柏木麻里『蝶/Butterfly 』(思潮社、2020年09月20日発行)
柏木麻里『蝶/Butterfly 』は日本語と英語の二作組みの詩集である。英語版は、私にはわからない。ここでは触れない。ただ、右開きの本と左開きの本、縦書きの文字と横書きの文字が交錯するとき、それは単なる「開き」ではない。「水平」の動きだけではなく、「垂直」を感じさせる。その瞬間、本、ことばという「存在」が、一瞬、ふわりと浮き上がる感じがする。
そして。
糸井茂莉『ノート/夜、波のように』(書肆山田、2020年09月30日発行)のことばは、「散文」のなかを動いているが、柏木のことばは、それこそ蝶のようにページからページへ軽々と待っている感じがする。
「論理」があるのかもしれないが、瞬間的な感覚が「連続」(持続)を気にせずに、そのときそのときで、そのページで自己主張しているように感じられる。
「羽化」という作品の19ページ。これは、18ページと向き合うことで、ほんとうの姿をあらわしているのかもしれないが(詩集自体が、二冊で左右に開かれることで「蝶」をイメージさせるように、それぞれのページは左右で開かれることで「蝶」になっているのかもしれないが)、あえて、左のページだけを引いてみる。
その朝
蝶ではないものへ
蝶をてわたしてゆく
羽化
この3行目。蝶を「て」わたし「て」ゆく、と二回出てくる「て」の音、「手」のイメージが、この詩集のなかで、私にはとても鮮烈に見えた。「手」と「手」が出会い、触れ合う瞬間に「蝶」の形になる。そんなふうに「見えた」のである。
「蝶をわたしてゆく」だったら、そういうイメージはあらわれない。「手渡す」ということばはふつうに使う。よほど意識しないかぎり「渡す」と「手渡す」は区別しない。ちゃんと相手に責任を持って渡せよが「手渡す」ということだろうが、そういう意識が「詩」のなかにきちんと反映してくることは、意外に少ないような気がする。会話で「手渡ししてくれよ」という感じでいうように詩のなかの「手渡す」を私は意識したことかない。あるかもしれないが、この詩でも、とくに「手渡ししてくれよ(相手の存在を確認してくれよ)」というイメージではない。
柏木の詩のなかでは、ただ「て」と「て」が出会うということが、「手」を浮かびあがらせる。そして、出会ってしまった手は「蝶」になってしまうから、そのときは「渡す」はどこかへ飛び去ってしまっている。飛び去った「渡す」のかわりに「手」と「手」が蝶になっている……。
ふいに、ここに柏木の「手」を見たのである。
私は柏木に会ったことがないので、その「手」を見るといっても、あるいは「肉体」を見るといっても想像のものでしかないのだが、想像にすぎないのに「手」なのである。それも手首をくっつてけ、左右の掌をひろげて、「蝶」の形を見ている、柏木によって見られている「手」。まるで、両手が出会うことで、その内部に「蝶」が生まれるような「手」。それが「生きている」ものとして見えた。
そして、こんなことも思うのだ。柏木の詩は短いことばを散らすように書かれている。これはワープロで書いているのだろうか。そうではなく、「手書き」なのではないのか、ということでもある。
そんなこともで連想するくらい、私は「手」に引きつけられたのである。
それから「舞」という作品の30ページと31ページ。
蝶と
蝶でない側が
いれちがい
いれちがい
舞う (30ページ)
蝶は
からだ
と
からだでない を
舞う (31ページ)
「手」は「からだ」になっている。「手」も「からだ」も「蝶」ではない。しかし、それが「蝶」になって「舞う」。そのとき、「手/からだ」は「手でありながら手ではない/からだでありながらからだではない」。否定することで、いまを超える。いまここにあるものではない何かになる。「蝶」になる。
ここでは柏木は「手」だけでなく、柏木の「からだ全体/肉体全体」そのものを「蝶」に変身させている。
「ことば」も「ことば」でありながら、「ことば」ではない。
詩は、「ことば」も「ことば」でありながら/「ことば」ではない、ものかもしれない。
糸井の詩も、高貝の詩も、「ことば」を書きながら「ことば」ではないものをめざしている。
柏木もそうなのかもしれないが、柏木は「蝶」というものを離れないことで、「ことば」を変えようとしている。
そこが、ふたりとはちがうかもしれない。
そして、柏木には、不思議なことに「手/からだ」の感覚(記憶)がどこかになる。それを私は感じた。
これは、たまたま糸井、高貝、柏木の詩を行き来しているからそう感じることなのかもしれないが。
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