思想とことば。
普遍的なものを含んでいないと、それは思想ではないのか。
ある人とフェイスブックで対話していて、そういう問題にぶつかった。
私は普遍というものを考えないことにしている。
私は読んだことはないのだが、たとえばマルクスの「資本論」。そこに書かれている「思想」。それは普遍的であり、普遍的である限り論理的だ、と一般に人は考えている。私は、そういう考えに与しない。
誰のことばを読もうが、それはその作者(筆者)と私のことばが向き合うだけで、「普遍」とは関係がない。簡単に言うと、もし私がマルクスを読んだとしても、そこで考えたことを他の誰かと「共有」したいとも、「共有」できるとも思わない。私はただマルクスを読む瞬間に、マルクスと向き合い、自分のことばをつくりなおすだけである。
私は、もう年をとってしまったせいなのかもしれないが、そういうこと以外に何かをしたいとは思わなくなった。
千人がマルクスを読めば「千人のマルクス」がいる。それは決して「共有」される存在ではないと思う。「共有」できないからこそ、ひとは、それぞれに自分でマルクスと向き合う。それはマルクスを読み、理解するというよりも、自分自身のことばを読み、自分を理解することだ。
私は、この「理解」を「自己解体」とか「自己破壊」と呼んでいる。
これは、どう考えても不可能なことなのだけれど、不可能だからこそ、やってみたいことである。