詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy Loco por España(番外篇289)Obra, Jose Manuel Belmonte Cortes

2023-02-02 11:00:19 | estoy loco por espana

Obra, Jose Manuel Belmonte Cortes

 ¿Una mujer se convierte en caracol o un caracol se convierte en mujer? No, más bien se convierten en "nueva vida" ; mujer-caracol, caracol-mujer. Belmonte crea nueva vida.
 Las obras de Belmonte son completamente realista. Pero ese realismo no es sólo lo que es. Es algo que él ha creado. Me gusta la obra de Luis jugando desnudo al ajedrez, pero no es el propio Luis, es el hombre que Belmonte ha creado, y ahí está el hombre que Belmonte ha vivido.
 Entonces. ¿Qué es ese mujer-caracol? ¿Ese deseo femenino que ha visto Belmonte? ¿O es el "deseo femenino" dentro de Belmonte? ¿O es el "deseo del caracol" lo que se esconde en el cuerpo de Belmonte?
 Cuando yo me haga esa pregunta a mí, lo sabré.
 No es el deseo de Belmonte lo que allí se plasma. No entiendo lo que es deseo de Belmonte. Lo que sí sé es solo mi deseo. Quiero sacar a la mujer del caracol y ver todo su cuerpo. Quiero convertirme en mujer-caracol, y pegarme al cuerpo de un hombre. O quiero convertirme en caracol y comerme a una mujer. O deseo que un caracol se coma a una mujer. Después quiero pisotear a ese caracol. Quiero matarlo todo. Estoy confuso porque no sé cuál es mi deseo, aunque sea mi deseo.
 Lo que me desconcierta, lo llamo arte.

 女がカタツムリになるのか、カタツムリが女になるのか。そうではなくて、女でありカタツムリ、カタツムリであり女であるという「新しい命」になる。Belmonteは新しい命をつくりだす。
 Belmonteの作品は、リアリズムに徹底している。しかし、そのリアリズムは、それがあるままというのではない。彼がつくりだしたものである。裸でチェスをするLuisの作品が私は好きだが、それはLuisそのものではない。Belmonteが生み出した人間であり、そこにはBelmonteが生きてきた男がいる。
 では。この女カタツムリは何か。Belmonteが見てきた女の欲望か。あるいは、Belmonteのなかにある「女の欲望」か。あるいはBelmonteの肉体に潜む「カタツムリの欲望」か。
 そう問いかけるときに、わかるのだ。
 そこに具体化されているのは、Belmonteの欲望ではない。それは、私にはわからないものだ。わかるのは、私の欲望だ。私は女をカタツムリから引き抜いて、その全身を見たい。私は女カタツムリになって、男の体に貼りついてみたい。あるいは、カタツムリになって、女を食べてしまいたい。女をカタツムリに食べさせて、そのカタツムリを踏みつぶしたい。私は、それが私の欲望であるにもかかわらず、私の欲望がわからなくなり、困惑する。

 

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坂多瑩子『物語はおしゃべりより早く、汽車に乗って』

2023-02-02 09:59:40 | 詩集

 

坂多瑩子『物語はおしゃべりより早く、汽車に乗って』(書肆子午線、2023年01月28日)

 坂多瑩子『物語はおしゃべりより早く、汽車に乗って』の巻頭の詩「咲いては枯れる風の通り道にさらす」、その書き出し。

残されたままの廃線に
石を投げてただ投げ続けて
石ころの塊が大きくなると石と石の隙間を通り抜ける風が
タネを運び始め
ある日花が咲く
そして葉をしげらせ
石はそのカタチを忘れると
わたしに命令する
だんだんその強く語尾がますます強く
わたし
を貫くそれは聞いてはいけない抑揚を持っていて

 ここまで読んで、十回ほど読み返して、私は、それから先に読み進めなくなった。しばらくほっうておいたのだが、やはりそこから先を読み進めることができない。
 最初は小さい石を投げていたが、だんだん投げる石が大きくなったのか。それとも投げた石が、次第に大きくなったのか。私は、後者と読んだ。石が次第に大きくなるということは、物理的にはありえないかもしれないけれど、詩なのだから、大きくなってもかまわない。最初に投げた石に次の石がぶつかり、くっついて大きくなる。さらに大きくなっていく。そうのちに、石が坂多の意思とは関係なく自分で成長していく。それは、もちろん坂多にもっと「投げろ」というためでもある。
 石を「ことば(詩)」と読み替えれば、その世界がわかる。ことばが重なり詩になる。詩が重なり、詩集になる。たぶん、石は「ことば/詩」のことだろうと思い、そのために私はこの詩集の先が読めなくなったのだ。
 重い。
 坂多瑩子の全部がこの詩集にある。この詩に、その全部がある。それを予告している。いつ書いた詩か知らないが、坂多は、ここから「再出発」を宣言しているのだと思う。そういう明確な「宣言」を聞いた後では、ちょっと「詩でも読んでみるか」という軽い気持ちで向き合えない。
 そこに、私は、つまずいた。まだ、つまずいたままでいる。しっかり机に向かって読まないといけない。しかも、そんなふうに固苦しく読むのが「正しい」読み方かどうか、わからない。

 しかし、なぜ、急にそんなことを思ったのだろう。私は、坂多の詩が好きだ。「おばさん詩」と呼んでいて、「おばさんパレード」という「おばさん詩」を集めた評論を書きたいと思っている。その核となるひとりであり、「おばさん」とひとくくりに書くくらいだから、私にはどこか軽い気持ちがある。軽く書きたいという気持ちがある。それが、できない、ということに気づいたのである。
 それがいいことかどうか、よくわからない。軽く読んでいい詩があるし、軽く読まないといけない詩もあるかもしれない。
 でも、なぜなのかなあ。

石を投げてただ投げ続けて

 この「ただ投げ続けて」が、私のうろ覚えの印象では、まったく新しい坂多瑩子である。「ただ/続ける」。これは、おそろしいことである。何も考えていない。しかし、つづけると、何かがかわる。つづけると、同じままではいられない。
 それは、

だんだんその強く語尾がますます強く

 の行に書かれてるように「だんだん」「ますます」という変化である。「ただ/続ける」と「だんだん」が「ますます」になる。「つづけられた」何かが変化していくのだが、それは「だんだん」であり、しかも「ますます」なのだ。
 その「続ける」あいだ、(「つづいている」あいだ)、風だとか、タネだとか、花だとか、葉だとかの変化があるのだが、それが変化であるのは、変わらない「続ける」があるからだ。
 私は坂多の書いた「続ける」を「つづいている」という状態をあらわすことばに便宜上書き換えたが、坂多は「つづいている」かどうかを問題にしているない。「続ける」かどうかが問題なのだ。そして、坂多は「ただ/つづける」のである。
 そうすると「聞いてはいけない」「命令」が聞こえてくる。それは、もちろん、「聞いてしまったら、それをしなくてはいけない」ことになるから「聞いてはいけない」のだが、だからこそ「聞いてしまう」のである。そして、それは「聞きたかった」命令に違いないのである。あまりにも自分の願いにびったり合致するので「聞いてはいけない」という気持ちが生まれるのである。「聞いてはいけない」命令を聞いたとき、ひとは生まれ変わる。「聞いてはいけない」命令を聞いたものだけが、生まれ変わることができる。命令に従って生きる。自分が自分ではなくなる(だから、ふつうは聞いてはいけない)、自分ではなくなってしまってもかまわないと決意して生きることになる。これを「天命に従う」という。坂多は「詩を書き続けろ」という天命を聞き、それに従うことを、この詩で誓っているのだ。
 「聞いてはいけない」(してはいけない)が、しかし、坂多は「聞いてしまう」し、「してしまう」。「ただ/続ける」をしてしまう。

 「ただ」読み「続ける」というカタチで、私をその詩のなかに組み込んではいけない。「ただ」読み「続ける」のではなく、何かを、その「あいだ」にさしはさまないと、これからあとの坂多の詩は読めない。つまり、読んだことにはならない。坂多の「ただ」は「無意味に/だらだら」ではなく、「ひたすら」という意味なのだから。「天命」とは「ひたすら」を要求する。
 その「あいだ」にさしはさむ、私自身の「動詞」が見つからない。だから、読み進むことができないのだが、こんなことを書いてもしようがないのかもしれない。
 しかし、これを書かないことには、先に進めないなあ。

 きょうは、ここまで、書いておく。しかし、ここまで書けば、もう書けないという気もする。私は、天命を聞いたことがない。天命を生きる詩人に、凡人があれこれ言っても、何も言ったことにはならない。

 

 


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