詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「外交ボイコット」と言え。

2021-12-25 20:41:49 |  自民党改憲草案再読

読売新聞に、こんな記事。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20211225-OYT1T50019/ 

北京五輪 人権考慮、閣僚派遣見送り…米と足並み 政府発表

 政府は24日、来年2月に開幕する北京冬季五輪・パラリンピックに政府代表団を派遣しない方針を発表した。閣僚など政府高官の派遣を見送る。香港や新疆ウイグル自治区などの人権問題を考慮した。すでに「外交的ボイコット」に踏み出している米国や英国などと足並みをそろえた。
 岸田首相は24日、中国に自由、基本的人権の尊重、法の支配の保障を働きかけていることを指摘した上で、「北京五輪への対応については、これらの点も総合的に勘案し、自ら判断を行った」と語った。首相官邸で記者団の質問に答えた。

 中国の人権問題に抗議し、北京五輪に政府代表団を派遣しない。ここまでは納得できる。
 問題は、次の部分。

 自民党の安倍元首相ら保守系議員らが政府に「外交的ボイコット」を求めていたが、首相は「日本から出席のあり方について特定の名称を用いることは考えていない」と語った。「ボイコット」と呼ばないことで、中国側に一定の配慮を示したものだ。

 この「特定の名称を用いることは考えていない」という、ばかげた表現に、私は笑いだしてしまった。そして、その「表現」に配慮して、「外交ボイコット」という文言を見出しにとらない読売新聞に怒りを覚えた。
 「実態」(事実)を無視して、政府がつかうことばをそのままつかう。それでジャーナリズムといえるのか。「外交ボイコット」ということばをつかわなければ、外交ボイコットにならないのか。
 こんなことを認めていたら、「核兵器」ということばをつかわずに、「戦争抑止力兵器」ということばをつかうようになるだろう。被爆者を「戦争終結にともなう必然的犠牲者」と呼ぶようになるだろう。「先制攻撃」と呼ばずに「敵基地攻撃」というのも同じである。
 すでに「丁寧な隠蔽(完璧な隠蔽)」を「丁寧な説明」というのが自民党トップの表現として定着している。政府が言っていることばをそのままつかうのではなく、実態が国民にわかることばに言いなおすのがジャーナリズムの仕事である。そのまま「正確に」報道するのは、単なる「宣伝」にすぎない。
 それでなくても、中国は「外交ボイコット」されたとは言わないだろう。コロナ感染拡大に配慮し、外国政府要人の招待を控えたと言うだろう。いまの時期、北京五輪に外国要人がこなくても、中国は痛くも痒くもない。コロナ拡大という「名目」がある。それを利用できるからである。
 だからこそなのである。「外交ボイコット」ということばをつかわないことには、中国の人権姿勢を批判したことにならないのだ。それだけではなく、それは中国の人権侵害を認めることになるのだ。岸田の「ことば」は間違っている、と言う必要があるのだ。

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「ことば」は個人のもの。共通語は存在しない。

2021-12-25 20:06:25 | 考える日記

 私は今、ガルシア・マルケスの「予告された殺人の記録」をスペイン語で読んでいる。スペイン人に手伝ってもらって読んでいる、というのが正しい言い方だが。
 先日までは、ホセ・サラマーゴの「白い闇」をスペイン語で読んだ。原文はポルトガル語だから、これから書くことは「正確な印象」というわけではないのだが。途中で挫折した、アントニオ・マチャードの詩の印象を含めて言えば。
 外国語で読んでみてわかることは、「ことば」はそれぞれ個人のものであるということだ。マルケスとサラマーゴ(翻訳)、マチャードのスペイン語は、それぞれまったく別の「外国語」である。「スペイン語」と思って読むと、わけがわからなくなる。
 これは日本語の作家でも同じ。鴎外と漱石では、同じ日本語に見えるが、ほんとうは違う。私が日本語で育ってきているから、その違いよりも、たまたま共通の「文法」が見えるだけである。鴎外語であり、漱石語なのだ。中上健次語があり、村上春樹語がある。
 そういう「ことば」を読むときは、私の「ことば」自体がかわらないと読めない。他人の「ことば」を読むということは、他人に自分の「ことば」を読まれることである。鴎外を読むとき、鴎外に読まれているのである。別なことばで言うと、私の「ことば」がかわらないかぎり、鴎外とはほんとうの対話はできない。つまり、読書したことにはならない。「ことば」に触れたことにはならない。
 脱線してしまうが。
 私はNHKのラジオ講座の初級編にもついていけない人間だが、やっぱり「語学(ことば)」の勉強をするなら、小説を読まないといけない。何よりもおもしろくない。「共通のスペイン語」というようなものはない、ということを自覚しないといけない。
 「スペイン語」とか「日本語」とかいうのは、便宜上の「くくり」である。そんなものは、存在しない。文学だけに限らず、「日常語」でも、そうだと考える必要があるだろうなあ。
 さらに脱線して。
 日本の高校では、国語から「文学」を排除する動きがあるが、そんなことをしていたら日本は「二等国」から「三等国」へあっというまに転落するだろう。自分の「ことば」を持たずに、個人というものは成立しないからである。

 

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(17)

2021-12-25 10:20:24 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(17)

(自然に帰依して)

自然に
帰依して
神を
忘れる

人智の
届かぬものを
名づけず
信じて

空は
宇宙へ
開き

草摘む手
泉に
触れる

 草を摘む手が、そのとき草に触れるだけではなく、草の「内部」にある泉に触れると読んだ。谷川が「泉」と名づける前は存在しなかったひとつの「宇宙」である。「摘む」が「触れる」に変わる瞬間の驚き。

 

 

 

 

(自然に帰依せず)

自然に
帰依せず
ヒトは
不吉

言語に
溺れ
数字に
縋り

混沌に
意味
一閃

なお
未明に
夢魔

 「溺れる」と「縋る」は「帰依」とどういう関係にあるか。「自然」と「混沌」はどういう関係か。「言語」「数字」が「意味」なら、「混沌」は「夢魔」か。私は「混沌」を「自然」と考える。無為の状態、と。

 

 

 

 

 

(昼と夜の)

昼と
夜の境に
立ち
闇を待つ

木立が
見えなくなる
人も

暗がりに
身じろぐ
言葉の

ひそやかに
何一つ
指さずに

 「何一つ/指さず」という状態が「混沌」というものではないだろうか。それが、同時に「自然」。自足して、そこにある。何もせず、ただ「足りる」だけがある。ことばにした瞬間、失われてしまうが。

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