詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

カニエ・ナハ『馬引く男』

2016-10-16 20:39:30 | 詩集
カニエ・ナハ『馬引く男』(カニエ・ナハ、2016年09月30日発行)

 カニエ・ナハ『馬引く男』の感想を書くには、私は不適切な人間である。理由は三つ(あるいは四つ)。
(1)私は目が悪い。したがって小さい文字を読むのがつらい。
(2)頭が悪い。句読点のはっきりしないことばをつかみきれない。
(3)覚えることが大嫌い。特に「動詞」と結びついていない「名詞」を。
(4)ずぼらである。

 この詩集は、とても変わった体裁になっている。
(1)最初に、タイトルなしの作品がおかれている。左ページに作品の二行が印刷されていて、それが次のページへと展開していく。これが、かなり長い。
(2)そのあとに「馬を引く男 カニエ・ナハ」と詩集のタイトル。「二〇一五年九月一日-二〇一六年九月一日」の文字。(一年間にわたって書かれたということだろうか。)それから「第一部 馬を引く男」という章分け(?)があり、作品群がつづく。
(3)ずーっと読み進むと「第二部 植物図鑑」があらわれる。しかし、作品はない。
(4)最後に目次がある。本文にはなかった作品のタイトルも書かれている。
 この風変わりな体裁は、何を意味するのか。
 カニエの「意図」はわからないが、私はこの「体裁」に気づく前、69ページからはじまる作品を読んだとき、あ、これは最初の長い作品の「注釈」なのだと思った。あるいは逆に、ここに書かれている作品群の「注釈」として、最初に長い作品が書かれているというべきなのかもしれないが。
 そう思った瞬間に、私は冒頭に書いた、私の「不適格性」に気づいたのである。
 (4)から言いなおした方がいいのかもしれない。私は「ずぼら」である。「注釈」つきの本に出合っても、私は「注釈」を読んだことがない。面倒くさいのである。だいたい文字が小さいから、それだけで読む気がしないし、読んで「わからない」ことは、注釈を読んでも「わかる」ことにはならない。意味を「知る」ことはできるかもしれないが、それは私の感覚では「わかる」ではない。ほんとうに必要なこと(わからなければならないこと)なら、そのうちに何度でも出てくる。そう考える。
 だから、私は、「覚える」ということを、しない。「覚える」ことが大嫌い。必要なことなら「覚えなくても」何度でも向こうからやってくる。そのうちに自然に「わかる」、自然に「身につく」という考え方である。
 で、「覚えない」、本文と「注釈」を交互に読んで「理解」を深めるというやり方ではなく、ただ、そこに書かれていることばを、なんだかわからないなあ、文字が小さくて読みにくいなあ、と思いながらただ読んでいく。そうすると、漠然と、あれっ、これはさっき読んだことと似ているなあ、ということがだんだんわかってくる。ずぼらな私にも何回か同じことばが繰り返されていることが、わかってくる。

にもかかわらず、長い時間、
それは、死後の年の
古い、風のようなもの
かなり破損している、
あなたの周りに放棄する
景色を
十年の歳月をかけて
曖昧になると
墓に刻まれた
文字が錯覚し始め
    
 これは69ページから70ページにかけてのことば。これが実際に「注釈」になっているのかどうかわからないが、詩集の最初におかれた作品のことばと、何か呼応するものがある。

みるとちょうど
幕を閉じた歴史は、
令下に、
動かされて
最後には
私がいた。
虚偽を生きてきた、
終わっていた世界の
取り戻すことのが不可能な
私たちが今、
持っているあらゆるものに
再び目を開いて、
関与する

 「長い時間」「死後」は「歴史」と重なる。「あなた」と「私」も交錯する。「あなたの周りに放棄する/景色」、言い換えると「放棄された/景色」とは「虚偽」のことか。「十年の歳月をかけて/曖昧になると/墓に刻まれた/文字」とは「墓碑銘」のことであり、それを私たちは「再び目を開いて、/関与する」。つまり、「不可能」を「取り戻」そうとする。墓碑銘を読み、死んだ人を意識の中に再生させるように、歴史を読み返しもう一度動かし直す。
 厳密な「対応」を指摘すべきなのかもしれないが、私は「あいまいな感じ」で、そこに「呼応」があると思うのである。
 69ページではなく、もっと早くに、そういう「呼応」を感じ取るべきなのかもしれないが、私は頭が悪いので、そこまで読んできて、あ、これは長い作品の「注釈」に違いないと思ったのである。あるいは逆かもしれないと思ったのである。(ここで、前の作品を読み直してみればいいのかもしれないが、私は、そういう面倒なことはしない。69ページで気づいたなら、私は、それくらいの鈍感さでことばと向き合っているというのが「事実」であって、前に戻って自分をととのえなおしてもしようがないと思うからである。)

 で、この「呼応」(私の「誤読」)のなかに、「本文」と「注釈」ということばと重なる感じで、最初の長い作品の、次のような部分がぱっと蘇る。実際は、あ、あそこに何か書いてあったなあと思い出し、そこへ引き返すのだが。
 それは……

馬は
起きようとするたびに、
頭を打って
ほとんど死んで
死ぬことによって
否定する

 「起きようとするたびに」「死ぬ」。この不可解な、あるいは全体的な「反復」。それが「本文」と「注釈」の関係である。「本文」と「注釈」は「補完」というよりも、きっと互いの「否定」なのである。「否定」によって「生きている」ということを強調する。「生きる」意思があるから「死ぬ」。「死ぬ」から「生きている」ということがわかる。そういう関係にあるというか、カニエは「本文」と「注釈」を、そういう関係にしようとしている。

否定することで告白する、
紛れもない歴史の途方もない巨大な消失点があって
それを通じて、初めて、見て、結果として、知る
あるひとつの単純な事実

 この部分で印象的なのは「巨大(歴史)」と「消失点」ということばの対比である。「大きなもの」と「小さなもの」。「大きい」は「巨大」、「小さい」は「消失点」の「点」のことである。
 何か、「大きなもの」と対抗するために小さなものが強調されているようにも感じる。言い換えると「歴史」に対して「いま」、「世界」に対して「個」と言えばいいのか。こういう関係を「本文」と「注釈」にあてはめればいいのかもしれない。ここでは「注釈」のなかで「注釈」している感じだが、それを「本文」に応用できるように感じる。
 さらに次の部分。

逆さまの私であることを、証して、明らかに断って、馬は、なにを意味するではなく、何か、ただ、
現実を保っている、
私はそんな現実の一部として、無数の非常に、かつて生命だった、水の
壁を埋めるから、
埋めるから、
埋める、                     
馬は、


 「世界」と私が仮に読んだものを、カニエは「現実」と読んでいるのかもしれない。
「小さい」あるいは「点」は「一部」ということになるだろうか。その「対比」を、ここでは「否定」ではなく「逆さま」とか「断って」ということばでつかまえていると感じる。そのとき「小さいもの」「点」「一部」は「何を意味するかではなく、何か、ただ」というもの、いわば「無意味」として提示されている。
 「巨大なもの」(歴史/現実)には「意味」がある。しかし「小さいもの」「点」「一部」には、それと拮抗する「無意味」がある。「小さいもの」は「無意味」として存在しなければならない何かなのかもしれない。その「象徴」として「馬」がいる/ある、と読んでしまうと、しかし「馬」が「象徴」という「意味」になるかもしれない。「象徴」なのだけれど、「意味」に書き換えられないものとして、なんとか提示しようとしている。
 という具合に、私は読むのだが……。
 うーん、頭の悪い私は、読みながらつまずくのである。「否定する」「断つ」という「動詞」が頼りなのだが、なんといえばいいのか「歴史」(引用はしなかったが「戦争」ということばも、どこかにあったと記憶している)という「名詞」が巨大すぎて、そこに書かれていることが「意味」のように思えてしまうのである。「無意味」を「いのち」として「巨大なもの」と拮抗させようとしているのに、そういう「運動」が「意味」としてあらわれてしまうような気がして、困惑してしまう。「意味を断つ/意味を否定する」ものとしての「個(点)」の「馬」が「概念」になってしまう。私の「頭」では。
 私は、どうも「名詞」で「世界/現実」をとらえるということができない。「名詞」を覚えきれない、「名詞」を覚えるのが大嫌いという「性分」のせいかもしれない。

 だから、
 というのはいいかげんな言い訳なのだが、「本文」と「注釈」、あるいは「注釈」と「本文」という形で読み返し、「名詞」(巨大なことば)の呼応を確かめ、そのうえで「動詞」がどうつかわれているかを「分析」すれば、カニエの書こうとしていることがもっと鮮明に把握できるのだと予感するのだけれど、これは私には不得手のこと。頭が悪いから「名詞」が覚えられない。ずぼらなので、「名詞」を何度も行き来して確かめるというのも「性分」にあわない。そういうことをすれば、感じたことではなく、頭ででっちあげた「嘘」になってしまう。私の場合。
 だから、そういうことは頭のいい人の書く批評に任せたい。

 あ、追加しておく。
 「第二部 植物図鑑」と「空白」(あるいは無?)の関係は、長い詩の次の部分、

なぜ、植物図鑑か?
それは馬を逃がすこと

 と呼応している。この部分を読んだ瞬間、私は「植物図鑑」を鉛筆で丸く囲み、それを線で引っぱって、余白に☆マークを書いている。どうしてそうしたのかわからないが、あっ、このことば、それまで読んできたことばと違うと直感したのである。「歴史/時間」を縦の線と仮定すれば、「植物図鑑」は何か横の線、それまで書いてきたものと交錯するひろがりの形と感じたのかなあ。「馬を引く」の「引く」という「動詞」のなかに「時間」があるのに対し、「植物図鑑」には「動詞」がないこと、図鑑の中には「もの(名詞)」がただ散らばっている(ほんとうは「規則」という時間があるのだろうけれど)ことから、そう感じたのかなあ。
 忘れてしまった。たぶん「本文」と「注釈」という「関係」を思いついた瞬間に。何の役にも立たないが、メモのかわりに書き加えておく。
馬引く男
クリエーター情報なし
密林社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水の周辺8

2016-10-16 00:11:43 | 
水の周辺8



見られている、
水。
(何も感じなかった。)

見ている、水。
(何も感じなかった。)



流れている、
水。
(憎しみが立ち上がってこない。)

