野沢啓「言語比喩論のたたかい--時評的に2」(「イリプスⅢ」2、2023年01月20日発行)
今回の文章のなかで、私がいちばんおもしろいと思ったのは、38ページの次の部分である。(私の引用は間違いが多いので、原文を参照できるようにページを書いておく。)「つまらない詩など履いて捨てるほどある」と書いた後、こう書いている。
そこには詩のことばがもちうる言語的本質としての隠喩の創造性などのかけらもない。(略)私が言いたいのは、詩がなににも頼らずに言語にたちむかうとき、そのことばがおのずとことばの隠喩的本質をもってしまうことである。
「ことば」と「言語」という表現がつかわれている。それは、どうつかいわけられているのか。野沢にとって、それはどう違うのか。
いまの引用からだけでは分かりにくいが、野沢は「ことば」という表現を、日原正彦の文章を批判した箇所で、こうつかっている。
ここでは《言語そのものの「喩」性》ということばが出てくる。(36ページ)
《言語そのものの「喩」性》は日原の書いた文。だから、ここでは「ことば」は「表現」という意味である。「表現」と書き換えても、意味は変わらない。
そう判断して、38ページの文を読み直すと、どうなるか。書き直すとどうなるか。
そこには詩の「表現(1)」がもちうる言語的本質としての隠喩の創造性などのかけらもない。(略)私が言いたいのは、詩がなににも頼らずに言語にたちむかうとき、その「表現(2)」がおのずと「表現(3)」の隠喩的本質をもってしまうことである。
(1)と(2)は、そのまま意味が通じるが(3)は、すんなりとは読むことができない。(3)は「言語」と言い直した方が、野沢の言いたい「言語隠喩論」らしくなるだろう。あるいは、(3)を省略した方が、わかりやすい文章になるだろう。
つまり
そこには詩の「表現(1)」がもちうる言語的本質としての隠喩の創造性などのかけらもない。(略)私が言いたいのは、詩がなににも頼らずに言語にたちむかうとき、その「表現(2)」がおのずと「言語」の隠喩的本質をもってしまうことである。
そこには詩の「表現(1)」がもちうる言語的本質としての隠喩の創造性などのかけらもない。(略)私が言いたいのは、詩がなににもたよらずに言語にたちむかうとき、その「表現(2)」がおのずと隠喩的本質をもってしまうことである。
そして、最後に書き換えた文書をもとにして考えると、野沢の「言語隠喩論」というのは「表現隠喩論」にならないか。つまり「詩」と呼びうる「表現」は、かならず「隠喩」である。「隠喩」でない「言語」は「詩」ではない、と。
野沢の「言語隠喩論」は、詩が詩であるためには、その「言語」は「隠喩」になっていないといけない、「言語」が「隠喩」になっていないのは、詩ではないということではないのか。
「言語」と「ことば」、あるいは「表現」を野沢は、どう定義し、どうつかいわけているのか。野沢は「言語隠喩論」と書いているが、これを「隠喩言語論」、あるいは「隠喩的言語論(隠喩としての言語論)」と言い直すことができるとしたら、それは「隠喩的ことば(隠喩としてのことば)」「隠喩的表現(隠喩としての表現)」と、どう違うのか。
さて。
こんなふうにして書いてくると、「シニフィアン」と「シニフィエ」だったか、「ランガージュ」「ラング」「パロール」だったか、なんだか昔はやった(?)あれやこれやに似てきて、私はめんどうくさくて、「知らない」と言いたくなる。
で。
突然、問題にする部分を変えてしまうのだが。
私は、野沢の書いている吉本隆明批判もよくわからない。私は吉本隆明を読んだことがないので、それが原因かもしれないけれど。35ページ。
詩の言語がときにもちうる書き手を超越してしまう言語それ自体の創造力(わたしはそこに言語の本来的な隠喩性をみるのだが)はあらかじめ排除されている。吉本にとって、詩はすべて意識の産物にほかならない。
最初に書いた「表現」をつかって野沢の文章を書き直すと、こうなる。
詩の「表現」がときにもちうる書き手を超越してしまう言語それ自体の創造力(わたしはそこに言語の本来的な隠喩性をみるのだが)はあらかじめ排除されている。吉本にとって、詩はすべて意識の産物にほかならない。
野沢が「表現」という意味でつかったのは「ことば」であって「言語」ではないのだが、厳密に区別されていないようなので、そうなってしまうのだが。そして、そうやって書き直してみると、野沢が言いたいのは、詩は「意識の産物」であるだけではなく、「言語そのものの力(隠喩力?)」が産み出す詩もある、ということにならないか。
さらに、「言語」「ことば」「表現」と「意識」の関係を考えに入れて、吉本批判を書き直すと……。
詩の「表現」がときにもちうる書き手(の意識)を超越してしまう言語それ自体の創造力(わたしはそこに言語の本来的な隠喩性をみるのだが)はあらかじめ排除されている。吉本にとって、詩はすべて意識の産物にほかならない。
詩の表現(ことば、言語)はときとして作者の意識を超越してしまうものなのに、吉本は詩を作者の「意識の産物」ととらえているから間違っている、というのが野沢の主張になると思う。
この批判は、とても論理的だと思う。納得できる。
しかし、あと吉本の「創出が芸術としての言語の表出の性格に対応している」「これを〈架橋〉するものが、わたしのいう自己表出にほかならないのだ」という文章をとりあげ、この「創出」と「架橋」ということば(表現)を批判している。その概念というか、そのことば(表現)が出てくる論理というか、思想というか、そういうものを批判して、「創出」という概念が突然であり、「架橋」は「どこからどこへの、何から何への?」と疑問を書いているのだが……。
吉本の言う「自己表出」とは自己の「意識(精神)」の表出だろう。「意識/精神」を補って、吉本の文章を読めばどうなるのか。
詩とは(詩の表現とは)、書き手の「意識」を超越して、言語そのものの創造力が産み出してしまうものだから、作者の意識とは関係なくに「創出」されるもの(作者の意識では創造できないもの)であり、そうやって「創出」されたものと、作者の「意識」を「架橋する」(架橋してしまう)のが、吉本のいう詩なのであろう。言語(ことば/表現)は、作者の意識を超越してしまうものを「創出」してしまうことがある。その「創出」を受け入れるということが、同時に「自己表出」であるというのが吉本の論理ではないのか。
なぜ、自己の意識を超越するもの、言語(ことば/表現)が表出してしまうものを受け入れることが「自己表出」であるかといえば、その言語(ことば/表現)に立ち会っているのが書き手(詩人)の意識だからである。
私は吉本を読まないで、「誤読」なのだろうが、野沢が引用している吉本の文章からは、そう理解できる。吉本は書き手の「意識」に重心をおき、野沢は「言語」の方に重心をおいている。そう見える。
そう読んだ上で、何回も書いたことを繰り返すのだが、35ページの、
言語の隠喩生は詩的言語のみならず、本来の言語がもっている本性(本質)
というのなら、なぜ、詩だけを特権化するのか。それが、私にはわからない。詩だけにかぎらず、哲学でも、小説でも、あるいは日常の会話であっても、あらゆることば(表現)は、書き手(話し手)の意識を超越して、ことば(表現)それ自体の「創造力」を発揮してしまう。書き手(話し手/表現者)の意識を超越して、予想外のものを「創出」してしまう。
最近も、こんなことがあったではないか。
高校生だかだれかが回転寿司屋で醤油差しをなめた動画をネットに発信した。それが影響し、回転寿司屋の株が急落し、損害賠償が問題になっている。「表現」というのは、どんなものであれ、それ自体の「創造力」をもっている。それは表現者の意識を超えてしまう。
だからねえ、と私は付け加えずにはいられないのだ。
野沢は、彼の書いた文章が正しく理解されないと苦情を書いているが、そんなことはあたりまえ。作者の意識を超えてしまうのが表現であり、その作者の意識しなかった部分を指摘するのが「批評」のひとつの仕事である。作者の「意識」をそのまま代弁するのは「批評」でも「鑑賞」でもなんでもない。「追従」というものである。
野沢は、野沢の文章(本)を批判した人を批判する一方、こんなことも書いている。
論理のダイナミズムを認めてくれるひとが多い。(39ページ)
ああ、すばらしいなあ。もちろん心底そう思って書くひともいるだろうけれど、そうじゃないひともいるのではないだろうか。「論理がダイナミズムだ」という批評は、「論理が緻密だ」という批評と同じくらい、無責任に書くことができる。そう書けば、野沢が喜ぶとわかっているからである。あるいは、批判すると反論があり、めんどうくさいと感じるからである。
何が書いてあるかわからないとき(内容、表現が理解できないとき)、「ダイナミックだ」「繊細だ」「緻密だ」「感情が豊かだ」と、それらしい「特徴」を書いておけば、その表現者と「仲良く」やっていけるだろう。
野沢はまじめな人間だからそんなことはしないのかもしれないが、私は、めんどうになったらテキトウにやってしまう。
このまえ、スペイン旅行記(スペインの芸術家訪問記)を書いて本にしたのだが、二人、私の書いていることがどうしても気に食わないという。「最初は否定しているけれど、最後は、その否定が間違っていた、その作品はとてもすばらしいと書いているでしょう」といくら説明しても、納得しない。私のスペイン語がへたくそなせいもあるけれど。そういうときは、もう、そのまま相手の言う通りに書き直してしまう。そういうことは「儀礼」に属する問題である。批評とは関係がない。
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