詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大谷良太『薄明行』

2006-02-14 20:53:16 | 詩集
 大谷良太『薄明行』(詩学社)を読む。

共産主義的言語

百万遍のミリオンで
短い煙草をくゆらせながら
ナカムラさんは
言ったのだった
新しい言語の構築が急務である と
そしてその言語こそ共産主義的言語である と
それから彼はゆっくりと
一番安い
ブレンドコーヒーを飲み干した
ナカムラさんの言っていることは
私には何のことだかさっぱり分からなかったし
それに「共産主義」なんて
新しいどころかもう時代遅れなんじゃないか
「共産主義的言語」となると
初めて聞かされる言葉ではあるが……
たいして興味も沸かなかったけれど
ナカムラさんの眼鏡の縁が
レンズの奥の目が、キラリと光る
こわいぞ、やけに自信たっぷりだ
きっと例の長い説明が待っているのだ
聞きたくないなー、だがもう遅い
もう蛇に睨まれてしまった
睨まれて身動きできなくなってしまった
自分は蛙と想像すると
尚更逃げられなくなる
口が思わず、
へーそれは何ですかと応えてしまう
慌てて水を飲む私
コップが汗をかいている
それはな、とナカムラさんが身を乗り出してくる
内心焦り、後悔する私

ナカムラさんは長い説明を始める時いつも
右手の人差し指を立てて
それはな、と言う癖があるのだ

 自分と他者をしっかりとみつめたいい詩だと思う。特に後半部分に出てくる「コップが汗をかいている」がすばらしい。この一行に「詩」がある。作品の内部をつらぬいている「詩間」(対話の論理の時間)をぱっと切り開いて「場」を構成する別の存在の「時間」を浮かび上がらせる。

 「コップが汗をかいている」という一行がなくても、この作品の論理上の意味はかわらない。しかし、この一行があるとないとでは作品の品格が違ってくる。
 世界には、私たちの思いとは無関係に存在しているものがある。コップが汗をかくのはどんな論議をしているかとは関係がない。ただ室温とコップの水との温度差に関係する。そうしたものが、今、ここに存在する。そして、それをみつめ、ことばにする。そのとき「詩」は立ち上がってくる。

 大谷は、自分以外の存在を急激に立ち上がらせ、その場を活性化することができる。場を一気に豊かにする視線を持っている。
 こうした冷徹な「詩」の視線があってこそ、最後の3行もくっきりと浮かび上がる。

*

 大谷は、彼が存在する場の、それまで彼自身がみつめていた存在とは別の存在を急に立ち上がらせ、場を「詩」に転換することがとても巧みだ。

路地みたいに細い道路の、夜 静かだけれど
時たま
どこかの家から小さく音楽が聞こえてくることもある 
     (「マンホールの上で立ち止まった」

昔、囮という字をとりこと読んでいた
     (「いちにち折り紙を折っていた」)

銀杏の黄色い葉っぱが地面で湿っていた
     (「冬になっていた」)

誰もいないグラウンド
息をしてみる、ふかーく
隅の方にボールがころがっている
     (「朝、散歩に出た」)

星空の下を自転車で家に帰るのだ
     (「厨房は昼のような明るさだ」)


私は目をつむる、野良の作業着にも
ゆっくりと雨はしみとおった
     (「昼、雨になる」)

オムライスを食べて帰った
     (「スクーターを買った」)

 一部を引用するだけでは「散文」にしか見えない。しかし、ここに「詩」がある。世界を一気に押し開くことばの力が輝いている。
 そして、この力のことを私は「巧みだ」と先に表現したが、しかし、これは技巧ではなく、冷徹な目が大谷にそなわっているということだ。
 ある場において、大谷は自分の時間、思想を点検する。同時に、そのとき自分の時間、思想とは無関係に存在するものがあることを冷徹に見抜いている。
 だからどんなときにもセンチメンタルにはならない。
 世界はセンチメンタルに閉じるのではなく、それまでの感情をふりきって突然に切り開かれる。

 すばらしい詩人に出会えたことに深く感謝したい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河津聖恵の「吐息」

2006-02-13 15:03:51 | 詩集
 「河津聖恵詩集」(「現代詩文庫183」思潮社)を読む。

 河津のことばは私にはとても読みにくい。ことばが乱反射して、それについていくのが苦しくなる。しかし、ときどき、すーっと体の中へ入ってくることばがある。

それら救われたものたちを排泄する器官がどこかを駅舎のようにふるえている、と胸に手を当てて思えば、救われたものたちに結ぶ水滴は鐘のようにきらめき(どんな時代にも、手つかずの場所がある)、私は聖堂のようによばれ光から闇へ走り込む。吐息になる。匂い。古い林檎をかじった後の口腔の匂い。鼓動と吐息。よびおこされるうつろな思い出。

 「吐息になる。」までは非常に読みにくい。ところが「吐息になる。」以後はとても読みやすい。わかりやすい。納得できる。

 「吐息」が河津の作品のキーワードである。(少なくとも、私が河津を理解できるのは、「吐息」を中心に作品を読み直すときである。)
 河津の作品には画家がたくさん出てくる。「ターナーは雲ばかり描いた」(「秋のタンポポ」)「夜のカンディンスキー坂」(「神楽坂」)から香月泰男を題材にした「青の太陽」など。河津は基本的に視覚の人間なのだろう。存在を視覚でとらえる人間なのだろう。視覚によって存在を自分の中に取り込み、ことばにして再現する。そして、その世界へ「音」(聴覚)を溶け込ませる。(触覚はなかなか溶け合わない。)
 ところが、存在にはなかなかことばになってくれないものがある。目の前に存在するのに、それにふさわしいことば、それが河津の中に入り込んでいろいろな作用を引き起し「詩」にかわるはずなのに、「詩」になってくれないことばがある。そのとき、河津はもがく。もだえる。そうやって吐き出されたことば、未消化のことばが、たとえば先に引用した前半部分だ。
 激しい嘔吐の花々。そうしたものが河津のことばの大半である。

