谷川俊太郎「父の死」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年02月06日)
谷川俊太郎「父の死」(『世間知ラズ』、思潮社、1993年05月05日発行)を受講生と一緒に読んだのだが、読みながら、私はびっくりしてしまった。受講生と私の詩の読み方があまりにも違っている。もしかしたら、受講生だけではなく、ほかの読者とも違っているのかもしれない。だから、書いておこう。
「父の詩」は四部から構成されている。全部について感想を語り合うには時間が足りないと思い、一連目についてだけ質問した。
「いろいろな死、葬儀を体験してきていると思うけれど、一連目で、自分が体験したことと違うところがありますか? 自分の経験と比べておもしろいところはありますか?」
一部の最後の二行、葬儀屋が食葬について語り、谷川が父はやせていたのでスープにするしかないと思ったというところがおもしろい、という反応は返ってくるが、自分の体験と違うところについては、答えが返って来ない。
「私はどんな人の話でも、自分なりに置き換えて理解するので、違うところというのは気づかない」
ええっ?
他の人も、とても悩んでいるので、私は、
「天皇皇后から祭粢料が来た、というのは、私は体験していない。両親とも死んだが、そういうものをもらうような人間ではなかったので、これは経験していない。みんなは、どう?」
だれも、そういうことは経験していない。
「そういうことって、ほかに書いてない?」
そう水を向けても、考え込んでいる。私は「父の死」にはほとんどの人が体験していないことが書いてあると思っているし、「自分が体験していないこと」は次々に口をついて出てくると予想していたので(そして、そこから詩について語ることを考えていたので)、ほんとうにびっくりした。
それで、一行ずつ、聞いてみることにした。
「私の父は九十四歳四ヶ月で死んだ。」この一行目は、「九十四歳四ヶ月」を父が死んだ年齢に入れ換えれば、そのままつかえる。つまり、経験している。(私は、何歳で死んだか、はっきり覚えていないし、何ヶ月となると見当もつかない。誕生日を知らないし、さらに死んだ日もはっきり覚えていない。年末だった、クリスマスよりは前だった、しかわからない。)
しかし、四行目の「明け方付添いの人に呼ばれて行ってみると」になると、もう私の体験していない世界。私の家には「付添いの人」はいない。「顔は冷たかったが手足はまだ暖かかった」は、私は聞いたことはあるが、臨終に立ち会ったことはないので、実は、よくわからない。知らないことである。
「自宅で死ぬのは変死扱いになるというので救急車を呼んだ。」も、そうなんだ、と驚いた。しかし、受講生は、みんな知っていて、驚かない。「監察病院から三人来た」にも驚かない。私は「監察病院」ということばにすら驚く。えっ、そんなものがあるのだ。私はいま福岡市に住んでいるが、それって、どこにある? それもわからない。
で。
知っていることと、体験したことは違うから、「頭」で知っていても驚いていいと思うのだが、驚かない。受講生は、知っているを「体験した」と考えているのかもしれない。ひとりひとりに聞いたわけではないが。
私がこの詩で好きな部分はいろいろあるが(ほとんど全行だが)、諏訪から来た男が泣き叫んでいるところ、帰りの電車を心配するところがとてもいい。私は、そういう場面に出会ったことがない、と私が語ると……。
「でも通夜には(葬儀には)、知らない人が来るのは自然。特別に変わったことではない」
あ、そうなのか、そういうふうに「一般化」して読むのか。私も葬儀には知らない人が来ることは知っている。私は高校を卒業した後親元を離れたから、故郷の人との交流はほとんどない。だから、葬儀のときも知っている人の方が少なく(名前はもちろんわからないし、どういう親戚なのかもわからない)、困ってしまった。だから、谷川が書いているような男を見たことがない。葬儀や通夜で、そういう具合に人間が「取り乱す」のも見たことがない。だから、谷川の書いていることは非常に印象に残る。
「通夜、葬儀には知らない人が来る」と「要約」した受講生は、たぶん、他の部分も「要約」して読んでいる。
天皇の祭粢料の部分でも、「袋に金参万円というゴム印が押してあった」という部分など、びっくりし、同時に笑ってしまう。「参万円」という表記は、単に金額を示しているだけではなく、そのまま「ゴム印」につながっている。天皇なのだから、いちいち自筆ということはないだろうが、それにしたって、ね。あまりに事務的な処理に、私は無礼だな、非礼だなと思う。相手が天皇だけれど。
ひとつひとつ(一行ずつ)問いかけると、「体験していない」と答えるけれど、問いかけないと、どうも「要約」して読んでいるようなのである。第二部に「詩も死も生を要約しがちだが」ということばがあるが、「要約」してしまっては、詩にはならないのに。「要約」できないもの、そのことばでしかないものが詩なのに。
だから。
ずーっと、父が死んでからの「どたばた」が書いてあるなかで、勲章を見てレモンの輪切りを思い出し、「父はよくレモンの輪切りでかさかさになった脚をこすっていた」という、ふいの「父親の姿」が強烈である。ここに「ほんとう」がある。ある瞬間、父を思い出す。それは、意図に反して、つまり思い出そうとして思い出すのではなく、思い出してしまう。そこに、父子のつながりというか、「細部」が見えてくる。いいなあ、谷川は、ほんとうに父親が好きだったんだなあ、と思う。そんな姿、他人に自慢できる姿でもないし、見ていて楽しいわけでもないでしょ? そんなくだらない(?)父の姿よりも、父を思い出すなら、父親がどんな人間だったかを語るなら、もっとほかの姿があってもよさそうだ。だからこそ、思うのだ。そういうどうでもいい具体的な肉体の動きを思い出すというのは、愛しているからこそである。いつも父を見ていたからこそ、書けるのだ。「要約」ではない「事実」がそこにある。(これは、最後の第四部の「手拭い」でも、思う。記憶が「肉体」となって動き、重なる。そこに、愛があると私は信じる。)
だから。
葬儀屋さんがあらゆる葬式のうちで最高なのは食葬ですと言った。
父はやせていたからスープにするしかないと思った。
は、印象的だけれど、私には「作為的」にも見える。葬儀屋が喪主に向かってそういうことを言うのは、かなり度胸がいると思う。そういう話をするとしたら、よほど親しい葬儀屋だろうと思う。私は、この二行は、死がしんみりしてしまうのを救うために書いた二行だと思っている。谷川のサービス精神だと思っている。
詩は、要約してはいけない。詩を要約して、感想をまとめてはいけない。むしろ、まとまってしまう感想、要約された「結論」を壊していくのが詩だと私と思う。
(脱線して書くと、だからこそ、詩を語るのに、流行のだれそれの「思想」を適用し、その「思想」に合致するからこの詩はすばらしいというような批評が私は嫌いだ。)
*
そのあと、新美南吉の「貝殻」を読んだ。
かなしきときは
貝殻鳴らそ。
二つ合わせて息吹きをこめて。
静かに鳴らそ、
貝殻を。
誰もその音を
きかずとも、
風にかなしく消ゆるとも、
せめてじぶんを
あたためん。
静かに鳴らそ
貝殻を。
「せめてじぶんを/あたためん。」というような言い方は、現代詩ではしないなあ、とう声があった。そう思う。
この詩では、どこが印象的か。「二つ合わせて息吹きをこめて。」に意見があつまった。谷川の詩を語るときに、私が「肉体の動き」を強調したことも影響しているかもしれない。しかし、私もやはりこの行が好きだ。
「貝殻を鳴らす」といっても、方法はいろいろある。カスタネットのように二枚を打ち鳴らす方法もあるし、山伏のように巻き貝に息を吹き込む方法もある。しかし、新美は「二つ合わせて息吹きをこめて。」と書く。これは、私は、想像しなかった。そして、想像しなかったからこそ、この行を読んだ瞬間、新美の動きが見えた。そして、その姿を想像したとき、私の肉体が無意識に貝を二枚合わせて、その隙間に息を吹き込んだ。それは山伏のように強い息ではない。そっと吹き込む息である。つまり、だれかに聞こえなくてもいい、自分だけが聞こえればいい音を聞くための息である。
それが自然に二連目につながっていく。だれも聞かなくてもいい。その音が、ちいさな風に消えてもいい。自分だけ、という孤独の温かさがそこにある。孤独を抱きしめる温かさがある。
*
受講生の作品。
百舌鳥(もず)のかげ 青柳俊哉
ゆうぐれの大空へ
百舌鳥が鳴いている
ながく哀切な声で
もう一つのかげへ
透視する
ように
重なりたいと
水に印をつける
ように
自分が波立つ
空の
かげへ
受講生の一人が、一連目の世界とあとの三連が重なると語った。その通りだと思う。
このことに関連して……。
どの詩にも、どうしても書きたい行がある。青柳は、「もう一つのかげへ」がそれだと言った。
一連目で書こうとして書けなかった「もう一つのかげ」。それはどんな存在なのか。どこにあるのか。どうやれば見えるのか。「水に印をつける」という一行がおもしろい。水に印をつけても、その印はだれにも見えない。消える。しかし、印をつけた人には、その「印をつける」という動きが残る。そのために、「自分が波立つ」。
それは新美が貝殻を合わせて吹いた息の音のようなものだろう。風の音に消える。だれにも聞こえない。しかし、息を吹いた新美の肉体には、その記憶が残る。その音が聞こえる。
谷川の父、谷川徹三の肉体は残っていない。しかし、レモンの輪切りで脚をこするという動きは残っている。谷川の記憶に、肉体として残っている。谷川の語ったことばが、肉体となって私の肉体にも残っている。私は谷川徹三を見たこともないし、私自身がレモンの輪切りで脚をこすったことがないにもかかわらず。さらに、谷川がレモンの輪切りで脚をこする父を見ている姿を見ていないにもかかわらず、私はふたりの肉体を見てしまう。この不思議な現象を引き起こすものが詩である。
*
かつて私は、もし無人島に一篇だけ詩を持っていくとしたら、この谷川の「父の詩」を持っていくと言ったことがある。なぜか。ここには愛が書かれている。谷川は父をほんとうに愛していた。その愛が伝わってくる。私はだれかを、こんなふうに愛したことがあったか。愛されたことがあったか。たとえば、「レモンの輪切りで脚をこすっていた」と誰かを思い出すか、「レモンの輪切りで脚をこすっていた」と思い出してもらえるか。誰もが語る何かではなく、「それがいったい何の意味がある?」ということを通して、何かを語ることができるか。愛とは、意味(要約)を拒絶したもの、超越したものなのである。この詩は、事実を積み重ねるという「散文精神」で書かれているが、それは散文を超えて、突然、詩になり、ただ、そこに存在している。
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