である。そして、それはあまり日本語にはみられないつかい方である。犯罪小説などでは「証拠」が「事実を告げる」ということはあるが、その証拠には「人間」がかかわっている。でも「日差し」には人間がかかわりようがない。非情の自然である。非常に何事かを語らせているから「客観」という印象が生まれる。「物理の現象」の描写がそういうものである。
 一方の行分けの方には「あふれこぼれる」「もれおちる」「からめとる」という動詞がある。「あふれる」か「こぼれる」、「もれる」か「おちる」、「からめる」か「とる」でも意味はほぼおなじ(現象的にはほぼおなじこと、結果がおなじになることを描写している)と思う。しかし、青木は「あふれる」「もれる」「からめる」だけでは不十分で「あふれこぼれる」「もれおちる」「からめとる」と言わなければ落ち着かない。何かが過剰に動いている。「感情/意識」が過剰に動いている。これは「追うのではなく」「探り求めるのでもなく」と「……なく」をくりかえすところ、「言葉にからめとる」を「蜘蛛の巣にかかる」と比喩を言い直すところにもあらわれている。
 青木には「事実」を「客観的」に書こうとする意識と、「客観」で終わってしまっては満足できない欲望があり、それがぶつかりあっている。そのぶつかりあい、拮抗が「文体」を鍛えている。似ているけれど違う、違うけれど似ている。そういうことを、どれだけことばで「一つの世界」として提出できるか。それを青木は試みている。
 「雨上がり」には、こんな展開がある。

つぶだって
あわだって
陽の光を集めてはずんで
ころがりだしていく
みどりの草の上

手放す 弾ける 割れる 広がる

 これはすべて雨上がりの草の上の水滴の動きを描写している。どれか一つだけの描写でもいい。けれど、青木はそれでは満足できない。過剰に書きたい。その「過剰」を結晶させるために「詩」を選び、そこに独自の「文体」をつくろうとしている。




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