 嘔吐の後、人は「吐息」をつく。吐き出してしまって、体がやすらぐ。そのとき漏らす大きな息が吐息である。
 吐息に出会い、あ、河津は、それまでのことばをただ吐き出さずにはいられなかったのだと気付かされる。

 だが、吐息はことばではない。ことばを含まない「息」である、という指摘があるかもしれない。確かにことばになっていない。ことばを欠いた呼吸にすぎない。だが、だからこそ、そこに「詩」がある。
 「詩」はいつでもことばを求めている。ことばになることができずに、もがいている。だから「吐息」こそ「詩」と呼ぶにふさわしいものなのだ。

 「吐息」に何がふくまれている。「吐息になる。匂い。古い林檎をかじった後の口腔の匂い。鼓動と吐息。よびおこされるうつろな思い出。」と河津は書く。(吐息が2回繰り返されていることを読み落としてはいけないと思う。)
 吐息は匂いを含む。その匂いは快適なものではない。不快なものである。河津の肉体をえぐるような存在である。だからこそ吐瀉するのだろう。河津は自分の体に適合しないものを吐き出す。吐き出して、強く吐息をする。

 未消化の印象を残す、それまでの無数のことば。それは河津にとって不適合のもの。折り合いのつかないものである。何が河津の肉体(存在)を苦しめているのか。そうしたものが吐瀉されているのだと思って作品を読み返すと、その世界がなじみのあるものになる。
 「秋のタンポポ」という初期の作品は、男と一緒にターナーをみた時間を描いている。男と過ごしている時間を描いている。そこでは男は河津のことを「タンポポ」と呼んでいる。河津はそうしたことを表面上は受け入れている。しかし、完全に体で消化しているわけではない。だから

だからタンポポじゃない
まちがえて
呼ばないで

 と抗議するのである。
 この抗議は、吐き出したくなかった「吐息」かもしれない。しかし、吐き出すしかない「吐息」でもある。この吐息とともに、それまでの時間がはじめてことばになる。ことばとして向き合えるものになる。

 河津は、ことばになりえていないもの、未消化のものをあえて未消化のことばとして吐瀉する。そうすることで世界を再点検している。なぜ、世界と「私」がこんなにも不具合な形で共存しているのか、それを告発しているといえるかもしれない。

 と書いて、ふと私は、ひとりの詩人を思い出した。永塚幸司。彼もまた世界との折り合いのなさに苦悩した詩人だった。彼はうまく「吐息」がつけなかった。河津は「吐息」をつくことを知っている。「吐息」の匂いを嗅ぐことも知っている。
 河津の嗅覚は「吐息」の匂いを嗅ぐことに専念している。これは奇妙なことかもしれないけれど、そんな具合にして、少しでも肉体が折り合いをつけるというのはいいことであると思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米田憲三歌集『ロシナンテの耳』再読(4)

2006-02-12 23:26:07 | 詩集
 米田の歌のドラマ性は、対象がドラマを内包するとき当然のことながら強くなる。「修那羅峠」を詠んだ「風化のとき」など。

刺客となり森さまよいてきしけもの泪目脂に凝らせて眠れる
飼い馴らすこと捨つること叶わずに棲まわす執心妬心の類も

 あるいはバタフライナイフで事件を起こした少年を詠んだ「梅雨明けず」。

鬱屈の思いあるいは持て余す少年か土手の草が隠しぬ
はじめての蛍よと指す葉の陰に炎ゆるとはいえぬさむきひとつ火

 そしてこれらの歌には「目脂」「執心妬心」「鬱屈」「隠しぬ」「陰」「さむき」「ひとつ」というような、それ自体で肉体に隠された精神(こころ)というもの、暗いものを暗示させることばが並ぶ。
 米田にとって、ドラマはどこかで暗い要素を内包したものかもしれない。

 ユーモラスな歌もたしかにある。

旅のこころ遊ばせ飾窓覗きゆく雨のベルケンひとつ傘にて

 これはしかし非常に少ない。

 のびやかだなあ、と感じさせる歌には不思議なことに少年少女が登場することが多い。その「少年」が他人ではなく、米田自身であっても。

われを抜けて野の草原に紛れたる少年のわれ 萌ゆる飛鳥野
男ことばも優しきひびき自転車の少女ら通学路の雨弾きゆく

 米田自身の職業が反映しているのかもしれない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坂田藤十郎襲名歌舞伎(博多座)

2006-02-12 20:51:29 | 詩集
1月28日「LA MAMA」で見た「メジャー・バーバラ」の感想を書いた。「メジャー・バーバラ」に対するニューヨークタイムズのレビューは「歌舞伎の影響」というようなことを書いていた。どこが歌舞伎だ、といいたくなるものだったが、何が違うといって、やはり声の鍛え方、肉体の鍛え方が違う。
芝居はやはり声、肉体が決め手だ。
「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」の政岡の一人芝居の部分、わが子を失った嘆き、悲しみ。その声がすばらしい。見ていて(聞いていて)、自分の声帯が反応するのがわかる。声にならない声、体の奥から込み上げる激情によって抑制を失った声が、喉に共鳴し、それが体全体へ広がっていく感じがする。
私たちは人間が苦しんでいる姿(様子)を見れば、それが自分の苦しみでもないのに、苦しみを感じてしまうが、そうしたことは声からも起きることである。声にも肉体があるのだ。
歌舞伎の動作(肉体的表現)はたいてい現実の肉体の動きよりもはるかにゆっくりしている。そのために、激情をスローモーションでみているような感じになる。これもまた不思議なものだ。素早く動くことも訓練が必要だろうが、ゆっくり動くにはもっと訓練が必要だろう。スローな動きは視覚から入ってきて、私の手足を無意識に動かす。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

