「現代詩手帖」12月号(5)(思潮社)
佐藤モニカ「一本の木のように」
男の人生が幸せだったか 不幸せだったかなど
わたしが知るよしもない
こう書いたあとで、佐藤はこう詩をしめくくる。
ただひとつ
ゆたかであったことは
確かであろう
他人の(佐藤の)「意見」なのだから、私が口をはさむ必要はないのかもしれないが。いやだなあ。「幸せ/不幸せ」と「ゆたか」が別の「概念」であるというのは。不幸せの連続でも、それを「ゆたか」と呼べるのか。もちろん呼んでもいいだろうが、それは本人だけだろうと思う。
「人生訓」は、いやだなあ。
杉本真維子「毛のもの」
すけるような身体に深くわたしはじぶんの身をいれて
あなたを暴れる、内側の骨肉であろうとして
「あなたを暴れる」か。この「肉体のことば」のねじれを要求するのは、「すけるような身体に深くわたしはじぶんの身をいれて」と「内側の骨肉であろうとして」という認識だ。そのとき「身体」は「骨肉」ということばへと変化していく。同時に「内側」ということばが働く。書かれていないが「外側」の身体と「内側」の身体があり、内側が「骨肉」であるというのなら、「外側」は皮膚か。「皮膚(外側)」が「すける」と「内側」が見える。
この「交錯」。ここを見つめつづけていくと、杉本の「肉体」が見えてくると思うのだが……。私がつまずくのは「身体」ということばである。私はどうにもなじめない。で、何か、追いきれないものを感じる。
杉本にかぎらないが、ほかにもなじめないことばがいろいろあって、私は、つかわない。私がつかわないことばを集めて、私なりの辞書をつくってみると、私がどういう人間なのかわかるかもしれないなあ、と考えたりした。
詩の感想ではないように見えるかもしれないけれど、これが私の感想。特に「意味」などない。「意味」はあるのだろうけれど、それはまだ、ことばになろうとはしていない。
千石英世「八月」
弥勒川の土手に
夏草が繁茂して
流れる川は見えない
「弥勒川」というのはどこにあるのだろうか。知らないけれど「川」ではなく「弥勒川」と明確に書いているところがいいなあ。「川」と書いただけでは、千石は落ち着かないのだ。
鶏が鳴いてやかましい
地面が熱い
足もとで石がゆらぐ
すきとおってゆくところだ
あ、西脇だねえ。「弥勒川」とはっきり書くことで、千石は「旅人」になる。この旅人は具象から抽象へと入っていく。「すきとおってゆく」の「ゆく」がいいなあ。
田口犬男「ハイドンの朝」
ハイドンはいつだって御機嫌だ
スプーンに映された嘘を歪めて真実に変え
「嘘を歪めて真実に変え」。でも、それは自分のついた嘘ではなくて「スプーンに映された」だれかの嘘、ということか。「映された」という「受け身」のことば。受け身というよりも、デパートでは高級品が「売られている」のように、動詞の主体を隠した「客観表現」ということかな?
田中庸介「ぴんくの砂袋」
それが自分なのだ、と腑に落ちる。腑ってどこなんだ、とわからないが、
ともかくそこに堕ちる。
「落ちる」と「堕ちる」。つかいわけている。これは、
ぴんく色とぐりーん色とどちらがいいですかと言われてじゃあぴんくでお願いしますと言って選択した砂袋。
の「選択」のようなものだろうか。他人から見れば、どっちでもいい。田中にしても、どちらかでなければならないという理由はないだろう。「落ちる/堕ちる」については、まあ、理屈はつけられるだろうけれど。でも、それは「理屈」だから、「腑に堕ちる」ことばかどうかはわからない。
引用はしなかったが、田中も杉本と同じように「身体」ということばをつかっている。「身体」か……、とやっぱり思ってしまう。