詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

木谷明「三苫海岸」ほか

2023-02-25 21:08:52 | 現代詩講座

木谷明「三苫海岸」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年02月20日)

三苫海岸 2023 2.8   木谷明

お宮の坂のてっぺんに
海があり

浜は引き潮
フグ 小さな フグ

何故 海と行かなかったのか
何匹も何匹も
白く砂に包まれたフグのこを撫でた

引く潮に
向かいながら逃げながら
飛ぶこともなく泳ぐこともなく
鳥は遊び続けている

ずっと遊んでいるというのに

 私がまず注目したのが「何故 海と行かなかったのか」の「と」である。「へ」ではない。「と」をつかって前後を言い直すと「満ち潮といっしょに浜へきた」「何故引き潮といっしょに沖(海)へ帰らないか」になるだろう。「と」のなかには、満ち潮、引き潮という潮の動き(海の動き)が隠されている。隠されている何かが、いつでも私を刺戟する。何かがあると気づかさせてくれる。もちろん、その隠れている何かがわからないときもあるが、それが、楽しい。
 「飛ぶこともなく泳ぐこともなく」という行を巡っては、「鳥は飛ぶこともなく、フグは泳ぐこともなく」と読む受講生もいたが、私は「鳥は飛ぶこともなく泳ぐこともなく」と読んだ。海鳥だから、飛ぶこともできるし泳ぐ(水に浮かぶ)こともできるが、そうしない。この瞬間、私には鳥の「足」が見える。ことばとして書かれていないが、足が見える。そして、足が見えた瞬間、それは作者の足に重なる。作者もまた引き潮の浜辺にいて、引き潮でできた濡れた砂の上を歩いている。だからこそ、フグも見えるのである。
 そして、この「足」は一連目とも関係する。
 高いところから見ると、海はお宮はもちろん街の上に見える。その高いところから、作者は浜辺まで降りてきた。そして、フグを見た。鳥を見た。浜辺まで降りてきた作者にどんな目的があったのかわからない。それは「無為の時間=遊び」と呼べるものかもしれない。
 そう思うと「遊ぶ」ということばのなかにも、作者の「いま」が重なって見える。
 詩に限らないが、文学はたいてい、人がいて、ストーリーがあって、それをことばで描写する。そのとき大事なのは何か。何を見て(発見して)、読者は感動するのか。わかりにくいかもしれないが、「人」である。そこに、確かに「人」がいると感じた時、その作品はおもしろい。
 この詩では作者が、それでいったい何をしたのか、何を考えたのか、ということは「要約」はできない。でも、坂の上(高いところ)から海辺まで行き、歩いたことがわかる。この「無為」(無意味)ともいえる行為をどう評価するかは、「文学」の問題ではない。「文学」の問題は、そのこと(事実)が、ことばとして実現されているかどうかである。

だけど  池田清子

玄関のドアを開けて入ってきた人が
「あたたかい!」と言う
外断熱だからね

隣に子供が遊びに来ていても気がつかない
高気密だからね

換気換気というけれど
各部屋二十四時間換気システム稼働中

ありがたいね

だけどねえ

 この詩では、便利(?)になった暮らしを「ありがたい」と思い、同時に「だけどねえ」とも感じている。この「抵抗」なのかに、作者がいる。
 そういうこととは別に、この詩には、その暮らしを「外断熱」とか「高気密」ということばで表現する作者がいる。「外断熱」「高気密」というような、「要約言語」が詩のなかで書かれることは、あまりないと思う。少なくとも、私はそういうことばを日常の暮らしを描写する時にはつかわない(そのことばと自分の気持ちを重ねて書くことはない)ので、そうしたことばづかいをおもしろいと思う。
 この「要約言語」は「各部屋二十四時間換気システム稼働中」と言う形で展開するのだが、そこでやめるのではなく、もっと過激に「要約言語」で日常生活を描写し続けると、その「文体(ことばの運動)」が新しい世界をつくりだすかもしれない。
 「ありがたいね/だけどね」という展開のなかに、池田という人間がいるのだけれど(それはそれでよくわかるけれど)、その人間をことばの力を借りて別の人間に変えてしまうところまで行くと、詩はおもしろくなる。
 書いているうちに、書き始めた時とは違った人間になる(生まれ変わる)というのも、おもしろい。詩は(文学は)、生まれ変わるためにある。
 それでは池田の考えていることと違うという意見もあると思う。しかし、だからこそ、なのである。現実ではできないことを、ことばで、やってみる。ことばを追いかけて、ことばの力を借りて、自分が自分でなくなる、という経験をしてみるチャンスなのだ。ことばの力を借りて、新しい自分を作り上げてみる。その新しい自分が気に食わなければ、次の死出また作り替えればいい。
 木谷の詩にもどって強引に言ってしまえば、三苫海岸で鳥になってみる(鳥と自分を重ねてみる)ということが、これから先の人生にどんな影響を与えるか。きっと、「無意味」にひとしい影響しか与えない。でも、その「無意味=無為」を体験するということが、実は、意味におわれて生きている日常からの「生まれ変わり」でもあるのだ。

わだつみ 鯨  青柳俊哉

水仙 浜木綿 アマリリス 
群生する花弁の噴水のむこう
天辺へ回遊する鯨の群れ

遠い雪原のリングワンデルング 
初めも終わりもない
白い円の謎めくもとの細部へ

クスノキのかげに憩う牡鹿 
湧水にいのちを繋ぐ
泉は像をうつさず渦巻く

めぐる大きな時間の海へ 
天にひらく
曼殊沙華

※ リングワンデルング:環状彷徨。濃霧や吹雪で方向を見失い、            同心円を描くように同じ場所をさまよい歩くこと。

 この詩から、どんな「人」を思い浮かべ、その人とどう向き合うか。「いのちの大きな巡りを感じる」という感想が受講生のあいだから聞かれた。いのちの大きな巡りを感じている(考えている)詩人を思い浮かべた、ということになる。
 そこから、私は、もう一歩、踏み込みたい。「いのちの大きな巡り」という「答え」を、答えが出てくる前の形に「因数分解」してみたい。「いのちの大きな巡り」を感じさせる(その印象を支える)ことばは、ないだろうか。
 「回遊する」「円」「渦巻く」「めぐる」と、円運動を連想させることばが書く連に書かれている、という指摘があった。
 青柳は、循環運動(円運動)を「論理」として基本に据え、その運動のなかに様々なイメージを引き込んで詩を展開していることなる。ここに青柳の「文体」の特徴がある。
 描かれている名詞(イメージ)ではなく、隠れている「動詞」を探し出して世界をとらえなおすと、その人がどんな動きをしているかが見えてくる。
 どんな作品にも「人」はあらわれる。「文体」が「人」そのものであるときもある。

冬日和  杉惠美子

昨日の音は消えた
あなたの足音も消えた

しんしんと冷えた空気と
小さな蕾が
動かずにいたことを
忘れずにいた朝

時を超えて
与えられる光に

つつまれて
つつまれて

冬日和

 「かっこいい」「ことばの響きがつながっている」。受講生のこの評価は、杉が「文体」を持っているという評価である。「消えていた」「消えていた」という畳みかけるリズムが、ことばを動かしていく。
 私が「かっこいい」と感じたのは「忘れずにいた」である。「覚えていた」ではなく「忘れずにいた」。ニュアンスはもちろん違うが、「忘れずにいた」が効果的なのは、その直前の「動かずにいた」と音が重なるからだ。音が重なることで、意味に深みが出る。意味が強くなったように感じる。音の重なりによる強調。それが、「隠れているこころ」を豊かにみせる。
 それは「隠れていた時間」かもしれない。「動かずにいた時間」「忘れずにいた時間」、その「時を超えて」と動いていく。
 杉には「ことばを整える」力がある。ことばを整えて、その整えることでできた世界を動いていく人間が見える。短い詩だが、時空間の広い詩である。

人権 婦人参政権実現75周年によせて  徳永孝

ずっと歩いてきた
一歩 一歩 前へ 前へ

くじけそうな時も有ったけれどなんとかがんばった
もうダメかと絶望しかけた時には
仲間が助けてくれた

時には疲れきって
休むこともした
それも必要な時間

理解しているという男も 助けてくれる男もいたが
つきつめてみると日常生活における
強者のおごりが見えてくるのだ

しかし苦労だけではない
何かを成しとげた達成感
新しい命を生み育てる喜び

友とすごす楽しみ
老人や幼い者達と遊ぶ
おだやかな日々

でも道は半ば
まだこんなものじゃない
可能性はさらに大きく広がっている

先人達はついに小さな翼を手に入れた
引き継ぐ我らは
より大きく力強い翼を持つ

地を踏みしめ歩んでいく者
空高く羽ばたく者
共に手をたずさえ進んで行こう

 この詩には「要約」はあるが、「個人」が見えない。人が「要約」されてしまっている。「でも道は半ば」という「要約」は、あまりにも乱暴であると私は感じる。100%が到達点だとして、いまその道程の何%まで来ていると徳永が感じているか、はっきりわからない。49%と50%は違う。そしてその1%の違いのために、どんな努力があったのか、どんな障害があったのか。私が読みたいのは、そういう「個別」の事件である。「個別」をどうことばにするか。言いにくいことがあるかもしれない。しかし、その言いにくいことのなかに、人間のいちのそのものが動いている。

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする