詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ルイ・マクニース『秋の日記』

2013-04-19 23:59:50 | 詩集
ルイ・マクニース『秋の日記』(辻昌宏、道家英穂、高岸冬詩訳)(思潮社、2013年03月31日発行)

 ことばには不思議なことが起きる。そのことばを読んだときは何のことかわからない、どうにもついていけないと感じるのに、別のことばを読んだあと読み直すと、あ、わかる、これはいいなあ、と印象が激変することがある。私の場合、稲川方人のことばはさっぱりわからないのだが、平出隆の詩を読んだあとだけは稲川の詩が「わかる」。わかったつもりになる。平出には稲川は天才に見えるだろうなあ、と感じてしまう。それに似た経験をした。
 ルイ・マクニース『秋の日記』(辻昌宏、道家英穂、高岸冬詩訳)はことばがごつごつしていて、私には非常に読みにくかった。

ひそかに、ゆっくりと、ハンプシャーの夏は終わりに向かい、
 刈った芝生の下り坂を退いていく。きっちり刈り込まれたイチイの木が
引退した将軍や提督の余生を隔離する。
 ホールには小型望遠鏡がぶら下がり、礼拝堂の座席には祈祷書が備わっている。

 「1」の書き出しの4行だが、ことばが多くて、肉体がついていけない。頭の中でことばが空回りする。
 ところが、村上春樹の『多崎つくる』を読んだあと詩集を開くと、そこに書かれていることばが肉体にずきんずきんと突き刺さって、肉体の内部にぐいぐい分け入ってくる。村上春樹のことばが抽象的で、「意味の調和」で成り立っているのに対して、ルイ・マクニースのことばは「意味の調和」を拒絶している。その「拒絶」の感じ、ことばが「もの」として「肉体」をもってそこにある--という感じにどきどきしてしまう。
 「下り坂」や「イチイの木」「小型望遠鏡」にどんな「意味」があるのかわからない。つまり、それらがどんな「痛み(村上春樹の書いていることばに対するイヤミです、もちろん)」が共有されているのか(重なり合っているのか)、ぜんぜんわからない。何の「意味」も持たず、ただそこに存在するだけとしかわからないが、その「存在するだけ」ということが、私の「肉体」を呼び覚ます。私の「肉体」も存在するだけ。「意味」なんかもってはいない。どんな「痛み」も、だれとも共有していない。だれの「痛み」にも重なっていない。そのことに、どきどきしてしまう。無意味のなかにほうりだされ、「肉体」であることをつきつきられた形。
 それでは、そこに書かれていることばは何をしているのか。「存在するだけ」と私は便宜上書いてしまったのだが、ほんとうに存在しているだけなのか。存在することによって、何をしようとしているのか。「存在する」ということになろうとしている、と書いてしまえば、まあ、堂々巡りだね。でも、そうなのだと思う。存在するものはただ存在するということになろうとしている。ほかのことは拒絶している。
 もし、存在しているものが存在しているものと出会い、そこに「意味」が生まれてきたとしても、そんなことは存在している「下り坂」や「イチイの木」「小型望遠鏡」には関係がない。その「存在」の「出会いの場」にいるだれか(ルイ・マクニースだろうけれど)が勝手に捏造するものである。だから、「存在するもの」はいつでも、そこにつくりだされる「こと(意味)」を拒絶する権利がある。--その「存在するものの権利」としっかり向き合いながら、ルイ・マクニースは、自分自身のなかにすでに存在する「意味」を叩き壊すという運動を生きることで、新しい「意味」に生まれ変わる。もちろん、そういう「生まれ変わった意味」もまた叩き壊されるしかないものなのだけれど。言い換えると、それは死と再生の瞬間的な交錯の運動になるのだけれど。そして、その瞬間的な交錯のなかに輝く何かが詩なのである。瞬間的な交錯のなかに輝く何か--なんていうものは、方便であって、大いなる勘違い(誤読)と言えばそうなるのだろうけれど、その「誤読」する力のなかにしか人間は生きることができない。
 村上春樹のように「痛み」と「痛み」の「調和」というような、抽象的な「真理」とはまったく別なものを人間の肉体は生きていると思う。村上春樹の「調和の真理」は美しいけれど、それは「頭」のつくりだす美しさであって、その美しさのなかには肉体がない。肉体がないから、どんどんことばが動いていき、だれも苦しまない。ことばによってだれも傷つかない。「意味」は「調和」という抽象のなかにすべてを整えてしまう。

 ルイ・マクニースのことばには「意味の調和」はない。

だがなぜ彼女は帰ってこなくてはならぬのか? なぜマツユキソウは
 いのちが永遠につづくことを示さなければならぬのか?       (17ページ)

 なぜ「マツユキソウ」なのか、「意味」を考えるとさっぱりわからない。同じように、

宴に参加しない百人中九十九人が
 ナイフについた積年の油を洗い落とさなければならないような
完全に道を誤った愚かな制度への
 忠誠ではなく屈辱の中で食い物にされ、              (22ページ)

突然、動物園からトドが
 自信たっぷりに鳴くのが聞こえる。                (34ページ)

 なぜ「ナイフについた積年の油」? なぜ「動物園のトド」? なぜ「自信たっぷり」? すべてはわからない。そのとき、そこに詩人がいて、そういう「こと」が起きただけである。
 で、このとき、そいういう「こと」と「ことのなかにあるものの出会い」がなぜ詩なのか。そこにどんな「調和」があるのか。
 破壊と再生(誕生)の交錯が成り立つのは、「破壊=誕生」という矛盾した「調和」があるからだ。--というのは、私の「感覚の意見」なのだが。
 わからないまま、「感覚の意見」にしたがって、私は「飛躍」するのだが。
 その「調和」を支えているのは「音楽」である。ことばの「音」である。ことばの「音」が「肉体」のなかに、「調和」を引き起こす。
 (ここから先は、ほとんど私の空想である。)
 日本語の「音」は非常に少ない。だから「韻」を踏むことで「音楽」をつくりだすことはむずかしい。だから「韻」ではなく「リズム(5・7・5など)」を利用して「音楽」をつくる。リズムは繰り返しが基本だから、ある意味では「単調」になる。その単調さを乗り越えるために「意味」が利用される。「意味」を考えるとき、「肉体」だけではなく、「頭」が動くからね。「意味の調和」というのは、「頭のなかの調和」ということだろうなあ。だから(?)、たとえば古今集や新古今集のような技巧、意味の裏切りによる意味の覚醒、感覚の強制的刺戟という「聞こえない音楽」へとことばが動いていくのだろう。
 でも、ルイ・マクニースの英語には「音」があふれている。脚韻の「韻」はいったい幾種類あるか私は知らないが、母音で解放されたままの音だけでも「あいうえお」の5種類を超えるし、母音+子音の韻があるのだから日本語とは比べ物にならない。そこには「意味」に頼らなくても、「音」そのものの「音楽」がある。「和音」のようなものがある。それにさらに「リズム」のうねりがある。「意味」に頼らなくても、「音」が「音楽」そのものなのだ。
 逆に言うと(?)、音と音の「調和」が「意味の破壊」という詩になるのだ。かけ離れた意味のことばが脚韻のなかで偶然に出会う。出会って「音」の「調和」を響かせる。そうすると、かけ離れた存在が、かけ離れた「意味」を破壊し--つまり、それはけっしてかけ離れたものではないと「肉体」(耳)にささやきかけるのだ。
 どんなふうにかけ離れていない? どんなふうな「意味」で繋がっている?
 わからない。わからないけれど、「音」が「音楽」が、いままであった「意味」を無視して、「繋がっているよ」と、まず「肉体」に教えるのである。「肉体」をそそのかすのである。--この魅力的な誘惑。わけのわからない驚き。
 「音楽」さえ成立すれば、そこにどんなかけ離れた「意味」でも捏造できる。
 「意味」なんて、どっちにしろ「頭」ででっちあげたもの。それが「肉体」にここちよければ「肉体」に共有されてひろがっていく。「肉体」の気持ちよくないなら共有されない。--というのは、うーん、野蛮な考え方かなあ。
 でも、その野蛮な力が、たぶんいいのだ。

 突然飛躍して村上春樹にもどると、村上春樹には、そういう野蛮がない。野蛮な魅力がない。『1Qなんとか』にも『多崎つくる』にも、私の聴いたことのない音楽(曲)がでてきた。村上春樹は音楽には詳しいのだろうけれど、その曲は肉体の野蛮から生まれてきた音楽ではなく、完成された音楽のなかから生み出された新しい「頭」のための曲かもしれない。村上春樹は、言い換えると「頭」の音楽としての「小説」を書いているかもしれない。ほんとうは違うかもしれないが、村上春樹の小説を読むと、そういう感じになる。「頭」を整える「調和」の音楽--悪く言うと「洗脳の音楽」。「頭」の調和を優先し、「肉体」の暴動を抑え込む音楽。
 村上春樹のことばに比べると、ルイ・マクニースのことばは肉体の暴動、野蛮をそそのかす音楽だね。私は英語が読めないし、聞き取る耳も持たないので、翻訳から勝手に想像しているだけだけれど。














秋の日記
ルイ マクニース
思潮社
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大西美千代「死んだも同然」ほか

2013-04-18 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
大西美千代「死んだも同然」ほか(「そして。それから」3、2013年03月発行)