単騎、千里を走る

2006-02-11 20:29:46 | 映画
チャン・イーモー監督の「単騎、千里を走る」を見た。詩や小説ではないのだけれど、感想を書いておく。

中国でのシーンが美しい。特に高倉健が京劇役者の子供に会いに行ってからのシーンがすばらしい。人間も美しいが、風土がさらに美しい。まっすぐだ。
ひるがえって思い出すのだが日本の風景がつまらない。同じ作品とは思えない。

クレジットで気がついたのだが、日本のシーンはチャン・イーモーではなく、降旗康男
が監督をしている。

降旗康男の映像とチャン・イーモーの映像の違いは、風景を撮ったときにあらわれる。
北海道のシーン。高倉健が海に向かって立っている。荒波。そしてカモメ。近景と遠景があり、そこに遠近法がある。高倉健と彼の頭上を舞うカモメ。カモメがつくりだす近景。その向こうに海があり、その間に風が吹いている。
ところが中国では、そうではない。単に高倉健がつったっていて、まわり全部が単純に風景なのである。高倉健の存在の大きさ(小ささ)を比較するものなど何もない。カモメの不在が、単純に、高倉健を風土の中へ放り出す。高倉健と比較するものが何もないから、高倉健はただ自分で立っているしかない。そこから不思議な美しさが出てくる。

監督と風土というのは不思議な関係にある。
オーストラリア映画を最初に見たのは『誓い』だった。砂漠のシーンに驚いた。近景・中景・遠景という遠近感がない。いきなり地平線があるだけだ。ああ、そうか、これがオーストラリア人の見た風景か、と納得させられた。
日本は狭い。風土も狭ければ、心象も狭いのだろう。狭いから、近景・中景・遠景という遠近感を持ち込むことで「広がり」を確保しようとするのだろう。
ところが中国やオーストラリアではそんな面倒なことはしない。遠景をどーんと映して、それでおしまい。実際に広いのだから、わざわざ遠近法で世界を描き直す必要などないのだ。

この「遠近法」のありようは、人間関係を中心に見ていくと、もっとよくわかるかもしれない。
日本のシーンというか、高倉健と息子、息子の妻の関係は、かならず高倉健-息子の妻-息子という関係でやりとりされる。息子の妻を挟むことで高倉健と息子の間に「距離」(遠近)がつくりだされている。
中国のシーンでは、高倉健は通訳(息子の妻に相当するだろう)を挟まないことには何もできないのだが、この通訳が完璧ではないがゆえに、高倉健は直接ことばが通じない中国人と向き合い、ことばをこえて結びつくしかない。「遠近感」(距離)が消し去られ、直接的な接触をせざるを得ない。
特に、役者の子供と一緒に迷子になる場面では、ことばが通じないにもかかわらず、中国語と日本語でやりとりするしかない。そして、そのやりとりが、実は通訳をとおしたときよりもはるかに伝わるのだ。

「直接」ということが、この映画のひとつのテーマかもしれない。
日本では「間接的接触」によって人間関係のトラブルを回避する。ところが中国では直接的接触で問題を解決する。高倉健がいろんな人と接するけれど、それはそのつど直接的接触、直接的対話である。
日本ではかならず息子の妻を通して対話する。
このふたつの対話形式の違いは、中国でのやりとりが煩雑で複雑にもかかわらず最終的にすっきり、快感という印象で終わるのに対して、日本側での対話はもわーっとした感じ、最後の手紙ってほんとうに息子のことばかな、それとも息子の妻の願いかな、といういやーな印象しか残さないという大きな違いとなって噴き出してくる。

チャン・イーモー監督のファンとしては、ああ、チャン・イーモーが撮った北海道の海が見たかった、というしかない。

*

追加。
高倉健はすっかり老いぶれた。立ち姿がさまにならない。腰を中心にして「く」の字に体が曲がっている。
声はもともと悪かったが、さらに通りが悪くなっている。
一声、二姿、三顔というのは舞台役者のことだろうけれど、映画俳優も声がよくないと、見ていていらいらする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米田憲三歌集『ロシナンテの耳』再読(3)

2006-02-10 14:12:33 | 詩集
 米田はドラマを描く。

幾人のこころ殺めて果てし会か気付かずにきて遭う花吹雪

 「花吹雪」自体も何かドラマを感じさせるが、その背後に「人事」が描かれることで自然がドラマにかわる。あるいは人事と自然の取り合わせによって、その奥からドラマが立ち上がってくるというべきか。

憎悪かく育てているごと夜々を氷柱ま直ぐに太りて止まず
寒月に照らされて幽かにひかりいる氷柱鬼神の荒き牙めく

 氷柱を自然現象としてではなく、「憎悪」の膨張、「鬼神の荒き牙」と重ねることで、その奥から人間が立ち上がってくる。具体的には書かれなかった人間のドラマが立ち上がってくる。
 このとき氷柱は自然現象ではなく、精神の象徴になる。
 米田の歌には抽象的なことば、精神(こころ)を代弁するがしばしば入ってくるが、これは米田の歌が叙述の歌というより象徴としての歌だからだろう。
 詩に「象徴詩」という表現があるが、米田の歌は「象徴短歌」なのかもしれない。

鳥けものの声ひとつなく神苑の森が抱ける昼の昏みを
西山に日の没りてより峡の村 墨溶かすごと闇領じくる

 「昼の昏み」も「闇」も自然の描写であるよりも精神に染め上げられた何物か、つまり象徴である。

雪女ならずや明かり点さずに坂下りてくる女の雪の傘
胸に抱きしもの何ならむ女人ひとり雪の明念坂下りてくる

 「坂下りてくる」という語が「象徴」を念押ししている。米田の象徴には明るさよりも暗さがこもる。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米田憲三歌集『ロシナンテの耳』再読(2)

2006-02-09 20:54:47 | 詩集
 米田の歌には精神(こころ)が強く打ち出されている。次の2首には「こころ」「魂」ということばが含まれる。

暫くを車窓に見えていし沼の雨季なれば昏くこころに沈む
老杉の暗き茂みゆ潜りくる魂よぶこえか山鳩のこえ

 この2首の場合、かならずしも「こころ」「魂」である必然性はないだろう。「暫くを」では「こころ」が省略された方がこころに深く沈んでくるような気がする。「老杉」も「魂」ではなく「ひと」あるいは「われ」の方が強く魂を感じさせるかもしれない。
 しかし米田は「こころ」「魂」と書かずにいられないのだと思う。そうしたことばを使わないときも、精神を強調するようなことばがつかわれる。たとえば

黄のひかり曳きつつ無心に葉を散らす銀杏樹孤高の明るさにいて
妖気纏いて歩むにあらずや明念坂下りてゆくに蝶狂い舞う

 「孤高」「狂い」----これもまた精神の状態をあらわすことばである。こうした強調ゆえに、米田の歌には何かことばの数が多いという印象が残る。
 「こころ」「魂」「孤高」「狂い」ということばではなく、こころの状態を指し示す「動詞」(動き)があれば、もっと強い響きに変わるのではないか、と短歌には無縁の私は思う。(狂う、は動詞だけれど。)

山峡の底ひに見しもののひとひらの古鏡に似しひかりもつ

 これは「暫くを」につづく歌だが、ここの歌の方が私には鮮明な印象がある。「昏く」の代わりに「ひかり」という語が選ばれているが、「昏く」よりももっと落ち着いた暗さを感じる。「古鏡に似しひかり」だからだけではなく「もつ」という動詞がことばを豊かにしていると思う。「沈む」という否定的な意味合いのある動詞に対して「もつ」という何か肯定的な印象をあたえる動詞が世界を豊かにしていると思う。

 同じようなことは次の2首についても言える。

くらき日を閉じ込めて寒き色ながら膨らみて闇の中なるさくら(「くらき」は原文は「木」の下に「日」という漢字)
暗やみに咲きて盛れる薄墨のさくらの散りぎわ美しからむ

 「膨らみて」と「散りぎわ」の違いが2首の歌を分けていると思う。前者には「美し」ということばはない。「閉じ込めて」「寒き色」と暗いイメージのことばがつづくが「膨らみて」の一語でとても華やかになっている。色っぽくなっている。豊かさがある。

*

 精神(こころ)をあらわすことばの強調。それは、精神の情景というより、精神のドラマを描こうとする姿勢が米田にあるからかもしれない。


くらき日を閉じ込めて寒き色ながら膨らみて闇の中なるさくら
暗やみに咲きて盛れる薄墨のさくらの散りぎわ美しからむ

 この2首はともに前半と後半が一種の対立の関係にある。「閉じ込める」と「膨らむ」「咲きて盛れる」と「散りぎわ」は一種の対立した状態である。ふたつの力が拮抗している。そこにドラマの予兆がある。

驟雨つづくなかきらめける稲妻をくらい記憶のように見ており(「くらい記憶」の「くらい」は「木」の下に「日」)

 「きらめける稲妻」と「くらい記憶」の対比、拮抗。そこにあるのは精神(こころ)のドラマである。
 「精神」(こころ)をあらわすことばの多用は、抒情の強調というより、精神のドラマをこそ書きたいと思っているからかもしれない。

幾人のこころ殺めて果てし会か気付かずにきて遭う花吹雪
数知れぬ女人の懺悔聴きてきし耳朶艶めけり閻魔の像の

 ここにあるのも精神のドラマである。

*

 そんなふうに、米田の歌にドラマを感じながら(そして、それが米田の歌の特徴に違いないと思いながら)、私は別の種類の歌に惹かれる。

母の死のひそやかにきし朝のこと思えば思い出せぬことのみ多し
熊と共に撃たれしひとりの血に染まる雪掻き消して雪無尽なる

 これはともにドラマの否定である。何もない。しかし、何もないからこそ、逆に何かが騒ぎだす。明白なドラマよりもドラマの否定の方が現代では劇的かもしれない。

新雪の積みてふくらむ丘いくつ重なりて女体のようなる豊かさ

 ここにも表立ったドラマはない。風景の描写に見える。しかし、その底にはやわらかにふくらむ女体を見てきた米田の隠されたドラマがある。語られないからこそ、それが魅力的に見える。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

堀江敏幸『河岸忘日抄』(1)

2006-02-08 14:49:01 | 詩集
 堀江敏幸の文章は肌理が細かい。そう感じるのは、たぶん随所にあらわれる表現が深く肉体と結びついているからだろう。たとえば16ページ。朝、まだ目を覚ます前、遠くから聞こえてくるドラムの音。

耳栓でもしているみたいに籠もっていたその連打音はしだいにくっきりと像をむすび、まだ脳と連絡がうまくとれていない内耳を心地よく打ちつける。

 「まだ脳と連絡がうまくとれていない内耳」がとても丁寧だ。音を音ではなく、目覚める前の肉体の感覚として表現する。それは音自体の描写よりも印象深く残る。

 目覚めの前にあれこれ思う部分。(18ページ)

目覚めの水面に鼻先が出そうなところで彼は思う。

 「鼻先」という表現によって、朝の感覚が鮮明になる。目覚めは確かに深い水中から新しい空気を吸いに浮上するようなところがある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米田憲三歌集『ロシナンテの耳』再読(1)

2006-02-08 14:30:41 | 詩集

リラ今朝をむらさき淡く咲かす窓 少女声あげて「桐壺」を読む

 「リラ今朝をむらさき淡く咲かす窓」という文体、「を」の使い方が印象に残る。ここに「詩」があると思う。「を」を中心にして、意識が力づくでねじまげられていく感じがする。ねじまげられ、導かれた先に、ぱっと世界が広がる。
 窓の向こうにリラが咲いていて、その薄紫の色が朝の空気を染めているという状態なのだろうけれど、散文の意識の流れとは逆の文体の流れ、目に入ったものから順番にことばにしていくことばの流れ、その中心というか、起点というか、あるいは流れに差し挟まった巨岩によって流れが渦巻くような感じというか……「を」を中心とした躍動がうねる水の腸(はらわた)のようにつややかだ。
 この運動、意識の躍動が美しいので、それにつづく「少女声あげて「桐壺」を読む」という、ありふれた授業風景もおもしろくなる。少女の声からいままで存在しなかった「桐壺」の新しい一面が飛び出してくるような印象がある。古くさい古典としての源氏ではなく、少女の視線がとらえ、声のなかに輝く源氏の世界が見えてくる感じがする。

 米田の短歌は、今引用した「リラ」に見られるように、ふたつの存在を対比させるものが多い。そして、その対比には「精神」(こころ)が入ってくる。文学に「精神」(こころ)が入ってくるのは当然のことなのだが、米田の歌には、そのことを強調しているように感じる。

校庭にポプラの絮の舞う見えて解き放ちたきころ遊ばす

 舞うポプラの絮と解き放ちたいこころ。「万葉集」の歌人なら「解き放ちたきころ遊ばす」は書かずに、単にポプラの絮の舞う様子だけを描写しただろうと思う。しかし、米田はふたつを書く。たぶん「精神」(こころ)を強調したいのだと思う。
 精神性の強調----これが米田の歌の特徴のひとつかもしれない。

 この視点から「リラ」の歌を読み直してみる。
 一読したときは「リラ今朝をむらさき淡く咲かす窓」に目を奪われる。そのことばの流れの華麗さが印象に残る。しかし、米田の表現したかったのは、本当は「少女声あげて「桐壺」を読む」という世界のおもしろさだったのかもしれない。少女が、意味を明確に把握しないまま、古典・古語を読む。そのとき少女のなかでどんな花が咲いているのだろう。その花は少女の今朝の空気を何色に染めているのだろう。
 米田は、リラの薄紫よりも、今、少女のこころのなかの色をこそみつめているのだろう。

無防備はわれのみならず駆けてゆく少女らを幾度も驟雨は襲う

 「無防備なわれ」は単に傘を持たないわれではないだろう。しかし、その精神性を、精神性など無関係にただ驟雨に濡れて平気な少女の若さに重ね合わせるとき、そこには青春への強い憧れを超えて、無防備でいることへの意志が立ち上がってくる。
 米田には、歌は精神(こころ)を読むものだという強い意識がある。

芽吹かむとして一途なる木々見えて別れの宴にわれ辛くおり

 「一途なる」にこめられた精神(こころ)が、この歌の「詩」である。
 この精神性はときに抽象的になる。

耐えてきし永き時間を反芻する今際のきわの父の喉ぼとけ

 「永き時間を反芻する」の抽象的な表現は「喉ぼとけ」という肉体によって生々しい手触りにかわる。
 米田は抽象と具象の拮抗、絡み合いのなかで人間を屹立させようとしている。

 一方、精神の強調とは別の歌もある。風景の寸描も美しい。

ひかりの皺きらめかせ水路をのぼりくる発動機船の軽やかな音
冬のひかり満ちてゆたけし橋潜る水路を舟のつながりてゆく

 「ひかりの皺」「ゆたけし」が美しい。特に後者、「ゆたか」とはこういうときに使うのか、と日本語の深さに驚かされる。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小杉元一「耳は一月の坂へ」

2006-02-07 13:58:24 | 詩集
 「EOS」NO.8、小杉元一「耳は一月の坂へ」を読む。行の展開が自然でとても読みやすい。

もう喋ることはなくなった
季節はわたしたちをゆっくりと傷つけてきた
それでもお喋りはつづいていくが
聞こえないふりをする
眼はあかるい塵をおうばかり
それからだ
耳がみょうに透きとおってきたのは

 「眼はあかるい塵をおうばかり」という「お喋り」「聞こえる」とは断絶した「視界(視野)」への飛躍、その直後の「それからだ」という断定が巧みだ。「眼」への飛躍が一瞬、ことばを迷わせる。そして、断定の後「耳がみょうに透きとおってきた」の「透きとおる」という、再び視線への引き戻し。(「透明きとおる」という感じは、視覚意外、聴覚、ときには嗅覚や味覚もも感じ取るものだが、基本的には視覚から派生した表現だろう。)
 この素早く巧妙な攪乱が、「お喋り(口)」「耳」「眼」という肉体を融合させる。

 こうした肉体(肉体感覚)の融合が最初に提示されるからこそ

けれどもあなたの耳が最後に見たものは
海を走る白い声

 というような表現がスムーズに納得される。海を走る白い波、崩れる波頭の音。それを聞いているとき、眼は同時に見ている。聴覚と視覚が融合し、世界をひとつにする。

 そうしたことばの運動が

あなたの耳は落花する

 という美しいイメージに結びつく。「落下」ではなく「落花」。「落下」も視覚で確認することができるが「落花」はより視覚的だ。

 肉体(肉体感覚)が融合してことばを動かしている。だからこそ説得力があるのだと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長谷川龍生「瞠視慾」

2006-02-06 11:07:05 | 詩集
 長谷川龍生の「瞠視慾」。この詩は何度読んでもすばらしい。終着駅まで停車しない急行に売春婦と思われる女性が2人乗って来る。そのうちの1人が下痢の苦しみを訴えるが、他の1人は知らん顔をする。それを作者は見ている。(引用は思潮社「現代詩文庫18 長谷川龍生詩集」から) 

ふたつ目の駅が
さっと、女を通過した。
絵が来してある目をつぶり
赤い唇をゆがめ、肩をふるわし
下痢の状態を喰い止めていた。
大腸の中の汚物が音を立てて膨らんだ。
排泄と、忍耐との二つの憎しみが
ラッシュアワーの中で
格闘している。

 「ふたつ目の」から「肩をふるわし」は作者がみつめている女性の姿である。客観描写である。(「女を通過した」は、客観描写とはいえないが、これについては後で書く。)しかし、「下痢の状態を喰い止めていた。/大腸の中の汚物が音を立てて膨らんだ。」は客観描写ではない。女性の体の中でどんな変化が起きているか、大腸の中で汚物が膨らんでいるかどうかわかるのは、それを実感している女性だけのはずである。しかし、人間には、なぜかそれがわかる。肉体がかってに理解してしまうものがある。
 私たちには下痢の体験がある。しかし、私たちは自分が下痢のとき、どんな顔をして苦しんでいるか鏡で確かめたことはない。(少なくとも私はない。)肛門に力をいれて苦しんでいる姿を鏡で確かめたことはない。それなのに、他者が苦しむ姿を見て、その表情や姿勢から、他者の肉体の状態を理解してしまう。
 この不思議な共感力。

 長谷川の詩がすばらしいのは、そうした共感したもの、肉体の苦悩を共感しながら、その苦しみを自己のものにしてしまわないことである。というか、共感してしまったために、それを超越してしまうことにある。

だが、女は歯をくいしばり
あらゆる神経を集めて
出口を防いだ。

もう、外部の物は見えない
すでに、急行車はレールの上を離れ
空間に、ふうわりと揺れていた。
断続的にけいれんがやってきて
夢のような失神に入った。

だらりと、だらしなく
オルガスムスになっている女の肉体に
ぎらぎらした嫉妬がわいてきた。
胸をかきむしり、ひきちぎり
殺意がおこってきた。

 同情ではなく「殺意」。
 それは「苦悩」が単に苦悩ではなく、一瞬にして「快楽」(オルガスムス----自己がそれまでの自己を忘れてしまう状態)にかわることを私たちの肉体が知っているからでもある。
 下痢に苦しむ女性をみつめる長谷川は長谷川のままである。それなのに女性は、女性の自己を忘れ去り、オルガスムスの状態にいる。それに嫉妬し、殺意を感じる。殺意とは、他者がもっている命の高まりを奪い取ることである。
 そこまで行ってしまう。そこに長谷川の凄味がある。この詩の絶対的な美しさがある。

 他者の肉体に共感してしまったら、もう、自己は自己でいられない。長谷川はそれまでの長谷川でいられない。「殺人者」になってしまわなければならない。
 もちろん、実際には殺人をおこなえないから、長谷川はことばの力で殺人者になるのだが。
 そして、その作品を読む私たちも一緒に殺人者になるのだが。
*
 そう読んできて、先に説明を省略した「(ふたつ目の駅が/さっと、)女を通過した」を読み返すと、長谷川のことばの力の凄さが際立つ。
 「大腸の中の汚物が音を立てて膨らんだ」というようなことは肉体の症状であり、そうしたことは私たちの肉体は明確に記憶しているから、共感もしやすい。長谷川は、この共感力を肉体だけではなく、精神にまで押し広げている。
 列車が駅を通過する。そのとき女性は「今、やっと二つ目が過ぎた」と感じる。その感じは、体のなか(女のなか、女そのもの)を駅が通りすぎていくような感じである。確かに列車に乗っていれば、私たちはそう感じるだろう。
 そうしたことを長谷川は非常に短く「女を通過した」とだけ書いてしまう。この描写力、肉体と精神、感性を一掴みにして一気に把握してしまう力が、実は、この詩の凄味の端的にあらわれた部分である。
 ここにこそ「詩」がある。

 「殺意」「嫉妬」「オルガスムス」など、目を引くことばにではなく、読み落としてしまいそうなことばにこそ「詩」がある。

 「女を通過した」ということばのなかに、すでに長谷川と女性との融合がある。読者にそれと気きづかせず、長谷川と女性はすでにひとつになっている。ひとつになったうえで、女性の表情を描写し、肉体の内部の変化を描写し、さらに「もう、外部の物は見えない」ではじまる連の、女性そのものの意識になっていく。

 三島由紀夫は「文章読本」のなかであったと思うが、森鴎外の「寒山拾得」に触れ「水が来た。」という文章の凄さを指摘していたが、それに通じる凄さが「女を通過した」という短いことばのなかにある。
 このことばがあってはじめて「殺意」へまでことばは疾走するのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白石公子「雪解け水のふきだし」

2006-02-05 23:13:38 | 詩集
 白石公子「雪解け水のふきだし」(「現代詩手帖」2月号)の最後の4行が美しい。

玄関に立てかけていた傘から
とろみのあるふきだしが
様子をうかがいながら
こちらに広がりはじめている

 傘にへばりついていた雪が融け、水になって傘の先から広がり始める。その形を漫画の「ふきだし」のようだと思って白石は見つめている。水は表面張力の力で、先端が丸くなっている。それを「とろみのある」と表現している。いい比喩、肉体感覚あふれる比喩だな、と思う。

 一方、観念的で比喩というには厳しいなあ、と感じるものもある。
 雪の日。窓ガラスにはりついた雪(ぼたん雪?)は風にあおられているのか、すこし窓を登る。それから重さゆえに、棒線を描いて滑り落ちる。それは「わたし」と「彼」は会話にならない会話に似ている。空中をただよい、見えない壁、透明な壁(ガラス窓のようなもの)にへばりついて、落ちてしまうものである。
 白石は、そうしたやりとりを漫画の「ふきだし」のなかの文字のように、自分の外に差し出し、客観的にみつめようとしている。
 お茶を入れるために湯をわかすという日常の姿を借りながら、やかんから吹き出る蒸気の「ふきだし」を利用して、その「ふきだし」のかたちのなかにことばを囲い込もうとしている。あるいは窓の外の風景をたどり、風景のなかの曲線をたどり、せりふのための「ふきだし」の枠をつくろうとしている。そうした部分の描写。

昔水路だったという道の曲線を
濡らした人差し指でたどってばかりいたのは
音も立てずに床に落ちる
わたしたちのやりとりを
ゆるやかに囲ってみたかったから
言葉の首元をくくって
色とりどりの風船のように
宙吊りのこの部屋に
浮かべて見たかっただけ

 風船もまた「二次元的」に描けば「ふきだし」の形である。
 「ふきだし」をりようすることで、ことばを客観化しようとしている。「わたし」と「彼」の間の会話を点検し直そうとしている。
 いや、そうではなく、ただ「ふきだし」にして、部屋に浮かべ、飾ってみたかっただけ、と白石は言う。

 私には、この二つの比喩が噛み合っていないように思える。肉体と精神が噛み合っていないように思える。やかんの「ふきだし」は上下運動である。傘から漏れる雪解けの水は同心円(遠心力的)である。一方は垂直運動、他方は水平運動である。

 もっとも噛み合わないからこそ、この詩の「わたし」と「彼」の噛み合わない意識というものを象徴していることにもなる。しかし、こうした噛み合わない感じは、どうも「気持ちが悪い」。書こうとしているものが定まらないまま、書き始め、唐突に中断したという感じがする。
 「連載詩」という形をとっているから、こうした中断は最初から予定されているのかもしれないけれど……。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フィオナ・サンプソン「つかの間の歴史」

2006-02-05 01:55:41 | 詩集
 「現代詩手帖」2月号の「英国女性詩人3人集」(熊谷ユリヤ編訳)。フィオナ・サンプソン「つかの間の歴史」に惹かれた。

翼のわななき。壊れた小鳥は
虚無と対峙する。それは窓ガラスに激突する
二つの肩の銃声。翼と、尾と、心臓とが
爆発する圧倒的な力。
強打と流血、削り取られた流血、再びの流血の
激痛、あるいは黒い羽の塊。

そのあと、あなたは小鳥を拾い上げる。
小鳥の目は、あなたの弱さに身を任せ切るかのように
封印されたまま。皺のある黄色い絹の目蓋、
嘴を染める血のまばゆさを見せ付けるために。
ガラスの質感で広がる静寂に逆らうかのように。
断末魔の翼をのばして、逝かせてやってください。

 昨日触れたコルネリユス・プラターリス「ミルクとトマト」とは違った形で「あなた」が強烈な位置を占めている。
 男、女、あるいは兵士といった第三者ではなく「私」と密接な関係にある人間が「あなた」である。二人称とは親密な関係を指し示す働きを持つ。(スペイン語にはtutearという表現がある。フランス語にも類似の表現がある。tuで話すというのは、親密さの表現である。)そこには肌と肌が触れ合う関係(抽象的意味も含めて)がある。相手に身を任せても大丈夫、気の置けない関係がある。
 この詩でも、「あなた」はそういうものをあらわしている。
 だからこそ「小鳥の目は、あなたの弱さに身を任せ切るかのように」という表現も生まれてくる。「身」は、肉体であり、命そのものである。
 そして、このときから「あなたの弱さ」とは精神・感情の弱さではなく肉体の弱さになる。肉体に肉体が反応してしまう弱さ、命の輝きと苦悩に共感してしまう弱さになる。

 肉体は不思議である。たとえば誰かが肉体的苦悩を抱えている。その苦悩は私自身のものではないが、肉体はそれをリアルに感じてしまう。どんなにことばをついやした表現よりも、肉体にあらわれる一瞬の表情、姿勢が、私たちの中の肉体の苦悩を引き出し、共感させてしまう。(長谷川龍生に「瞠視慾」など)
 相手が親密な関係にあれば、なおさらである。
 肉体は、他人の肉体の痛み・苦悩を拒絶することができない。他人の痛み・苦悩について「頭脳(精神)」は「そういうものは私と関係がない」と拒絶することができるが、肉体は「そういうものは私とは関係ない」と拒絶することができない。

 広島の苦悩にしろ、グランド・ゼロの苦悩にしろ、私たちは「頭」では「それは私とは無関係である」ということができる。しかし、実際にその場に立ち会うと肉体は「それは私たちとは無関係ではない」と拒絶できない。肉体が反応してしまうのだ。破壊され、破壊されながらなお存在するものの肉体に。
 あらゆる「現場」に私たちが行かなければならないとすれば、それは肉体として共感するためだ。

 (先日、ニューヨークの国連を見学した。そこに広島のねじ曲がった原爆壜があった。それを見たとき、「たったこれだけ?」と私は怒りを感じた。これだけで肉体が反応すると思っているのだろうか。なぜ事実を肉体から遠ざけようとするのか、という怒りである。)

 この作品にあるのは「思想」ではない。肉体である。肉の痛み、血の熱さ、命そのものである。
 どのような歴史(政治的歴史、政治的闘争)のなかにあっても、その瞬間瞬間において私たちは肉体である。肉体を通して他者と接する。
 他者の肉体をどれだけ自分と身近に感じることができるか、他者の肉体により親密に接近するために、ことばはどんなふうに動いていくことができるか。詩は、そうしたことのために、何ができるのか。肉体の復元のために、ことばは何ができるか。
 そういうことを考えた。「あなた」ということばに誘われ、明確なことばにならないまま。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フィオナ・サンプソン「つかの間の歴史」

2006-02-04 23:27:24 | 詩集
 「現代詩手帖」2月号の「英国女性詩人3人集」(熊谷ユリヤ編訳)。フィオナ・サンプソン「つかの間の歴史」に惹かれた。

翼のわななき。壊れた小鳥は
虚無と対峙する。それは窓ガラスに激突する
二つの肩の銃声。翼と、尾と、心臓とか
爆発する圧倒的な力。
強打と流血。削り取られた流血、再びの流血の
激痛、あるいは黒い羽の塊。

そのあと、あなたは小鳥を拾い上げる。
小鳥の目は、あなたの弱さに身を任せ切るかのように
封印されたまま。皺のある黄色い絹の目蓋。
嘴を染める血のまばゆさを見せ付けるために。
ガラスの質感で広がる静寂に逆らうかのように。
断末魔の翼をのばして、逝かせてやってください。

 昨日触れたコルネリユス・プラターリス「ミルクとトマト」と同様「あなた」ということばに強く惹かれた。
 何気なくつかっている代名詞だが「あなた」は親密感をあらわす。スペイン語にtutearという表現がある。(フランス語にも類似の表現がある。)英語にはそういう表現はないが、この作品の「あなた」はそうしたものだろう。つまり、私ではない目の前の誰かではなく、私と気が置けない関係にある誰か、肌と肌を接しても気にならない誰か、である。肉体としての誰かである。

 「あなた」は肉体をもった存在である。だからこそ、「小鳥の目は、あなたの弱さに身を任せ切るかのように」という表現が、「あなた」によって誘い出される。
 このとき「あなたの弱さ」とは精神・感情の弱さではない。「肉体の弱さ」である。

 人間の肉体は不思議である。頭脳(頭)では他人の痛みを拒絶できるのに、肉体は他人の痛みに接近すると、それを拒絶できない。肉体が反応してしまう。(長谷川龍生の「瞠視慾」など。)自分のものではないものを自分の苦悩として感じてしまう。他者の苦悩と私の苦悩は同一のものではないことは頭ではわかるが、肉体では分離して感じることができない。他人の表情、いびつな姿勢。そうしたものから肉体は一瞬のうちに他人の肉体の苦悩に感応し、共感してしまう。「私とは関係ない」と拒絶することができなくなる。
 相手が親密な人間ならば、その拒絶はいっそう困難になる。

 この「肉体の弱さ」こそが人間の大切にしなければならない「思想」に違いない。あらゆる関係は、そこから再び築き上げなければならない。

 肉体は、皺のある黄色い絹の目蓋に反応する。唇を染める血に反応する。それは小鳥のものにすぎないが、同じ命を生きる肉体として反応する。私たちに目蓋があり、嘴はないけれど唇があり、私たちの肉体の中に血が流れており、血が流れるときの痛み、悲しみを私たちは肉体として知っているからである。

 「あなた」という他者への接近、親密な接近が、その親密さそのまま「あなた」と「小鳥」を結びつける。男でも女でも兵士でもなく、そうした第三者をあらわすことばではなく、親密な誰かを呼び寄せる「あなた」ということばが、この詩のなかに生きている「肉体の思想」をくっきりと浮かび上がらせる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コルネリユス・プラターリス「ミルクとトマト」

2006-02-03 13:03:54 | 詩集
 「現代詩手帖」2月号に「ヨーロッパ詩人15人集」が掲載されている。そのうちの1篇コルネリユス・プラターリス「ミルクとトマト」(村田郁夫訳)。

彼女は書付を残した。あなた
買っておいてね ミルク二壜 トマト
二個 彼は 台所の椅子に腰掛け
読み終わって しばらく 夢想していた
グラスの中のミルクのなんと白いこと
彼女の顔の肌のように
クリーミーで 白い
それは唇をとおって胃に流れ込む
それから彼女は拭うだろう 真っ白な
ナプキンで トマトの方は
唇のように赤い その汁の
小川は 顎の大理石を流れるだろう
白い手のひらが それを遮るまで
(ジューシーなトマト!)
彼女の眼は 欲求で輝くだろう
彼女は 白いドレスを あるいは
格子縞のスカートを 履くだろう

彼は 絶対に買わなくてはいけない
ミルク二壜 二個の
トマトを

 五行目の「グラスの中の……」以後の肉感あふれる描写が美しい。ミルクになって女性の体の中をくぐり抜けるような感じがする。それも、女の体の内部を、手で、目で、舌で、なぞりながら通っていくような感じだ。
 「彼女の眼は 欲求で輝くだろう」と詩人は書いているが、その目が欲求で輝くとしたら、彼女を見つめる彼の目が欲求で輝いているからだ。
 私自身の目も、今、欲求で輝いているだろう。

 この作品を読む人間のすべての目が欲求で輝くだろう。

彼女は 白いドレスを あるいは
格子縞のスカートを 履くだろう

 この二行は、まるで、彼女は白いドレスを脱ぐだろう。格子縞のスカートを脱ぐだろう、というように読める。白いドレスと格子縞のスカートを履いている彼女ではなく、その下の白い肌、ミルクが内部を流れ、表面をトマトの汁が汚した白い肌がくっきり浮かび上がる。
 書いていないからこそ、くっきりと見えるものがある。

*

 一読して感動してしまったが、読み直して、うーんとうなってしまった。一行目の「あなた」に。
 コルネリユス・プラターリスはリトアニアの詩人である。リトアニア語はまったく想像もつかないが、多くの言語と同じように動詞は主語を必要とするのだろう。「あなた」は原文にあることばだろう。だから訳出されていても、うなるようなことではないのかもしれない。驚くべきことではないのかもしれない。しかし、私は、うなり、考え込んでしまった。
 日本語では「あなた」ということばは省略される。倒置法は別にして簡便に書くと「ミルク二壜、トマト二個、買っておいてね」が普通のメモである。リトアニア語では、しかし、「あなた」が必要になるらしい。
 そして、この「あなた」の一語が、この詩では(少なくとも日本語で生活している私には)とても強烈に響く。「あなた」と呼びかけられることで、呼び覚まされる感覚がある。メモを残した女が肉体として浮かび上がってくる。「あなた」がなければ、抽象的というか、単なる用事を書き付けただけの備忘録のような感じになる。
 「あなた」の一語によって女の肉体が浮かび上がってくるからこそ、つづく五行目以下の肉体の描写、夢想がよりリアリティーあふれるものになってくる。

 翻訳の不思議さを感じた。

 同時に、もしこの作品が誰か日本人の詩人によって書かれたとしたらどんな感じになるだろうかとも思った。
 視線の欲望という点からいえば、長谷川龍生に「瞠視慾」があり、鈴木志郎康にタイトルは失念したが遠くのビルでミルクを人を望遠鏡で見る詩がある。両方とも、「ミルクとトマト」のような感じではない。長谷川の作品も鈴木の作品も、対象が自己と密着しすぎて、なんだか息苦しい。
 「あなた」ということばを含むコルネリユス・プラターリスの作品は、私がいてあなたがいるという存在の明確な区別があって、そこから交渉が始まるという楽しさがある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする