今回の文章はかなり長いので、時間内に読了できるかどうか不安だったが、30分以上余ってしまった。作文の指導に30分くらいかけているので、実質1時間で読んだことになるが、これには驚いてしまった。
もちろんまだ読めない漢字も多いのだが「解放乃至脱出」の「乃至」を「ないし、と読む。意味はイコール(ひとしい)に近い」と説明すると「いわゆる、または、に似た感じ?」という鋭い指摘。
三木清は反対概念を結びつけたり、ひとつのことばを別のことばで説明し直したりしながら、彼の「思想(ことば)のニュアンス」を明確にしていくところに特徴があるが、その運動を的確に追いかけることができる。
簡単な例だが、たとえば
旅に出ることは日常の生活環境を脱けることであり、平生の習慣的関係から逃れることである。
ここには繰り返し(言い直し)がある。その言い直しの説明を求めると「日常=平生」「生活環境=習慣的関係」「脱ける=逃れる」とてきぱきと答える。「日常の生活環境を脱ける」が理解できなくても「平生の習慣的関係から逃れる」が理解できれば意味がわかる。そういう「文体」を、ほぼ完璧に把握している。(これは、多くの著述家が採用している文体であり、また日本語に限らず、他の言語でもみられることだが、この言い直し=繰り返しを発見するというのは「読解」の重要なポイントである。)
「旅」のひとつのテーマである「発見」についても、「発明」との違いを、三木清の文章を踏まえながら、自分自身のことばで語りなおす。
今回むずかしかったのは、最後に出てくる「動即静、静即動」の「即」の把握の仕方である。「即」は単なるイコールではない。「日常=平生」「生活環境=習慣的関係」「脱ける=逃れる」のイコールとは違う。「即」は「切り離すことのできない」であり、それが、その直後に出てくる「自由」の説明にもなっている。
この「真の自由」を理解するためには、その前に書かれている「物からの自由」と「物においての自由」を理解しないといけない。「物からの自由」は、いわゆる「脱出」、しかし「物においての自由」は、そこに存在する「物」を形成しなおす構想力(能力)のことである。
私の説明で、どこまで「即」の意味が通じたか、すこしこころもとないが、「物からの自由」と「物においての自由」について話し合ったとき、彼の方から「形成」という三木清のキーワードが出てきたので、たぶん半分くらいは理解できただろうと思う。
日本語の勉強もさることながら「三木清の文章がほんとうに大好き」と言ってもらえるのは、テキストに三木清を選んだものとして、こんなにうれしいことはない。次は、最終回。「個性について」。