清水哲男「ミッキー・マウス」(『現代詩文庫・清水哲男詩』、思潮社、1976年06月30日発行)
清水哲男「ミッキー・マウス」というよりも、「チューニング・イン」について書きたくて、この作品を取り上げる。
その当時は「チューニング・イン」ということばを知らなかったが、私が、この作品に反発したのは、清水哲男のチューニング・インと、私のチューニング・インの仕方があまりにも違っていて、そこに書かれていたことばに反発したのだった。
二連目に、こういう展開がある。
「ああ、くさがぬっか にえがすっと」
(ああ、草の暖かい匂いがするぞ)
僕らは憤然として挨拶を交わし
鎌も握った
清水の「標準語訳」が、私には納得ができなかったのである。「意味」はそれでつうじるが、「肉体」がそのことばを許さない。「肉体」はまず「くさがぬっか」(草があたたかい)と温度に反応する。皮膚感覚である。そのあとで「にえがすっど」(匂いがするぞ)と変化していく。最初から「暖かい匂い」がするのではない。
「頭」で「意味」をとらえるかぎり、清水の「標準語訳」は、問題がない。しかし、私の「肉体経験」とは合致しない。私は、たぶん、このころから「ことばの肉体」「肉体のことば」のことを考えつづけていたのだと思う。私にとってことばは「意味」を理解するだけではなく「肉体」を理解するものであり、「意味」を理解するにしても「結論」ではなく「仮定」を理解するものなのである。整理した「結論」に、私は興味がない。
鎌を握ったことのある私は、ここで、清水は「鎌を握ったことがないのではないか」と不信感を抱いたのである。「頭」で草を刈る作業、草を干す作業、それを取り入れる作業を理解しているだけなのではない、と思ったのである。
「ミッキー・マウス」をはじめ、『スピーチ・バルーン』にはアメリカの漫画と日本の戦後の暮らしが重なるのだが、そこに書かれている戦後の暮らしが「実体験」ではない、と感じたのである。もしかすると、アメリカの漫画が実体験であり、日本の戦後の暮らしが虚構なのではないか。言い直すと、アメリカの漫画を語る部分には「肉体」が感じられるが、日本の戦後を語る部分には「肉体」が感じられないときがある。
私は、この「頭で理解した暮らし」、あるいは「頭で理解した肉体」というものが、どうにも嫌いである。
「チューニング・イン」ということばをつかっている中井久夫は、訳詩のとき大事なのは「文体の発見」であると言っている。(どこで言っているか忘れたが、たしか、そういうふうに言っているはずである。)「文体」に「チューニング・イン」するのである。
外国語であるから、このチューニング・インは「肉体」と同時に「頭(意識)」の問題にもなるのだが……。
中井が訳しているギリシャ語やその他のことばについては何も言えないが、私は、公民館で開かれているスペイン語講座で、とてもおもしろい体験をした。
マッターホーン登頂に世界で初めて成功したウインパーを紹介する文章。
En la ilustración se pueden ver cuando los siete miembros llegaron al techo de Matterhon.
日本語にするのに、少し手間取る文章である。直訳すれば「そのイラスト(写真をイラストにしたもの)に、七人のメンバーがマッターホーンの頂上にたどり着いた時を見ることができる(見える)」になる。意訳すれば「これは、七人のメンバーがマッターホーンの頂上に到達したときの写真(イラスト)です」になる。
ある受講生が「cuand 」のつかい方がおかしい。ver (見る)は目的語を必要とする。七人を見る(ver a los siete miembros)でないとおかしい、というのである。
これは、ちょっとむずかしい説明になってしまうのだが、書いた人の意識が「七人のメンバー」ではなく「登頂した時」に集中している、「時」を言いたいから「cuand 」をつかっているのである。
日本語でも、たとえば結婚式の写真を見せながら、「これは結婚した時の写真です」と言う時もあれば「これは結婚式の写真です」と言う時もある。どちらも写真の内容が変わるわけではない。写っているひとが変わるわけではない。なぜ「結婚した時の写真」というのか。それはそのことばを発したひとが「そのとき」を思い出しているからである。もちろん結婚式も思い出すが、何よりも「時」の方に意識がある。傍から見れば、違いはない。しかし、言っているひとの「意識」は違う。その結婚式に参加していないひとは「結婚した時の写真」と言われても、「結婚式の写真」としか思わない。つまり「時」は理解されにくい。だからこそ、傍から見れば「時」があるかどうかは関係ないし、なぜ「時」ということばが必要なのかもわからない。
この「違い」は、なんというか、そういうことを意識しないひとには、どうでもいいことである。でも、文学とは、そういう「違い」を意識することなのである。
清水哲男にもどれば「ああ、くさがぬっか にえがすっと」を「ああ、草の暖かい匂いがするぞ」と言い換えて理解するか、「ああ、草があたたかい、においがするぞ」と理解するかは「どうでもいい(同じこと)」と思うひとがいるかもしれない。しかし、「チューニング・イン」の立場からいうと、それはまったく違うのである。
私は中井の訳した詩の原文を知らずに言うのだが、中井の「文体の発見」(チューニング・イン)の仕方のなかには、なにか、私の「肉体(ことばの肉体/肉体のことば)」をチューニング・インさせてしまうものがあるのだと思う。
私が詩の感想を書く時、その世界が指し示している哲学(?)、その世界を支えている哲学(?)ではなく、その詩のなかで動いている「動詞」に注目するのは、「動詞」に触れることで、私の肉体をチューニング・インさせ、そのあと肉体が引き起こす感情にチューニング・インしようとしているからである。
詩のなかには、そして評論のなかには、「私はこんな最先端の思想とチューニング・イン」して書いているということを自慢しているものもあるが、(私には、そう見える)、私は、そういう「頭で書かれたことば」が苦手である。中井久夫の訳がおもしろいのは、そのことばが「チューニング・イン」したあとの、新しい「文体」をもったことばだからである。
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