流されている、水。
(憎しみを煽り立てない。)



ゆるむ、
水。
(果てしない。)

ゆるめる、水。
(果てない。)




*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、発売中。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正草案を読む/番外32(情報の読み方)

2016-10-15 10:59:55 | 自民党憲法改正草案を読む
民進党への注文
               自民党憲法改正草案を読む/番外32(情報の読み方)

 2016年10月15日読売新聞(西部版・14版)4面に「語る/生前退位」という連載がある。2回目で、民進党の野田幹事長がインタビューに答えている。天皇の「生前退位」問題について、安倍が「有識者会議」で「静かに」議論を進めると言ったことに対しての対応を問われて、こう答えている。

 政府がどういう運びを考えているのかまだ見えない。侃々諤々の議論になるよりは、おのずと方向が定まっていくのが一番望ましい。

 「まだ見えていない」とは、どういうことだろうか。「特別法」で対処する(皇室典範は改正しない/生前退位を制度化しない)という方向は既に何度も新聞で報道されている。野田は新聞も読んでいないのか。
 また「侃々諤々の議論になるよりは、おのずと方向が定まっていくのが一番望ましい。」とは、どういうことだろうか。民主主義とは「侃々諤々の議論」のことである。「静か」とは正反対の「うるさい」ものである。野党が議論を否定して、どうするつもりなのだ。
 野田はまた、党内で「皇位検討委員会」を設置し「静かに」議論し、考えをまとめると言ったあと、こう語る。

与野党で対立する形になるのは望ましくないので、対案を出すやり方は基本的に考えていない。

 なぜ、与野党で対立してはいけないのか。天皇の皇位継承は大問題である。さまざまな意見を出し合い、つまり意見を対立させるだけ対立させて、問題点を徹底的に解消すべきである。そういう議論が行われるようにするのが野党の仕事である。政府(安倍)が「静かに」結論を出し、それに従うというのでは、野党の意味がない。最初から「無条件降伏」しているようなものだ。
 だいたい安倍(自民党)が「案」を出していないのだから、先に民進党が案を出せばいいじゃないか。安倍の案を待っているから「対案」になる。民進党が先に案を出せば、安倍の案の方が「対案」になる。「民進党だけで単独過半数を目指す」という絵空事を語るくせに、政治をリードして「案」を提出するということもできないで、どうして「単独過半数」など獲得できるだろう。「議席の一部をわけてね」とごまをすっているようなものじゃないか。

 「対案を出すやり方は基本的に考えていない」というのは、たとえば「憲法改正」などのときに言うことである。なぜ「代案」を出さないか。現行憲法そのものが自民党の憲法改正草案への「代案」だからである。言い換えると、安倍が現行憲法に対して「代案」を出そうとしているのである。そんな「代案」はいらない。だから、「安倍案」に対して「代案」を出さないのである。「代案」以前に、憲法そのものが存在している。

 時間が前後するが、12日に、安倍と山尾(民進党)のやりとりが衆院予算委であった。山尾は、そこで安倍の「憲法改正草案」に対する姿勢、積極的に語ったり、突然語るのをやめることを問題にした。言行不一致を取り上げた。安倍は「以前は憲法論議を深めるために積極的に語った。しかし、実際に議論が始まろうとしているときに、

総理としての立場にあって述べることは、議論が進んでいくことに支障をきたす。(10月13日朝日新聞西部版・14版・3面)

 と語っている。
 「総理としての立場」というのは「自民・公明連立政権」の問題があるということだ。「自民党改正草案」についてだけ語るわけには行かない、という「事情」を含めてのことである。
 ここに(この答弁に)、野党の「突っ込みどころ」がある。そこを山尾はもっと厳しく追及すべきだった。
 安倍は野党に「対案を出せ」と要求しているが、「対案とは何に対しての対案か」と積極的に迫るべきである。「与党(自民・公明連立)の改正案が出ていない。案がないのに対案を出せというのはどういうことか」と突っぱねればいい。
 安倍が「自民党の改正案がある」と言うのなら、「それに対して公明党は完全同意しているのか。同意しているのであれば、公明党との調整は必要ない。総理として答弁できるはずだ」と迫ることができる。
 繰り返そう。民進党は現在の憲法を守る立場ではないのか。もしそうであるなら、現在の憲法を守る立場にあるものが、その憲法に対して「代案」など出すということはありえない。それでは自己矛盾である。いまの憲法に対して「代案」を出しているのは自民党だけである。連立政権として改正案を出すのなら、まず連立政権内で「案」を一本化すべきである。与党内で一本化していない問題、内閣に不一致の問題について、議論などはじめてもしようがない。

 (話は少しずれるが……。この「不一致問題」を解消するために、自民党の憲法改正草案は、とても巧妙なことをやっている。
第十章改正
第百条
この憲法の改正は、衆議院又は参議院の議員の発議により、両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で、国会が議決し、国民に提案してその承認を得なければならない。
現行憲法は、
第九章改正
第九十六条
この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。
 改正案では「衆議院又は参議院の議員の発議により」とある。ひとりでも「発議」できるのである。ひとりが「発議し」、国会で「議決」する。「三分の二」から「過半数」への改正以上に重大な問題だと私は思っている。)

 憲法改正問題については、自民党と公明党が完全に一致しているわけではない。その「ずれ」をもっと「現実問題」として追及すべきである。その追及は安倍自民党だけではなく、公明党への追及にもなる。
 公明党の母体である創価学会は、国民の目を騙すために、一部の創価学会員が「戦争法に反対している」というのようことを宣伝したが、結局、選挙では公明党に投票している。議席を減らしていない。議席を守るためならどんな嘘でもつくというのは、安倍とかわらない。そういう点を追及してもらいたい。
 「過去の発言」と「今の発言」の矛盾を指摘するだけではなく、「今の発言」の先に生まれてくる矛盾を先取りする形で指摘する工夫(能力)が欠け過ぎている。

 野田は読売新聞のインタビューの最後に、こう言っている。

 民進党は、象徴天皇制の中で皇位継承がいかにうまくいくかという一点だけを曇りのない目で見つめながら、党利党略を排して正しく静かに議論をしていく。

 「党利党略」は、あろうとなかろうと関係ない。まず、「騒がしく」議論することが必要だ。「静か」では、何が起きているかわからない。「静か」では「権力者」の思うがままなのだ。「曇りのない目」などという美辞麗句に酔うな。
 参院選の敗北から民進党は何も学んでいない。籾井NHK参院選の報道をしなかった。つまり「静か」を守り通した。その結果、国民の多くは(若者の多くは)、いったい「何党」が立候補しているかさえ知らないという状況になった。知っている党は「自民党」「公明党」「共産党」だけになってしまった。「民進党」は名前がかわったばかりで、「経歴隠し」のように受け止められてしまった。そして、どんな「議論」もないまま、「自民党か共産党か(民進党にはもれなく共産党がついてくる)」という選挙になったのだ。
 どこまでも「議論」し、「騒がしく」議論し、少数意見を掘り起こさない限り、民主主義は死ぬ。民主主義とは多様性のことであり、多様性とは「静か」とは正反対のものである。そのことを忘れている民進党は、自民党に加担しているとさえ言える。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大橋政人『まどさんへの質問』

2016-10-15 09:31:24 | 詩集
大橋政人『まどさんへの質問』(思潮社、2016年10月15日発行)

 大橋政人『まどさんへの質問』には「花」が登場する詩が何篇かある。そのうちの一篇の「ハイライト」の部分は「帯び」になっている。
 で、「帯び」にならなかった方の「花の温度」を読んでみる。

熱くて
さわれないような
花はない

部屋の温度を
強くしても
花は
熱くならない

花弁に
指でさわると
いつも
花瓶の温度と
同じくらい

花瓶の
水ばかり
飲んでいる
せいだろうか

(一日中
(澄ました顔で
(水の中

 一連目、二連目。ふーん、変なことを考える人だなあ、という印象。私は、花が熱いかどうかなんて考えたことがない。だから、ここでは、そうか、そんなふうに見る視点があるのか、という感じ。よく言えば、何も知らないこどもの発想。悪く言えば、こどもっぽさを狙った作為も感じられる。
 しかし、三連目で、びっくりした。
 えっ、触って確かめたの? 
 ふいに、花に触ったときの感じが「肉体」の奥から蘇ってくる。確かに「熱い」ということはない。あえて言えば「ぬるい」。人間の「肌」よりは「ひんやり」しているかもしれないが、どれくらい違いがあるか、わからない。人肌は「熱い」ときもあれば「ひんやり」しているときもある。その「温度」といっしょに、花びらの「つるつる」「しっとり」という感じも思い出すなあ。でも、この私の「感触」は「思い出したもの」であって、実際に、いま、花に触って確かめたものではない。
 触ったあと、大橋は、こう言いなおしている。

いつも
花瓶の温度と
同じくらい

 そうだなあ。「花瓶と同じくらいだろうなあ」と想像できる。納得できる。その「納得」が「空想の肉体/肉体の空想」を刺戟して、それでおしまい、かというと、そうではない。

いつも

 うーん。「いつも」か。もちろん、大橋は毎日触ってたしかめているわけではなく、たまたまその日、花に触り、花瓶に触り、また花に触るという「繰り返し」をしてみて、「繰り返し」のなかで起きる感じが変わらないので「いつも」と言っているのかもしれないが。
 で、この「いつも」は単に「過去」(繰り返された時間)だけのことではなく、これからつづく時間を含めて「いつも」なのだと、私は直感的に感じる。
 触って確かめたのは、ついさっきのことなのだけれど、その確かめたことは、これからも「いつも」、つまり「永遠」にかわらない「事実」なのだ。
 ここに「永遠」がある。
 一連目に書いていることは「思いつき」。いわば、頭でも書けるかもしれない世界。それが三連目で「永遠」に変わっている。そして、そのとき「指でさわる」という具合に、実際に「肉体」が動いている。「肉体」が「永遠」に参加している。「花」だけが「永遠」になるのではなく、「肉体」そのものが「永遠」になっている。「花/肉体(指)」がひとつになって、そこに存在している。
 いいなあ、この三連目はいいなあ、と思わず「いつも」の三文字を丸く囲みながら(傍線では何かを逃がしてしまいそうと感じながら)、また読み直すのである。
 四連目以降は、つかみ取った「永遠」を「別の角度」からととのえなおしている。「頭」でととのえなおしている。でも、そんなに「頭」「頭」という感じ、うるさい感じがしないのは「指で触る」という具合に実際に「肉体」が動いたことを知っているからだ。「肉体」が共鳴するからだ。
 さらに

