詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

糸井茂莉『ノート/夜、波のように』

2020-10-04 10:55:14 | 詩集


糸井茂莉『ノート/夜、波のように』(書肆山田、2020年09月30日発行)

 ことばは「コンテキスト」にしたがって意味を持つ。しかし、「コンテキスト」を逸脱していくことばというものもある。そのとき逸脱したことばは、どんな「コンテキスト」を求めて逸脱したのか。いまの「コンテキスト」の何が不満だったのか……。
 私は、その逸脱していくことばの欲望(ことばの肉体/ことばの思想)を知りたいと思う。

 糸井茂莉『ノート/夜、波のように』が何を考えて詩を書いているのかしらないが、私は私の欲望にしたがって、その詩集を読んでいく。
 5ページの作品。

くさはらの(草)。水うみの(みず)。あかるい夜、だから光ってい
る。くさを掻き分けさがす、逃げた夢の尾びれ。ときにひとの手
(と声)を借りて。くさを書き分け、なくした草稿のひとひら。彼
方でひかっている。(あれが、そう)

 「掻き分け」の「掻」は本文は「又」のなかに「、」があるが、私のワープロは文字を持たないので代用した。また括弧は本文は半角の活字をつかっている。私の引用では一行の長さがそろっていないが、本文はそろっていることを最初に断っておく。この詩集では、表記そのものにこだわっているからである。
 さて。
 この詩では、ひらがなと漢字が交錯する。漢字と漢字も交錯する。その交錯のなかで、ことばがそのことばにふさわしい「コンテキスト」を探しているように感じられる。「みずうみ」は「湖」という漢字があるのに、それを拒んで「水うみ」と書かれ「みず」と言い直されている。その逸脱をバネにして、書き出しの「くさ」と「草」は「掻き分け/書き分け」られて「草稿」の文字のなかへたどりつき、最後に「そう」という「音」になる。「肯定」の息。
 その奥には「ひと」と「ひとひら」も交錯する。草稿とは、ひとの「手」によって書かれたものが多い。(いまは、ワープロでも、草稿というかもしれないが。)この「手書き(草稿)」の「手」に「声」を追加していること、文字ではなく「音」にも「テキスト」の領域を広げていることが糸井のひとつの特徴かもしれない。
 ことば(言葉)の「葉」は「草の葉」なのかという思いも、私は抱く。それを掻き分けるときの触れ合う音、書き分けるときに消えていく音……。
 ことばを探している。そして、そのことばは、どうも「コンテキスト」にしばられないインスピレーションのようにやってきた「単語」の形をしている。しかし、それは、それでもやはり「コンテキスト」を求めているのだ。
 その「コンテキスト」は?
 (あれが、そう)。
 「あれ」としか言えない形で、糸井を誘っている。
 7ページの終わりの部分。

孤独に漂流する夥しい数の枕のように見える島々。パン屑のように
こぼれるその中身。世界は場所を知らず、洞となった私の夢が散
乱する詰物の乱雑さでみたされる。

 「島々」には「パンセ」、「中身」には「かけら」、「洞」には「うろ」のルビがある。「パンセ」から「パン(屑)」。そして、屑のように散らばっている(あるいは島のように散らばっている)ものが「パンセ」であると定義して、このことばたちは9ページのことばのなかに「コンテキスト」を投げ込む。

吃音の連続というより、孤独な自己主張の音として、パ。パンセの、
パスカルの、絶対的な不安の、破裂音としてのパ。攻撃のしずく。
あるいは唐突な閃き。制御できない懐疑の増殖として、パ、の連ら
なり。その暗さ。果てしなさ。宇宙的な静寂が押しつぶしてもなお。
そしてその強靱さ。スリッパの、ラッパの、消えてなお明るい残響
をしたたらせ、自らを砕く尊大な、pas の音。

 「音」には「おん」のルビがある。
 7ページの「孤独」と「パンセ」が引き継がれ、「パスカルの、パンセ」が定義される。断片は「吃音」か、吃音はことばの「破裂」か、あるいは、それは「増殖」か。「暗さ」であると定義することも、「明るい」と定義することもできる。「コンテキスト」は閉じられることなく、逆に開かれていくのである。
 「パ」はカタカナで書かれたあと「pas 」とアルファベットで書かれる。パスカルのことば、フランス語。否定の「ne……pas 」の「pas 」。
 5ページのことばは「そう」という肯定で終わっていた。9ページは「pas 」という否定が締めくくっている。肯定と否定が交錯し、糸井のことばは動いていく。「コンテキスト」を否定し(破壊し)、その断片(ことば)を別の形で肯定するために新しい「コンテキスト」をさがす。しかし、そこで完結するのではなく、さらに出現してしまう「コンテキスト」を疑い、その疑いの増殖としての、全体的孤独の「音」を求めているようだ。
 「コンテキスト」の美しさではなく、テキストなしで存在しうる「音」。意味がないことによって、意味を喚起せずにはいられない音。
 絶対音への憧れが、糸井を動かしているのかもしれない。

 ほかの人の詩集、詩と行き来しながら、糸井の詩を読み続けてみよう。(と、書いたけれど、あくまで、いまそう思っているだけで、つづけられるかどうかはわからない。あらかじめ断っておく。)

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