ルイ・マクニース『秋の日記』(辻昌宏、道家英穂、高岸冬詩訳)(思潮社、2013年03月31日発行)
ことばには不思議なことが起きる。そのことばを読んだときは何のことかわからない、どうにもついていけないと感じるのに、別のことばを読んだあと読み直すと、あ、わかる、これはいいなあ、と印象が激変することがある。私の場合、稲川方人のことばはさっぱりわからないのだが、平出隆の詩を読んだあとだけは稲川の詩が「わかる」。わかったつもりになる。平出には稲川は天才に見えるだろうなあ、と感じてしまう。それに似た経験をした。
ルイ・マクニース『秋の日記』(辻昌宏、道家英穂、高岸冬詩訳)はことばがごつごつしていて、私には非常に読みにくかった。
「1」の書き出しの4行だが、ことばが多くて、肉体がついていけない。頭の中でことばが空回りする。
ところが、村上春樹の『多崎つくる』を読んだあと詩集を開くと、そこに書かれていることばが肉体にずきんずきんと突き刺さって、肉体の内部にぐいぐい分け入ってくる。村上春樹のことばが抽象的で、「意味の調和」で成り立っているのに対して、ルイ・マクニースのことばは「意味の調和」を拒絶している。その「拒絶」の感じ、ことばが「もの」として「肉体」をもってそこにある--という感じにどきどきしてしまう。
「下り坂」や「イチイの木」「小型望遠鏡」にどんな「意味」があるのかわからない。つまり、それらがどんな「痛み(村上春樹の書いていることばに対するイヤミです、もちろん)」が共有されているのか(重なり合っているのか)、ぜんぜんわからない。何の「意味」も持たず、ただそこに存在するだけとしかわからないが、その「存在するだけ」ということが、私の「肉体」を呼び覚ます。私の「肉体」も存在するだけ。「意味」なんかもってはいない。どんな「痛み」も、だれとも共有していない。だれの「痛み」にも重なっていない。そのことに、どきどきしてしまう。無意味のなかにほうりだされ、「肉体」であることをつきつきられた形。
それでは、そこに書かれていることばは何をしているのか。「存在するだけ」と私は便宜上書いてしまったのだが、ほんとうに存在しているだけなのか。存在することによって、何をしようとしているのか。「存在する」ということになろうとしている、と書いてしまえば、まあ、堂々巡りだね。でも、そうなのだと思う。存在するものはただ存在するということになろうとしている。ほかのことは拒絶している。
もし、存在しているものが存在しているものと出会い、そこに「意味」が生まれてきたとしても、そんなことは存在している「下り坂」や「イチイの木」「小型望遠鏡」には関係がない。その「存在」の「出会いの場」にいるだれか(ルイ・マクニースだろうけれど)が勝手に捏造するものである。だから、「存在するもの」はいつでも、そこにつくりだされる「こと(意味)」を拒絶する権利がある。--その「存在するものの権利」としっかり向き合いながら、ルイ・マクニースは、自分自身のなかにすでに存在する「意味」を叩き壊すという運動を生きることで、新しい「意味」に生まれ変わる。もちろん、そういう「生まれ変わった意味」もまた叩き壊されるしかないものなのだけれど。言い換えると、それは死と再生の瞬間的な交錯の運動になるのだけれど。そして、その瞬間的な交錯のなかに輝く何かが詩なのである。瞬間的な交錯のなかに輝く何か--なんていうものは、方便であって、大いなる勘違い(誤読)と言えばそうなるのだろうけれど、その「誤読」する力のなかにしか人間は生きることができない。
村上春樹のように「痛み」と「痛み」の「調和」というような、抽象的な「真理」とはまったく別なものを人間の肉体は生きていると思う。村上春樹の「調和の真理」は美しいけれど、それは「頭」のつくりだす美しさであって、その美しさのなかには肉体がない。肉体がないから、どんどんことばが動いていき、だれも苦しまない。ことばによってだれも傷つかない。「意味」は「調和」という抽象のなかにすべてを整えてしまう。
ルイ・マクニースのことばには「意味の調和」はない。
なぜ「マツユキソウ」なのか、「意味」を考えるとさっぱりわからない。同じように、
なぜ「ナイフについた積年の油」? なぜ「動物園のトド」? なぜ「自信たっぷり」? すべてはわからない。そのとき、そこに詩人がいて、そういう「こと」が起きただけである。
で、このとき、そいういう「こと」と「ことのなかにあるものの出会い」がなぜ詩なのか。そこにどんな「調和」があるのか。
破壊と再生(誕生)の交錯が成り立つのは、「破壊=誕生」という矛盾した「調和」があるからだ。--というのは、私の「感覚の意見」なのだが。
わからないまま、「感覚の意見」にしたがって、私は「飛躍」するのだが。
その「調和」を支えているのは「音楽」である。ことばの「音」である。ことばの「音」が「肉体」のなかに、「調和」を引き起こす。
(ここから先は、ほとんど私の空想である。)
日本語の「音」は非常に少ない。だから「韻」を踏むことで「音楽」をつくりだすことはむずかしい。だから「韻」ではなく「リズム(5・7・5など)」を利用して「音楽」をつくる。リズムは繰り返しが基本だから、ある意味では「単調」になる。その単調さを乗り越えるために「意味」が利用される。「意味」を考えるとき、「肉体」だけではなく、「頭」が動くからね。「意味の調和」というのは、「頭のなかの調和」ということだろうなあ。だから(?)、たとえば古今集や新古今集のような技巧、意味の裏切りによる意味の覚醒、感覚の強制的刺戟という「聞こえない音楽」へとことばが動いていくのだろう。
でも、ルイ・マクニースの英語には「音」があふれている。脚韻の「韻」はいったい幾種類あるか私は知らないが、母音で解放されたままの音だけでも「あいうえお」の5種類を超えるし、母音+子音の韻があるのだから日本語とは比べ物にならない。そこには「意味」に頼らなくても、「音」そのものの「音楽」がある。「和音」のようなものがある。それにさらに「リズム」のうねりがある。「意味」に頼らなくても、「音」が「音楽」そのものなのだ。
逆に言うと(?)、音と音の「調和」が「意味の破壊」という詩になるのだ。かけ離れた意味のことばが脚韻のなかで偶然に出会う。出会って「音」の「調和」を響かせる。そうすると、かけ離れた存在が、かけ離れた「意味」を破壊し--つまり、それはけっしてかけ離れたものではないと「肉体」(耳)にささやきかけるのだ。
どんなふうにかけ離れていない? どんなふうな「意味」で繋がっている?
わからない。わからないけれど、「音」が「音楽」が、いままであった「意味」を無視して、「繋がっているよ」と、まず「肉体」に教えるのである。「肉体」をそそのかすのである。--この魅力的な誘惑。わけのわからない驚き。
「音楽」さえ成立すれば、そこにどんなかけ離れた「意味」でも捏造できる。
「意味」なんて、どっちにしろ「頭」ででっちあげたもの。それが「肉体」にここちよければ「肉体」に共有されてひろがっていく。「肉体」の気持ちよくないなら共有されない。--というのは、うーん、野蛮な考え方かなあ。
でも、その野蛮な力が、たぶんいいのだ。
突然飛躍して村上春樹にもどると、村上春樹には、そういう野蛮がない。野蛮な魅力がない。『1Qなんとか』にも『多崎つくる』にも、私の聴いたことのない音楽(曲)がでてきた。村上春樹は音楽には詳しいのだろうけれど、その曲は肉体の野蛮から生まれてきた音楽ではなく、完成された音楽のなかから生み出された新しい「頭」のための曲かもしれない。村上春樹は、言い換えると「頭」の音楽としての「小説」を書いているかもしれない。ほんとうは違うかもしれないが、村上春樹の小説を読むと、そういう感じになる。「頭」を整える「調和」の音楽--悪く言うと「洗脳の音楽」。「頭」の調和を優先し、「肉体」の暴動を抑え込む音楽。
村上春樹のことばに比べると、ルイ・マクニースのことばは肉体の暴動、野蛮をそそのかす音楽だね。私は英語が読めないし、聞き取る耳も持たないので、翻訳から勝手に想像しているだけだけれど。
ことばには不思議なことが起きる。そのことばを読んだときは何のことかわからない、どうにもついていけないと感じるのに、別のことばを読んだあと読み直すと、あ、わかる、これはいいなあ、と印象が激変することがある。私の場合、稲川方人のことばはさっぱりわからないのだが、平出隆の詩を読んだあとだけは稲川の詩が「わかる」。わかったつもりになる。平出には稲川は天才に見えるだろうなあ、と感じてしまう。それに似た経験をした。
ルイ・マクニース『秋の日記』(辻昌宏、道家英穂、高岸冬詩訳)はことばがごつごつしていて、私には非常に読みにくかった。
ひそかに、ゆっくりと、ハンプシャーの夏は終わりに向かい、
刈った芝生の下り坂を退いていく。きっちり刈り込まれたイチイの木が
引退した将軍や提督の余生を隔離する。
ホールには小型望遠鏡がぶら下がり、礼拝堂の座席には祈祷書が備わっている。
「1」の書き出しの4行だが、ことばが多くて、肉体がついていけない。頭の中でことばが空回りする。
ところが、村上春樹の『多崎つくる』を読んだあと詩集を開くと、そこに書かれていることばが肉体にずきんずきんと突き刺さって、肉体の内部にぐいぐい分け入ってくる。村上春樹のことばが抽象的で、「意味の調和」で成り立っているのに対して、ルイ・マクニースのことばは「意味の調和」を拒絶している。その「拒絶」の感じ、ことばが「もの」として「肉体」をもってそこにある--という感じにどきどきしてしまう。
「下り坂」や「イチイの木」「小型望遠鏡」にどんな「意味」があるのかわからない。つまり、それらがどんな「痛み(村上春樹の書いていることばに対するイヤミです、もちろん)」が共有されているのか(重なり合っているのか)、ぜんぜんわからない。何の「意味」も持たず、ただそこに存在するだけとしかわからないが、その「存在するだけ」ということが、私の「肉体」を呼び覚ます。私の「肉体」も存在するだけ。「意味」なんかもってはいない。どんな「痛み」も、だれとも共有していない。だれの「痛み」にも重なっていない。そのことに、どきどきしてしまう。無意味のなかにほうりだされ、「肉体」であることをつきつきられた形。
それでは、そこに書かれていることばは何をしているのか。「存在するだけ」と私は便宜上書いてしまったのだが、ほんとうに存在しているだけなのか。存在することによって、何をしようとしているのか。「存在する」ということになろうとしている、と書いてしまえば、まあ、堂々巡りだね。でも、そうなのだと思う。存在するものはただ存在するということになろうとしている。ほかのことは拒絶している。
もし、存在しているものが存在しているものと出会い、そこに「意味」が生まれてきたとしても、そんなことは存在している「下り坂」や「イチイの木」「小型望遠鏡」には関係がない。その「存在」の「出会いの場」にいるだれか(ルイ・マクニースだろうけれど)が勝手に捏造するものである。だから、「存在するもの」はいつでも、そこにつくりだされる「こと(意味)」を拒絶する権利がある。--その「存在するものの権利」としっかり向き合いながら、ルイ・マクニースは、自分自身のなかにすでに存在する「意味」を叩き壊すという運動を生きることで、新しい「意味」に生まれ変わる。もちろん、そういう「生まれ変わった意味」もまた叩き壊されるしかないものなのだけれど。言い換えると、それは死と再生の瞬間的な交錯の運動になるのだけれど。そして、その瞬間的な交錯のなかに輝く何かが詩なのである。瞬間的な交錯のなかに輝く何か--なんていうものは、方便であって、大いなる勘違い(誤読)と言えばそうなるのだろうけれど、その「誤読」する力のなかにしか人間は生きることができない。
村上春樹のように「痛み」と「痛み」の「調和」というような、抽象的な「真理」とはまったく別なものを人間の肉体は生きていると思う。村上春樹の「調和の真理」は美しいけれど、それは「頭」のつくりだす美しさであって、その美しさのなかには肉体がない。肉体がないから、どんどんことばが動いていき、だれも苦しまない。ことばによってだれも傷つかない。「意味」は「調和」という抽象のなかにすべてを整えてしまう。
ルイ・マクニースのことばには「意味の調和」はない。
だがなぜ彼女は帰ってこなくてはならぬのか? なぜマツユキソウは
いのちが永遠につづくことを示さなければならぬのか? (17ページ)
なぜ「マツユキソウ」なのか、「意味」を考えるとさっぱりわからない。同じように、
宴に参加しない百人中九十九人が
ナイフについた積年の油を洗い落とさなければならないような
完全に道を誤った愚かな制度への
忠誠ではなく屈辱の中で食い物にされ、 (22ページ)
突然、動物園からトドが
自信たっぷりに鳴くのが聞こえる。 (34ページ)
なぜ「ナイフについた積年の油」? なぜ「動物園のトド」? なぜ「自信たっぷり」? すべてはわからない。そのとき、そこに詩人がいて、そういう「こと」が起きただけである。
で、このとき、そいういう「こと」と「ことのなかにあるものの出会い」がなぜ詩なのか。そこにどんな「調和」があるのか。
破壊と再生(誕生)の交錯が成り立つのは、「破壊=誕生」という矛盾した「調和」があるからだ。--というのは、私の「感覚の意見」なのだが。
わからないまま、「感覚の意見」にしたがって、私は「飛躍」するのだが。
その「調和」を支えているのは「音楽」である。ことばの「音」である。ことばの「音」が「肉体」のなかに、「調和」を引き起こす。
(ここから先は、ほとんど私の空想である。)
日本語の「音」は非常に少ない。だから「韻」を踏むことで「音楽」をつくりだすことはむずかしい。だから「韻」ではなく「リズム(5・7・5など)」を利用して「音楽」をつくる。リズムは繰り返しが基本だから、ある意味では「単調」になる。その単調さを乗り越えるために「意味」が利用される。「意味」を考えるとき、「肉体」だけではなく、「頭」が動くからね。「意味の調和」というのは、「頭のなかの調和」ということだろうなあ。だから(?)、たとえば古今集や新古今集のような技巧、意味の裏切りによる意味の覚醒、感覚の強制的刺戟という「聞こえない音楽」へとことばが動いていくのだろう。
でも、ルイ・マクニースの英語には「音」があふれている。脚韻の「韻」はいったい幾種類あるか私は知らないが、母音で解放されたままの音だけでも「あいうえお」の5種類を超えるし、母音+子音の韻があるのだから日本語とは比べ物にならない。そこには「意味」に頼らなくても、「音」そのものの「音楽」がある。「和音」のようなものがある。それにさらに「リズム」のうねりがある。「意味」に頼らなくても、「音」が「音楽」そのものなのだ。
逆に言うと(?)、音と音の「調和」が「意味の破壊」という詩になるのだ。かけ離れた意味のことばが脚韻のなかで偶然に出会う。出会って「音」の「調和」を響かせる。そうすると、かけ離れた存在が、かけ離れた「意味」を破壊し--つまり、それはけっしてかけ離れたものではないと「肉体」(耳)にささやきかけるのだ。
どんなふうにかけ離れていない? どんなふうな「意味」で繋がっている?
わからない。わからないけれど、「音」が「音楽」が、いままであった「意味」を無視して、「繋がっているよ」と、まず「肉体」に教えるのである。「肉体」をそそのかすのである。--この魅力的な誘惑。わけのわからない驚き。
「音楽」さえ成立すれば、そこにどんなかけ離れた「意味」でも捏造できる。
「意味」なんて、どっちにしろ「頭」ででっちあげたもの。それが「肉体」にここちよければ「肉体」に共有されてひろがっていく。「肉体」の気持ちよくないなら共有されない。--というのは、うーん、野蛮な考え方かなあ。
でも、その野蛮な力が、たぶんいいのだ。
突然飛躍して村上春樹にもどると、村上春樹には、そういう野蛮がない。野蛮な魅力がない。『1Qなんとか』にも『多崎つくる』にも、私の聴いたことのない音楽(曲)がでてきた。村上春樹は音楽には詳しいのだろうけれど、その曲は肉体の野蛮から生まれてきた音楽ではなく、完成された音楽のなかから生み出された新しい「頭」のための曲かもしれない。村上春樹は、言い換えると「頭」の音楽としての「小説」を書いているかもしれない。ほんとうは違うかもしれないが、村上春樹の小説を読むと、そういう感じになる。「頭」を整える「調和」の音楽--悪く言うと「洗脳の音楽」。「頭」の調和を優先し、「肉体」の暴動を抑え込む音楽。
村上春樹のことばに比べると、ルイ・マクニースのことばは肉体の暴動、野蛮をそそのかす音楽だね。私は英語が読めないし、聞き取る耳も持たないので、翻訳から勝手に想像しているだけだけれど。
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