 大西美千代「死んだも同然」の前半におもしろい部分があった。

騒々しい不在を抱えて
地下鉄に乗っている
見知らぬ人に囲まれている

五八歳の母に会いたくなって
地下鉄の窓に目をやる
八七歳の母はすこぶる元気で
今頃は花に水をやっているだろう

電車が止まる
たくさんの人が降りていく

 2連目「五八歳の母に会いたくなって/地下鉄の窓に目をやる」は、大西がいま五八歳で、そのときの母を思い出しているのだろう。顔が似ているのかもしれない。地下鉄の窓をのぞくと、そこに自分の顔ではなく、昔の母の顔、五八歳の母の顔が見えたということだろう。そして、母に会いたくなった。--詩は、母に会いたくなって窓に目をやると書いてあるから、ほんとうは、母のことをふと思いながら地下鉄の窓をのぞくと、そこには自分の顔ではなく五八歳の母の顔が映っていたということかもしれない。あるいは、地下鉄の窓をのぞけばそこに五八歳の母そっくりの自分の顔が映るとわかっていて、そうしたのかもしれない。どっちでもいいが(どっちでもいいということはないかもしれないが)、母と自分、その顔のつながりが緊密に結びついている。
 で、その緊密な感じがあるから「八七歳の母はすこぶる元気で/今頃は花に水をやっているだろう」が空想なのにありありと感じられる。
 ということの一方。
 五八歳の母は、どうだったのだろう。どんな顔をしていただろうか。いまの私の顔と同じだろうか。いま、母はすこぶる元気だが、五八歳のときはどうだったか、と「見えない母」を探しているようにも見える。なぜ、母はいま元気なのに、わざわざ五八歳の母を探すか、見えない母を探すかといえば、いまの大西には八七歳の母ほどの「元気」がないからだろう。どうすれば、いまの元気な母のようになれるのか、その手がかりを探しているのかもしれない。それが「五八歳の母に会いたくなって/地下鉄の窓に目をやる」気持ちなのだろう。
 八七歳の母はすこぶる元気なのに、私(大西)は「死んだも同然」のようにいまの自分を感じていて、それをなんとかしたいという思いがあるのかもしれない。
 説明すると、なんだかめんどうくさいことが4行のなかに、とても自然な形で生きている。それがおもしろかった。

 「ウサギ」という詩は、その母のことを思い、自分のいまを思うときの、一瞬のこころの交錯のようなものを別の形で書いている。ひとは一瞬何かを思う。そして、その思ったことをもう一度反芻しようとすると、それがうまくできない。ことばがつづかない。ことばは、ひとの思いよりもはやく動くいてしまう。どこかへ行ってしまう。
 で、「死んだも同然」は後半はことばに逃げられてしまって、理屈っぽいだけになっているのだが、(だから引用しなかったのだが)、「ウサギ」は最後までことばが追いついて行っている。

逃げ足の速いウサギのように
あと足をのばして
言葉が消えて行ってしまうのです

あら 何を考えていたのだったかしら
だいじなことだったかしら
素敵な言い回しだったような気もするけれど
水道の水が流れっぱなしだわ
ウサギって何のこと
あれはどこに片付けたのだったかしら

忘れてはいけないことは思っていたほど多くはなかった

逃げ足の速いウサギは
森の中であと足をなめている
耳は畳んで

 自然なことばのリズムがいいなあ、と思う。

 花の写真とことばを組み合わせたもののなか、

花という字は
死という字に似ている

 というのがあった。なるほど。




詩集 てのひらをあてる (21世紀詩人叢書)
大西 美千代
土曜美術社出版販売
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石井裕也監督「舟を編む」(★★★★★)

2013-04-18 10:39:46 | 映画
監督 石井裕也 出演 松田龍平、宮崎あおい、オダギリジョー

 辞書をつくる、というのはとても地味な仕事でたいへんな仕事だということがわかる。それだけでなはなく。
 あ、辞書づくりはおもしろい。してみたい。
 それが伝わってくる。真剣さに感染してしまう。まじめであることは、いつでも美しい。
 これは松田龍平の代表作になるだろうなあ。

 好きなシーンはいろいろあるが。いちばん好きなのは、松田龍平ではなく、どこかで見たことがある女優のシーン。どこかの部署から辞書づくりの部署に配転になってやってくる。「ビールはNG、日本酒はもっとだめ。飲むのはシャンパンだけ」と気取っている。辞書づくりの仕事なんかつまらない。辞書のファッション用語の古くさいのに「なにこれ」と思っている。こんな仕事大嫌い、と思っている。
 そこへオダギリジョーがやってきて、「ださい」の項目について話す。「これは自分が書いたんだ」。そして用例の「酔って、泣きながら愛を告白するのはださい」(だったかな?)は自分の体験なんだ、と言う。
 その瞬間に、この気取った女が豹変する。ことばって、おもしろい。ことばって現実なんだ。
 で、辞書づくりに真剣になるし、ビールも飲むようになる。
 つぎに好きなのが、辞書の紙を選ぶシーン。製紙会社の人が自慢の紙をもってくる。それに対して松田龍平が「ぬめり感」が足りないという。指に吸いついて、一枚一枚めくれる感じ。それを求めて、製紙会社の開発部のひとが、あさこれ検討するシーンがちらりと出てくるが、同時に、先に書いた辞書づくりなんてくだらないと思っていた女が、引き合いにだされた辞書をめくって、ページが指に吸いつく感じを確かめながら「ぬめり感……」とつぶやくシーン。(これは、オダギリジョーがやってくる直前のシーンなのだけれど。)ここでも、ことばは「現実」そのもの、自分の感じていることをつたえるためのものということを実感している。肉体で確かめている。
 どこにでも「ことば」はあり、そのことばは「生きている」。
 これは辞書づくりの監修をしている加藤剛(教授)が言うことでもあり、今回の辞書の方針は「生きていることば」を多く取り入れること、という方針として語られることでもある。さらには辞書が完成したあとも、すぐに改訂を目指して「用例採集」をしはじめる松田龍平や小林薫の姿勢でもつたえられるのだけれど、そういう「主役級」のひとのことば、態度ではなく、わきの途中から出てくる女優をとおして、「無言」のまま展開しているところがいいなあ。「ことばは生きている」が押し付けになっていない。「実感」として、そこにある。
 あ、松田龍平について書くのを忘れた。
 何をしていいかわからない、無能な営業マンが、自分の仕事をみつけ、のめりこんでいく。仕事を進めていくにしたがって、どうしようもない男が、ひとりの人間になっていく。この感じが実に自然。その自然のなかに、最初の「右の定義」(西を向いたとき、北に当たる方が右)を自分のなかから引き出してくる愚直さ、愚直な美しさがあって、それがとても魅力的である。見た瞬間に魅力的なのではなく、その人間が動くのを見ていると、だんだん魅力的になってくる--そういう魅力。これを「時間」をかけて浮かび上がらせる。
 登場する役者だけではなく、本だらけの古いアパートの感じ、辞書づくりの部署の感じ、古いワープロ(コンピューター)の感じ、私の苦手な猫の感じまで、とてもていねいにていねいに撮影されていて、文句のつけようがない。松田龍平が教授を見舞いに行った病院の廊下を走ると、すかさず看護婦が「走らないでください」と注意するという一瞬のシーンにも「気持ち(主人公)」と「現実(他者)」が出会い、そこに「ことば」があることがはっきり描かれている。

 原作はとても評判になったが、私は読んでいない。で、読みたい、と思った。映画を見て原作を読みたいと思う映画はめったにない。「読む」というのは「ことば」で確かめること。「ことば」をとおして体験をもう一度復習すること--もう一度あの感動をたしかめたい、そう思わせる映画はすごい。
                        (2013年04月16日、天神東宝5)





舟を編む
三浦 しをん
光文社
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村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

2013-04-17 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋、2013年04月15日発行)

 私は村上春樹の熱心な読者ではない。群像新人賞をとったときの作品と、『1Q・・(タイトルは忘れた)』と今回の作品と3作品しか読んでいない。『1Q・・』は2まで読んで、3は買ったが、読まないままどこかに紛れてしまった。
 文章があまりにわかりやすすぎて、小説を読んでいる感じがしない。私は目が悪くて読むのに非常に時間がかかるはずなのに、あっという間に読めてしまう。それが、読んでいて、とてもいやな感じなのである。
 で、今回の作品。

つくるの意識の中で、父子の姿かたちは自然に重なり合った。二つの異なった時間性がひとつに混じり合うような、不思議な感覚があった。あるいはその出来事を実際に体験したのは父親ではなく、ここにいる息子自身なのかもしれない。      (79ページ)

 沙羅がテーブル越しに身を乗り出し、彼の手に手をそっと重ねた。(略)それは、遠い場所でたまたま同時的に起こっている、まったく別の系統の出来事のようにも感じられた。                               (147 ページ)

 ここにテーマが要約されている。(他にも随所にテーマは要約されているが)。
 違ったもの(二つのもの)が時間と場所を超えて重なり合う。あるいは違ったもの(二つのもの)が時間と場所を同時にしながら離れる。人間の関係(社会構造)は、そんな具合にできている。
 この単純化は『1Q・・』にも通じる。『1Q・・』のQは9と重なりながら離れてもいる。世界の構造(人間関係)があまりにも単純化されているので、とてもわかりやすい。初めて読む本なのに何度もくりかえし読んだ本のように即座に要約でき、キーセンテンスが読む前から傍線つきで見えてしまう。
 これは、たぶん、世の中はそんなふうに単純化してはいけない、ということなのだと思う。確かにどんなことでも、出会いの瞬間、それは別次元を引き寄せるか、あるいは別次元への乖離(分裂)かという運動を引き起こすけれど--そんな「要約」を小説のなかに持ち込んでは、「小説」が「世界構造の解説書」になってしまう。それも学校の先生がつかう「アンチョコ」のような解説書になってしまう。オリジナリティーがまったくない、「流通解説書」になってしまう。村上春樹に「小説の読み方」を教えられながら読んでいる、授業を受けているような、しかも教科書のアンチョコをそのまま読みあげている先生の授業を受けているような、つまらない気持ちになる。いやあな感じになる。そのアンチョコ解説書にしたがえばテストで 100点をとれるかもしれないけれど、それで何かを学んだことになる?  100点の取り方を学んだだけじゃない?

 小説って違うんじゃない? そこに登場する人物がたとえ人殺しであっても、あ、この人殺しになってみたいと思わせるのが小説じゃない? 主人公がどんなに不幸になろうが、その不幸に泣きながら、その主人公になってみたいと思うのが小説じゃない? そのとき、世界がどんな構造になっているかなんか忘れて、ひとりの人間になってしまうのが小説じゃない? あるいは、こんなことを書くなんてこの作家変じゃない? 異常じゃない? でも、なんだかおもしろい。できれば真似してみたい、と思うのが小説じゃない? (あるいは魅力的な先生じゃない?)
 私は、私の読んだ限りの小説で言えば、村上春樹の書いている小説の主人公になってみたいと思わない。そこに登場する悪役になってみたいとは思わない。また解説つきの作品は小説とは思わない。

 ちょっと脱線したかな?
 村上春樹は、小説の「要約」をところどころにはさみながら、読者を誘導し、ストーリーを展開する。だから、とても読みやすい。わかりやすい、読みやすいという点では村上春樹は日本でいちばんわかりやすく、読みやすい作家だろう。けっして読み間違えることはない。テーマを読み落とすことはない。だれでも同じ「結論(?)」に間違いなくたどりつける。
 という具合に小説をつくっているのだが。
 307 ページ。この小説のハイライトの部分で、私は、びっくり仰天してしまった。何だ、これは。こんなむちゃくちゃなことばの運動があっていいのか。これが小説と言えるのかと本を投げつけたくなった。(会社で、こっそり仕事中に読んでいたので、それはできなかったが……。)

彼は息を止め、目を堅く閉じてじっと痛みに耐えた。アルフレート・ブンデルは端正な演奏を続けていた。曲集は「第一年・スイス」から「第二年・イタリア」へと移った。
 そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷とによって深く結びついているのだ。痛みと痛みにって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。

 「人の心と人の心は……」以下は、最初に引用した「二つの世界」の出会い方と分離のしたか(重なり方、調和の仕方、離れ方)を言いなおしたものである。どんな出会いでも、それが「調和」するときは「傷み」よって「重なり合う」、「傷み」を共有することによって「一つ」になる。
 それはその通り。阪神大震災、オウムのサリン事件、東日本大震災をとおして、いまの日本は「痛み」を「共有」することで、なんとか調和している。そういう「現実」とも重なり合っているし、この「結論(?)」に私が文句を言いたいわけではない。
 またそれが最初に書いたことがらの言い直しであることに対して文句が言いたいわけでもない。ひとは大事なことは(ほんとうに言いたいと思っていることは)、ことばをくりかえしながら何度でも言うものである。
 私が怒りたいのは、

そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。

 この「そのとき」である。「そのとき」って、何? いや、わかるさ。だれが読んだって、「そのとき」は「曲集は「第一年・スイス」から「第二年・イタリア」へと移った」ときである。
 でも村上春樹は、「第一年・スイス」と「第二年・イタリア」がどんなふうに違うのか、読んでわかるように書いていない。主人公がその違いをどんなふうに感じているのか、それをことばにしていない。
 こんなばかげた文章があっていいのか。
 「第一年」の痛みがどのようなものであり、「第二年」の痛みがどのようなものであるか。それを主人公がどう感じたのか書かずに、「第一年」の痛みと「第二年」の痛みが重なるように(結びつくように)、主人公多崎つくるの痛みと彼の友人たちの痛みが結びついていると言われても、それは「解説」として書かれている「図式」にすぎない。
 しかも「気取った解説」である。「巡礼の年」という曲を聴いた人なら「違い」を解説しなくてもわかるでしょ?という暗黙の(?)プレッシャーをかけ、反論を許さないというずるい解説である。
 私はもちろんその曲を聴いたことがない。私はばかだから、そしてそれを聴いたことがないということを恥ずかしいとは思わない。初版本を買った50万人のうちの何人がそのメロディーを口ずさむことができ、またそのうちの何人が誰それと誰それの演奏の違いを自分のことばで言えるか知らないが、まあ、読者をばかにしているなあとムカムカしてしまう。
 だいたいねえ。
 「傷」と「傷」、「痛み」と「痛み」をつなぐ、それによって「調和」するなんてねえ、そんな簡単に言ってしまっていいことなのか。
 他人の痛みなんて、わからない。わからないからこそ、その痛みを具体的に知りたい。わからないけれど、聞きたい。
 先の引用の前に、

 過ぎ去った時間が鋭く尖った長い串となって、彼の心臓を刺し貫いた。無音の銀色の痛みがやってきて、背骨を凍てついた氷の柱に変えた。        (307 ページ)

 と書かれているけれど、こんな痛み、わかる? 「くだらない現代詩の比喩」にしか見えない。「心臓」「背骨」は出てくるが、それは単なる肉体の部位の名称であって、肉体そのものではない。肉体が動いていない。そんなことろに、共有できる「痛み」なんかない。
 道端に腹を抱えてうずくまる人間がいれば、あ、腹が痛いのだと、他人の痛みのなのに痛みとして感じることができるが、それは私たちが腹を抱えて「痛い、痛い」とうめいた体験があるからだ。私は心臓を串で刺し貫かれた体験はないし(しかも、その貫く串が過去というわけのわからなもの)、背骨が氷の柱になったこともない。
 こんな「でたらめ」の「痛み」(空想)はとても「痛み」として共有できない。
 「共有不能な痛み」(気取った教養)を振りかざした「社会の構図(図式)」「人間関係の構図(図式)」を教えてもらいたくて私たちは小説を読むわけではない。(少なくとも、私は、そんなふうには読まない。)そういう「気取った精神」を「わかりたくて」読むわけではない。
 世界の図式なんか、わからなくてもいい。むしろ、図式がわからなくなったほうがいい。いま、自分が直面している思い通りにならない図式(社会/現実)がそこにあるだけで、けっこう。そんな「図式」はわかったって、いまを突き動かしてはくれない。わかりたいのは(感じたいのは)、いま自分が直面している人間であり、いま、ここにある「関係(図式)」を突き破って動いていく人間(個人)の可能性、力である。どんなふうにすれば、自分が自分でなくなれるのか。それが殺人者だろうが、殺される人間だろうが、その人間になってみたいという思いである。自分ではない人間になってどきどきしたい。そのどきどきのなかにだけ「わかる」がある。そのどきどきした「わかる」があれば、人間は生きていける。

 別なことばで言いなおすと、村上春樹の小説には、主人公の「逸脱」がない。登場人物の「逸脱」がない。登場人物は、村上春樹の「世界観」をなぞらされている。そして、その「正確なトレース」のために、ほんとうに書かなければならない部分が省略されている。
 これは小説と呼ぶには、あまりにもひどい作品である。ひどい作品とわかっていたからこそ、巧妙な宣伝で50万部を売ってしまうことにしたのだろうか。
 






色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
村上 春樹
文藝春秋
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小島きみ子「どの水音を遡ってここまで来たか」

2013-04-16 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
小島きみ子「どの水音を遡ってここまで来たか」(「エウメニデスⅢ」44、2013年04月10日発行)

 小島きみ子の詩の感想は、私のような思いついた先から順番にことばにしてしまう人間にはなかなかむずかしい。小島は思いついた順に、書けるところまで書いていく、ことばが動いていくところまで動いていくというタイプではないからだ。小島は全体をしっかりとフレームのなかに入れてしまう。そこには「構造」(構図)のようなものがあって、その構造と、そこからはみだそうとする瞬間的な「存在」の対立(?)が小島の詩だからである。
 直感で書くのだが、小島は、ドイツ語のような「枠構造」をもった言語をどこかで学んだことがあるのかもしれない。そして、そういう「構造」を「肉体」として採用しているのかもしれない。
 というような抽象的なことは、書いてもしようがないので。
 「どの水音を遡ってここまで来たか」を引用してみる。それについて具体的に、私の考えたことを、思いついた順に書いていく。(思いついた順に書いていくので、先に書いたことと矛盾したことを書くかもしれない。でも、私は書き直しはしない。どうしても書き直したいときは、さっき書いたのは間違いだと気づいた、という具合にことばをつないでゆく。)

「トリスタンとイゾルデ」を聴いている。
まだ咲かない櫻の木の下で別れた人たちのことを思いだす。
窓辺のゼラニュームが散っていく。
疲れた人が瞼を閉じるように。

どの水音を遡ってここまで来たか。
新しい物語を創らないと、
流されて行った人々の追憶のなかへ入ってゆけません。
愚かなあまりに愚かな人間は、
何度でも何度でも死んで赦しを請わなければ、
あなたがたの犠牲の意味を知ることなどできはしないのです。

ピーチピンクって言えばいいのか!
チェリーピンクって言えばいいのか!
灰色の大地で果敢に咲いていた桃の花桃の花。
昼間の明るすぎる陽ざしを突然に襲った。
チュルチュル、チュルチュルという水の音。

病室のカーテンの裾から細い足が出ている。
ジャン・コクトーの『怖るべき子供たち』の表紙カヴァーは、
池田満寿夫たったね、と、唐突に叔父が暗唱する。
「虚空のなかを綱渡りする夢遊病者、
すなわち、夢遊病者のように生と死のあいだを往き来する詩人である。」

燃せの花にメジロが来ていたね。
チュルチュル、チュルチュルって。
あなたは鳥の真似をして口笛を吹きながら、
七階心臓外科病棟の廊下を歩いて行ったきりまだ帰って来ない。

 1連目の「別れた人たち」を私は最初、古い友人かなにかのように読んだ。「疲れた人が瞼を閉じるように」もほんとうに疲れた人のことだと思った。ところが、それはどうやら「比喩」らしい。最後まで読むと、「あなた(叔父かもしれない)」は心臓病を患っていたが、入院先の病院で亡くなったらしいことがわかる。で、「別れた人」とは亡くなった人であり、「疲れた人が瞼を閉じるように」とは死ぬことであると想像できる。小島は死別した人の思い出を書いていることになる。
 死んだ人の思い出、死んだ人を思い出すためには(死んだ人の追憶のなかに入っていくには)、「新しい物語」を創らないといけない。自分自身の「思い出」をことばにしないと、そのひととほんとうに会ったことにはならない。思い出したことにならない、というような意味だろう。
 小島の場合、その「思い出」のきっかけというか、「新しい物語」とは、「水の音」なのである。「どの水音を遡ってここまで来たか」の「水音」。「チュルチュル、チュルチュルという水の音。」
 けれど、これはほんとうの「水の音」ではない。実は鳥の声である。桃の花のころ、桃の花の蜜を吸いに来たメジロが「チュルチュル、チュルチュル」。それを「水の音」と感じたのは小島か。あるいは、死んでしまった叔父か。その声に、ふたりは新鮮な気持ちになった。そういう記憶がある。そして「水の音だ」と誰かが言って、メジロの声を水の音と呼ぶことは「詩」の行為である、そう呼ぶひとは「詩人」であるというようなことも話し合ったのだろう。その過程でコクトーと「夢遊病者=詩人」という話も出たのだろう。
 その話をしたあと、叔父は(あなたは)「チュルチュル、チュルチュルって。/あなたは鳥の真似をして口笛を吹きながら、」病棟の廊下を歩いて行った。よほど気に入ったのだ。メジロの鳴き声が「水の音」に聞こえたということが、あるいは小島がその声を「水の音」と呼んだことが。「あら、どこに水が流れているのかしら、チュルチュル、チュルチュルって。」
 「物語」の「構造」としては、そういうことになるだろうと思う。これはそのまま「小説」の形に書き直してもとてもおもしろいものだと思うけれど、小島は詩にしている。そして、それを詩にするとき、ことばをまるで「分散和音」のように散らばしている。ひとつひとつの音では何のことかわからない。散らばった音を「肉体」のなかにとりこみ、「肉体」で演奏し直すとき(?)、それが美しく響く感じ。
 2連目の、そしてタイトルになっている「どの水音を遡ってここまで来たか。」という1行が特に強く響いてくる。そしてそれは、その1行だけでは不安定で何のことかわからないのだが、「チュルチュル、チュルチュル」という具体的な音として表現され、メジロの声で補足され、「口笛」で締めくくられるとき、そこにメロディーと和音が完成するのだが、このことばを散らばらせ、統合する手法こそが小島の詩なのかもしれない。
 「構造(物語)」ははっきり存在するのだが、最初から「物語」を前面に押し出してことばを統一するのではなく、「物語」が最初はわからないように、あるいは「物語」を突き破って、「水の音」「チュルチュル、チュルチュル」が独立して輝くように逸脱させる。さらにそれを「メジロ」で終わらせるのではなく、「口笛」という形に昇華させる。「口笛」という「逸脱」によって、「物語」を「独創(芸術)」にする。

 この「枠構造」と「逸脱」を押し進める強い力は、もしかすると詩よりも散文(小説)の方に向いているかもしれない。
 同じ号に書かれている「Infinity Net 」を読むと、そういう気持ちがさらに強くなる。若い中学教師に、「いきなり抱きつきキスをせがむ」少女を描いている。その「常識」からの「逸脱」を、カタツムリの残す「光る軌跡」のなかに統一し「そっち」と「こっち」の違いを「わかってよ」という聞こえない声を聞き取ることで、「世界」そのものの「構造」として再提出する。そのとき小島のつくりだす「構造(物語)」は同時に、いまある「世界の構造(流通構造)」を破壊する(再考を迫る)という形をとる。
 「既存の構造」と「新しい物語(構造)」のぶつかりあい--は、うーん、私にはやはり「小説」の仕事の方がより訴える力が強くなるように思える。「小説」を書くと、きっと小島は成功すると思う。
 詩を書いている人に、こういう感想を書いてしまうのはよくないことなのかもしれないけれど。






その人の唇を襲った火は―詩集
小島きみ子
洪水企画
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服部史佳「骨」ほか

2013-04-15 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
服部史佳「骨」ほか(「椿の果汁」2013年03月30日)

 服部史佳「骨」はことばを限定した場のなかで動かし、ことばを濃密にさせる。濃密さのなかに--つまり、いつもとは違う濃度のなかに詩がある。いつもと違う濃度が詩なのである。

胸に不安が巣食うというので、背中を開いて背骨を掴む。
ずるりと引きずり出した骨組みは手に応える重さをしている。
数珠に連なった脊椎から伸びた肋骨が、卵を抱えるようにゆるやかな空間を抱いている。けれどそこにびっしりと詰まっているのは、灰色の塵を絡めた蜘蛛の巣だ。

 書き出しの「胸に不安が巣食う」は一種の「流通言語」である。それを調べるために「背中を開いて背骨を掴む。」--これがおもしろい。胸を開いて調べるまでは誰かが書いているかもしれない。でも、そういうとき、たいてい前から開くのでは? 背中から、というのが意表をつく。さらに「骨を掴む」というのに驚かされる。
 詩は、いったんことばの運動の方向性を決めたら、それを突っ走ることが肝腎。きのう読んだ高木浩平の詩では「感情」を「味」でとらえるから始まり、「メニュー」へと突っ走った。そのときことばの「歩幅」に乱れはなかった。リズムが変わらなかった。それが快感。
 クラシックとポップスの違いは、クラシックは旋律を変えないがテンポは変える。一方、ポップスはリズムは変えないが旋律は自由。その「例」を当てはめるなら、現代詩をはじめ、あらゆる文学はポップスに近い。ことばのリズムを変えずに、メロディーは自在に。リズムが一定なら、旋律の変化についていける。
 その「リズム」が服部の場合「骨」なのだ。「肉体」なのだ。「手」でさわって、「骨」の確かさ、固さ、骨組みの強さを知る。「骨」と「手」のあいだで「不安(胸)」を動かしつづける。

肋骨の一本一本に手を滑らせれば、あれほど詰まっていたものが黒ずんだ塊に縮まった。冴えた輪郭と空虚を取り戻したそれは、暗がりに白く静まり返っている。
体へ戻す。
背中をうなじまでぴたりと締める。
なめらかに閉じた背中へ耳を押し当てて、吸い込まれるような静けさの中に、
音がしないだろうかと耳を澄ませている。
脊椎と脊椎との間で息をひそめる小さな蜘蛛の、細い足が骨をひっかくかすかな音、あるいは、
あらたな糸を吐き出す音。
しかし彼らは注意深く隠れているのか、底無しの無音があるばかりだった。

 「骨」を追いかけるだけ追いかけて、最後は「音(無音)」になってしまうのだが、これは変化(失墜)というよりも昇華だろう。脊椎をひっかく音のなかに骨がしっかり残っている。
 服部のことばには、何か若い男がたどりつけない深さがある。自分の肉体を内部から掴んでいる確かさのようなものがある。それが、ことばの肉体に静かに反映しいるのを感じる。--こういうことは「感覚の意見」なので、これ以上は説明できないのだが。
 「瓦礫の海」の、

あなたがこちらを向いていないのは初めてだからわたしは戸惑う

 この1行にも、理由もなく、「肉体」を感じる。ことばが「肉体」のなかからでてきているのを感じる。「戸惑う」が「肉体」として感じられる。
 「声」をもっているのだ。
 「声」のなかには、いつも「肉体」がある。
 「声」がことばを一定に整えている、という印象がする。「耳」がとてもいい詩人なのかもしれない。

 大橋英永「三時四十二分七秒五六」もおもしろかった。

むせながら吐き出した言葉は、
胃液が絡んで不気味に光を放っていた。

おびただしい数の一秒が群れて形を作る、
馴れ合いの未来。
そこから、
記憶をたどって、言葉を発掘する。
胃液は、土壌に馴染み、広がり、
いとも簡単に源となった。

皮膚にしがみつき、毛穴に入り込む湿り気。
図々しい。

 ことばに「肉体」を絡めていこうとする強い意識を感じる。ことばを暴走させるだけではなく、ことばにあわせて「肉体」そのものを暴走させようとしている。ことばが生まれ変わるのではなく、肉体そのものを生まれ変わらせるのである。





詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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高木浩平「食堂」

2013-04-14 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
高木浩平「食堂」(「椿の果汁」2013年03月30日発行)

 若い。ことばが若い。若い美しさに満ちている。ことばをつくりだしていくんだ。だれも書かなかったことを書いていくんだ、という意識が輝いている。体験ではなく(肉体ではなく)、意識がことばを、その中心から動かす。というより、意識がことばのなかから噴出してくる感じ。それも形の定まった意識ではなく、形を持たない意識が、ことばを突き破りながら動いてくる。その意識は形を持たないからこそ、ときに形を頼って(利用して?)しまうけれど、そのときの形は「便宜」にすぎない。形を利用しながら、形を壊していく。若さとは、なによりも破壊なのだ。ひさびさに楽しい詩を読んだ。
 「食堂」の全行。

俺は感情の味が知りたい。

「メニューを見してください。」
「かしこまりました。」
悲哀の味とは。それは、
小雨のごま和え。
自意識の卵とじ。
体育会系の重ね蒸し。
コミュニケーションの寄せ鍋。
困惑の味とは。それは、
影絵のあんかけ。
文化のいけす。
奇人南蛮。
恥の味とは。それは、
新生児のひね漬け。
ミニスカートのお浸し。
憂鬱の姿焼き。
茹で過去(ゆでがこ)。
喜びの味とは。それは、
輪廻転生の輪切り。
紙ヒコーきの丸解き。
産声の散らし盛り。
魑魅魍魎キッズプレート・・・・

いただきますというや否や、困惑を箸でついばみ、喜びをかっ込む。
悲哀をスプーンひたひたにすくい、恥を手づかみで口に運ぶ。
俺はこの異常に肥大した舌で味の出どころを探るんだ。
遠い昔のぎゅるるという腹痛。

俺は本能的に便所に駆け込む。

 「感情」と「味」ということばの組み合わせを思いついて、一気に書いたのだと思う。いわゆるインスピレーションというやつである。それに出会ったら、躊躇していてはいけない。思いつくまま、一気に。どこまでゆけるかわからないけれど、まず駆けだす。(書きはじめる。)そのスピードがいい。若さにあふれている。
 この「感情」と「味」という組み合わせは、「味」を利用するという意味では形の利用である。(型の利用である)。しかし、これまで感情は「色(絵画)」や「音(音楽)」とともに語られてきたから、「味」を利用することは、感情は絵画や音楽であらわすものという「定型」を破壊することでもある。「破壊」は、新しい何かが生まれてくるときの必然である。
 この新しいことばの喜び、何か新しいものを書くという震えるような輝き。百メートル競走のピストルが鳴るまでのどきどき、鳴ってからの無意識の全力疾走--そういうものが、高木のこの詩にはあふれている。
 それが美しい。

 こういう美しさに対しては、余分なことは書かない方がいいのだけれど。私は書いてしまう。
 高木の若いことば、青春のときにしか書けないことば--ことばがことばをひっぱっていき、新しい肉体を生み出すときの運動の奥にあるものを、ちょっと書いてみたい。高木のことばに出会うことで思い出したことを書いてみたい。
 そのあとで、高木の新しさというものについて再び書いてみたい。
 
俺は感情の味が知りたい。

 この書き出しは、感情の色、感情の音(音楽)に対向する形(反発する形)で瞬間的にひらめいたものかもしれない。感情を色や音楽以外のものであらわしてみたい。そういうだれにもなかった欲望が高木を襲ったということだろう。こういう新しい欲望の発見が、まず若さなのだが、そのあと。

「メニューを見してください。」
「かしこまりました。」

 この2行が、ちょっと不思議。
 自分の感情の味なら、メニューを見る必要がない。なぜ、メニューなのかな?
 たぶん、ここに、ことばの秘密がある。詩の秘密がある。どんなに新しいことばも、実は個人でつくりだしたものではない。個人に先行して存在している。
 新しい何かをつくりだしていくにも、すでにあることばを利用するしかない。新しい精神(新しい意識/新しい感情)をつくりだしていくにも、古いことばが必要だ。古いことばを叩き壊しながら、ことばの組み合わせをかえていくしかない。
 すべては「ことば」から始まる。
 これは逆に言えば、ことばの組み合わせをかえれば、そこに新しい精神(意識/感情)が生まれてくるということである。ほんとうはそんなに簡単に言いきることはできないかもしれないけれど、まあ、そう思い込めるのが若さの美しいところである。
 で、そのメニュー。「見してください」という形を借りながら、高木は自分でメニューをつくっている。新しいことばの組み合わせをつくるために「メニュー」という「型」を方便としてつかっている。
 よく見ると、「定型」はほかにもある。

悲哀の味とは。それは、

困惑の味とは。それは、

恥の味とは。それは、

喜びの味とは。それは、

 このくりかえし。さらには、

小雨のごま和え。
自意識の卵とじ。
体育会系の重ね蒸し。
コミュニケーションの寄せ鍋。

 これは行の終わりがすべて既存の料理。つまり「材料」がかわっているだけ。どんなに新しいことばでも、それが新しくあるためには、新しさがわかるように古い何かが同居しないといけない。
 古い組み合わせ、その「接続」を断ち切り、つまり「切断」し、新たに何かを「接続」しなおす。出会うはずのなかったものを出会わせる。それが出会ったとき(接続したとき)、そこに詩が生まれる。
 うーん。新しいものは、意外と古いのである。
 だからこそ、高木はたたみかける。一回だけの「切断/接続」では不十分である。どこまで「切断/接続」を暴走させることができるか。

 そういうことをしたあと、高木は、ことばの運動を「メニュー」という「ことばの組み合わせ」だけで終わらせず、それを食べるところまで、さらには排便するところまで書いている。
 これがいいね。
 「メニュー」で終わっていたら、気取った思いつき詩に終わってしまう。しゃれたライトポエムに終わってしまう。
 それを本能的に高木は気づいているのだろう。
 そしてさらに、「メニュー」、その定型の破壊と再生には「出どころ」があると気が付いている。それが「遠い昔」(過去)のものであることを自覚している。
 だから、「食あたり」(ぎゅるるという腹痛)に出会っても、その食あたり(下痢)に対して「受動的」に便所に駆け込むのではなく、「能動的」に駆け込む。
 高木は、食い合わせが悪くて食あたりにあってしまったのではなく、自分で引き起こしたのだ。わざと食あたりを起こすようなメニューにしたのである。
 「悲哀」「困惑」「恥」「喜び」--どれもありふれた感情。「悲哀」「困惑」なんてセンチメンタルすぎる。そんなものは、食あたりのふりをして排便してしまわなければならない。肉体から排出してしまわないといけない。--とまでは高木は書いてはいないのだが、最後の「能動的」ということばを読んだとき、それまでの「古くさい感じ」(定型のなかでことばの組み合わせを替えてみせただけという感じ)は消えて、あ、いいなあ、下痢(腹痛をともなう排便)を積極的に受け入れるこの肉体の力はいいなあ、と感動してしまうのだ。
 高木のことばには、単なることばの新しい組み合わせを超える力がある。ことばの若さの奥に、肉体の若さと力がある。それが「ことばの肉体」になっている。なろうとしている。その動きが見える。

 「それいけ、天才少年こうへい君」という詩もいい。小学校の入学式(6歳だと思うけれど、高木は7歳という設定で書いている)のこと、7歳の自分(こうへい、だから、そう思っておく)を書いている。7歳なので、もう人生に退屈しているのだが、

そんな春の中
ゆりちゃんだけがかわいい
出会ってから春が3回過ぎたが
ずっと好きだ うーん
頭に浮かぶのは彼女の笑顔、乳歯

おや、さんすうセットに興味津々だ
どれどれ
ゆりゆりゆりゆりゆり
ったく、おはじき全部に名前シールなんか貼るからだろー はは

けっこんしようって約束してくれたし
ふうふごっこもしてるし
あとは10年待つだけだなこりゃ
時間よ早く経てってことで
このさんすうセットの時計くるくる回して

 あのね、天才こうへい君、時計の針を早く回しても時間は早く経たないんだよ。
 何言ってるんだ、ばかやろう。時計の針のまわる速度で肉体を成長させていくことが天才にはできるんだ。ついてこれないならそこで指をくわえて涎垂らしていろ。
 あ、そうだね、ごめん。気がつかなかった。
 いやあ、ひさびさの天才出現だ。



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谷内 修三
思潮社
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八柳李花『明るい遺書』

2013-04-13 23:59:59 | 詩集
八柳李花『明るい遺書』(七月堂、2013年03月01日発行)

 和田まさ子を読んだ後、八柳李花『明るい遺書』を読むと、「論理」というものはいいかげんなものであると思う。これは、和田の論理がいいかげんとか、八柳の論理がいいかげんという意味ではなく、私の論理がいいかげんという意味でもない。論理の肉体はどんなものでも論理にしてしまうということである。
 八柳の詩を読みながら、さらに言いなおしてみる。

深夜二時に君は君の失踪を告げられ口角の端から零れ落ちる話された言葉の
うちから分岐をはじめるパロールからラングへの連なりを延々と不連続性の
うちに病み行間から深淵を覗く度に君は孤独な飛躍をつづけるそのただ独り
の存在の重みに耐えかねて口移すノエシスからノエマに至る不断の連続性に
安らぐことなくよみちがえる精神の過剰な存立をゆらがせる線影に何重にも
描き加えられる輪郭の線的な接触においてのみ君は君自身を支え続けて徐々
にひろやかになる

 これは15ページの書き出しなのだが、これからあと数行後に、突然句点「。」が登場する。つまり、文の前半にすぎないのだが--
 えっ、そうなの?
 私は、「君は孤独な飛躍をつづける」でいったん文章が終わったと思って読んでいた。「ただ独り」からの2-3行「ノエシス/ノエマ」というカタカナをふくむ部分は何のことか私にはわからないのだが、「何重にも」から「ひろやかになる」という部分はわかったような気持ちになるし、そこでも文章はいったん終わっているように思える。
 でも、違うのだ。
 私は目が悪いので、これ以上引用するのは困難なのだが、

       無理数の不連続直線を近似した夜明けに青白いゲマトリア
が遺伝子の外傷を笑いながら僕たちの系譜に連なってゆく。

 までつづいて「一つの文章」になっている。
 そうなのだ。八柳の書いていることばのなかで論理は勝手に次々と姿をかえて、生まれ変わっている。いや、八柳にそういう「意図」はないかもしれないかもしれないけれど、私にはそう感じられる。八柳のことばを読んだ私のなかで、論理が次々に姿をかえる。そういうことができるのが「論理」というものなのだ。
 「論理」のことばというのは、どこで切断されようと、平気で新しい接続を呼び込み、接続された瞬間から平気で姿をかえる。別なものに接続しようとして、不都合なものを平気で切り捨てもする。そうして新しい「論理(文章)」になってしまう。
 何だって書いてしまえば、そこに「論理」らしいものが見えてくる。そのとき、私がさっき書いたような「ノエシス/ノエマ」なんてわからない、わからないから読みとばしておけというようなことも起きる。

 こんな読み方は「正確」ではない--と言われれば、それはそうなのだが、詩なのだから、それでいいのだと思う。裁判の判決文のように、事実関係をしっかりおさえないとだれかの不利になる(有利になる)というようなことではないのだから、わかろうがわかるまいが、好き勝手、で充分なのだ。
 それでは、いったい、詩の評価はどうなるか?
 そうですねえ。
 私自身のなかで起きていることを振り返ってみる。そうすると「論理」とは関係ない部分に私は反応していることに気づく。(だから、こんな感想になるのかもしれない。)
 たとえば「不連続性のうちに病み」「安らぐことなくよみちがえる」「何重にも描き加えられる輪郭の線的な接触」「ひろやかになる」というようなことばが好きだなあ。どこかでまねしてつかってみたいなあ、と思いながら読んでいることに気づく。「論理」を無視して、そのことばだけを「独立した存在」(ことばの屹立)と感じ、あ、それが詩と思っていることに気づく。
 詩、というのは「論理」からの「独立(自立)」なのだ。「論理」を拒絶して、独立宣言をしたことばの暴走なのだ。
 で、八柳は、この詩集では、うねうねとうねる「論理」を仮装しながら、その「論理」から独立し、燃焼する言語の輝きを追求している--という具合に断定して、それを私の感想とするのだ。「論理」に意味はなく(存在価値はなく)、そこから独立し燃焼し、消尽していくことばの輝きこそが詩である--という具合に定義する。そうすると、ね、かっこいいでしょ?
 八柳が「論理」から解放し、燃焼させ、消尽してしまいたかったことばは、私がまねしたいという表現でくくったことばではなく、「精神の過剰な存立」や「無理数の不連続直線」「遺伝子の外傷」というような類のことばだったかもしれない。まあ、それはそれ。作者の意図。詩は書かれてしまった瞬間から、作者とは関係なく読者のもの。読者がどのことばを信じるかは読者の自由だからね。
 --ということは別にして、どう読んでみても、八柳が書こうとしているのは、私には「論理」ではなく、「論理」を拒絶するように輝く無数のことば、その存在にしか思えない。
 で、そういうことを言うために、私は「論理とはいいかげんである」という断言をつけくわえるのだ。

 私のこの感想は、八柳の意図から遠く離れてしまったのか、あるいはその核心へ近づいたのか、まあ、どっちでもかまわない。論理とはいいかげんなものなのだから。
 最後に(まだつづけてもいいのだけれど、私は目が悪いのでこれ以上パソコンに向かっているとつらくなるので、いつものように40分で終わりにするのだが)、とても気に入った部分を引用しておく。19ページ。

                 僕がプテラノド
ンだったとき君はトリケラトプスだった、僕がハイエ
ナだったとき君は一匹の犀だった、僕は君の肉をたべ
君の名前の響きを発音できない未分化な舌で吠えたけ
れどもあるとき僕が人間であるとき君も人間だった、

 「君の名前の響きを発音できない未分化な舌で吠えた」が美しい。「未分化」というのは日常的にはつかわないことばだけれど、その前後にそういうことばがひしめき合っていないので、それが結晶のように輝く。ほかの部分では哲学用語(?)がひしめき合って、あまりにも「論理」を仮装しすぎているように私には感じられる。





サンクチュアリ
八柳 李花
思潮社
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和田まさ子「冷蔵庫で」

2013-04-12 23:59:59 | 詩集
和田まさ子「冷蔵庫で」(「地上十センチ」3、2013年04月15日発行)

 和田まさ子は「現実」との距離の取り方が安定している。つまり、文体ができあがっている。和田まさ子は壺になったり金魚になったりミズスマシになったりするが、「冷蔵庫」では……。

わたしはいまサバの味噌煮になっている
サバは好きでもないが
与えられた仕事はしなければならないだろう
わたしは生きるために冷蔵庫に入るしかなく
カチカチのものが
徐々にできたてのものになっていくために時間を逆走する
それは再生の試み

 単なる「サバの味噌煮」ではなく、冷凍されたサバの味噌煮、レトルト食品である。冷蔵庫で解凍され、サバの味噌煮になるのである。冷凍食品は、一度料理されて、それから冷凍されるのであるから、それを解凍するということは、冷凍前の「できたて」の料理にもどること、「時間を逆走する」ことであり、「再生」することである。
 なるほどね。
 ここには「論理の肉体」が動いている。秋亜綺羅もこういう感じの「論理の肉体」を動かすことがある--と根拠もなしに、私はテキトウに書いてしまうのだが。
 私がおもしろいと感じるのは(あ、和田まさ子だなあと感じるのは)、その「論理の肉体」よりも。

サバは好きでもないが
与えられた仕事はしなければならないだろう

 この2行の、妙に不気味(?)な「現実感」である。「サバは好きでもない」というのは個人の好みであり、それは、もうどうすることもできない。好きでもない人間に好きになれといってもしようがない。そういうことは誰にでもある。「ことばの論理(肉体)」ではなく、ここには「肉体の論理(感覚?)」が動いている。生きている。
 で、それを引き受けて、

与えられた仕事はしなければならないだろう

 えっ、「サバの味噌煮」が「仕事」?
 何か違うんだけれど、「与えられた仕事はしなければならない」という「ことばの論理(論理の肉体)」はしきりに耳にするので、それに押し切られてしまう。生きるためには与えられた仕事をしないといけない。仕事を好き嫌いで選んでいては金を稼げない。
 妙な、切断と接続がある。
 好きでもない仕事をしなければならない--と和田は書いているわけではないが、「論理の肉体」はねじれるようにして、そんなふうに接続してしまう。そこへ「サバ」が「好きでもない」という個人的な感覚のままくっついている。
 そうか。
 人間というのは、個人的な感覚(本能?)をぶらさげたまま、個人的ではないこと(たとえば仕事)を「しなければならない」ことがある。「生きるために」ね。それが「サバの味噌煮」であること、という不可解な仕事であろうと。(「サバの味噌煮」は何かの暗喩かもしれないが、説明されない。)
 ふつうは(ずぼらな私は、と言い換えるべきか)、そういうときには、個人的な感覚をぶらさげたまま動くのは面倒くさい(動きにくい)ので、個人的な本能をすてて(あきられめ、ふりきって、あるいはそういうふりをして、つまり自分に言い聞かせて)公的な「仕事」をする。
 けれど和田はそういうずぼらはしないで、個人的な本能(感覚)が切断と接続によってどんな具合に変化するかを丁寧にことばにする。この「丁寧さ」のなかに和田の正直があり、それが「正直」だからこそ、ことばの運動(文体)がしっかりと安定しているのだ。
 言いなおすと--あるいは、少し前にもどると--、「サバの味噌煮」が何の暗喩か説明されないのだけれど、そのかわりに(?)和田は、その暗喩のなかへ直接入っていく。それを「肉体」にしてしまう。暗喩を「肉体」の領域にこだわって語る。「肉体」につかみとれることだけで語る。「肉体」で「サバの味噌煮」を分有する。
 自分以外のものを自分の「肉体」で分有する--というのは、いつもの例を繰り返すと、道にだれかが倒れている。呻いている。それをみると、あ、このひとは腹が痛いのだと思う。自分の肉体ではないのだけれど、その姿勢、呻きのなかに自分の「肉体」が入っていき、自分の「肉体」の痛みを思い出し、このひとは腹が痛いのだと思うときの、「肉体」の感覚である。
 こういうことは人間の「肉体」に対してなら、私たちはたぶん日常的におこなっている。そしてそれが日常的だからこそ、見落としている。その見落としている日常的な「肉体」の運動を、日常ではありえない「サバの味噌煮」にまで押し広げて(?)、動かす。その力業のなかに、丁寧と正直がある。こんなことは正直でないとできない。

どこから解凍されるのかを考える
わたしは味噌汁の汁に浸かって
ビニール袋に個苞されている
はじめに味噌の汁が融けてくるのか
あるいはわたしの背の皮から少しずつ融けるのだろうか
味噌のなかは塩辛くてひりひりするのか
ねっとりした感覚は心地よいのか

 で、この個人的な本能(感覚/肉体)の変化、「肉体」による対象の直接的分有をことばにすることを、和田は「考える」ということばであらわしている。
 この「考える」に、私はちょっと驚いた。はっとした。あ、そうか、和田は「思った(感じた)」ことを書いていたのではなく「考え(たこと)」を書いていたのか。本能(感覚)を生な形でそのまま表出するのではなく、いったん考え、つまり、ことばとして整えてから、その運動を表出していたのか……。だから、ことばが安定しているのか。「現実との一定の距離感」は「考え」によるものだったのか。
 というのは--まあ、私の感想の「脱線」なのだけれど。
 「考え」をくぐりぬけ、本能(感覚)へことばがもう一度もどっていくところが、とてもいいねえ。ことばの整え方がとてもいいねえ。ことばをあくまで「肉体」の領域、暮らしの領域、日常の領域にひきもどすところがいいねえ。
 背中の皮から融けて、それに味噌の塩分がふれてひりひり。けれど水そのものではなく塩をふくんでいるので「ねっとり」。

ねっとり

 いいなあ、これ。ほかに、ことばはありえない。「肉体」が反応してしまう。「ねっとり」の「意味」を言いなおすことはできない。「肉体」が直接、納得してしまう。

 私は和田のことばは「現実との距離感が安定している」と書いたが、その「距離感」を別の表現で言えば「ねっとり」になるのだ。「ねっとり」したものにふれると、なんだか「肉体」も「ねっとり」にそまる。混じりあう。
 「ねっとり」には、あいまいな接続と切断があり、その感触は「ねっとり」したものにふれているものにしかわからない。

わたしがここにいるとはだれも知らないのだが
もうそれはどうでもいいことで
さあこれから
解凍されるのを感じていくのだ

 「考える」で始まり、「感じる」へと動いていく。知性で始まり、本能へと帰っていく。その往復。
 和田の詩には女性特有の感覚(本能)の強さがあり、それを「考え(頭)」で鍛えなおし、もう一度、本能の形にして表出するという「手順」を貫くことで、ことばが「肉体」そのもののように手触りのある「固体(個体/個性)」として存在し、その存在の確かさを「安定」と感じるのかもしれない。





わたしの好きな日
和田 まさ子
思潮社
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詩人アリス「夜の国のアリス」(2)

2013-04-11 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
詩人アリス「夜の国のアリス」(2)(「ココア共和国」12、2013年04月01日発行)

 秋亜綺羅を経由して「論理の肉体」について書いたので、もう一回、詩人アリス「夜の国のアリス」にもどってみる。
 「論理の肉体」の「肉体」の部分に、私の場合、ちょっと変なものがまじりこむ。きのう「肉体」と動詞のことについて書いたけれど、動詞以外のものも「肉体」に分有/共有される。
 「音」である。ことばから「音」が聞こえると、私はことばを「わかる」と判断してしまうらしい(自分のことなのに「らしい」というのは変かもしれないが)。これは「外国語」を例にするとわかりやすいかもしれない。私は日本語しかしゃべれないが、ある種の外国語の場合、「音」が聞き取れるときは「意味」も聞き取れる。理解できる。それと似ているかもしれない。私の場合、ことばとは「音」なのだ。文字も、その文字から「音」が聞こえてこない限り、私は理解できない。アルファベットの文字は全部読めるが、それがつながっているときの「音」が聞こえないので、外国語(西欧語)で書かれた本を読んでも、それが何を書いてあるかさっぱりわからない。
 逆に「音」が聞こえると「意味」がわかると同時に、ときには「意味」を考えずに、聞こえてきた「音」を「正しいことば」として感じてしまう。「耳」が聞き取った「音」というよりも、「音」によって覚醒した「耳」が他の「肉体」を、「感覚(肉体)」が融合する「肉体の奥(本能?)」まで引き込んでしまうという感じ。「肉体」が、「音」のある「場」そのものを呼び寄せてしまう。逆に言うと「肉体」が「音」の「場」に存在してしまう。「場」がふくむ「こと」を「肉体」が体験してしまう。「音」が存在したとき、それが「声」として聞こえたときの状況が肉体のなかでよみがえり、それが繰り返されて「意味」になる。ほら、外国なんかで「声」が意味のわからないまま聞こえてきて、それが自分に向けられた「声」だとわかったとき、状況そのものの意味がわかる感じ。車が目の前をすりぬける。「アテンション!」体がぱっと退き、ほっと一息ついて、そうか「アテンション」とはこういうことか。こういうときにつかうのか。「危ない」という翻訳はそのときにいらなくなる。--この「翻訳不要」の「音」がそのまま肉体にはいってくる感じが「わかる」ということ。私の場合は。
 脱線したが、私は、「音」が聞こえないと肉体が反応しないし、肉体が反応しないと「意味」もわからないという人間であり、肉体が反応すると「翻訳不要」の感じで「意味」を納得する。詩というのは「翻訳不能」のものだが、肉体が反応するとその「翻訳不能」が「翻訳不要」にかわる。
 また脱線したか……。

拇指があまりにも言うことを通せん坊
だから今日のサンドイッチは帯状疱疹の煌き
服飾タッチパネルが臍ピアスを齧るので
痛い痛いというカンカン踊りの曖昧さ
誰もいない電極の記憶は塩化ナトリウム

 この5行のなかでは、「拇指があまりにも言うことを通せん坊」の「通せん坊」が「翻訳不能」であり「翻訳不要」。「音」としてとても美しい。うっとりしてしまう。
 「通せん坊」の前に「言うことを」ということばがあるから、1行の「意味」としては「親指が言うことをきかない(頭の指示通りには動かない)」くらいのことなのかもしれないけれど、「きかない」より「通せん坊」の方が「音」が美しく、その「音」は同時に「通せん坊」という遊び(?)というか、そのときの「肉体」の動きそのものをも引き込んでくる。「言うことをきかない」だと「神経(意識?)」の「こと」になってしまうけれど、「通せん坊」だとそれが「肉体」全体をつかった動きになる。親指だけの「こと」ではなく、何か「肉体」がぱーっとひろがって動く感じがする。「肉体」が「通せん坊」につつみこまれる感じがする。そういう感じの「起点(起爆剤)」が「通せん坊」という「音」なのだ。
 「通せん坊」には、まだ「意味」があったかもしれないが--「意味」がある方が私の感じていることを説明しやすいと思って、まず書いたのだが。
 次の「だから今日のサンドイッチは帯状疱疹の煌き」の「サンドイッチ」と「帯状疱疹」のなかに響きあう「音」、あるいは「服飾」と「タッチパネル」のつながり、「塩化ナトリウム」という「音」は、まあ、「音」としか言いようがない。そこに書かれている「音」が、思わず声に出したい(耳で聞きたい)という欲望(本能?)を刺戟する。「音」に刺戟される。私は詩を読むとき音読はしない。黙読しかしないが、書かれている文字を読みながら、無意識にのどが動く。耳が動く。(読んだ後、のどが非常に乾く。)で、その黙読のときの「耳」と「のど」のスムーズな連動を、私は「音」と感じていて、その「音」を受け入れるのは、「耳」だけではなく、「のど」もそうなのだ。だから、のどが乾くのだ。
 こんな「ごちゃごちゃ」を書いても、何のことかわからないかもしれない。私にもよくわからないのだが、まあ、そういうことが、私の「肉体」に起きる。「音」が「肉体」を勝手に支配して、「これはいい」「この詩はおもしろい」と判断する。で、私の「頭」は、その「肉体の独断」を、うーん、それはどうしてのだろう、と考えはじめる。そしてこどを動かしはじめるというのが、たぶん私の「感想(読書日記)」のスタートなのだ。

 詩にもどると……。
 詩人アリスのことば、その「音」は、私にはとてもよく聞こえる。

真夜中は体臭の猫
の町に実行された
忘れられない曲を探してさまよう

 軽くてすっきりしていて、スピードがある。この「音」が「論理の肉体」にはとてもあっていると思う。そして、その「音」は秋亜綺羅の透明さを超えて、もっと雑多で乱暴である。暴走する。つまり若さにあふれている。--ので、私は、詩人アリスを読みながら、「高3コース」時代の秋亜綺羅を思い出したりするのだと思う。

東京タワーは簡単に頻繁に材料を購入する
を食べるように
虚勢の女の子が兎口早稲桃尻開発をなかったとしても
私たちの放射線の量
で鼻の崩壊の思い出
は卵に出産を知らせます
の研究室なしに以上の脊椎カリエス
を夢見ていたバナナの一気飲みを奨励
するをもって脱糞する未練
は廃炉を響かす

 秋亜綺羅は「百行詩」を目指したが、詩人アリスは千行、一万行を書くだろう。そういうエネルギーがある。「意味」を蹴散らして、一瞬一瞬、ことばが「音」としてそこに存在する。「音」が何かが集まってくるのを待っている。待っていながら、やってこない何か(意味かもしれない)をさらにふりきってかけだしてゆく。このリズムはとても気持ちがいい。








季刊 ココア共和国vol.12
秋 亜綺羅,ブリングル,坂多 瑩子,北条 裕子,詩人アリス
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秋亜綺羅「坂道とは人生です」

2013-04-10 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「坂道とは人生です」(「ココア共和国」12、2013年04月01日発行)

 きのうにつづいて、詩人アリス「夜の国のアリス」について書くつもりだったのだけれど、「つづく」はやめて、秋亜綺羅「坂道とは人生です」について。
 でも、感想の対象が違っても、私の感想は「つづく」かもしれない。

 秋亜綺羅「坂道とは人生です」は「流通言語」に見られる「人生は坂道」という「比喩」批判のスタイルをとっている。

ひとりの若い男が老女を背負い坂道を登っていく
登りきるとそこには澄んだ青空があった

坂道とはなんですか?
はい! 人生です

青空ってなんですか?
はい! 希望だと思います

 人生は坂道。それを登りきったら希望が輝いている(希望が実現している?)。だからつかくても坂道を登ろう。--まあ、ねえ。
 でも、これって結局、人に苦労させるための「方便」かもしれない。「つらいからいやだよ」「でも、つらいからこそ、そのあとに楽しいことがある。頑張ろう」という具合。その「説得」のなかに、やっぱり「ことばの肉体」がある。そこに「肉体」があるからそ、ちょっと、抵抗する(批判する)のがむずかしい。言い換えると、確かに苦労した後に何かを達成するというようなことを人間は体験してきているからね。それが「嘘」だとは言い切れない。言い切ってしまうと、うーん、自分のした苦労はただの自己満足なのかなあ、という疑問がでてきたりするからね。自己批判(反省?)って、いやだよね。
 
 「論理の肉体(ことばの肉体)」を、では、どうやって「解体」すればいいのかな? (ちょっと古いけれど、「流通言語」にまでなってしまったことばをつかってみた。)

大きいつづらと、小さいつづらと、玉手箱では
どちらを選びますか?

大きいつづらを開けると
小さいつづらが入っていた

そんなことまでして
小さいつづらを選ばせたいんかい

 笑ってしまうね。「小さいつづら」は比喩としては「坂道」に通じるね。まあ、そんなふうな「論理の肉体」が「流通言語」にはあると秋亜綺羅は言うのだ。
 で、これだけでは「論理の肉体」の「肉体」の部分が、ちょっとわかりにくいかな?
 で、次の行。

小さいつづらを開けると
大きいつづらが入っていた

大きいつづらを開けると
もっと大きいつづらが入っていた

もっと大きいつづらを開けると
もっともっと大きいつづらが入っていた

もっともっと大きいつづらを開けると
もっともっともっと大きいつづらが入っていた

もっともっともっと大きいつづらを開けると
もっともっともっともっと大きいつづらが入っていた

 「小さい」もののなかに「大きい」ものは入らない。これは「算数(物理)」の論理だけれど。でも、仕掛けがあれば「小さい」のなかに「大きい」が入ることは可能。「大きい」を圧縮した形で「小さい」のなかに入れておけばいい。「小さい」をあけた瞬間に圧縮がとけて「大きい」にかわる。こういうことは、ほら、自動車のエアバッグとかいろいろあるね。非論理的に見えても「仕掛け」次第でそれが可能。--で、そこには「仕掛け」という「論理の肉体」が隠れているのだけれど。それは、また別の問題で--というか、私の関心とは少し違うので、私が関心をもっていることにしぼって書くと。
 「開ける」と「入っていた」という動詞。ここに「肉体」が直接関係してくる。道具をつかって「開ける」ということはあるけれど、「開ける」の基本的な作業としてはたいてい「手」をつかう。自分の手をつかう。そしてそこに何かが「入っている」ということも「目」という肉体をつかって確認する。そのとき「肉体」が「ことば」のなかに入り込んでくる。
 (この「肉体」は「論理の肉体」「ことばの肉体」と区別して、「肉体の肉体」と呼んだ方がいいのかもしれない。私は以前「肉眼」だけではなく「肉耳」ということばで松岡政則の詩の感想を書いたことがあるけれど……。)
 「肉体」が入り込んでくると、それがどんなに「架空」というか「ことば」だけで書かれたものであるにしても、そこに書かれていることを「肉体」で了解してしまう。「頭」だけではなく「肉体」が反応してしまう。「ことばの論理」にすぎないものを「肉体」で了解し、「わかってしまう」。どんなことであれ、「わかる」とき、そこに「肉体」が関係してくる。「肉体」の関与が強ければ強いほど、「わかる」は「わからない部分」を平気で乗り越えてしまう。
 で、「肉体」はそのとき「論理の肉体」と奇妙な形で交錯しながら「論理」を納得する。「わかる」。
 詩人アリスの詩のなかに

わたしは眠れない朝をさめた猫とスープをすする

 ということばがあったが、そこにも「すする」という動詞、「眠る」「さめる」という動詞があって(「さめた」は「さめる」という動詞が連体形に活用した修飾語だけれど)、この動詞が、読者の「肉体」に働きかけてくる。この行の場合、特に「すする」が「肉体」を「口」や「舌」や「スプーンをもつ手」にまで微分した形で働きかけてくる。「すする」ということばを読むとき「口/舌/手」が無意識に動く。
 で、スープをすするように、私は猫まですすってしまう。さめた「猫とスープ」をすする。「さめたスープと猫」をすする。
 詩人アリスの書いているのは、感情がさめた猫といっしょに、熱いスープをすするという「意味」かもしれないけれど、そして詩人アリスは猫をすするとは書いていないのだけれど、「すする」ということばが、猫さえも「すすれる」ものに替えてしまう。
 「肉体」は、そこまで錯覚しやすいものなのである。
 だから、注意が必要。
 「流通言語」のなかには「坂道を登りきると青空があった」の「登る」のような動詞(肉体に働きかけてくることば)もあって、そういうことばには、人間はのみこまれやすい。だまされやすい。「肉体」が「分有」されるので、その「分有された肉体」を起点にして、「論理の肉体」にすぎないものが、「肉体の論理」として動くようになるのだ。

 で、ここからかなり飛躍して、違うことを少し書いておくと(メモしておくと)。
 たとえば絵を見ていて音楽が聞こえるとか、音楽を聞いていてある情景が見えるとか、そういう経験をすることがある。視覚/聴覚が「肉体」の内部で融合して、なぜだか入れ替わるということがある。これは、もともと視覚/聴覚といいながら、それは目、耳というものが「独立」していないことと関係する。「肉体」から「目」「耳」を分離してしまうと、それは「目」「耳」ではなくなる。「肉体」としてつながっているからこそ「目」「耳」なのである。
 感覚は「肉体」の内部で融合し、入れ替わる。
 これと同じことが「論理の肉体」でも起きる。これを悪用して(?)、政治家は国民を都合のいいように動かす、動かすための「流通言語」を利用する。「坂道を登りきると青空がある」という具合に。
 こういう「流通言語」を、すこし離れたところから、秋亜綺羅は揺さぶっている。直接揺さぶらなくても、「ことばの肉体」はこんなふうに動くこともできるということを実証することで、流通している「論理の肉体」を見極めようと「注意を促す」ということをしている。--こんなふうに書くと、ちょっと、政治的でいやらしくなるけれど。
 詩的に(文学的に)言いなおせば。
 新しい「論理の肉体」を実現することで、「ことばの肉体」に敏感になる。その「敏感」のなかに詩がある、ということになるかもしれない。

 きのう、きょうとつづけて書いたことは、ほんとうは書く必要がないことだったかもしれない。この詩のここがおもしろいよ、このことばの動かし方が刺戟的だよ、と言えばよかったのかもしれないけれど、詩人アリスと秋亜綺羅をいっしょに読んだら、その共通点を書いてみたくなったのでこうなってしまった。
 詩人アリスには、ちょっと申し訳ない書き方になってしまった。




透明海岸から鳥の島まで
秋 亜綺羅
思潮社
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詩人アリス「夜の国のアリス」

2013-04-09 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
詩人アリス「夜の国のアリス」(「ココア共和国」12、2013年04月01日発行)

 詩人アリス「夜の国のアリス」を読みながら、あ、詩人アリスは秋亜綺羅と一卵性双生児かも、と思った。いまの秋亜綺羅ではなく、私が若かったころ、つまり秋亜綺羅と同じような年齢だったころの秋亜綺羅を思い出した。
 --という文章は、ちょっと変かな? 論理的じゃないかな?
 秋亜綺羅と同じ年齢だったころ、というのなら、いまでも同じような年齢であるはずだから。
 うーん。でも、違うんだなあ……。
 人間は歳を重ねると、どんどん年齢の差が開いていく。同じ年、同じ月、同じ日に生まれても(一卵性双生児であったとしても)、歳を重ねると年の差ができる。そして違った年齢の人間と近づいていく。
 言い換えると、若いときは年齢が共通項になって類似性を引き起こすけれど、歳を重ねると年齢ではなく個性が共通項になるのである。
 で、詩人アリスが何歳かは知らないけれど、いまの秋亜綺羅をとおって、昔の秋亜綺羅に重なって見える--というのが私の印象である。

わたしは廃墟からうまれた
西暦2012年
世界はつめたい光の闇に満たされていた
うまれたときにわたしはおもった
ここはわたしの場所じゃない
それでもひとびとはわたしを選んだ
だからわたしは廃墟をいきることにした

 ことばが「無重力」である。「意味」の重力にしばられていない。いちばんわかりやすい例が3行目の「光の闇」という表現である。光と闇は「流通言語=学校教科書の意味」では正反対のものであり、「光の闇」というのは常識的にはありえない。簡単に言うと「でたらめ」である。
 でも、ことばはどんな「でたらめ」を書いても、書いた瞬間に「論理」になる。「意味」になる。まぶしくて目が開けられない「闇」ではなく、目を開くことができるけれど、そこには光しかないという「闇」。そういうものが、ことばが動いた瞬間に、ことばといっしょに「そこ」に生まれる。「そこ」ではなく、「ここ」かもしれないが。あるいは「あこ」かもしれないが。
 で。
 というか、いつでもことばは「論理=意味」になるのだけれど、その「論理=意味」の飛躍(?)が、秋亜綺羅の場合も詩人アリスの場合も、ほんとうにでたらめかというとそうではなくて、どこかに「論理の肉体」を持っていて、そこに「論理の肉体」があるがゆえに、読者を安心させながら(?)、同時に読者を裏切る。そして、読者を裏切ることで、逆に安心させる。--つまり、納得させる。この場合の納得は、「意味」ではなく、そこに「論理」がある、ということなのだけれど。

 あ、これでは、きっと何のことかわからないね。
 まあ、私にもよくわからないのだから、私の文章を読んでいる人にはさらにわかりにくいだろうなあ。私の文章を読んだために、いっそうわからなくなるだろうなあ。
 でも、もう少し、わからないまま、読んでください。
 私もわからないまま、もう少し考えるので。

 「意味」はない。けれど「論理」はある--というのは、「わたしは廃墟からうまれた」ならば「比喩」ということになるかもしれない。そのとき比喩は「廃墟」なのか、「うまれた」なのか、よくわからない。というより、区別がつかない。「廃墟からうまれる」ということば自体が「比喩」なのだ。それは「美人」を「花」にたとえるような「比喩」、つまり名詞の置き換えによる固定化(?)ではない。
 「うまれる」という「動詞」をともなった運動である。
 そして、そこに動詞が存在することによって、そこに必然的に「論理」が生まれる。「論理の肉体」が動く。「論理」というのは、運動なのだ。「論理」というのは、何かを動かすものなのだ。

 何が動く? 何を動かす?

 答えは簡単である。ひとの「考え」を動かすのである。ひとの「考え」に「それでいいのか」と疑問を投げかける。その疑問にふれることが、詩、なのである。

 そのとき。
 とてもおもしろいのは、秋亜綺羅の場合も、詩人アリスの場合も、人間の「肉体」そのものを利用して「考え」にふれるのではなく、あくまで「論理の肉体」を利用することである。

ここはわたしの場所じゃない
それでもひとびとはわたしを選んだ
だからわたしは廃墟をいきることにした

 「それでも」「だから」。このことばのなかには「論理」がある。そのことばにつづくことばに「論理」があるというよりも、「それでも」「だから」が「論理」を呼び込んでしまう。「それでも」「だから」こそが「論理」なのである。
 「それでも」「だから」をつかえば、それにつづくことばは「論理」になってしまう。で、最初の「光の闇」にもどって、「それでも」と「だから」を当てはめてながら、詩人アリスを真似てみると……。
 
世界はつめたい光に満たされていた(つまり光しか存在しない)/それでも世界は存在する/だから世界は闇に満たされていたということにした

 という具合になるかれしれない。
 で、そのとき。突然、当然の顔をしてあらわれることばがある。
 「……ことにした」
 これが、きっと、たぶん、間違いなく、若いときの秋亜綺羅と詩人アリスに共通するキーワードである。
 あらゆる「でたらめ(?)」は「……ことにした」ということばを隠しながら、「論理」になる。「……ことにした」という自己決定。

わたしは廃墟からうまれた(ことにした)
西暦2012年
世界はつめたい光の闇に満たされていた(ことにした)

 そしてそのとき「ことにした」を動かすエネルギーは何か。「ことば」である。書くこと、語ることによって、つまり「ことばによって」。

(ことばによって)わたしは廃墟からうまれた(ことにした)
西暦2012年
(ことばによって)世界はつめたい光の闇に満たされていた(ことにした)

 「ことばによって」何かを「……ことにした」。そのとき「ことばによって」「論理」が生まれる。そしてその「論理」は「意味」ではなく。いままで流通していた「意味」ではないものが、「論理」をもって動く--というところに、詩が生まれる。それが見なれない「論理」であるために、私たちは、(少なくとも私は)、「考え(いままで無意識に考えていたこと、思い込んでいたこと)」を揺さぶられたように感じる。
 その刺戟。
 それが、詩。

くしゃみと同じ気軽さで人殺しができるように
脳天の鎖はジャリジャリと鳴り響く
のでわたしは眠れない朝をさめた猫とスープをすする

 「人殺し」は「くしゃみと同じ気軽さ」でできることではない。けれど、「ことばによって」そうできる「ことにした」のだ。できないことも「ことばによって」「できることになる」。
 それはほんとうの人間の肉体がすることではなく、「ことばの肉体」がすること。
 「ので」という強引な「論理」を通りぬけて、ことばはさらに、
 「さめたスープを猫とすする」ではなく「さめた猫とスープをすする」ことにする。(ことにした、のである。)
 「ことばの肉体(論理の肉体)」は、なんでもできる。

 そうであるなら。

 いま現在、「流通言語」を支配している「ことばの肉体(論理の肉体)」も、もしかしたら、だれかが「ことばによって」……「ことにした」という構造で動いていないか。
 そう考えるところから、秋亜綺羅の「現実批判(社会批評)」は始まっている。
 いつでも秋亜綺羅のことばは「流通言語」を支配している「論理の肉体(ことばの肉体)」を批判している。--あ、これでは秋亜綺羅の詩に対する感想になってしまうけれど、きっと詩人アリスにも、同じことが言える。「一卵性双生児」。同じDNAを生きている。詩人アリスが何歳かしらないけれど、そしてそのDNAは若いときの秋亜綺羅のDNAの状態にそっくりに私には感じられる。
 自在に、思いつくままに書いているようであっても、いつもそこには「批評」が存在している。「流通言語」への批判はもちろん、「ことば」そのものへの批判も含んでいる。だから、その批評が、詩、となる。

 ことばによって……することにした、というのは、かなり危ない。とても危険である。多くのひとは、そのことに気づいていない。秋亜綺羅と詩人アリスは、そのことに気づいている。つまり、そのことばの運動には「自己批判」がある。
 「自己批判」というのは古くさい「流通言語」で、秋亜綺羅や詩人アリスの詩の感想を書くのにはふさわしいことばではないのだけれど。
 どんなふうにしても、ここあるあるのは「ことば」なのだという自覚が、秋亜綺羅と詩人アリスには共通する。ここにあるのは(世界にあるのは)ことばだからこそ、ことばの肉体にこそ刺戟が伝わるようにして、ことばを動かす。
 「意味」ではなく、刺戟がうまれれば、それでいい。
 だから、その詩はどこで終わってもいい。どこで終わらなくてもいい。
 「夜の国のアリス」はどれだけの長さをもっているのか知らないが、(次号へつづく)という形でとじられている。その(つづく)さえ、もしかしたら「論理の肉体」そのものであるかもしれない。










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秋 亜綺羅,ブリングル,坂多 瑩子,北条 裕子,詩人アリス
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しばらく休みます。

2013-04-01 23:59:59 | 詩集



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