詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「現代詩手帖」12月号(思潮社)

2021-12-03 11:22:42 | 詩(雑誌・同人誌)

「現代詩手帖」12月号(思潮社)

 1月8日、福岡に雪が降った日、私は転び、骨折。3か月入院した。それだけが原因ではないのだが、今年は、あまり詩を読まなかった。「現代詩手帖」が「2021年代表詩選140篇」を掲載している。以前、一回やったことがあるが、全作品を読んでみる。初出詩誌の紹介は省略する。

石松佳「sonf of experiencia 」

きみが完璧なあらしの絵を描いてみせたとき、驚いて水銀体温計を割ってしまった子がいた。その子はぽろぽろと顔をこぼしはじめて、帽子を目深に被った。カーテンと林檎。潮の匂いのする、朝だった。

 書き出しの部分。体温計の水銀が「ぽろぽろ」と転がるシーンと、子どもの涙の「ぽろぽろ」が呼応する。石松は「水銀のぽろぽろ」「涙がぽろぽろ」とは書かない。書かないけれど「ぽろぽろ」でふたつを結びつける。書かないこと(書いていないこと)を読者にまかせる。そのまかせ方が堂にいっている。「ことばの肉体」が生きている。だから高く評価されるのだろう。(「ことばの肉体」という表現で、他人が評価しているかどうかは、私は確認していないが、私は「ことばの肉体」ということばをつかいたい。最近、野沢啓の文章を読んで、その問題を考えているので。)
 ただ、私は石松の「ことばの肉体」は、かなり古いと思う。秋亜綺羅がH賞の選考で、石松の詩は古い、と言っていたが、私もそう思う。この詩で簡単に言えば「水銀時計」である。いま、それを見る機会があるだろうか。私の家には15年ほど前までは「水銀体温計」があったと思うが、いまは、ない。デジタル式の体温計だ。そのなかに水銀がもしかしたら入っているかもしれないけれど、知らない。つまり、意識しない。もちろん、忘れられた存在をもう一度ことばのなかに復活させるというのは、それはそれで楽しいが、何か違うなあ、と感じる。「ことばの肉体」は「正確」だと感じるが、「肉体のことば」が交錯してこない。あくまで「ことばの肉体」だけが動いている。
 この詩で「肉体のことば」を探すとすれば「潮の匂いのする、朝だった」の読点「、」だろうか。「潮の匂いのする朝だった」ではなく、途中に読点「、」がある。「匂いを感じる」ときの「肉体」、それが「朝」ということばに結びつくまでの「呼吸」の「深さ」、その実感が「、」に託されている。それをわかった上で言うのだが、私は、この読点「、」が嫌いだ。生理的に受け付けない。私の肉体が受け付けない。「意味」に飲み込まれすぎている、整いすぎているからだ。つまり「肉体のことば」が「ことばの肉体」のなかに完全に飲み込まれている。いや、読点「、」による「切断」があるというかもしれないが、逆に「、」による「接続」とも言えるだろう。私は、ぞっとするのである。
 私が大好きな「乾河」の齋藤健一なら、この部分を「潮の匂いがする。朝だった。」と句点「。」にするだろうと思う。鴎外も、そうするかもしれない。「ことばの肉体」よりも、「肉体のことば」を優先させるだろうと思う。

石田瑞穂「夜の雄牛」

     体の形に凹んでは
  忘れられた干し藁をおもわせる
  生き物が寝息をたてている
だれにも聴こえないし
聞く者もいない でもかすかに

 牛を見ながら(牛でなくてもいいが、つまり「牛」を比喩と考えてもいいが)、牛ではなく牛の重さによって凹む干し藁を見る。見えないものを見る。ここに「ことばの肉体」と「肉体のことば」が交錯する。干し藁に寝転んだことがある。そのときの石田の肉体の記憶がことばになって見えない現実を浮かび上がらせる。詩の冒頭がふぞろい、しかも書き出しがぐんと沈んでいるのも、この記憶の干し藁のためかもしれない。技巧的である。
 石松もそうだが、石田も非常に技巧的だと思う。
 さて。
 私は、ここでも石松に対して抱いた疑問を繰り返そう。わかるけれど、ほんとうに牛を見たことがある? 干し藁を見たことがある? 私は山の中の小さな農村で育ったので牛も干し藁も見ているし、触ったこともある。耕運機のない時代、牛は田を鋤くのに駆り出されていた。でも、その牛を見たのも半世紀以上も前だ。中学を卒業して以来、見ていない。
 どうして「牛」と「干し藁」と書いたのか。比喩なら、もっとほかにも考えられるだろう。

榎本櫻湖「Helvetica Actibiy 、(浜辺で、あの頃のわたしたちはいつも溺れていた)」

そこからくわえてイヤフォン、あるいはヘッドフォンの、ビニールにくるまれた銅線が長く海岸線をひく彼方にあわくあらわれた伝説上の大陸の均衡をたもった巨大な土台のしたに、さらに巨大な頭足類の吸盤が嵌めこまれた時計仕掛けの触腕が、深夜の街道を走るタクシーのバックミラーに映りこんでいるので、水と泥によってなりたっているひとびとの記憶と肉体の関連のなかに、ではそのときあなたはなにを殺めようと手をのばしたのだったか?

 私が注目したのは「あるいは」「さらに」「では」ということばである。それまで語ったことばでは足りない何かがある。だから「あるいは」と言いなおす。「さらに」と追加し、その上で「では」と結論まで求める。この「ことばの肉体」に必然性があるか。あるのだ。そう書かずにはいられないという欲望。それは本能だろう。
 他人の本能や欲望というのは、わかるときもあるし、わからないときもある。引用した部分に「均衡」ということばがある。「イヤフォン(ヘッドフォン)」という小さなもの、あるいはコードの中の「銅線」という細いものと「伝説」「巨大」ということばが指し示すものの対比。「吸盤」から「触腕」「手」ということばがつならるときの、なんというか、しつこさ。その「しつこさ」が再び「あるいは」「さらに」「では」を思いださせる。

岡本啓「野ウサギ」

なにを眺め
なにを見落としているのだろうか
しゃがむと
野ウサギはまだあたたかたった

 「水銀体温計」「牛」「野ウサギ」。こういう郷愁をさそうものから書き出すのが、いまの詩の「流行」なのだろうか。
 岡本の詩の場合、このあとハイウェイが出てきて、「野ウサギ」の場所が、ありうる場所として書かれているのだが、作為的に感じられる。
 実際の体験を書いているのかもしれないけれど、「ことばの肉体」が勝手に動いているのかもしれない。

あと数分でついえてしまう
野のむき出しの魂

 私は「魂」というものを見たことがないので、とくにそう感じるのかもしれない。

海東セラ「窓辺だけの部屋」

あのときことばがあってよかったのは曲がったさきにないものを見破ってくれるためで、何ごとかを書きつけるうちについ窓枠を踏み越えて、と千鳥はいうのです。

 「ことば」とは、「(見え)ないものを見破ってくれる」。「書く」と境界線を「踏み越え」ることがある。「ことばの肉体」を「肉体のことば」で制御しながら動いていく。交渉しながら、と言い換えることもできる。

 

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