詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「現代詩手帖」12月号(3)

2021-12-07 11:12:03 | 詩(雑誌・同人誌)

「現代詩手帖」12月号(3)(思潮社)

井坂洋子「水渡り」

くる日くるう日
晴れ ときどき影

 「来る日狂う日」だろうか。「狂う日」は「影」だろうか。こういうことは「結論」を出さずに、ただ、ぼんやりと思っているのがいい。「狂う」にはいろんな「次元」がある。時計が「狂う」という言い方もある。「計画が狂う」という言い方もある。それは困るときもあれば、うれしいときもある。「うれしい誤算」。
 私は、「決定」せずに、ぼんやり揺れているときが好きだ。自分の肉体のなかで、ぼんやりしたものが動いている。

とろ火にかけた鍋のりんごの甘い香り
遠足の日を待つ
少年のように
よろこびをよろこびとして生きている切なさ

 いいなあ。
 特に何かを声高に主張しているわけではない。
 でも、そこに思想がないかというと、そうではない。思想はある。ただ、私はそれをいわゆる「(現代)思想」のことばで言いなおすことができないだけである。

江代充「やさしい道の再話/山」。

どこからも
枝が見えないほど柔らかな葉をいっぱいに身に付けた
下の低木のなかへとふたたび入っていく

 「柔らかな」ということばに引きつけられてしまう。「枝が見えないほど葉をいっぱいに身に付けた」とどう違うのか。ふつうの感覚では、違わないだろうなあ。というより、私は「柔らかな」ということばを、ここで、書くだろうか。たぶん、書かない。それが私と江代の違い。その違いに気づいて、その瞬間、江代がそこにいると感じる。
 こういう瞬間が好き。
 井坂の詩も「くる日くるう日」ということばを読んだ瞬間、あ、私はこんなふうなことばをつかわないなあ、こんなふうにことばを動かさないなあ、と感じ、そこで立ち止まる。「肉体」が立ち止まるのである。「意識」というようなものではなく、「肉体」が止まる、と感じる。それから、遅れて、意識(ことば)が動く。
 江代の「柔らかな」でも、そういうことを感じるのだ。
 野沢啓が「身分け=言分け」ということばをつかっている。私は「肉体のことば/ことばの肉体」という言い方をするが、私が詩を読むとき、あるいは他の文学を読むとき感じているのは、あることばに出会った瞬間、私の「肉体」が止まる。それから、少し遅れて「ことば」がさまよいだす。「肉体」の奥から何かが変わり始める。それは明確にことばにできるときもあれば、ことばにならないまま「保留」するときもある。それは、いつか知らない間に「肉体」になって動き出すときがある。
 きっと私にも「あの葉っぱは柔らかい」と思った瞬間があって、その瞬間を、江代のことばにふれて思いだすのだろう。つまずくのだろう。それは、私が向き合わなければならない「世界のあり方/思想」のひとつなのだ。まだ、ことばにならない。しかし、いつか必ずことばにしなければならないときがくる。
 人は、結局、知っていることしかわからない。

川瀬滋「獣」

若い猟師は金属バットを握りしめた
獣が完全に息絶えるまで殴打するのだ

 これを、川瀬は何度も言いなおす。「握りしめる」「殴打する」。その「肉体」が、そのことばだけでは足りない何かを求めてくる。
 そのあとに、

猟師は自らが森に溶け どこかに消えてしまうような気がした

 肉体はことばになり(身分け)、ことばは「ことばの肉体」を確立する。「肉体」は消えてしまうが、「ことば」が残る。その「ことば」はいつの日か、だれかの「肉体」を立ち止まらせる。
 思い出させるのだ。
 「ことば」が「肉体」に呼びかける。おまえの肉体にも、これができる。知っているだろう、と。そう、知っている。
 私は獣を叩き殺したことはない。しかし、蛇だとか、蛙だとか、殺さなくてもいいものを殺したことはある。「殺す」(絶対的な暴力になる)ということが、どういうことか。そういうことは、いちいち「定義」しないが、「肉体」のなかに「ことば(思想)」にならないまま、残っている。
 川瀬の書いていることは、もちろん、私が思い出しているようなことをはるかに超えている。この「はるかに超えている」という感覚を、私は「肉体」と「ことば」で、ただ実感する。私の知らない「リアリティ」。これが、いま、ここにある。そして、このことばを読んだという記憶が、いつか、どこかで「肉体化」されて、あらわれる。
 それこそ「くる日くるう日」である。井坂が、そういう意味でつかっているのではないにしても、そういうことは関係がない。
 「意味」というものなど、もともと完全に個人のものだ。他人に共有されるものではないし、私は、世界に存在するのは私の肉体だけという究極の「一元論」へ向けてことばを動かしているので、「他人の主張する意味」にはとらわれない。つまり、私は私の考えたいことだけを考える。

北川透「コロンブスの声 三篇から/石ころ」

投げられた石ころが
空に描いたあざやかな抛物線には
言葉を欠いた甘い静けさがあった

 「抛物線」をどう定義するか「あざやか」だけでは足りない、と北川は感じる。「甘い静けさ」とつけくわえる。
 私の肉体は、ここで完全に立ち止まる。
 「甘い」と「静けさ」はすぐには結びつかない。甘い食べ物、甘い飲み物。甘いは味覚である。舌と口で感じる。一方、「静けさ」は聴覚であり、それはもっぱら「耳」で感じる。肉体のなかの「舌」と「耳」が突然結びついて「甘い静けさ」になる。
 こういうことって、あり得るのか。
 いままではあり得なかった。しかし、北川が書いた瞬間から「あり得る」に変わった。そして、それはいま初めて誕生したものなのに、私は「知っている」と錯覚する。「甘い静けさ」がある、あった、と感じる。だれか、遊び友達が石を投げる。それはきれいな曲線を描いて飛んで行く。(志賀直哉の「たき火」の放物線のようなものだろうか--作品の名前は違っているかもしれない。)それを、「ほーっ」という感じて見とれる。その瞬間の、一瞬「声」が消える「静けさ」。聞こえないはずの「静けさ」を聞く。その酔ったような感覚はたしかに「甘い」ものに酔った感じかなあ。
 「甘い」に「酔う」というのは変な言い方だが、「酔う」は酒に酔うだけではない。違うつかい方がある。「美しものに酔う」。美術に、音楽に、そして女に。酔って、狂う。狂うことの喜び。愉悦。
 脱線しながら、私は「あざやか」と「甘い」と「静けさ」がどこかで結びつくことを、「肉体」として理解する。思い出す。そういうことがたしかにあったと思う。これは、私の「肉体」が反応しているのである。「ことばの肉体」(甘いもの、美しいもの、美人に酔う=夢中になり、狂う)が「肉体」に働きかけてくる。重なり合いながら、舌や耳、目だけではなく、「肉体」全体に働きかけてくる。その働きかけは、上手く説明できない。
 北川は、非常に冷静(?)に「言葉を欠いた」と書いている。そう、そこには「ことば」がまだ存在しないのだ。北川が書くことによって初めて存在するのだ。
 「身分け=言分け」だから、それは、分離できない。方便として、私は「肉体のことば」「ことばの肉体」という表現で、テキトウに整理するふりをしているだけだ。「テキトウ」というのは半分「保留」ということである。「結論」ではなく、いつでも言いなおす用意があるということである。
 
石ころはそれに酔った
石ころの眼はますます見えなくなった

 北川は「酔う」というこばをつかって、念押ししている。いや、そうではなく「酔う」ということばがあったから、私(谷内)は、先に書いたことを書けたのだと北川はいうかもしれないが。

 

 


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