水ばかり
飲んでいる

 と、ここにも「飲む」という動詞があって、それが「肉体」を刺戟してくるからだ。「水を飲む」ということを、私は知っている。「飲む」という「動詞」に誘われて、私は水を飲むときのことを思い出す。「花」が「主語」なのに、その「花」と私の肉体が重なる。あるいは、入れ代わる。
 「触る(セックスをする)」とは「肉体」が入れ代わること。自分と相手の区別がなくなること、とは、瀬崎祐『片耳の、芒』で書いたことだが、この作品でも、それに通じることを感じる。
 四連目で大橋は、「花」になって水を「飲んでいる」のである。
 だから、

(一日中
(澄ました顔で
(水の中

 これは「花」の描写ではなく、「自画像」でもある。「水の中」に花が咲いているわけではないから、「現実」ではない。空想。この「空想」というのは「肉体」という「現実」に対しての便宜上のことば。一般的なことばで言えば「心象風景」ということになるかもしれない。「こころの中の風景」、あるいは「こころの風景」。
 私は「こころ」というものの存在を信じていないのだけれど、こういう行(こういう具合に進んできて動くことば)に触れると、「肉体」のなかに「こころ」がある、「こころ」は「こころの風景」を生きていると考えるのもいいなあ、と思ったりする。
 おっ、美しい、と思わず声が洩れてしまうのである。

 私は、この作品は、ここで終わってもいいのじゃないかなあ、と思う。
 ところが、このあともう一連ある。

熱いのか
寒いのか
気もしれないから
着物も
着せられない

 最後の語呂合わせ(私は苦手だ)がうるさい感じがする。せっかく「こころ」で終わったものを、「頭」へ引き戻す感じがする。
 この詩集は『まどさんへの質問』。まど・みちおを意識している。私はまど・みちおを読んだことがない。「ぞうさん」の歌くらいしか知らない。でも、まど・みちおなら、きっと最終連は書かないだろうなあと思う。知らないまど・みちおと大橋を比較してもしようがないのだが(単なる想像になってしまうのだが)、最後に「頭」で「けり」をつけるかどうか、という部分が大橋とまど・みちおの大きな違いかもしれないとも思うのだった。

まどさんへの質問
大橋政人
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

毎日新聞2016年10月14日夕刊

2016-10-14 22:38:24 | 自民党憲法改正草案を読む

毎日新聞2016年10月14日夕刊「特集ワイド」に私の書いた『詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント』が紹介されました。
紹介者は、池田香代子さん。「9条の会」の12人の「世話人会」のメンバーです。

私の文章は「法律家」の視点で書いたものではありません。
あくまで自分が知っていることばで、自分にこだわって書いたものです。
だから「正解」を書いているのではなく、あくまで「考え方」を書いたものです。
憲法は安倍のものでもなければ、自民党のものでもない。
国民みんなのもの。
みなさんといっしょに憲法について考えたいと思って書いたものです。

この機会に、ぜひ、お読みください。
アマゾンで購入できます。
電子版も発売中です。



詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
クリエーター情報なし
ポエムピース



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瀬崎祐『片耳の、芒』(2)

2016-10-14 11:13:38 | 詩集
瀬崎祐『片耳の、芒』(2)(思潮社、2016年10月15日発行)

 瀬崎祐『片耳の、芒』のタイトルになっている作品。

地下道の路面は風に荒れていて その隅にちぎりとられ
た片耳が落ちている 片耳はおのれの光を失っていて 
内側からのかすかな音をたてている 耳は内奥へむかう
ゆるやかな弧を抱いている
こまかい繊毛におおわれた暗闇の道をたどるのは どこ
までもひきのばされる指先だ 指先に触れる腫れや窪み
が苛立たしい

 落ちている「片耳」(片方の耳、ということだろうか)。それは「内側」に「音」をもっている。「音」を「抱えている」。それが聞こえてくる。「音を立てている」と感じる。
 このとき。
 その「音」を聞いているのは、だれ? その耳をみつけた、だれか。仮に瀬崎と考えてみようか。その瀬崎が聞いているのか。
 でも、これはあまりおもしろくない。
 私は「落ちている耳」が、その耳の奥から聞こえてくる音を聞いているのだと読みたい。なぜ、そんなものを聞いてしまうのか。「おのれの光を失って」いるからだ。「おのれの光を失う」って、どういうこと? よくわからないが、ないはずの「耳の奥」(なんといっても、頭から切り離されて落ちているのだから、「奥」なんて、ありえない)から聞いてしまうというような「矛盾」が、「理性(人間を導く光)を失う」という具合に読み取れるのである。
 そうすると「内奥」というのは「光」の逆のもの、「闇」ということになる。
 だからこそ「暗闇の道をたどる」ということばも出てくるのだが。
 その「たどる」という「動詞」の「主語」に「指先」というものが突然出てくる。ここが、とてもおもしろい。
 「たどる」という「動詞」の「主語」になりうるものに何があるだろう。「意識」とか、「視線」というものがある。でも、それは抽象的。瀬崎は、そういう「抽象」よりも具体的な「肉体」を好んでいる。
 「指」が「耳の内奥/暗闇」を「たどる」。つまり、奥へ入っていく。「弧」とか「腫れ」とか「窪み」というのは、何かしら「耳の形」(立体的な形)を思い起こさせる。その複雑な、曲線的な形を、「指」でたどる。
 何のために?
 「奥」を見つけ出すためかもしれないが、私は、ちょっと脱線する。「指」が「耳の曲線」をたどるというのは、「耳の曲線」に触れること。まさぐること。そのとき、「耳」は「膣」のように、秘密の「音」を奏でないか。反応しないか。
 瀬崎は、そんなことは書いていないのだけれど、私は「誤読」するのである。

 そして二連目。

片耳はいなくなったはずの人々の声を聞きとろうとして
いる 声音であのときのあの人だと 今さらながらに気
づく あのときにあの人はこんな声を発していたのだっ
たと 今さらながらに気づく
しかし あの人がなにへ誘っていたのかを聞きとること
は もはやできない

 「あの人の声」。それは「あの人の指」のようでもある。指で耳をたどる。そのとき、その人は「声」を出さなくても、触れることで「声」に出さずとも伝わる何かを伝えている。と、書けば、きのう書いたセックスのつづきになってしまうのだが。「耳」は「膣」そのものになって、「指」を奥へ、内部へと誘い込むのだ。
 うーん。
 どうしても、私は、そんな想像をするのである。「指」が「耳」に触れながら、その「触れ方」で伝える欲望。それは「ことば(声)」よりも直接的に「耳の内奥」にまでひびく。「内奥」にとどまりつづける。あるいは、「内奥」で呼び続ける。そして、そこに「交換/交感/交歓」が始まる。
 その「指」を失ってしまったいまになって、その「欲望」に「耳」は身を寄せている。「欲望の声」を聞いている。その声は、とりもなおさず、「耳」自身の(つまり自分自身の)声でもある。「あの人の声」である以上に、自分の声。
 一連目では「耳」と「指」は「自分のもの」。しかし、二連目では、その「自分のものであるはずの指」が「あの人の指」に変わる。変わるのだけれど、一連目のことを思うと、それは自分の指。自分の指が「あの人の指」になって、「自分の耳」に触る。そうすると、そこから「音楽」がはじまる。「あの人の声」と「自分の声」が誘い合う。
 肉体が触れ合うということは、肉体の区別がなくなることだ。区別があるから触れ合うことができるのだが、触れてしまえば、どこからどこまでが自分の肉体かわからない。欲望は、どこからどこまでが「あの人」のものであり、どこからどこまでが「自分のもの」か、よくわからない。
 あ、これは変? 瀬崎は男だから、「耳」を自分の「膣」だと感じるとき、性が逆転する? 矛盾する。ありえない? 理性的に考えればそうなのかもしれないが、実際にセックスが始まってしまえば、二つの「肉体」を切り離して別々に考えてもしかたがないだろう。「触る」ことは「触られる」こと。相対的な区別がなくなること。
 それがセックスというものだろう。

 瀬崎の詩は、芒で耳を切った記憶、そこから耳が切り落とされたという幻想へとつながって動いているのだが、そこに「指」がまぎれ込むことで、なにかとてもあやしいものになる。「切り落とされ」孤独になってしまったもの、孤立してしまったものは、「切り落とされる前」の「つながり」を探して動く。
 「肉体」は「動く」。
 そして「肉体」を誘い込む「動詞」が、「肉体」を他の「肉体」と結びつけ、動かしてしまう。交わらせてしまう。あらゆる「肉体」は、どこかでセックスをしている、と感じさせる。
 セックスを直接書かないことで、逆に「肉体」からセックスは切り離せないものであるということを、強く感じさせる。小さな「動詞」で。たとえば、この詩では「たどる」という「動詞」で。
 「たどる」は「聞き取る」という「動詞」にかわり、さらに「気づく」という「動詞」にかわる。その「動詞」を結びつけているのは、ひとつながりの「肉体」である。そんなことを思う。

片耳の、芒
クリエーター情報なし
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瀬崎祐『片耳の、芒』

2016-10-13 07:32:24 | 詩集
瀬崎祐『片耳の、芒』(思潮社、2016年10月15日発行)

 瀬崎祐『片耳の、芒』には奇妙な粘着力がある。そして、それは「詩集」という形になったときに、雑誌で読んだときとは違った姿で迫ってくる。と、書きながら、私はほんとうに「どぅるかまら」「風都市」で、この詩集のなかの詩篇を読んだかどうか思い出せないのだが。何か、ひとかたまりの「量」になることで見えてくるものがある。その「量」が、とても「手応え」がある。
 それは詩がある種の「ストーリー」を持っていることと関係しているかもしれない。書かれている人、ものが動き、「事件」が起きる。ただ、その「起き方」がきのう読んだ加藤思何理『奇蹟という名の蜜』とはずいぶん違う。だから「ストーリー」よりも、その「書き方」と関係しているといった方がいいのかもしれないなあ。

 「陰花」という作品。 

わたしが扉をあけると 三人のよく似た顔の従兄弟たち
がふりむいた 病にたおれたわたしを庇って 従兄弟た
ちは海藻を運びつづけてくれた

 この書き出しからは、「わたし」が「海藻」を運ぶ仕事をしているということがわかる。もう「ストーリー」が動いている。でも、海藻を運ぶというのは、なんだろう。昆布とりとか、わかめとりとか。そういうことを想像する前に、これは「比喩」なのだな、と感じてしまう。そういう書きぶりである。もちろん、こういう印象には、この一篇だけではなく、この詩集に納められている他の作品や、以前に読んだ瀬崎の詩の印象がまぎれ込んでいて、そう思ってしまうのだが。読み進むと……。

そんな従兄弟たちの腰のあたりには 運びつづけてきた
ものと同じ海藻が生えてきている 花から叛かれた生命
は触れたものに繁殖するのだ ときをつなげるために 
触れた皮膚をめくり 暗いところに胞子をもぐりこませ
るのだ

 と、「現実」にはありえないようなことが書かれる。「幻想」のような方向にことばが動いていく。
 このときの「ことば」の動き。それは「事件」を書く、というよりも「時間」を書くという感じだ。

ときをつなげる

 ということばがあるために、そう思うのかもしれないが。
 このときの「とき」は「時間/瞬間」というものではないような気がする。「とき」は「比喩」なのだと感じる。「つなげる」という「動詞」がそう感じさせる。
 「とき」は人間の動きとは無関係に動いている。「つなげる」必要はない。「とき」はかってにつながって動いていく。
 では、何を「つなげる」のか。「つなぐ」のか。「花から叛れた生命」ということばが気になる。「花から叛れた生命」自体は「海藻」を言いなおしたもの、つまり「比喩」だが、そこにある「叛く」という「動詞」と「生命」という「名詞」が強く印象に残る。
 「叛く」は「離れる」でもある。「離れる」は「つなぐ/つなげる」とは反対のことばでもある。そうであるならば、「ときをつなげる」は「離れていった生命」を「つなげる」ということにならないだろうか。
 「海藻」には「花」のような華やかさがない。「陰花」と言えるかもしれない。それは、しかし強い生命力をもっていて、「触れたものに繁殖する」、「触れたものの」のなかに「生命」をつないでゆく。「海藻」は海から引き離されながら、海から引き離すものの「腰のあたり」に「胞子」をもぐりこませ、「ときをつなげる/生命をつなげる」。
 こういうことが「現実」にあるわけではないだろう。瀬崎は、「ときをつなげる/生命をつなげる」という「動き」を書くために、「架空の事件」を書いているのだろう。言い換えると「海藻」とか「従兄弟たち」「腰のあたり」というのは、「動き(動詞)」を明るみに出すための「方便」のようなものだ。「動き」は「動き」だけを取り出して書けない。「名詞」を必要とするから、借りて書いているのだという感じ。
 この「ときをつなげる/生命をつなげる」という「動詞」は、次のように言いなおされる。

海藻のからみあった部分はゆっくりと蠢いていて まさ
ぐる人さし指があたたくとらえられる 指はぬめぬめと
口でくわえられているようで まるで自分たち自身も海
の底でゆらいでいる海藻になったようだと 従兄弟たち
はいう

 「からみあう」「蠢く」「まさぐる」という「動詞」が「腰」とともに動くので、何やら色っぽい、セックスを想像させる。「あたたく(あたたかく?)」「ぬめぬめ」ということばも、「肉体」を感じさせる。セックスは、たしかに「生命をつないでゆく」「ときをつないでゆく」。そこに「叛く」ということばが重なれば、何か「不道徳」のようなものを感じさせる。「ゆらいでいる」のは、「道徳」かもしれない。「道徳」に叛き、「生命」ではなく「官能/快楽/本能」というものを「つないでゆく」ことになるかもしれない。

彼らがうっとりとしてあおむけに身体をよこたえようと
すると もうひとときは漂っていたいから我慢してほし
いなあと声がきこえてくるという そこで身体を横に向
けると やがて寝息のようなものが静かにきこえはじめ
るという

 こうなると、もうセックスそのものである。「海藻」は「海藻」ではなく「女」である。それも「快楽のための女」である。「愉悦を求める女」である。とはいっても、「愉悦を求める」のは女だけではないから、それは「わたし」を含める「従兄弟たち」、さらには「男」自身ということにもなるだろう。
 「快楽/愉悦をまさぐる」こと、それが「ときをつなげる」こと、「生命をつなげること」。

 あ、こんなことは書いていないのかも。全ては私の「誤読」かも。
 でも、詩は、気に入った部分に立ち止まり、そこに書かれていることばを自分でつかってみるなら、こういう具合につかってみたいと勝手に思うときに動くもの。正しいとか間違っているとかは関係ないなあ。
 「女」ということばは出てこないが、これはきっとセックスのことを書いている。そこに書いてある「動詞」を自分の「肉体」で動かすとセックスのあれこれが思い浮かぶ。スケベなのに、スケベを隠して書いているなんて、瀬崎はむっつりスケベ? と思って読むと、なんとなく瀬崎が近くにいる感じがしてくる。

片耳の、芒
瀬崎祐
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加藤思何理『奇蹟という名の蜜』

2016-10-12 16:52:02 | 詩集
加藤思何理『奇蹟という名の蜜』(土曜美術社出版販売、2016年09月30日発行)

 加藤思何理『奇蹟という名の蜜』を、こんなふうに読んでみるのはどうだろう。それぞれの詩の書き出しを引用する。

ある朝のこと、ぼくは裏庭で金いろに耀く豹の屍体を発見する。  (「裏庭に豹」)

金いろに烈しく泡立ち脈搏つ樹液で
その尖端の先のさきまで夥しく膨らんだ樹、
かなり切なく苦しくゆきづまるほどに。

その幹にひとつの不可解な暗い割れ目があって (「たとえばそれは毒を吐く樹、」)

ぼくの眼前には月明かりに照らされた広やかな草原が横たわっている。
夥しい草草の一本一本が銀いろの葉裏を閃かせながら夜の風にそよぐ。
だが風の音さえ聞こえるわけではない。         (「重力に祝福されて」)

教室のなかでは地球儀を用いた授業が行われている。

地球儀は緑と赤と青と透明なものの四種類で、まとめて二百個くらいはあるだろう。
どんな素材でできているのか、それらはきわめて柔らかく可塑的で、たとえば少女の初初しい乳房のような感触だ。                (「赤いスパナの謎」)

  最初に気づくのは「金いろ」「銀いろ」というような、明るい色である。まぶしい色である。「緑と赤と青」は光の三原色。全部合わさると「透明(白)」になる。「金いろ」「銀いろ」は「透明」になる寸前の「いろ」なのかもしれない。この「いろ」は「耀く」「照らす」「閃く」というような「光」の「動詞」となる。そしてそこには「烈しく」という「副詞」が付き添う。「広やかな」という「形容動詞」もついてくる。それらは、どれも「強い/強さ」という印象を呼び起こす。
 一方、その「光」という輝きを象徴する「主語」とは別なものが、同時に語られる。「屍体」「不可解な暗い割れ目」「葉裏」という何かしら「暗いイメージ」をもったものが「主語」として向き合っている。その「闇」につながる「主語」には明確な「動詞」はつきしたがわない。「ゆきづまる」という「動詞」が印象にのこるくらいだ。かわりに「切なく苦しく」とか「柔らかく可塑的」とか、何かしら「弱い」印象をもたらす「副詞」や「形容句」がつきまとう。
 相反するものが、詩の冒頭で出合っている。

 相反するものが出合うと、どうなるか。端折って書いてしまうと「弁証法的運動」がおきる。衝突、止揚、昇華という運動がおきる。いわゆる「ストーリー」が、そこから生まれてくる。
 うーん。
 それはそれでおもしろいのだが、このことばの運動に、私は少し疑問を感じる。
 「闇」を輝かしいもの、「光」に変えてしまうような激しい「動詞」、書かれなかった「動詞」を探すストーリーならいいのだけれど、どうも違う。
 途中から、ことばが衝突を繰り返すというよりも、何か「結論」を求めて動き始めるという印象にかわる。「結論」をめざしすぎる。「衝突」したあと、どこへ行くかわからない、という感じではなく、どうしても「結論」をつけたくて「衝突」そのものをととのえ始めている感じがする。
 「裏庭に豹」を読み返す。

ある朝のこと、ぼくは裏庭で金いろに耀く豹の屍体を発見する。
どこから迷いこんできたのだろう。
あるいはまさかとは思うが誰かがこっそり捨てていったのか。
屍体はなかば腐敗し、腹のあたりの柔らかい皮膚が破れて、ルビーの色の爛れた肉の上を夥しい数の白い虫が蠕動している。
ひどい悪臭だ。
だが不思議なことに母も姉もその屍体に気づかない。
ただぼくと父だけが豹の屍体の存在を強く意識している。

 ここには、先に書いた「光」と「闇」の衝突が、克明に書かれている。同時に、その「衝突」を「意識」できるのは「ぼく」と「父」だけであって、「母も姉」や「隣人や友人」(二連目)には見えない。意識されない。「気づかない」と言いなおされる。
 この「衝突」を、「ストーリー」ではなく「存在」そのものとして「維持し続ける」ととてもおもしろい「思想/肉体」が生まれてくると思うのだが。つまり、加藤の「肉体」が変化しないではいられない状態になってくると思うのだが、加藤はそういうことはしない。
 「衝突」のままでは動きようがないので、三連目に突然「セールスマン」を登場させる。

さて、アメシストいろの淡い雲がひろがるある蒸し暑い夕暮れに、尖った靴を履いた見知らぬセールスマンがやってきて、いきなり裏庭から漂う悪臭を指摘する。

 ここから「詩」は「短編小説」へと変化していく。
 一連目では「豹」そのものが動いていた。「屍体」という動けない存在にもかかわらず、「腐敗する」という動詞になって動き、さらにそこから「白い虫」が生まれ、「蠕動する」という、「生まれ変わり」のような「昇華」があった。「白い虫/蛆虫」なのに、それは「豹」そのものの「動き」、言い換えると「いのち」に見える。「生まれ変わり」と書いたのは「いのち」のつながりがそこにあるからだ。「豹」という「主語」を食い破って生まれてくる新しいいのちの輝きがそこにある。それが美しい。
 ことろが三連目以降は「豹」が動かずに、「人間」がかわりに動き始める。「豹」は置き去りにされる。
 父は、こんなふうに動く。

--今夜、あの豹をふたりで処分しよう。
--でも誰かに見つかると逮捕されるよ。
--心配するな。あれはわたしとおまえ以外には決して見えないのだ。

 つられて「ぼく」も動いてしまう。「ぼく」は隠れて、秘密警察に電話しようとする。「父」を密告しようとする。しかし指が滑って電話がかけられない。気づくと、

ふと気配を感じて振り返る、するといつのまにかすぐ背後に立っていた父が、ぞっとするほど黄いろい刃物のような眼でぼくを睨みつけていた。

 加藤は「父」を「豹」に「豹変」させるのだが、これでは「短編小説」とも言えないかもしれない。「ぼく」が「豹」になって生まれ変わる、あるいはこの作品に従えば「死に変わる」と、詩(思想/肉体)が生まれてくる瞬間の「暴力」にならないと思う。
 「父」に殺され死体になり、それから「豹」にかわると読めばいいのかもしれないが、それでは一連目の「豹の屍→蛆虫」という強烈な「いのちの再生」という「動詞」を裏切ってしまう。
 「ストーリー」になりたがることばを、どうやって「ストーリー」にさせないか、ということが必要なのかもしれない。「ストーリー」になってしまうことばを押しとどめたら、とてもおもしろくなると思う。
 あるいは詩を捨てて、「短編小説」へ突き進むという方法もあるかもしれないが。


すべての詩人は水夫である (100人の詩人・100冊の詩集)
加藤思何理
土曜美術社出版販売
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正草案を読む/番外32(情報の読み方)

2016-10-12 01:17:15 | 自民党憲法改正草案を読む
南スーダンで死んだら「衝突死」?
               自民党憲法改正草案を読む/番外32(情報の読み方)

NHK NEWS WEB(http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161011/k10010725461000.html )(2016年10月11日12時24分)にこういう記事があった。

首相 南スーダン“衝突あったが戦闘行為にはあたらず”

 安倍総理大臣は、参議院予算委員会の集中審議で、来月、南スーダンに派遣される見通しの自衛隊の部隊に対し、安全保障関連法に基づく新たな任務を付与するかどうかの判断に関連して、ことし7月に政府軍と反政府勢力との衝突はあったものの、戦闘行為にはあたらないという認識を示しました。
 この中で民進党の大野元防衛政務官は、政府が、来月、南スーダンに派遣される見通しの自衛隊の部隊に対し、安全保障関連法に基づく新たな任務の「駆け付け警護」などを付与するかどうか判断するとしていることに関連して、「南スーダンでは、ことし7月に政府軍と反政府勢力との衝突事案があったが、これは『戦闘』ではないのか。新たな任務を付与するのか」とただしました。
 これに対し安倍総理大臣は、「PKO法との関係、PKO参加5原則との関係も含めて『戦闘行為』には当たらない。法的な議論をすると、『戦闘』をどう定義するかということに、定義はない。『戦闘行為』はなかったが、武器を使って殺傷、あるいは物を破壊する行為はあった。われわれは、いわば一般的な意味として『衝突』という表現を使っている」と述べました。

 三段落目の「論理」が無茶苦茶である。
 「法的な議論をすると、『戦闘』をどう定義するかということに、定義はない。」これは「法律」は「戦闘」を定義していないということだが、どこの国の「法律」?
 日本の憲法は、こう書いてある。

第九条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争を放棄し、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 「戦闘」と「戦争」は違うというかもしれないが、ここには「戦争」が「定義」されている。「国際紛争を解決する手段として」「武力による威嚇又は武力の行使」することを「戦争」という。(「戦争の定義を、武力による紛争解決、武力による威嚇、武力の行使とする」と書いてなくても、「定義」はない、とは言えない。)
 南スーダンの場合は「国際紛争」ではなく「国内紛争」だから「戦争」ではなく「戦闘」とよばれるのかもしれないが、そうであれば「戦闘」とは「紛争を解決する手段として」「武力による威嚇又は武力の行使」することになるだろう。(実際にそこで行動している人には「戦争」と「戦争」の区別などない。武器で肉体が傷つけられれば死んでしまうかもしれないという「事実」があるだけだ。)
 先日、自民党議員のパーティー券の「白紙領収書」が問題になったとき、高市は「領収書の発行側の作成方法についての規定は法律上ない。主催団体が了解しているものであれば、法律上問題はないと考える。」と言ったが、それと同じ言い方だ。それは「法律」の読み方を間違えている。「白紙領収書」に勝手に金額、使途を書き込めば「文書偽造」だろう。
 「『戦闘行為』はなかったが、武器を使って殺傷、あるいは物を破壊する行為はあった。」ではなく「武器を使って殺傷、あるいは物を破壊する行為はあった。武力をつかっているのだから、それは「戦闘行為」である」と考えるのが常識だろう。
 「武力の衝突」が「戦闘」である。「殺傷」があれば、それは「戦闘」である。「戦争」である。いつでも、ひとが死ぬ可能性があるということだ。「ことば/表現」で「事実」をごまかすな。
 「われわれは、いわば一般的な意味として『衝突』という表現を使っている」というが、「われわれ」とはだれのことか。安倍以外のだれとだれが「われわれ」と呼ばれるの仲間なのか。
 「われわれ」に、私(谷内)を含めるな。

 翻って。

 「衝突」と呼ばれているものについて考えてみる。
 いま沖縄・高江で起きている住民と機動隊とのあいだで起きていることは、なんと呼ぶべきか。「衝突」か。機動隊員が「武器」(殺傷能力を持つ道具)こそつかっていないが、頑強な「肉体」を利用して住民を強制的に排除している。これは、私の感覚では「武器」をつかっていないが「戦闘/戦争」である。ことば(会話/対話)による問題解決の方法を排除している。「暴力」に頼っているからである。
 民主主義では「衝突」とは「意見の衝突」に限定されないといけない。
 安倍は、「意見の衝突」を必死に避けている。「しっかり説明する」といった「戦争法」「TPP」も「憲法改正」も、「ことばの戦い」をしようとしない。
 安倍にとっては「意見の衝突/ことばの衝突」こそが「戦争」なのだ。そこで負ければ「死ぬ」。それを恐れている。そして、ひたすら「ことば」をずらしつづける。まともに答えない。
 しかし「意見の衝突」で、ひと(肉体)は死なない。もちろん、「意見の衝突」の結果、安倍の「こころが傷つく」、あるいは「身分を失う」ということはあるかもしれない。「身分を失う」ことは、安倍にとっては「死」かもしれないが、そんな「死」は「比喩」にすぎない。。

 「戦争/戦闘」は「比喩」ではない。「武器」は「比喩」ではない。「肉体」に直接働きかけ、いのちを奪うのだ。「法的な議論」「(法的な)定義」などと、よく平気で言える。無責任すぎる。
 「日本の法律では、自衛隊員は戦闘の行われないところに派遣されているのだから、そこで戦争に巻き込まれ死ぬことはない。たとえ死んだとしても、それは戦死ではなく、衝突死だ」ということになるのか。
 安倍は、きっとそういうに違いない。





『詩人が読み解く自民憲法案の大事なポイント』(ポエムピース)発売中。
このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E4%BA%BA%E3%81%8C%E8%AA%AD%E3%81%BF%E8%A7%A3%E3%81%8F%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E6%86%B2%E6%B3%95%E6%A1%88%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E3%81%AA%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95-%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E6%86%B2%E6%B3%95%E6%94%B9%E6%AD%A3%E6%A1%88-%E5%85%A8%E6%96%87%E6%8E%B2%E8%BC%89-%E8%B0%B7%E5%86%85%E4%BF%AE%E4%B8%89/dp/4908827044/ref=aag_m_pw_dp?ie=UTF8&m=A1JPV7VWIJAPVZ
https://www.amazon.co.jp/gp/aag/main/ref=olp_merch_name_1?ie=UTF8&asin=4908827044&isAmazonFulfilled=1&seller=A1JPV7VWIJAPVZ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イエジー・スコリモフスキ監督「イレブン・ミニッツ」(★)

2016-10-11 10:52:00 | 映画
監督 イエジー・スコリモフスキ 出演 リチャード・ドーマー、ボイチェフ・メツファルドフスキ、パウリナ・ハプコ、アンジェイ・ヒラ、ダビド・オグロドニク

 大都会に暮らす人々の午後5時から午後5時11分までの11分間に起こる様々なドラマをモザイク状に構成した群像劇、というのだが、11分の「理由」がわからない。
 おもしろいのは、ホテルの窓から飛び込んできた白い鳩が鏡にぶつかるシーンくらいか。なぜ、突然鳩が飛び込んできたのかわからないが、そうか、そういう「自然」があるのか、ということを思った。「野生」といえばいいかな? 「都会」に「野生」などないのだけれど、しいて探せば鳩か。
 それにしてもおもしろくないなあ。なぜかなあ。最後のシーンがあまりにもご都合主義だからだなあ。
 映画はストーリーを見るもののようであって、そうではない。ストーリーがおもしろければ映画がおもしろくなるわけではない。結末が予想できないものだと驚くかというと、そうでもない。ばかばかしい、と感じてしまうことだってある。
 映画はスターの「肉体」を見たくて見るのだ。
 かっこいい美人や美男子を見て、自分も美人、美男子と錯覚する。そのために、見る。美人、美男子の出ない映画では、そこに動く「感情」の強さを見る。「感情」がどんな具合に肉体を動かすのか、それを見る。自分もそんなふうに「肉体」を動かしてみたい。そういう「感情」を味わってみたい。
 そのためには、もっと長い時間が必要。人間の「感情」なんて、11分くらいを取り上げてみたって、おもしろくはない。11分くらいじゃ、変化しない。時間のなかで、その人がその人でなくなってしまうくらいにかわると、あ、その人に会った、という感じになる。そして、あの「感情」を自分のものにしたい、と思うのだ。
 この映画には、そういうシーンがない。
 それにしても。
 ポーランドのホテルって、あんなに「もろい」つくり? 日本のホテルは自殺予防のために窓が開かないが、外国はどうなのかなあ。私は安いホテルしか泊まったことがないからよくわからないが。11階の部屋なのに、窓からベランダへ簡単に出られる。そのベランダのフェンスが、人がぶつかったくらいで壊れてしまう。いいかげんだなあ。
                      (KBCシネマ2、2016年10月10日)



 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
アンナと過ごした4日間 Blu-ray
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正草案を読む/番外31(情報の読み方)

2016-10-10 22:04:46 | 自民党憲法改正草案を読む
「共同通信」47(2016/10/10 03:01配信)(http://this.kiji.is/157911021960381949?c=39546741839462401)が次のような記事を配信している。

退位後の新たな「身位」明記へ 時期定める案も浮上、政府

 政府は、天皇陛下の生前退位を巡る法整備で、退位後の陛下の呼称を法案に明記する方向で検討に入った。政府関係者が9 日、明らかにした。退位後も皇族として新たな「身位(身分・地位)」を位置付ける。政府は今の陛下一代に限った特別法を軸に調整する構え。対象が限定されることを明確にするため、退位時期を条文に盛り込む案も浮上している。
 退位後の具体的な呼称は、17日に初会合を予定する有識者会議の今後の議論を踏まえ検討する。

 2016年10月08日読売新聞夕刊(西部版・4版)の「KODOMOサタデー」の記事、

 生前退位をめぐっては、「天皇の考えで自由に退位できると、混乱が起きるのでは」といった意見もあります。国民の意見を聴きながら、しっかりと議論をつくすことが大切です。

 という部分、「天皇の自由」ということばから、「天皇を自由にはさせない」という意思を読み取り、私は、

 「退位」は「譲位」という形をとらず、「天皇」を残したまま「摂政」という形になるかもしれない。天皇が生きている限り、「天皇」という「皇位」をそのままにして、つまり「天皇」をお飾りにして、「天皇の代理である摂政」を置き、その「摂政」を支配する。そういう一連の「動き」を「自由」に操作、支配したいのだろう。

 と「妄想(推測)」したのだが、なるほど、新しい「身位」(こんなことばがあるとは知らなかった)をつくり天皇を封じ込める。そうして「新しい天皇」への「進言」を強化するということか。
 それが狙いか。
 天皇の「生前退位意向」が籾井NHKによってスクープされたとき、私はとても奇異に感じた。その後、これは天皇の安倍への抵抗、憲法改正への抵抗だという説が流れたときも信じることができなかった。もし、憲法改正への歯止めというのなら、実際に憲法改正の議論が正式に始まってからの方が効果的だろう。衝撃が大きいだろう。そうではなくて、逆に憲法改正の議論が始まった、いや終盤に差しかかったというときに「生前退位の意向」を表明した方が「阻止する力」として大きいだろう。まず天皇の問題を解決しなくてはならないという具合に世論が反応すると、憲法論議などしていられない。そうならないように、先に天皇をどう封じ込めるか、それを考えているのだと思う。
 「摂政」の設置を内閣が働きかけていたということは、すでに見てきた。それを天皇が拒んだということも報道されている。「摂政」が無理なら、天皇を別な「身位」に封じ込める。もちろん「特別法」で「政治的発言を禁じる」という項目はつける。そのうえで「新しい天皇」に対して「影響力を強める」ということだろう。「進言」にしたがわないなら、また「特別法」をつくって別な「身位」に追いやるぞ、ということだろう。
 安倍が皇室典範の改正ではなく「特別法」にこだわるのは、「特別法」なら何度でも制定できるからである。安倍のつごうにあわせて、そのときそのときつくればいい。ところが皇室典範を改正してしまうと、「皇位継承」が、その法律にしばられてしまう。それを避けたいのである。「影響力」を行使できるような「制度」にしたいのである。
 なぜ、安倍は、天皇を封じ込めたいのか。
 天皇が戦争の体験者だからである。天皇自身が戦場に行ったわけではないが、皇太子時代に戦争を体験している。戦争が国民にどのような影響を与えるかを実感している。戦争を体験した人間は、戦争をしたくない。その「実感」を語られては困るのだ。戦争を体験してきた世代が憲法、特に第九条にこだわり、それを守る力になってきたといえる。(戦争の体験者が政治家からも次々に姿を消し、それにしたがって経験勢力が増えている。)戦争を体験していない人間は、戦争を体験してきた人に対して、その体験は間違っているとは言えない。言う資格がない。そういう状況に追い込まれないようにするために、天皇を封じようとしているである。

 気になっていたニュースがある。時間がなくて書けなかったのだが、2016年10月01日の毎日新聞夕刊(西部版・ 4版)一面に、「有識者会議 17日/生前退位/初会合、首相も出席へ」という見出しがある。内容は見出しの通り。有識者会議が17日に開かれる。その初会合には安倍も出席する。有識者会議に首相が出席することは通常のことなのかどうか知らないが、わざわざ見出しで取っているのだから、普通ではなく特別なことなのかもしれない。出席すれば、どうしても首相の「意向」を忖度した議論になる。そういうことがあるから首相は出席せず、「有識者会議」の「中立」を守るというのが慣例なのかもしれない。けれど、今回は、そうはしない。安倍が出席する。
 これはどうしたって、安倍が有識者会議の議論の方向を「指示する」ということだろう。退位後、天皇に新たな「身位」を与えるということろまで、すでに安倍の方では決めている。それに合わせて(アリバイづくりのため)、「有識者会議」が開かれるということだろう。
 毎日新聞によると、「会議では今後、憲法、歴史、皇室典範などの有識者を呼びヒアリングを行う」とある。まだ開かれていないはずの会議で「今後」というのは奇妙な表現だが、水面下ではすでにいろいろな議論がされているということだろう。その議論(結論)にあわせて、憲法、歴史、皇室典範などの有識者を呼び、ヒアリングをした(広く意見を聞いた)というアリバイ工作をするということだろう。
 17日以降、どういう報道がされるか注目しなければならない。



*

『詩人が読み解く自民憲法案の大事なポイント』(ポエムピース)発売中。
このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E4%BA%BA%E3%81%8C%E8%AA%AD%E3%81%BF%E8%A7%A3%E3%81%8F%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E6%86%B2%E6%B3%95%E6%A1%88%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E3%81%AA%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95-%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E6%86%B2%E6%B3%95%E6%94%B9%E6%AD%A3%E6%A1%88-%E5%85%A8%E6%96%87%E6%8E%B2%E8%BC%89-%E8%B0%B7%E5%86%85%E4%BF%AE%E4%B8%89/dp/4908827044/ref=aag_m_pw_dp?ie=UTF8&m=A1JPV7VWIJAPVZ
https://www.amazon.co.jp/gp/aag/main/ref=olp_merch_name_1?ie=UTF8&asin=4908827044&isAmazonFulfilled=1&seller=A1JPV7VWIJAPVZ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドゥルス・グリューンバイン『詩と記憶』(思潮社、2016年08月25日発行)

2016-10-10 12:00:11 | 詩集
ドゥルス・グリューンバイン『詩と記憶』(縄田雄二編訳、磯崎康太郎・安川晴基訳)(思潮社、2016年08月25日発行)

 ドゥルス・グリューンバイン『詩と記憶』は「詩文集」。エッセイ(評論?)と詩がある。
 「原体験--ポンペイ」(『最初の年--ベルリンの手記』より)は詩のように美しい。その美しい部分は、ちょっと目をつぶって、私が傍線を引いたのは次のことば。

ポンペイの没落と復活から何を学べるのか。少なくとも以下のことだ。お前たちの望むようにせよ。悲しみ、騙し合い、貪り、売春し、研究し、ギャンブルし、商売し、祈り、陰謀を企てよ。だが、どうか残すのだ。語られるに値するだけの歴史は。

 ここに書かれている「歴史」は、いわゆる英雄が何年にどこで何をしたかではない。「悲しみ、騙し合い、貪り、売春し、研究し、ギャンブルし、商売し、祈り、陰謀を企て」ることの全てが「歴史」である。それが「記録」されたときに「歴史」になる。言い換えると、

語られるに値するだけの「記録」

 を残せ、と言っているのである。「記録」は「絵」であったり「ことば」だったり、あるいは「売春宿」だったりする。それを、ひとがもう一度見つめなおすとき、そこから「詩」が動き出すのだ。
 詩とは、ようするに、「記録/記憶」の掘り起こしのことである。

 このことを、「記憶の詩学」(わがバベルの脳)で、次のように言いなおしている。

 抒情詩のテキストは、内なるまなざしの記録である。
 その記録の方法を規定するのは、身体である。(略)詩は、生理的に生じた短絡的発送が継起するなかで、思考というものを実演するからである。つねに(自らの身体の、人類の身体、すなわち歴史の)時代をめぐる旅の途上にありつつ、思考は詩のなかで停留を、軽薄な語り、浅ましい見解のなかでの宿りを、人生が目指すところの記号と形象の舞台を、見いだすのだ。

 私は「身体」ということばをつかわないので、「肉体」と思って読み直すのだが。
 ここに書かれていることを私なりに言いなおせば、こういうことになる。つまり、あることば(記録)に触れる。そうすると、「肉体」が反応する。売春宿の「記録」を読めば、男なら勃起したり、むらむらしたりする。手淫をしてしまうかもしれない。それは、それを「記録」したものの「思想(あらゆる行動は思想である)」を自分で「実演」しなおすことである。それはそして単にその「記録」を残した人の「思想/肉体」を「実演」しなおすことではなく、「人類」、つまり「歴史」を「実演」しなおすことである。
 「内なるまなざし」とは「肉体」のなかに引き継がれている人間の、本能/欲望の遺伝子のことである。
 このとき、真に「実演」するに値するものは、いま、日常的に「世間」に流通しているものではなく、忘れられたものの方である。あ、そういうものがあった、と思い出させてくれる。そういう「肉体」の動かし方があった、そのとき考えはこんなふうに動く、感情はこう動くのかということが「実演」するのと同時に起きる。自分の「肉体」のなかに生き続けている人間の「本能/欲望」のようなものが、もう一度生まれてくる。言い換えると、「歴史」が「いま/ここ」に「肉体」を突き破って生まれてくる。人間は、そのとき「生まれ変わる」。「本能/欲望」として。
 「売春宿」を例にとると、それは「浅ましい欲望/浅ましい見解」ということになるかもしれないが、こういう言い方は「客観的」すぎて「真実」からは遠い。「肉体」にとって、いま、生きていることが重要であって、生きているとき「浅ましい」というような批評はばかげた「ひがみ」にしかすぎない。
 ひとはただ予測不能を生きるだけなのだ。予測不能だけれど、それは「歴史」(記憶/記録)と通じており、その「記憶(歴史)」を自分自身の「肉体」で突き破る(実演する)とき、時間が動き出し、人間は新しく「生まれる」ということだろう。

 これは、まったくその通りだと思う。私も、いつもそう感じている。というか、私がいつも感じていることへと、ドゥルス・グリューンバインのことばを引っぱってきて、「誤読」しているだけなのだが。

 さて。

 「エッセイ」に共感したが、詩はどうか。
 ちょっと困った。ドゥルス・グリューンバインが「身体」と呼んでいたものになかなか出合えない。「歴史」がなかなか「身体(肉体)」と結びつかない。
 たとえば「セネカに宛てて--P.S.」。

あんなにも雄弁であったお前の魂のうちに遺ったのは上々のラテン語のみ。
お前の肉は魔法をかけたかのように消えた。しかし文字は明かす。
そうとお前は初めから分かっていた。文章こそはお前の墓表。

 「肉」が出てくる。「消える」が出てくる。これは「実演」できない。他人の「実演」を見るばかりである。つまり「頭」で「実演」するのである。「分かっていた」ということばもあるが、これも「肉体」で「実演」するのではなく「頭」で「実演/演習?」するもの。妙に「頭」が前に出てきてしまっている。
 これはエッセイに書いていることと違うんじゃないだろうか。

人神の間のおぞましきことどもを戯曲に仕立てて
並ぶ者の無かったお前よ。われらあわれな罪びとに告げよ。
静穏であれば滅びずに済むかを。
静かでいれば静かに朽ちるのみではあるまいか。

 ここでも「肉体」があいまいである。直前に「胃も痛まず」というようなことばがあるが、そんなふうに「肉体」を刺戟してこない。これでは「セネカの記録/記憶」を「実演」できない。

人の心臓を見たことがあるか。
血をはらみ拍動する塊--底なしの樽を。
これぞ皮下で闘い合う神経。
脈打つ所では思考は美しき夢に過ぎぬ。

 そうか、「思考」か、と思うのである。ドゥルス・グリューンバインは「肉体」ではなく「身体」ということばをつかっていたが(訳文だが)、「身体」というとき、そこには「思考」が常に対峙しているのか。「身体」は「血をはらみ拍動する」。「思考」は血とは無縁の形で「夢」をみる。いいかえると「身体」から離れる。「身体」から離れて生きる。そして、生き延びる。「ことば」となって。
 でも、こういう考え方だと「身体」というのは「思考/ことば」を引き立てるためのバックグラウンドになってしまう。それでいいのかな?
 ちょっとよくわからない。
 わからないけれど、つぎの三行はとても好きだ。

早すぎた瀉血。爾来お前の著作にはネロの名が粘着している。
焼け焦げのように、アスファルトの如くに。
憾むべし、思想より伝説の方がはるかにねばるのだ。

 「粘着している」「ねばる」。その動詞が「血」だけではなく、「焼け焦げ」た「アスファルト」というもので「実演」されている。それは「もの(アスファルト)」が単に「実演」しているのではなく、固まっていないアスファルトに触れたことのあるドゥルス・グリューンバインの「肉体」が「ねばる/粘着する」を「実演」し、「実感」している。「ねばる/粘着する」が「思考」ではなく、「肉体」そのものになって動いている。
 こういう行をもっと読みたいなあ、と思った。

詩と記憶 ドゥルス・グリューンバイン詩文集
ドゥルス・グリューンバイン
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポール・グリーングラス監督「ジェイソン・ボーン」(★★)

2016-10-09 20:02:45 | 映画
監督 ポール・グリーングラス 出演 マット・デイモン、トミー・リー・ジョーンズ、アリシア・ビカンダー、バンサン・カッセル

 簡単に言うと、飽きてしまった。アップのショットの連続に。
 「ボーン・アルティメイタム」では駅のシーン、新聞記者が殺されるまでが非常に緊迫感があって、あそこだけで★5個をつけてしまうなあ、私は。
 でも、それが成功するのは、駅という場面が「日常的」だからである。知らない駅だけれど、どこの駅にも通じるものがある。列車の時間に合わせて人の行き来するさまざまな人の流れ、キオスクの場所、その他の通路。その「距離感」が「肉体」を刺戟してくる。だから、思う存分に「見えないシーン」を想像し、興奮する。「全景」がわからなくても、「全景」を観客は知っている。
 ところがね。舞台が「外国の街」では「全景」がわからない。だから、どんなに緊迫感をあおられても「距離感」がつかめないので心底どきどきしない。
 私はたまたまアテネに行ったことがあるので(あ、こういうことを書きたくて書いているのかも)、冒頭の国会議事堂前の広場のシーンは、それなりにどきどきはらはらした。あんな狭い広場で逃げられるのか、すぐに見つかるじゃないか、と思うからである。アップだと奥行きがわからないのだけれど、あの広場にはもともと奥行きなんてない。
 でも、それ以外の街は、うーん、どれくらい逃げたのか、どれくらい「敵」が接近してきているのかがわからない。だから、緊張しない。あ、またアップの連続で緊張を高めようとしているという感じしか受けない。
 それに「敵」から逃げるシーンが、毎回毎回人込みを利用するといいうのは退屈になってきたなあ。
 さらに、それに輪をかけるのがコンピューター上の「経路」。そんな「地図」を見せられても「実感」なんてわかない。知らない街なので、その「経路」がほんとうかどうかもわからない。現実の都市なのに、架空の世界。まるでテレビゲーム。(あ、私はしたことがないのだけれど。)そんなものを映画で撮るなよ。撮るにしても、せめて「実写」、つまり空撮と組み合わせろよ、と言いたくなる。おまけみたいに、街の空撮は、その街の最初の方に、場所を明確にするために「観光写真」のように挿入されているけれどね。
 だいたいモニターの画面なんて、金も人も動いていないじゃないか。人が動いてこそ、映画なのに。
 それを補うために、猛烈なカーアクションがあるのだけれど、これはこれで興ざめだなあ。あんりに衝突を繰り返しながら、車って走れる? SWATの車はそれなりに頑丈につくられているのだろうけれど、マット・デイモンの乗った車は単なる高級車(?)じゃないのか。衝突したらエアバッグが作動するんじゃないのか。どうも、いいかげんだなあ。私は、こういう「非リアル」なご都合主義の映像は大嫌い。がんばって撮っているのはわかるが、おもしろくない。
 これが、あの傑作「ユナイテッド93」をつくった監督とは思えない。結末がわかっているのに、もしかしたら全員助かるのではなんて期待させる映画なんて最初で最後。
 昔はいい映画をつくっていたのになあ、といことを思い出させてくれる映画だね。
            (天神東宝ソラリアスクリーン7、2016年10月09日)



 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
ユナイテッド93 [Blu-ray]
クリエーター情報なし
ジェネオン・ユニバーサル
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正草案を読む/番外30/皇室会議の行方を予測する

2016-10-09 09:23:39 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む/番外30(情報の読み方/皇室会議の行方を予測する)

 2016年10月08日読売新聞夕刊(西部版・4版)の「KODOMOサタデー」。子ども向けのニュースの紹介欄に「生前退位」のことが書かれている。その最後の一段落。

 生前退位をめぐっては、「天皇の考えで自由に退位できると、混乱が起きるのでは」といった意見もあります。国民の意見を聴きながら、しっかりと議論をつくすことが大切です。

 これに、私はびっくりしてしまった。
 だれの意見か明記していないのが一番の疑問点だ。だれが、そんな意見を言ったのだろう。こういう意見があるということは、今回の天皇の発言とその後の動きを、天皇が引き起こした「混乱」と見ているということだろうか。
 ここから、この「混乱の責任は堪能にある」「こういう天皇は退位させなければならない(天皇が自発的に退位するのではなく、強制的に退位させる必要がある」という考えが生まれてくると思う。そういう「考え」がどこかに隠れているように、私は感じてしまう。
 「天皇の考えで自由に退位できる」というのは、角度を変えてとらえ直すと、「天皇の考えで、天皇の地位をだれかに譲る(継承させる)」ということ。しかし、「自由に譲る(継承させる)」と言っても、譲る(継承させる)相手は「皇太子」しかいないと、私は思う。「皇位継承順位」というのがあるのだから、その「順位」にしたがって、いまの状況なら天皇が皇太子に「天皇」の地位を譲ることになるのだと思う。
 憲法第二条にも「皇位は、世襲のものであつ、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」とある。「世襲」と決まっているなら「混乱」など起きない。決められた順位が違ってくる、乱れてくることを「混乱」というのである。いま、天皇が退位し、皇太子が天皇という地位を継承したとしても、それを「混乱」と感じる国民はいないのではないか。
 なぜ「混乱」ということばがつかわれたのだろう。
 また天皇が「生前退位」を望むときがあるとすれば、高齢とか病気とか、天皇の仕事ができなくなったときだろう。それは「天皇の考えで自由に退位する」というのは、まったく違うだろう。「自由」の入り込む余地は、とても少ないはずだ。高齢とか病気とかは、天皇が「自由」に操作できることではないからだ。

 そう考えてくると。

 これは、もしかすると、天皇が退位し、皇太子が天皇になることに対して、それを阻止したいと考えている人がいるということかもしれない。
 天皇が「退位」するかどうか、だれが継承するかということは天皇や皇室典範で決めることではない、天皇以外の人が決めることだと思っている人がいるということではないのか。「天皇」の退位、皇位の継承を「自由」に操作したいと考えている人がいるということではないのか。皇太子にではなく、別な人を「天皇」にしたいと考えている人がいるということかもしれない。
 天皇が「生前退位」をするにしても、それを決めるのは、天皇ではなく、別の人。その人が天皇を退位させる。ということは、当然、次の天皇に対しても、何らかの「影響力」を行使したいともくろんでいるということだろう。
 その「証拠」が、今回の問題を「特別法」で対処しようとするところにあらわれている。
 「皇室典範」を改正し「生前退位」をルール化すれば、そこに「皇位継承順位」以外のものが入り込めない。「その人」の「意思」が反映されない。それでは、まずいのだ。「皇位継承順位」のまま「天皇」の地位が引き継がれていくと、「その人」が「天皇」に関与できなくなる。影響力を持てなくなる。
 「その人」は、では、どんな形で「天皇」を操作しようとしているのか。「摂政」を置くという形だろうと、私は妄想する。
 だれが「天皇」かによって、そのつど「特別法」で「退位」を操作する。自分の思いにならない天皇は「退位」させる。天皇の「自由」にはさせない。
 そしてこのとき、「退位」は「譲位」という形をとらず、「天皇」を残したまま「摂政」という形になるかもしれない。天皇が生きている限り、「天皇」という「皇位」をそのままにして、つまり「天皇」をお飾りにして、「天皇の代理である摂政」を置き、その「摂政」を支配する。そういう一連の「動き」を「自由」に操作、支配したいのだろう。
 「天皇の考えで自由に退位できる」という表現のなかの「自由」ということばが、逆に「天皇の自由」ではなく、「その人」の「自由」にしたいという思いをあらわしているように、私は読んでしまう。
 「有識者会議」がどんな「結論」を出すのかわからないが、「今回は生前退位を認める。ただし、まだ天皇が生きているので、そのことに配慮する必要がある」というようなことを盛り込みながら、「新しい天皇」の行動をできる限り制限する、つまり「その人」の「意思」が反映されやすいものにするという「制度」が提案されるのではないか。

(現行憲法)
第三条
天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

 これを自民党憲法改正案では削除し、「第六条第十項の4」で次のように定めなおしている。

天皇の国事に関する全ての行為には、内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う。ただし、衆議院の解散については、内閣総理大臣の進言による。

 似ているが、違う。現行憲法で「内閣の助言と承認を必要とし」と書かれている部分が「内閣の進言を必要とし」に変更されている。「助言」は、たとえば「法律ではこうなっております、皇室典範にはこう書かれております、それを参考にされてはいかがでしょうか」ということになるだろうが、「進言」は少し違うのではないか。もっと直接的に「意思」を伝えるものではないだろうか。また、その「助言」に「内閣の承認」が必要というのと、「内閣の承認がなくてもいい/承認の省略」も違うだろう。「承認」は一種の「内閣の総意」、それが必要ではないとなれば、その「進言」は内閣のだれかの意思をそっくりそのままあらわしたものになるだろう。
 「承認を必要とする」と定められていない。だから、承認を求める必要はない、承認を求めなくても、それは憲法違反にならない、と「進言」した「その人」は言うに違いない。

「天皇の考えで自由に退位できると、混乱が起きるのでは」といった意見もあります。

 この「意見」を言ったのはだれなのか。読売新聞は書いていない。書かれていないから、「その人」が存在しないわけではない。書くと大問題になるから書いていないのかもしれない。書かれていないから「重大ではない」のではなく、逆に書かれていないからこそ重大ということもある。
 「KODOMOサタデー」という、子ども向けのページ(大人が読まないだろうページ)、さりげなく書かれていた「自由」という一言から、私は、そういう「妄想」をする。




*

『詩人が読み解く自民憲法案の大事なポイント』(ポエムピース)発売中。
このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E4%BA%BA%E3%81%8C%E8%AA%AD%E3%81%BF%E8%A7%A3%E3%81%8F%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E6%86%B2%E6%B3%95%E6%A1%88%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E3%81%AA%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95-%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E6%86%B2%E6%B3%95%E6%94%B9%E6%AD%A3%E6%A1%88-%E5%85%A8%E6%96%87%E6%8E%B2%E8%BC%89-%E8%B0%B7%E5%86%85%E4%BF%AE%E4%B8%89/dp/4908827044/ref=aag_m_pw_dp?ie=UTF8&m=A1JPV7VWIJAPVZ
https://www.amazon.co.jp/gp/aag/main/ref=olp_merch_name_1?ie=UTF8&asin=4908827044&isAmazonFulfilled=1&seller=A1JPV7VWIJAPVZ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇佐美孝二「雨の時代まで」

2016-10-08 10:30:09 | 詩(雑誌・同人誌)
宇佐美孝二「雨の時代まで」(「ココア共和国」2016年10月01日発行)

 宇佐美孝二「雨の時代まで」は、小詩集「ヴィンテージ・プリント」のうちの一篇。

広重(ひろしげ)の雨に
駆けだす人々
鈴鹿・庄野の雨は
蓑笠をかぶり 背をまるめさせ
巴水(はすい)描く品川の水は
しとどに音を身のうちに滲ませる

 ことばが、きれいだ。無駄がない。「広重の雨」は「広重の描く雨」。「描く」という「動詞」を「の」で言い切っている。そして、その「描く」を「巴水描く品川の水」という具合に復活させている。このとき「巴水描く品川の水」は「巴水の品川の雨」になる。つまり、「水」も「雨」におのずとかわっていく。
 なぜ、「広重描く」としなかったか。「広重描く」では視線が直接対象に向かわず「描く」という「動詞」とその主語「広重」に引っぱられる。「雨」の見え方が弱くなる。「雨」が「事件」ではなくなる。「描く」という「動詞」を省くことで、視線を「雨」に集中させ、さらに次の行の「駆けだす」という「動詞」を強調する。「懸けだす」は、この詩に登場する初めてのの「動詞」。その「動詞」にあわせて、思わず読んでいる私の「肉体」が動く。「懸けだす」が生き生きしてくる。まるで広重の絵では、ひとは濡れていないようだ。濡れるのを避けて駆けだしているという「動き」が浮かび上がる。
 これに対して巴水の水はどうか。もう、雨を通り越している。広重の雨に濡れて、濡れるということを体験して、さらにその先へ言っている。「身のうちに滲ませる」は「身のうちまで滲んでいる」である。いわゆる4ずぶ濡れ」だ。広重の場合は、表面は濡れているが、「身のうち」はまだ濡れていない。
 どの「動詞」を強調するか、どの「動詞」を隠すかということだけで、こんなにも変化が出る。ここが、この詩のいちばんおもしろいところ。
 そのつづき。

雨は水魂(みずたま)

後世、そのようにぼくらも濡れた
(やや、こんなにずぶ濡れになつてをる。畜生め、くつさめ!)
よくもよくも
屋久島の
永田岳の
宮の浦岳の
水魂(みずたま)に撃たれ
ぼくたち
身体の線を二重(ふたえ)ほど
屋久島の杉に懸けてきた

 「雨」は単なる「水」ではない。宇佐美は「水魂」と呼ぶ。私は「魂」というものを知らないので、このことばをどう「誤読」していいのかわからないのだが、「水」というだけでは足りない何かなのだろう。わからないことは、わからないままにしておいて……。

後世、そのようにぼくらも濡れた

 この「そのように」はなんだろう。「広重」か「巴水」か。たぶん、区別はない。どちらと「固定」できない。
 広重の、雨のなかを駆けだす人も、結局は雨にずぶ濡れになる。「蓑笠をかぶり 背をまるめさせ」ていても、背中の反対側、腹まで濡れる。濡れるだけではなく、まるで雨の「音」までも「身のうちに滲む」(しみ通る)くらいである。
 この「滲む」が「身体の線を二重に」の「二重」になる。線が滲む。ぼやける。幅が広がり、線が二重になったかのよう。そんな「ずぶ濡れ」の思い出を、屋久杉の枝に懸けてきたということだろう。
 ここには「懸けだす」と「懸ける」の、音の接近と意味の離反がある。それがまた「二重」を印象づける。
 前後するが「水魂(みずたま)に撃たれる」は「水玉に撃たれる」であり、「水弾に撃たれる」でもある。そこにも「ことば」の音と意味の出会いがある。
 ことばは、その直前・直後のことばとだけ通い合うのではなく、離れたことばとも響きあう。そこに鍛えられた「音楽」があり、それが宇佐美のことばを「きれい」にしている。
 途中に、(やや、こんなにずぶ濡れになつてをる。畜生め、くつさめ!)ということばがある。注釈があって、「狂言・法螺侍」から……高橋康成作」。他人のことばが「引用」されているのだが、これは宇佐美が他人のことばを利用している(借用している)というのではなく、他人のことばと向き合いながら、宇佐美自身のことばをととのえているということをあらわしている。多くの「他人のことば」に触れることで、宇佐美のことばの動き方は、「ことばの肉体」をつかむのである。この「ことばの肉体」、そこに「ことばの肉体」があるという感じが、ことばを「きれい」にしている、とも思う。

透きとほった身体は
ふりしぼってもまだもとに戻らない
きくらげのように震え すぐに忘れられる
世間から
ことばも歩き方も 生き方も許されかたも

 だんだん書いていることがわかりにくくなる。一連目のように、単純にはつかみきれないのだが、「ずぶ濡れる」は「表面が濡れる」を通り越して、からだの内部まで水浸しになる感じ。その「内部の水」が「透きとおる」ということばを誘い出す。「水魂」の「魂」に向き合う形で「身体」ということばが動いているのだと思う。
 そんなに「ずぶ濡れ/水浸し」になってしまっては、水を絞りきれない。「内部」から出し切ってしまうことはむずかしい。
 そして、「身体」の内部に侵入してくるのは「水/雨」だけとは限らない。「世間」に動いているものが「身体の内部」まで侵入してくる、その侵入してきたものに「内部」からしばられる。そういうものによって「身体の線(描写)」が「二重」になる。「ぼやける」ということか。

いま蓑笠があるなら貸してほしい
それをかぶったら化けられるかもしれない
今の時代でも

歩こうかもう少し
まだその先の
雨にけぶり始めたうその時代まで

 広重の時代は「正直」だった。いま、あるいは未来は「正直」を失って「うそ」の時代。そうかもしれない。けれど、その中を歩いていかないといけない。という「思い」が書かれているのかもしれない。蓑が差があったなら、広重の時代のひとのように雨の中を懸けだすことができるかもしれない(正直になれるかもしれない)という思いを抑えている。
 こういう書き方がいいかどうかわからないが、こういう詩の終わり方に触れると、「きれいなことば」の、何か「限界」のようなものも、同時に感じてしまう。
 詩が美しさの中に完結することで、ことばを守っている。その「保守性」が、なんとなく、心配になる。

森が棲む男
宇佐美 孝二
書肆山田
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする