詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

進一男『素描もしくは断片による言葉で書かれたものたち』

2006-02-02 22:50:03 | 詩集
 進一男『素描もしくは断片による言葉で書かれたものたち』(本多企画)を読む。タイトルどおりすべて数行の素描、断片である。そのなかの「花」。

花の誕生 その時
光った 輝いた 空で 私の中で
私の胸の中で 何かが起こった
花は 自らの意志によって 二度 咲くらし

 最後の行の「花」を「詩」あるいは「ことば」に置き換えれば進が書こうとしていることが明白になる。「詩」は「ことば」が自らの意志によって咲くものである。作者の思いを離れ、つまり作者の思いを裏切って咲くものである。作者の意志を離れて、独自の姿をあらわすとき、「ことば」は「詩」になる。これが進の「詩」にかける夢である。
 このことを進は「あとがき」で「私にとって詩は詩への試みとしてある」と言い換えている。

 「詩」は確かに作者の思いを離れ、ことばが独自に花開いたとき「詩」になる。そうしたことばの独自の運動に私たちはどんなふうに付き添っていけるか。ことばを自立し、疾走し(ときには暴走し)、自在な運動を展開するのを、どんなふうに励ますことができるか。

 この試みに対して進は少し臆病であると思う。ことばが独自の運動を展開しようとすると、それを抑制し、今書いたことばは何なのだろうと反省(自省)するところがある。たとえば「秋桜」。

つまるところ私たちは いや 私は
何でも有り得なかったということなのか
白い輝きの真っ只中にあって ただ 私は
揺れる一本の秋桜にすぎなかったということなのか
それとも 何かで有り得たということだったのか

 「何かで有り得た」部分にこそ「詩」はあるのに、そこへ突き進もうとする運動を進は押さえ込んでしまう。
 もちろんこの抑制にも「詩」はあるだろう。ただし、それは現在(今)というものと無縁の、額縁の中に入った詩なのではないかと私は思う。

 進は近年、精力的に詩集を出版している。詩集をいただくたびにその精力に圧倒されるけれど、なぜか、感想をまとめる気持ちになれなかった。それはたぶん、彼の詩が「額縁のなかの詩」という印象、完成されているけれど、今の私と(あるいは私の今と)どう関係してくるのかわからなかったからだ。

 私は詩を読むとき、その作品のなかのことばによって、私が私でなくなってしまう体験をしたい。ことばの暴走に引っさらわれて、今をかき回されたいという気持ちがある。
 ところが進の作品では、その暴走に出会えない。「花」の

花は 自らの意志によって 二度 咲くらし

 の「咲くらし」という傍観の視線、自己をことばの暴走(自立運動)のわきに置いてしまっている姿勢が気にかかるのだと思う。

 「線 ことば 生」はとてもいい作品だ。

縦横に走る線 の 交叉する線たち の
そこに私は ことば を置く
囁きの 呟きの 叫びの そして
未知の向こう側へ志向する ことば と
交叉する ことばたち
生よ お前はきょうも荒れようとしている

 最後の1行が「荒れようとしている」と傍観者的に終わるのではなく、荒れる(暴走する)現在そのものと切り結ぶとき、進の詩は「現代詩」になるのだと思う。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡井隆「連詩の会のあくる日」

2006-02-01 23:56:01 | 詩集
 岡井隆「連詩の会のあくる日」(「現代詩手帖」2月号)がおもしろい。あまりおもしろいので5回つづけて読んだ。どうおもしろいのか書きたいと思い、どう書いていいかわからず、他の人の詩と比較しようかと思い、ページをめくったが何も手がかりがない。また同じページに戻って繰り返して読んだ。

静岡連詩の会から帰つて来てからうすくらがりの廊下を寝室へふらふらと歩いた。
『斎藤茂吉/木下杢太郎往復書簡』をひらいてベッドにころがる。茂/杢ともに微妙な間(ま)を医の仕事に空けてゐた。茂吉には遠慮があり杢太郎には不信と焦燥があつた。詩の話は一行も出て来ない。
書簡にあふれてゐるのは本郷と青山の日の光だけで本屋の店員が行間をでたり入つたり 杢太郎はともかく創造の小山を一つ越えたばかりだつたがそれを攻撃する茂吉の方言はごく控え目で大ていそれについての杢太郎の返事は欠落してゐた。
読みさしの頁に示指をはさんで目をうつろにしてゐるとき『斎藤茂吉/木下杢太郎往復書簡』ではない、と気づいた。さういふ書物はこの世にはないのだ、となればわたしは静岡連詩の会にも行かなかつたことになるのである。

