詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子『物語はおしゃべりより早く、汽車に乗って』(2)

2023-02-03 20:31:11 | 詩集

 坂多瑩子『物語はおしゃべりより早く、汽車に乗って』の巻頭の詩「咲いては枯れる風の通り道にさらす」のなかほど。

水子を
箱に
うずくまるように人形もいれて
送った宛先
偽の診察券

 私は「水子」をもった経験はない。そもそも妊娠できないから、そういう経験がないのだが、それでもここには私を「肉体的」にひきつけることばがある。
 うずくまる。
 うずくまるのは「人形」である。人形は、生まれてこなかった子どもの象徴か。しかし、私には、なぜか堕胎した後(あるいは堕胎することを想像して)「うずくまる」女の姿そのものに見えてしまう。「うずくまる」という動詞が、私にはわかる。腹が痛いとき「うずくまる」。悲しくて何もできないときに「うずくまる」。「うずくまる」だれかを見たら、どこかが痛いのだ、苦しいのだとわかる。「肉体」だけではなく、そのときの「こころ」のもがきのようなものが、わかる。
 何が起きているか、そしてこれから何が起きるか「わかる」瞬間というものがある。その「瞬間」をことばにするのが詩、その「瞬間」をことばにしたのが詩だと、私は思っている。
 「水子」の例について語るのは、私にはむりがあるが、こう言い直せばいいだろう。
 こどもがつまずく。転びそうになる。そのとき、はっとする。この瞬間が、詩を感じるときに似ている。その子が倒れる。血を流す。想像した通りのことが起きるのに、やっぱり、はっとする。どきっとする。自分が「痛い」わけでもないのに。何か、自分の「枠」が消えてしまって、そこに存在する人間(ことば)そのものになって動いてしまう。その瞬間が、私は詩の体験に似ていると思う。
 「うずくまる」ということばに、私は、それを感じた。

 このあと、詩は、こう展開する。

あれから
三回生んで
五回流した
ずぶ濡れのまま
菜っ葉をゆでる
水にさらして ひと手間が
きれいな色を保つ
わたしもさらして
焼く
骨だけになって

 「五回産んだ」ではなく「五回生んだ」。女にとって、子どもを産むことは、もう一度、「生まれる」ことなのだろう。「生んだ」につまずきながら、私は、そういうことを考える。つまずく瞬間にも、詩がある。自分なら、そうしない。それが逆に、他人を無意識に自分に重ねることになるのだろう。つまずく、子ども。倒れる、子ども。見ていて「自分なら」と思う。自分のなかで、何かが動く。
 「ずぶ濡れのまま」は、堕胎した日、雨が降っていたのか。悲しみの雨が、こころだけではなく、肉体も濡らしていたのか。あるいは、肉体の傷の痛みが雨のように肉体だけではなく、こころにまでしみこんでいたのか。わからないが、「ずぶ濡れ」が、私の記憶を揺さぶる。もちろん、私の体験したずぶ濡れは、詩のなかの女が体験した「ずぶ濡れ」とは違う。
 菜っ葉、ほうれん草をゆでたあと、ぱっと水にさらす。たしかにその方が美しい緑色を保つ。(そう感じるだけかもしれないが。)これは、私のようなずぼらな人間でも、してみたことがある。で、そのときの「ひと手間」。この「ひと手間」をことばにするか、どうか。ことばにした瞬間、その「ひと手間」が詩になる。「きれい」ということばの「呼び水」になる。つまずく、子ども。次に何が起きるか、わかる。子どもが倒れる。それと同じように、ゆでたほうれん草を水にさらす。ひと手間。次に何が起きるかわかる。緑に茶色が入り込まない。きれいな色を保つ。わかっていることが、「ひと手間」によって、より確固としたものになる。
 その「ひと手間」を動詞で言い直したのが「さらす」。
 これが「わたしもさらして/焼く/骨だけ」る、とつづいていく。
 でも、どうやって「さらす」? 何で「さらす」? 「焼く」のは「さらす」ではない。ちゃんと別の動詞がつかわれている。「死ぬ」でもない。「死ぬ」は「さらす」ではなく、「隠す」かもしれない。
 「さらす」。「わたし」を「さらす」。
 ことばによって。
 坂多に堕胎の経験があるかどうか私は知らない。詩のなかの「わたし」は五回堕胎している。そういうことは、ことばにしなければ、だれも知らない。ことばにすることで「わたし」の「体験」を「さらす」のだ。そうすることで、「わたし」を清めていく。
 語りたくない体験を「さらす」とき、そのあと、何が起きる? 子どもがつまずいたとき、次に何が起きるか想像できるように、想像することができる。
 「ちゃんと気をつけていなかったからだよ」という批判がある。「痛くなかった?(たいへんだったね)」という労りがある。人間のしたことだから、それは、見方によって「感想」が違う。
 違いを体験することが、もしかすると「さらす」のもうひとつの意味かもしれない。ゆでられたほうれん草は、熱い湯と冷たい水という反対のものを体験する。「さらす」ことは、なにもかもを体験することである。つまり、あらゆる方向から自分を見られてしまうことでもある。

 詩のなかで、私は何度も立ち止まる。はっと思う。思った通りのことが起きる。「水子」の体験が語られる。そのあと、きっと出産が語られる。再び水子が語られる。そして、それが女の人生になる。
 問題は、その「語り方」。
 どんなことばで語るか。「ことばの選択」に、ゆるぎがない。そこに、私は感動する。つまり、私は女ではないから妊娠したことも子どもを産んだこともない。だが、女の肉体と、その肉体と一緒にある感情をあらわすことば、動詞の教えてくれる動きが、私の肉体を刺戟し、そこから私の感情が動く。その感情は、もちろん、坂多の感情とは違う。つまずき、転んだ子どもの痛みが私のものではないのと同じように。そういうものは、絶対に「同じ」にはならない。「他人」なのだから。しかし、「他人」なのに、「共有」してしまう何かがある。その「共有/共感」を自然な形で産み出す力が坂多のことばにある。
 この詩の場合、「うずくまる」「さらす」という動詞、そういう時間を「ひと手間」として受けとめることばが、それである。そこに詩がある。

 私は詩を読むとき(文学を読むとき)、それをある基準を借用し、その規制の基準に合致しているか(到達しているか)どうかを判断しない。つまり、他人の「基準(他人の思想)」を借りない。そこに書かれていることばから、「何か」が生まれようとしているかどうかだけを読む。
 ひとによって産み出すものが違う。だから、規制の基準(規制の批評用語)を個々の作品にあてはめる方法論には賛成できない。
 詩が、書かれるたびに生まれ変わるものなら、批評(感想)もまた、毎回生まれ変わらなければならない。首尾一貫しない、常に前に書いたことを叩き壊す、というのが私のやりたいことである。
 何のことかわからないかもしれないが、ちょっと気になったので書いておく。

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy Loco por España(番外篇290)Obra, Joaquín Llorens y Lu Gorrizt

2023-02-03 12:48:30 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens


Me gustan las habitaciones vacías.
Cuando estoy solo, bailo contra mí mismo.
Esas manos aquí, esos pies allá.
El ritmo es el latido de mi corazón caliente.
Pero no bailo delante de un espejo.
No quiero ensimismarme.

 だれもいない部屋が好き。
 ひとりきりのとき、私自身を相手にダンスをする。
 その手はここに、この足はあそこに。
 熱くなる心臓の鼓動をリズムに。
 しかし、鏡の前では踊らない。
 自己陶酔したくないから。

Obra, Lu Gorriz

Me gustan las habitaciones vacías.
¿Han cambiado las formas?
¿Los colores son los mismos que antes?
Todos me miran como si se acordaran de mí.
(Se olvidan de mirarse a sí mismos).
Es como mirarse en un espejo.

 だれもいない部屋が好き。
 いつか形を変えるのではないか、
 いつか色が変わるのではないか、
 みんなが思い出したように私を見つめる
 (自分を見つめることを忘れて)
 それはまるで鏡を見ているよう。

Tanto las esculturas como los cuadros cambian de aspecto según la habitación.
Observando la obra de Joaquín Llorens y Lu Gorrizt, escribí un poema que empieza "Me gustan las habitaciones vacías".

彫刻も絵も、部屋によって表情を変える。
Joaquín Llorens と Lu Gorriztの作品を見ていて、「だれもいない部屋が好き(Me gustan las habitaciones vacías)」で始まる詩を書いてみた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする