詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy Loco por España(番外篇299)Obra, Sergio Estevez

2023-02-10 21:52:28 | estoy loco por espana

Obra, Sergio Estevez
 "Sueños de un pasado" 

 

 las palabras fueron escritas. recordando el momento en que se separaron. entonces volvieron las palabras que se habían ido. el perfil viendo la silla vacía, ese perfil se resquebrajó en el espejo. era una frase que no quería recordar. así que se borraron rápidamente. pero el recuerdo permaneció. como un hoyuelo dejado en una silla vacía. las palabras trilladas aparecían una y otra vez, cambiando de forma, atormentando al poeta.

 ことばを書いた。別れたときのことを思い出しながら。すると去って行ったことばが戻ってきた。だれもいない椅子に向き合っている横顔が、鏡のなかで割れた。思い出したくないことばだった。だから、それはすぐに削除された。しかし、記憶が残った。だれも座っていない椅子に残るくぼみのように。その、つまらないことばは、何度も何度も形を変えながら繰り返しあらわれ、詩人を苦しめた。

 

 

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黒田ナオ「山の背骨」

2023-02-10 13:25:48 | 詩(雑誌・同人誌)

黒田ナオ「山の背骨」(「どぅるかまら」33、2023年01月10日発行)

 黒田ナオ「山の背骨」を読む。

わたしの背骨が
まだ山の背骨とつながっていた頃
骨と骨のあいだに
ぎっしり葉っぱがつまっていて
土が匂っている
小さな虫が眠っている

わたしの背骨を見ながら
星が安心する
夜が染み込んでくる
月が歌っている
潮の満ち干があらわれる

潮がくるくる渦巻いて
わたしの背骨を洗っていく
(目が見えない
(声が聞こえない

魚が呼んでいる
砂を掘り返す
恐竜の骨たちがごぞごぞ歌いだす
(感じることはできるのに
(誰にも何も伝わらない

すっかり埃だらけになってしまって

肋骨の骨と骨のあいだに
あんなにぎっしりつまっていたはずの
葉っぱはもういない
ぽろぽろ乾いたまま
土がこぼれ落ちる

 「私(わたし、と黒田は書いている)/自己」と「世界(非自己)」はどう識別できるか。黒田は「わたし」と「山」を識別しながら、「背骨」でつながってしまう。つまり「識別」を拒絶して、同一になってしまう。「背骨」でつながんてしまうと書いたが、これは「背骨」という「ことば」でつながってしまう、ということである。「わたし」と「山」を識別(区別)するのも「ことば」である。「ことば」はものとものを分離(識別)もすれば、混同(?)といっていいのか、「ごちゃまぜ」にもしてしまう。
 「ごちゃまぜ」は「ごちゃまぜ」を呼び寄せる。「ごちゃまぜ」というのは「規則」がないことだから、何をしたっていい。山には葉っぱが落ちている。土がある。虫が眠っている、というのは、いまが冬だからだろうか。山がそうなら、同じ「背骨」をもっている黒田の体のなかに、同じものがあってもいい。
 山の上に星があるし、月もある。月があれば、海では干潮満潮がある。黒田の上にも星と月があり、黒田の肉体も海の干満のような動きがあるだろう。「比喩」だから、意識がどんどん「越境」していく。「自己」と「非自己」の区別なんか、ほんとうになくなってしまう。区別していたら、めんどうくさくなる。
 で、ここで、私は詩の講座なら、受講生にこう聞く。

恐竜の骨たちがごぞごぞ歌いだす

 この「ごぞごぞ」って何? 自分のことばで言い直すと、どうなる? 言い直せる? むずかいしね。わかったようで、わからない。私はこの「わかったようで、わからない」は、自分では何もしない(そのまま放置しておく)。その一方で、他人には、「ほら、ちゃんといってみて。さっきわからないことばはない、と言ったでしょ?」と追及(?)したりするのである。
 自己と非自己、それをつないだり、きりはなしたりする「ことば」。
 それを、私は(私たちは)生きている。

(感じることはできるのに
(誰にも何も伝わらない

 「ごそごそ」が何か、感じることはできる。でも、それを別のことばで言い直せない。「ごそごそ」を読んだとき感じたことを、黒田に説明することもできないし、その「ごそごそ」がほんとうに黒田の「ごそごそ」とつながっているかどうかもわからない。もしかしたら「ごそごそ」を言い直した瞬間に、つながりがなくなるかもしれない。「誰にも何も伝わらない」が起きてしまう。
 「ことば」は、とっても危険でもある。だから、おもしろいのだけれど。
 もうひとつ、「ごそごそ」よりも、もっとことばにしにくい「何か」が黒田の詩にはある。リズムである。ことばが、とても読みやすい。もっとも、リズムはかなり個体差があるから、どのリズムが好きかというはひとによってずいぶん違う。どう説明しても、説明にならない。それこそ「無意識」に「自己」と「非自己」を識別し、自分(自分のことばのリズム)をまもるために嫌いなリズムを拒絶してしまうことがある。免疫反応みたいなものかもしれない。これが実はとても大切と、私は感じている。

 


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川邉由紀恵「草の根」

2023-02-10 11:43:05 | 詩(雑誌・同人誌)

川邉由紀恵「草の根」(「どぅるかまら」33、2023年01月10日発行)

 「どぅるかまら」には、田中澄子、齋藤恵子といった、とても行儀のいい詩があって、そこから違うところで感想を書いてみたくなる。
 川邉由紀恵「草の根」が「行儀が悪い」というのではないけれど、