 『斎藤茂吉/木下杢太郎往復書簡』は岡井の「創作」であると岡井は書くが、とても創作には思えないリアリティーがある。岡井自身「医の仕事」をしていることを私たち読者は知っている。「医の仕事」と文学の仕事を同時にやった茂吉、杢太郎に岡井が関心を持ってその著作を読んだだろうことは容易に想像できる。というか、誘い込まれるようにして、あ、岡井は茂吉、杢太郎(その他の「医の仕事」をしている文学者)の仕事を見つめながら創作活動をしてきたのだと、岡井の姿を思い浮かべる。思い浮かべながら、岡井には「遠慮」があるのか、あるいは「不信と焦燥」があるのか……と意識が動いてしまう。岡井のことばには、そういう読者を誘い込む要素がある。そして、その要素は具体的には説明されない。「遠慮」とは何か。「不信と焦燥」とは何か。説明はされないのに、それが何かが何となく想像できてしまう。
 「想像できてしまう」と書いたが、この想像できてしまうものは、何といえばいいのだろうか、岡井が茂吉、杢太郎とともに生きて共感し、反発し、ふたりのことばのなかでことばにならない交渉をしている姿を思い浮かべ、そうか、「遠慮」か「不信と焦燥」かと、肉体がかってに納得してしまう何かである。

 「書簡にあふれてゐるのは」以下の連は、もっと想像力を刺激される。杢太郎を攻撃する「茂吉の方言」というのは非常におもしろい。どういうことばで攻撃したかはもちろん書いてないが、方言には何か控え目でいて、同時に標準語では追求できない深さ(核心)をつくものがある。生活に根ざしたものだけがもつ「ゆがみ」「ねじれ」の力のようなものがある。たとえていえば、木の節のような、力がこもった部分がある。そうしたものには反論の余地がない、というか反論したところでどうしようもないものがある、聞いておくしかないものがある。

 谷川俊太郎の「父の死」という作品がある。その詩のなかで、昔の女が訪ねてきてことを契機に、今一緒にいる女と2階でけんかした云々という1行がある。その行について誰かが具体的に書いてもらわないと内容がわからないと苦情を書いていたと記憶する。それを読んだとき、私はその感想がとても奇妙に見えた。昔の女が訪ねてきて、それを契機に始まるけんかなど生活者なら誰でも想像できる。
 生活はいろいろなものを含んでいる。そして生活のなかで肉体が納得しているものは説明が不要である。
 方言が持っている特有のニュアンス、あいまいさ(控え目?)と強靱さ(反論の余地のなさ)。そして、この反論の余地のなさというのは、ほんとうに反論ができないのかというとそうではなく、反論できるのだが、そうするためには方言の根っこにある生活の細部にまで言及しなければならないという長くて面倒な手続きを踏まなくてはならない。そういうことがわずらわしいから杢太郎は反論しないのだ。(これは、もちろん空想の話。)

 岡井の作品には叩いても壊れない生活の体験の確かさがある。生活のなかで私たちがことばにしてこなかったものがあるが、そのことばにしてこなかったものがあるということをなじみのことばでくっきりと浮かび上がらせる力がある。
 その力の現れ方がおもしろいのだと思う。

 「現代詩手帖」2月号に同時に掲載されている「話題」も同じあじわいがある。

話題がさけられるやうになつてゐる

 で始まるこの作品は、人がある話題を避けようとするときの工夫を浮かび上がらせながら、無事に触れられたくないものにふれられずにいられる密かな楽しさと小さな不安のようなものが、ユーモラスに濃密に語られる。

頻度を避け 温度分布を避け
フランツ・カフカ小路を避け
ガラパゴスの亀さえ避けられる

 までくると笑い出さずにはいられない。

 岡井のことばは、生活の「出っ張り」のような部分を軽く叩きながら(ほら、ここにこの人だけの生活があるでしょ、という風に指摘しながら)、その生活が人間に共通のものだという深みにまで誘い込む。そして、その深みで私たちの足をひっぱって溺れる恐怖を味わわせたり、ふいに足を放して、ほら逃げていくなら今のうちだよとささやいたりしているように感じられる。

 生きていること、生きていることをことばにするというのはおもしろいものだ、と納得させられる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする