谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(8)
(言葉にならないそれ)
言葉にならないそれ
それと名指せない
それ
それがある
いつでもどこにでも
なんにでも
誰にでも
癒しながら
傷つけるそれ
決して失くならないそれ
名づけてはいけない
それを
惑わしてはいけない
言葉で
*
「癒しながら」という形で一回だけつかわれる「ながら」。「ながら」を挟んで反対のことばが向き合う。不思議な接着剤。惑わしてはいけないと書き「ながら」惑わす。そういう働きを「それ」と呼ぶ、と書いてみる。
*
(遠く離れた)
遠く離れた
時と
所から
滲んでくる
それを
哀しみと
呼びたくない
記憶の中の
仕草と
言葉
決して
凍らない
小さな
泉
*
なぜ「凍らない」なのか。「滲んでくる」の対極にあるのは「凍る」か。「涸れない」と書かなかったのはなぜなのか。「涸れる」と書くと「哀しみ」になってしまうのか。滲む、流れる。動くものは、凍らない。
*
(日々の現実だけが)
日々の現実だけが
真実だと
生まれたときから
知っていた
言葉は
移り気な
風に舞って
嘘はいつも
タンポポのように
愛らしく
地平へと
這っていく
無言の蛇の
未知の豊かさ
*
「無言」と「未知」は同義語か。知らないものは語れない。もし、ことばが生まれてくれば、それはこの世界を「豊か」にする。それが哀しみや苦しみのことばであったとしても。現実を真実にかえるのは、ことばだ。