秋のゆうぐれのやよい坂の下の空き地にはとなりにある
銭湯ののこり湯がひよひよと低みのほうにしみでていて
その粘土質のうえにはひめ芝やかたばみスギナぜにごけ

 という具合に一行の長さをそろえてことばが動いていく。この形式(?)へのこだわりは、行儀がいいのかもしれないが、その行儀のよさを装うために、ひらがなと漢字がテキトウ(?)につかいわけられ、「ひよひよ」というような、わかったようなわからないことばがさしはさまれ、さらには「その」という指示詞があったかと思うと、かたばみスギナぜにごけカタカナを読点がわりにつかっているところもある。

ぬこうとしてみると草はすると抜けそうでうす桃いろの
しめったほそい根のようなものがでてきそうなのである
けれどもたどりくだっていくうちにその根はながくなり

 さらに、あ、珍しく行がきっちり終わってると思わせて、接続詞でつながる部分もある。書き写しているうちに、変なものに巻き込まれてしまう。
 ことばが「草の根」になって、ことばの「土」のなかを伸びていく。
 これは、それを引っ張りだして書いたものなのか、それとももぐりこんで書いたものなのか。
 まあ、どうでもいい。
 どうでもいいことを、よくもまあ、飽きずに書いたね、と思う。もちろん、この詩から、「行儀のいい」批評を書いてみることもできると思うが、きょうは、そういう気持ちになれない。ただ、この「行儀の悪い」、つまり「意味」なんてどうでもいい。「意味」に要約してもなんの意味もないことを書いていることばの、そばにいるのがなんとなく楽しい。
 私は意地悪な人間だから、この詩をテキストにして、詩の講座で、「銭湯ののこり湯がひよひよと低みのほうにしみでていて、の『ひよひよ』を自分のことばでいいなおすと、どうなる?」とか「ぬこうとしてみると草はすると抜けそうでうす桃いろの、の『ぬこうとしてみる』と『抜けそうで』の、ひらがなと漢字のつかいわけはどうしてだと思う?」という質問をしてみるのだ。
 きっと、だれも、明確に答えられない。
 私は、この「わかったようで、わからない」(逆に言うと、書いてあることが一言もわからないとは言えない妙な感覚)のなかにこそ、詩があると感じている。
 それは何と言えばいいのか「自己」と「非自己」の出会いであり、自己が自己であるか問われる瞬間なのだと思う。川邉のことばと、自分のことばを区別する(あるいは識別すると言えばいいのか)、何か「基準」や「原則」のようなものはあるのか。実際に川邉と向き合っているとして、そのとき、「肉体」は離れているから別々の人間(別々に動くことができるから、別の人間)ということができる。このとき「空間」(距離)というものが、変な言い方だが、ひとつの「識別の基準」になる。
 それは、「ことば」の場合はどうなのか。

 書くとめんどうになるので書かないが。
 「書かない」といいながら、思いっきり飛躍というか、脱線してしまって書くと。
 私は、その「ことば」の問題を考えているうちに、「肉体」の「自己」「非自己」も、識別はあやしいものだという「結論」に達してしまうのだ。
 もし、私が川邉と向き合っているとしたら、それは私の意識が川邉をそこに存在させている。何らかの必然があって、そこに川邉という別個の肉体が存在しているように「認識」している(ことばにしている)だけなのではないか。
 この世界は、ほんとうはごちゃごちゃの「ことば」が入り乱れているだけのものであり、その「ごちゃごちゃ」に耐えるだけの力のない意識(精神)が、「行儀のいい」形にととのえることで、わかったふりをしているのではないのか。
 ここには私とは別の人間、川邉がいて、私とは全く関係のないことを考えている、と世界を整理すると、合理的でとてもすっきりする。しかし、この合理性はまったくのでたらめかもしれない。整理してしまえば私の脳は安心して、手抜きする。脳は、いつでも手抜きして、自分の都合のいいように考えてしまうものなのだ。
 そうなると……。
 世界が存在していると、私の脳は錯覚しているだけで、世界は存在しない。「ことば」が及ぶ範囲を「世界」と仮定して、自分が生きているつもりになっているだけ、というようなことを考えてしまうのである。

 何が書いてあるのか、他人(読んだひと)には、わからないだろうなあ。当然だよなあ。私はわかって書いているわけではなく、わからないから、書いている。わかっているなら、書く必要はない。わかっているなら、わからなくなるために書く。

 これが感想か、これが批評か。たぶん、ね。こういうことばを引き出す力が川邉の詩にはある、ということ。

 

 

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Estoy Loco por España(番外篇298)Obra, Jesus Coyto Pablo

2023-02-10 10:28:04 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo

 Eche hielo en un vaso de agua. El hielo sobrecongelado se rompe. El agua se vuelve azul cuando toca la sección de hielo roto. La tristeza se fue. El azul se hunde y se convierte en un azul profundo. El vestido blanco que se fue. Sólo vuelve el color blanco. Los ojos del hombre se desvían.  El pasado siempre aparece. El futuro siempre desaparece. Cristales de hielo en el fondo de un vaso. El azul puro.
*
 Muchas de las obras de Jesús son grandes. ¿De qué tamaño sería esta obra? Imagino una obra tan pequeña como le quepa en la palma de la mano. Imagino una pequeña obra en la que sólo puedo ver "azul" si no me fijo bien.
 Entonces escribí este poema.     


 コップの水に氷を落とす。凍りすぎた氷が割れる。割れた氷の断面に触れて、水が青くなる。去って行く悲しみ。青は沈み群青になる。去って行く白いドレス。白い色だけが戻ってくる。男の目がさまよう。過去はいつでもあらわれる。未来はいつも消えていく。コップの底に残る氷の結晶。こびりついた青。
*
 Jesus の作品には、大きいものが多い。この作品は、どんな大きさだろうか。それは手のひらに入るほどの小さい作品を想像してみる。目を凝らさないと「青」しか見えない小さな作品を想像してみる。
 そして、こんな詩を書いた。     

 

 

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