谷川俊太郎「音楽の事実」(「森羅」29、2023年03月09日発行)
谷川俊太郎「音楽の事実」を読みながら。
その何小節かのピアノが私にもたらした感情は
悲しみという一つの名では呼べない
初めて聞いた時記憶には残ったが
それは私の奥深くには入って来なかった
曲名も作曲者も未知のまま何年かが過ぎた
ここに出てくるの「私」を、私は「谷川俊太郎」と思って読む。「悲しみというひとつの名では呼べない」という一行、特に、ここで「悲しみ」ということばを選ぶのは「谷川印(谷川語)」のようなものである。
ところが。
妻に去られた中年の警察官が
スコッチのグラス片手にレコードに針を落とした時
思いがけずテレビからそれが聞こえてきた
その数小節の旋律と和音の動きが
突然私にひそむ何かと共鳴したのだろうか
琴線に触れるとはこういうことか
他人事のように思いながら私はそれを聞いた
この二連目の「私」はだれか。「谷川俊太郎」か。最後まで読むとわかるのだが、ここに出てくる「警察官」は小説の登場人物である。だから、ここで音楽を聴いているのは小説の主人公である。小説のなかだから、その音楽を実際に聞くことができるのは、小説の登場人物だけである。そうすると、この「私」は警官になる。
一連目にさかのぼり、一連目の「私」も警官であるととらえれば、論理的には矛盾は亡くなる。谷川は警官に成り代わって、詩を書いている。
しかし、そうなのか。
三連目。
話はそれだけでエピソードにもならない
話しても伝わらないその数小節のピアノの
前世の思い出のような音の浮遊を
言葉に留めようとした私の慢心…
この「私」は「警官」? 「谷川俊太郎」? もちろん、警官と考えることはできる。しかし、警官は、そんなことをことばにしようと思うだろうか。書き留めようと思うだろうか。予想外のことをするから、そこに詩が生まれる、といいえばそれはそうだが。
名前を取り払って「私」を「心」と置き換えれば、どうなるか。
その何小節かのピアノが「心」にもたらした感情は
悲しみというひとつの名では呼べない
初めて聞いた時記憶には残ったが
それは「心」の奥深くには入って来なかった
その数小節の旋律と和音の動きが
突然「心」にひそむ何かと共鳴したのだろうか
琴線に触れるとはこういうことか
他人事のように思いながら「心」はそれを聞いた
言葉に留めようとした「心」の慢心…
最後は「心の慢心」となり、座りは悪いが、「意味」は通じるだろう。だれの「心」であってもかまわない。「不変」に通じる「心」。音楽が「個人」の枠を超えてつたわるように、「ことば」もまた「個人」の枠を超えてつながる。これは「だれのものでもある(だれのものであってもかまわない=だれにでも共通する)こころ」が経験したことなのである。
でもね。
この個人的でしかない経験に嘘はない
曲はブラームスの間奏曲変ホ長調作品117-1
警官の名はジェッシー・ストーン
ロバート・パーカー作の小説中の人物
「だれのものでもない心」は否定され、「個人的経験」が強調される。
つまり「私」は「谷川俊太郎」という個人に引き戻される。
さて、どんな註釈、あるいは解釈をすれば、この作品は「論理的」な矛盾を克服できるか。
「曲名も作曲者」も知らない「何小節」かの「ピアノの音」。それが曲名が小説のなかに書かれていたとして、曲名を知らないのに、どうしてその曲だと理解できるのか。小説なのだから、音は聞こえてこない。「妻に去られた」「悲しみ(という一つの名で呼べない感情)」がその小説のなかに書かれていたから、その曲だとわかったのか。
こんなことは、どこまでもテキトウに書きつづけることができるかもしれない。「論理」というのは、後出しジャンケンであり、不都合が見つかれば、そのつど修正する。脳というのは、いつでも、一番都合がいいように考える癖がついている。
「ことば」というのはとても便利なもので、「さっき言った(書いた)ことは間違いで、本当はこうだと気がついた」と言えば、何ごともなかったかのように「修正」がおわってしまう。さらに何ごとが「疑問」をつきつけられたりしたときには、その部分はまだ私にもよく理解できていないのでうまく言えないが、といってごまかすこともできる。
こんなことを言ってしまっては何にもならないが。
谷川だって、こんなふうに書いている。
どんな言葉も所詮虚構でしかないが
音楽は動きやまない事実だった
「言葉は所詮虚構」。虚構だから、いつでも変更できる。「こころ」みたいなものかもしれない。いや「脳」の「論理」みたいなものだ。
だいたい「変」でしょ?
妻に去られた中年の警察官が
スコッチのグラス片手にレコードに針を落とした時
思いがけずテレビからそれが聞こえてきた
警官がレコードに針を落としたのなら、レコードから音が聞こえるはず。しかし、テレビから聞こえてくる。この「矛盾(飛躍?)」を解消するためには、谷川が小説を読んでいて、その小説のなかで警官がレコードをかけたら、その曲が谷川のいる部屋の中のテレビから聞こえてきた(谷川は、テレビを見ながら?、小説を読んでいた。もちろん、テレビは隣の部屋にあって、音だけが聞こえてきたということもある)。あるいは、警官がレコードをかけるのにあわせて、同時に、テレビでもその曲を流した(警官はテレビをつけながら、レコードを聞くのである)。
「脳」はいつでも脳自身が納得できる「論理」をでっちあげる。
だから、「論理」を追及してもだめなのだ。
むしろ、「論理」を超越しなければならない。
その数小節の旋律と和音の動きが
突然私にひそむ何かと共鳴したのだろうか
琴線に触れるとはこういうことか
他人事のように思いながら私はそれを聞いた
「他人」ということばが出てくる。
ある瞬間「私」は「他人」になる。「他人」を発見する。「他人」なのだから、「いまの私」と「矛盾」していて、あたりまえなのだ。「私」は変更できるが、「他人」は変更できない。自分の「意思」とは関係なく、そこに存在している。
「他人」とは「事実」である。
どんな言葉も所詮虚構でしかないが
音楽は動きやまない事実だった
「音楽」とは「変更できない他人=事実」である、と想えばいい。「音楽」を聞くことは「他人」を発見することなのだ。「他人」に出会うことなのだ。
「音楽」を聞いた。その瞬間「こころ」が動いた。その「こころ」がどんな「感情」かわからない。「他人の感情」だからだ。いや、谷川が谷川でなくなった、つまり「他人」になって聞いた音楽である。だから、谷川は、その「他人になってしまった谷川のこころ」を探すのである。その過程で、警官になったり、また谷川自身に戻ってきたりするのである。
谷川を「他人」にしたり、谷川自身にもどすというか、谷川の内部へもぐりこませてしまう音楽……谷川は音楽が好き、ということを書きたかった。ブラームスの曲について書きたかった。そのとき、ことばは、いろんな矛盾、あいまいなものを抱え込む。「私」もまた、動きやまない「事実」として存在する。「私」は「私」を思ったときにだけ存在するものなのだ。「他人」は思いがけないときにやってくる。
(引用の「117-1」は横書き。)
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