詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

阿部嘉昭『石のくずれ』

2016-10-07 10:24:02 | 詩集
阿部嘉昭『石のくずれ』(ミッドナイト・プレス、2016年07月28日発行)

 阿部嘉昭『石のくずれ』は 200ページを超す詩集。 101ページまで読んだ。音と意味が、引き返すようにして前へ(詩の終わりへ)動いていく。その方法は最近の現代詩の流行のように感じられる。(だれそれの、とはあえて明記はしないが。)その往復は、切断と接続の瞬間に「感性の形(感性の論理)」を見せる。その瞬間的に見える「感性の形」を好きか嫌いか、が詩の批評の基準になっているようにも見える。私は、その「感性の形」が好きか嫌いかというよりも、その感性を論理にしてしまう「方法」が嫌いである。明治・大正、あるいは戦前のある種の小説の「文体/方法」に似ていると感じる。「新しい」というより「古くさい」。スピードと軽さ、明瞭さがない。
 というような「抽象論」は、阿部は感性を論理にするという方法だけで書いているわけでもないし、まあ、書いてもしようがないか……。

 「石のくずれ」という作品。詩集のタイトルにもなっている。自信作なのだろうか。

石がそこにあるさまはみえるが
あることの持続じたいはみえない

 これは対句。
 「あるさま」とは「ありさま/あるときの姿・形」ということだろうが、「ありさま」というときの「透明感(固く結晶している感じ)」はない。「ある」という「動詞」を強く感じさせることばが「動き」を含んでいる。
 これに対して、それを「あること」と言いなおした上で「持続」ということばへ動いていくとき、「持続する」という「動詞」が「名詞」へと変化し「動き」が固定化する。「名詞」の方が強くなる。
 「あるさま」(動詞)と「持続」(名詞)が、「石」ということばを中心にして往復する。「あるさま」は「ありさま」であり、「ありさま」ならば「名詞」。「持続」は「持続する」であり、「持続する」ならば「動詞」。
 そういう「行き来」のなかで、「あるさま」(動詞)は見える(感性/感覚でとらえることができる)、「持続」(名詞)は見えない(感性/感覚でとらえることができない)と「定義する」。そうして、その「定義した」世界(感性/感覚)を、別のことばで言いなおす。「感性/感覚」を主語というか、テーマにして語り直す。
 三行目。

しずかさへのおびえとはそんなもので

 「しずかさ」とは「名詞」、「おびえ」は「おびえる」であり「動詞」。石のありさま(形)という持続性(名詞)に対して、「名詞」なのに「動詞」を含むという激しさを感じ、「おびえる」。「しずけさ」のなかには「はげしい動き」が予感されているといえばいいのだろうか。
 そのあと、詩は、こう展開する。

ひろってなげるうごきをつくりあげ
わずかなとおさを野へ設計すると
くうきが波紋めいたおのれをゆらし

 めんどうくさい書き方(古い書き方)だと私は思う。「現代語」に翻訳してみると、石を拾って放り投げることを空想した。石は遠くまでは投げられなかった。それでも石が空気の中を動くので、空気の中に揺れができる、ということも空想した(感じた)、ということになるだろう。(この「空想/感覚」が、いわゆる「鋭敏な感覚/感性」と呼ばれるとき「批評」になる。「批評」では、そういうふうに呼ぶ。私は「批評」を書いているのではないので、そういうことを「鋭い」とか「繊細」ということばで修飾しない。違うことを書く。)
 「なげるうごきをつくりあげ」の「つくりあげ」が「肉体」の「空想する/想像する」運動(動き/動詞)である。実際に投げるわけではないが。そのあと「空想する/想像する」は「設計する」ということばで言いなおされる。「設計する」とは「完成」を「紙の上で空想する/想像する」ことである。この運動は「肉体」というよりも「頭の運動領域」の方が広い。こういう「肉体」から「頭/精神/理性」への「言い換え」、その「方法」を詩にする、詩と呼ぶことを、私は「古くさい」と感じてしまう。
 その「設計図」のなかで、空気の乱れを「くうきが波紋めいたおのれをゆらし」と「波紋」という目に見えるもので言い直し、さらにそこに「おのれ」ということばを重ねることで、自己(阿部)をもぐりこませていく。「くうきの波紋」を「おのれ」の「比喩」にする。もちろんそのときの「おのれ」というのは、石を放り投げた「おのれ」とは完全に分離できるものではない。そこには「往復」がある。作用と反作用の往復といってもいい。
 ここから、詩は、最後に向けて、こう展開する。

ずれたがるこの世がたしかにずれ
音のさそいであるしずかな石も
うるわしくうちがわがくずれだす

 「波紋」は「ずれ」と言いなおされる。そこには、繰り返しになるが作用・反作用としての「おのれ」が含まれる。つまり「おのれ」の「ずれ」でもある。だからこそ「おのれ」が生きている「この世」というものも登場するのだが、そのあとの展開の仕方が「うごきをつくりあげる」「設計する」というほどの緊密感を持たない。
 「音」と「しずか(無音)」が「対」になって動くのだが、「さそい」が「さそう」という「動詞」になりきれていない。「くずれだす」の「くずれる」と対にしているのかもしれないが、それが私にはわからない。ずーっと「みえる」という「視覚」の世界だったのが、突然「音/しずか」という「聴覚」の世界に変化している。もちろん「波紋/波動/空気の揺れ」は「音」に通じるが、その「音」を受け止める「肉体」が「動詞」として存在しないので、「あ、頭で書いている」と感じてしまう「頭」は融合するが、「感覚」と一緒にある「肉体の器官」は融合しない。結合しない。。
 「しずかな」に焦点を当てて言いなおすと、この「しずかな」は三行目の「しずかさ」と通じているはずである。三行目の「しずかさ」のなかには「あるさま」「持続」という名詞とも動詞とも断定できない緊密感の「つながり/内在」とういものがあるのに対し、終わりから二行目の「しずかな」は単に「石」を形容する「外観」になっている。「外観」になってしまっているからこそ、それを「うちがわ」と強引に言いなおさざるを得なくなる。この言い直しに「頭」が露骨に動いている、と私は感じるのである。「うちがわ」と書くとき、その「うちがわ」への通路としての「肉体/動詞」が書かれないまま「くずれる」と言われても、わっ、嘘っぽい、「抒情」を狙っているという「作為」の方を感じてしまうのである。「うるわしく」という美辞麗句で詩を飾るのを見ると、古くさいとしか言えなくなる。

 私がおもしろいと思うのは、たとえば「階段」の前半、

階段のかたちをきれいだとおもうのは
おどりばをまがってゆくひとらの規則が
そのままかたちをなしていて

 ここには「石のくずれ」の前半と同じように、「動詞/名詞」の行き来がある。そして、そこに「ひと」の「動き」が実際に想定されている。「かたち」と「規則」を阿部は見ているのだが、見ているだけではなく「ひと」が動くとき、その「ひと」に誘われるようにして見ている阿部の「肉体」も動いている。つまり、阿部の「肉体」が「規則」を「肉体」の外にあるものではなく、自分の「肉体」としてつかみとっている。「規則」は抽象ではなく、「肉体」として生まれてきている。その「肉体」のつかみとったものが、「そののままかたちをなしていて」、そのことばの、かたちをなす動きが詩なのだと、私は感じる。

 「倚らない」の書き出し。

どこまでがかたちで
どこからがゆれか
わからなくみえていた

 この三行も魅力的だ。「かたち」(名詞)と「ゆれる」(動詞)。詩は「ゆれ」と「名詞」として書いているだが、「ゆれる」という「動詞」から派生した名詞なので、「ゆれ」ということばから見えるのは「動き」である。「名詞/動詞」が、そんなふうに「わからなく」そこにある。融合している。その融合した世界を、「わからない」ということばで、ここではつかみとっている。相対化/固定化、つまりくべつしないという「こと/事件」としてつかみとっている。ここは、とてもおもしろい。
 この「わからない」は流行りのことばで言えば「分節できない」である。私は「無分節」ではなく「未分節」ということばを好むのだが、そういう「未分節」の世界へ「動詞」を頼りに踏み込んでいくというのは、とても興奮する。
 で、興奮するから書くのだが、この書き出しと似た三行が後半にも登場する。

どこまでがみずで
どこからが川なのか
わからなくみえていた

 しかし、この三行は、私は感心しない。魅了されない。「動詞」が、つまり「肉体」が動いていない。

どこまでがみずで
どこからが「流れ」なのか
わからなくみえていた

 「川」(名詞)ではなく、「流れ」という「動詞派生」のことばでないと、書き出しの三行と対応しない。「動詞」というのは「肉体」で追認できる。自分の「肉体」を「ゆらす」ことができる。自分の「肉体」を「流れに任せる/流れる」ということができる。「肉体」を実際に組み入れることで世界は新しく「分節」されていく。つまり、生み出されていく。「川」という「名詞」では、世界はすでに「川」として「分節」されている。
 しかし、どこかで、阿部はこのことに気づいているかもしれない。

ただの前方へむけ
おもうことはいまもって
ながれにすら倚らない

 「ながれ」ということばが出てくる。しかし、気づきながらも、それを「倚らない」という形で拒否している。
 ここが、私にはいちばん問題だと思う。
 以前阿部の詩を批判したことに通じるのだが「倚らない」では、自分自身の「肉体の安全」が守られている。それでは詩にならないのだと思う。どうなってもかまわない覚悟をして、そこにあらわれてきた「動詞」そのものを生きる。そして、生まれ変わる。新しい自分を「生み出す」(分節する)。そのとき「動詞」としての「肉体/詩人」が「詩/絶対的なことば」になる。

 「樹」には、こんな二行もある。

うれいをかりたてる異教ではなく
その夜その夜の異数にすぎない

 「異教」「異数」の「対」というのは、自分自身の宗教を明確にして語らない限り、「肉体」とは無関係、つまり「他人のことば」(借り物のことば)に終わってしまう。
 私は誰が何を知っているかということには興味がない。


石のくずれ
クリエーター情報なし
ミッドナイト・プレス
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自民党憲法改正草案を読む/番外29(情報の読み方)

2016-10-07 08:00:00 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む/番外29(情報の読み方)

 私は目が悪いのでテレビを見ない。衆院予算委/参院予算委の論戦の全体を知らない。新聞には「詳報」と言いながら、「抄報」というか「抜粋」しか掲載されていない。それを引用し、書くしかないのだが。
 稲田のパーティー券白紙領収書問題を小池晃(共産党)が取り上げた。小池が白紙の領収書を利用し、同一人物が書いたものだと指摘して、「金額も稲田事務所で書いたもので間違いないか」と問いただしている。(引用は2016年10月07日読売新聞朝刊/西部版・14版)

稲田防衛相 主催者の了解のもとで稲田側で未記載の日付、宛名、金額を記載したものだ。パーティーの円滑な運営に支障が生じることから、面識のある間では、いわば委託を受けて参加者側が記載することがしばしばおこなわれている。

 これに関連して、菅官房長官と高市総務相も答えている。

菅官房長官 主催者の了解のもとで(菅事務所で)記載している。政治資金規制法上、問題ないと思っている。

高市総務相 領収書の発行側の作成方法についての規定は法律上ない。主催団体が了解しているものであれば、法律上問題はないと考える。

 こういう発言に「社会常識」をぶつけても、何の役にも立たない。
 だから、私は違うことを指摘したい。
 高市の「領収書の発行側の作成方法についての規定は法律上ない」、だから「法律上問題はないと考える」という考え方。
 これを憲法にあてはめるとどうなるか。

(現行憲法)
第十九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
(自民党改正草案)
第十九条
思想及び良心の自由は、保障する。
第十九条の二
何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。

 現行憲法には「侵してはならない」という「禁止」がある。これは「国は(権力は)、侵してはならない」という意味。一方、改正草案には、その「禁止」がない。ここに高市の発言をあてはめるとどうなるか。「侵してはならない」と書いていないから、「侵しても、それは憲法上問題はない」ということになる。つまり、自民党改正草案は、国民の思想及び良心の自由をいつでも侵害すると言っているのに等しい。
 さらに現行憲法にはない「第十九条の二」。ここには「不当に取得し、保有し、又は利用してはならない」とあるが、その禁止の対象者は「国」ではなく、「何人も」である。「国民」に対して「禁止」を定めている。「国」というのは「人」ではないから、「国は個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してもいい」と言っているのである。個人情報を取得し、それをもとに、国民の「思想及び良心の自由は、これを侵してもいい」と言っているのだ。
 そんなことは書いていない、というかもしれない。
 しかし、国民が「個人情報を勝手に取得し、それをもとに自由を侵害するのは間違っている」と国を批判したら、どうなるのか。国は「国が国民の自由を侵害してはならないという規定は、憲法上ない。だから国が国民の自由を侵害しても、憲法上の問題は生じないと考える」という答えが返ってくるだろう。
 法律(憲法)に、どこまで「ことば」を盛り込むか。これはむずかしい判断になるが、自民党は「国への禁止事項」を削除し、国民への「禁止」を増やしている。そこには

(改正草案)
第二十四条
家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。

 という、現行憲法にはなかった「規定」があったりする。「家族は、互いに助け合わなければならない」はことばとしては美しいが、家族であってもわかれなければならない事態があるだろう。また助け合うことが困難なことがあるだろう。離婚するな、介護は「家族」で処理しろ、それが国民の義務だと言っていることになる。
 国は社会福祉を切り捨てたいのである。

 憲法問題については何度か野党が質問しているが、これに対して安倍は一貫して、

行政府の長として答弁に立っているので草案を解説するのは適切ではない
              (2016年10月07日読売新聞朝刊/西部版・14版、4面)

 と主張している。安倍は「憲法審査会で討議すべきだ」というのだが、その憲法審査会は開かれていない。つまり、討議のしようがない。だれにも、答えを求めることができない。
 こんな質疑応答があっていいはずがない。
 選挙のたびに「アベノミクス、アベノミクス」と言い続け、野党の経済対策では景気はよくならないと主張してきて、議席が改憲に必要な三部の二に達すると、「憲法改正は公約に書いてある。国民の信任を得ている」と言うのは「詐欺」である。国民に議論させない、国民に知らせないまま、結果だけを押しつける、というのが安倍のやり方である。





*

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このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
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いがらしみきお「孤独な脳」

2016-10-06 09:42:16 | 詩(雑誌・同人誌)
いがらしみきお「孤独な脳」(「ココア共和国」20、2016年10月01日発行)

 いがらしみきお「孤独な脳」の最初の方に、

脳ってオレのものなのか
それともオレが脳のものなのか

 という「対句」がある。あ、これって、秋亜綺羅のことばの動かし方そっくりだなあ、と思う。私は、こういう客観化(相対化)が、どうにも好きになれない。
 うさんくさい。

脳について考える時
考えているのは脳だ

 後半に、こういう二行が出てくる。これも、うさんくさい。「考える」という動詞の「主語」を「脳」と特定している。そして、その「特定」はいがらしが見つけ出したものなのか。どうも、そうは思えない。「脳は考える器官」(考えるのは主語は脳である)という「常識」を前提として、それを単に「小手先」で動かしている感じがする。
 この「小手先」を「脳」と言い換えてもいいのだが、私は、そうしない。なぜそうしないかというと、私は「考える」を「脳」の「特権」とは思っていないからである。「小手先で動かす」あるいは「舌先三寸」というような言い方(日本語になじんでいることばのつかい方)のなかには、「考える」という「動詞」が「脳」だけではなく、「手」とか「舌」とも結びついていることを証明しているからである。人間は「脳」だけで「考える」のではない。「手」や「舌」でも「考え」を動かす。それも、小手「先」、舌「先」、つまり「肉体の端っこ」で「考える」ということを、日本語は知っている。日本語はおぼえている。
 この「先」を応用すると、いがらしの書いていることは「脳先」で動かしていることばという印象がする。「小手先」ではなく「脳先」。私は、そう言いたいのである。
 で、先の二行は実は四行で「対句」になっている。(私の印象では。)

脳について考える時
考えているのは脳だ
脳が脳について考えている
そのときオレはどこでなにをしているんだ

 「脳は考える」「オレはなにをしているか」。「脳」と「オレ」との「対比」がある。こういう「対比」は「小手先」とか「舌先」というときは、起きない。「小手先」「舌先」という「動いている」そのものが「その人」である、と認定される。「小手先」の「小」が象徴的だが、そのとき「その人」は「小さい」と受け止められる。「小ささ」を前面に出して、背後に「大きな」何かがあるというよりは、「こんな小さなことしかできない人間/小さくずるい」という批判をこめて「小手先」ということばがつかわれている。「小手先」そのものが「その人」。そして「ことば(考え)」。「考え(あらわされたことば)」と「人間(肉体)」は、相対化されない。「対比」されない。つまり「ひとつ」のものととらえられている。
 私は「利口ぶったことば」相対化、客観化よりも、「日常のなかでつかわれている無意識のことば」の方を信頼する。「日常の無意識」を切り離して動くものを「うさんくさい」と感じてしまう。
 と、書いてくると、ただ批判するだけのためにいがらしの詩を取り上げているようだが……。
 このあとの展開に、私は、ちょっとうれしくなった。「小賢しい」ものが消えて、いがらしが「本気」で、つまり「全身」で考え始めている。

脳も内臓だという
こんな内臓あるわけないのに
誰も「変だ」とか言わない
意図か肝臓とかとちがうぞ
人が死ぬと勝手に溶けてしまうそうじゃないか
なぜ溶けてしまうんだ
まるで詮索されなくないことがあるみたいだ
なにを詮索されたくないんだ

あれか
あのことか

 「全身で考える」というのは、そこに「内臓/胃/肝臓」が出てくるからだけではない。(私は、胃や肝臓という内臓も「考える/思う」ということをしている思うので、「脳が内臓である」という「定義」はまったく不自然には感じない。)「脳も内臓だ」という「新説」に、いがらしが全身で疑問を投げつけている。「変だ」「ちがう」という「直感」(論理的な説明を省いた動き)で立ち向かっている。まず、異議を唱える。それから、その異議をととのえるために、自分の「肉体(内臓)」を動かしている。
 そして、「溶ける」→「なくなる(消える)」という「自動詞」の変化を、「溶かす/消す」という「他動詞」としてとらえなおし、そこに「人間」の主体的な動きをからめていることろが、とてもおもしろい。「何かに働きかけるもの」として人間をとらえなおしている。「消す/消したいもの」を「隠したいもの/詮索されたくないもの」というふうに動かしていくのも楽しい。相対化し、その相対化を固定させずに、逆にゆさぶっていく。それがおもしろいし、何よりも、

あれか
あのことか

 がいい。
 何も言っていないが、これで全部言っている。「あれ/あのこと」。それは、いがらしだけの「あれ/あのこと」なのだが、誰にも「あれ/あのこと(隠したいこと/詮索されたくないこと)」ことがある。それは「あれ」としか言えない。「あのこと」と反復するしかないものである。「小手先」や「舌先」という表現同じように、そういうことばでしかとらえられないものを、そういうことばでつかみなおしている。「日常」で無意識のまま「肉体」にしみついていることばでつかみなおしている。
 こういう「事実」のつかみなおし、「肉体」がおぼえているものを、ことばによって引き出す/生み出しなおす、ということがあったあとで、ことばは暴走する。
 それが「対句」を破って、とてもおもしろいのだ。

脳は頭蓋骨の中から出て来れない
脳だけで生きて行く脳はどんな脳だろう
どこにもなににも繋がれていない脳
脳だけの脳

脳よ
自由になれ
自分勝手に生きて行けよ

働きになんて行かなくたっていいし
家になんて帰らなくたっていいし
ボランティアなんかしなくていいよ
やりたいことをやれよ

脳よ
なにをやりたいんだ

やってみな
やりたいことを

オレは待ってるぞ
オレは待ってるぞ

 「考える」という「動詞」から解放されている。「働く」「家に帰る」「ボランティアをする」という具合に、「考える」以外の「動詞」といっしょになって、「肉体」そのものとして生まれ変わっている。
 「オレは待ってるぞ」だから、まだ「生まれ変わっている」とは言えないのかもしれないけれど、「胎児」として「肉体」のなかで動き始めているというところなのかもしれないが、「胎児」はすでに「新しい人間」である。だから「生まれ変わっている」と、私は言うのである。


ココア共和国vol.20
秋 亜綺羅,いがらし みきお,佐々木 英明,宇佐美 孝二,佐藤 龍一,藤本 玲未
あきは書館
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大根仁監督「SCOOP!」(★★★)

2016-10-06 00:30:41 | 映画
監督 大根仁 出演 福山雅治、二階堂ふみ、リリー・フランキー

 福山雅治が中年のパパラッチを演じる、というのが「売り」なんだろうなあ。リリー・フランキー(うまい!)とのからみが、とてもいい。
 のだけれど。
 映画の後半、あれは何? 二階堂ふみに連続殺人犯(レイプ魔)の写真を撮らせる、というところで終わっていいんじゃない? その撮影の前に、二階堂ふみに「こんな男(殺人犯)許せない」というようなことを言わせている。それだけで、二階堂ふみを「記者」にしている。それで、十分。いまどき、こういうジャーナリストはいないだろうなあ、とは思うが。そういう意味では、これは「現実」を描いているというよりも「理想」を描いた映画なのだが。
 その「理想主義(?)」が、この映画をときどき、とてつもなく変なものにしている。
 ラストのエピソードの寸前の、福山雅治と二階堂ふみのベッドシーン。あれはいったい何なのだ。いまどきブラジャーとパンティーをつけたままのセックスシーンなんてあるんだろうか。二階堂ふみの映画をそんなに見ているわけではないが、「清純派」で売っているわけでもないだろうに、なぜ、あんなシーンなのだろうか。「私の男」では、浅野忠信を狂わせる少女を演じている。「魔性」が売り物なのではないのか。
 「動物柄のパンティー」を履いていないという「証拠」のため? それならそれで、パンティーが動物柄ではなかったというだけでいいだろう。ずっーと下着をつけたままなのがわからない。翌朝、パジャマの上を二階堂ふみが着ていて、下を福山雅治が履いているなんて、馬鹿みたいな「セックス後」の描き方にもびっくりするなあ。
 福山雅治が嫌いだった? あるいは福山雅治の方が二階堂ふみを嫌いだった? どっちでもいいが、役者根性に欠けるなあ、と思ってしまう。「こんなの、いまどき、ありえない」とだれかが言わないのだろうか。
 ほんとうの「ラスト」の、二階堂ふみが新人記者と組んで取材に行くシーンなんか、まるで安物の「青春映画」。吹き出してしまいそう。
 それやこれやで、リリー・フランキーの「絶望」だけが、とてもいい感じ。最後の、いかにもつくりもの、ご都合主義のストーリーはリリー・フランキーの演技力だけで持っているのだが、そんなシーンよりも、福山雅治とのなんでもないシーンがいい。うさんくさい「情報屋」としてスクリーンにあらわれ、だんだん「過去」があるらしいと感じさせる。ドラッグ中毒なのに、ボクシングがめちゃくちゃ強い、なんていうのはかっこよくて、あのシーンなんかは、おっ、真似したいなあと思わせる。「普通」とは違う次元を生きている、ということを「肉体」そのもので表現している。
                   (天神東宝スクリーン3、2016年10月05日)



 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
DENKI GROOVE THE MOVIE? ~石野卓球とピエール瀧~(初回生産限定盤)(Blu-ray Disc)
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KRE
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水の周辺7

2016-10-05 23:18:24 | 
水の周辺7



花のみぞおちあたりで
うずくまる水。

くさって、
匂いをはなつ。



それは私の
ことばのなかにあるのか。

私のことばの
外にあるのか。



*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)発売中。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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谷川俊太郎「泣きたいと思っている」

2016-10-05 10:29:07 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「泣きたいと思っている」(「すばる」2016年10月号)

 谷川俊太郎「泣きたいと思っている」は「近作十四行詩」の一篇。この連作は、一読して、とても窮屈である。一ページに一篇ずつなのだが、見かけが窮屈である。長く感じる。余白が少ないからかな。もっと余白の多いスタイル、見開きに一篇という形で掲載してほしいなあ。詩集になるときは、きっと見開きに一篇だなあ。
 というようなことは、作品と関係がないようであって、強い関係がある。こんなに「ぎっしり」感があると、読むのにためらってしまう。読めるかなあ、と怖じけづく。
 詩は、そこにあることばとの「対話」だからね。読む方が身構えると、その段階で、もうことばの変質が始まっていることになる。
 でも、まあ、読んでみる。
 「引用」(転写)するというのは、ことばを単に読むのではなく、「全身」をつかってことばをたどり直すこと。だから、黙読しただけのときとは印象が違ってくる。そういうことを思いながら、引用する。

泣きたいと思っている

木々の影が床に落ちて風に揺れている
床に熱い薬莢が乾いた金属音をたてて跳ね返る
乾いたふわふわのタオルが湯上がりの子をすっぽりと包む
笑っている幼児の写真とともに銃弾が男の胸を貫いた

ただ一回限りの取り返しのつかない事実が
文字になり映像になって世界中に散らばって忘れられる
数小節の音楽になだめられて口を噤む若者の
饒舌なブログに見え隠れする暴力の波動

「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮だ」
勲章をもらった老詩人は照れながらアドルノを引用して
「詩人には野蛮人としての一面が必要だ」とつけ加える

夢も言語も失って世界はただの事実でしかなくなった
嗚咽でもすすり泣きでも号泣でもなく
泣き顔を見せずに泣きたいと思っている

 うーん、やっぱり長い。
 「言い直し」があるから、よけいに長く感じる。「言い直し」というのは、たとえばタイトルの「泣きたいと思っている」。「泣きたい」だけでも「思い」、つまり「気持ち」。それをもう一度「思っている」と念押ししている。いや「念押し」ではなく、「泣きたい」と「思っている(気持ち)」が分離しているということかもしれない。何か、「二回」という印象があって、そういうことばの動きが「長く」感じさせる。二行目、三行目には「乾いた」という修飾語がつづいて出てくるが、そういう「修飾語」に込められているような「気持ち(思い)」の往復(繰り返し)が「余白」を消して、「びっしり/ぎっしり」という感じをつくっている。

木々の影が床に落ちて風に揺れている

 この一行にも、「泣きたいと思っている」と似た、ちょっと「めんどうくさい」ものがある。「木々の影が床に落ちる」というのは単純な描写。しかし、それが「風に揺れている」というのは「意味」はわかるが、単純な描写とは言えない。影は風には揺れない。風に揺れるのはあくまで木々(の枝/葉)であって、影そのものは揺れない。木々が揺れることで、その反映としての影が揺れる。ここにも「ふたつのこと」が往復するような形で書かれている。
 この「ふたつ」は一連の四行そのものについても言える。
 一方に「木の影が床で揺れる」という描写があり、他方で「銃弾が男の胸を貫いた」という描写がある。その「ふたつ」は「笑っている幼児の写真」ということばを真ん中にはさみ、つながっているように私には見える。
 つまり、男は「笑っている幼児の写真」を胸に入れていたのだが、その写真を貫く形で撃たれた。そのとき男は、幼児といっしょに暮らした日々を思い出した。「木々の影が床に落ちて風に揺れている」「乾いたふわふわのタオルが湯上がりの子をすっぽりと包む」という幸せな光景を思い出した。その描写(ことば)は男の「思い出」であると同時に「現実/いま」とも重なる。「木々の影が床に落ちて風に揺れている」は男が撃たれた「現場」の描写でもある。その木々の影が動いている床に、「薬莢」が落ちる。銃撃戦がある、ということだ。
 一行目は「現実/過去」の区別がない。二行は「現実」。三行目は「過去」。四行目は「現実」。だから一行目は「過去」の方に重点がおかれていると読んだ方が「過去/現実/過去/現実」という「構造」がはっきりする。
 で、ここから少し、私は違うことを書き始めるのだが。
 その「現実/過去」という「時制」を中心にことばの動きを読んでいくと、ここで「矛盾」が見つかる。「揺れている」「跳ね返る」「包む」。一行目から三行目まで、動詞は「現在形」。これに対して四行目は「貫いた」と「過去形」。
 「事実」の「時制」と、それを「描写」するときの「時制」が逆になっている。
 一行目の「現実/過去」が融合した「時制」が影響しているというよりも、ここに書かれているのは「実感」の「時制」というものなのだ。「実感」が強いと「現在形」になる。何かを「再発見」すると、それが「現在形」として「動く」。「あ、いま、影が動いた」という驚きが「揺れている」という「現在形」になる。「過去形」にならずに動く。そして、その「実感」というのは感情の動きであると同時に、事実そのものの動きでもある。「いま」が、何かを(過去を?)突き破って生まれてくるのだ。そのために「いきいき」と感じられる。
 「貫いた」は生まれてくるのではなく、死んで行く。固定化していく。「いま」を動かすのでなく、「いま」を「過去」として固定化する。そういう状況が「過去形」として書かれている。
 「事実(私の外)/死ぬ/固定化する」と「実感(私の内部)/生まれる」という「ふたつ」のものが交錯する形で書かれている。そう読むことができる。
 「泣きたいと思っている」もまた「ふたつ」の交錯かもしれない。そのとき、「事実」は「泣きたい」なのか「思っている」なのか。「実感」は「泣きたい」なのか「思っている」なのか。この区別はむずかしい。「泣きたい」も「思っている」も「こころ/自分の内部」の動きを指しているように見えるからだ。こういうむずかしい問題は、後回しにして、詩のつづきを読む。
 二連目は「戦場で男が死んだ」という「取り返しの突かない事実」を反復しながら、それとは無縁の場にいる「若者」とが交錯している。戦場ではなく、平和な国に生きている若者にも「饒舌な(ことばの)暴力」がある。戦争という暴力と饒舌の暴力。「暴力」を中心にして「ふたつ」が交錯する。「見え隠れする」という「動詞」には「見える」と「隠れる(見えない)」という矛盾があって、それが「ふたつ」の交錯を活気づかせている。
 三連目は「アドルノ」と「別の詩人」が交錯する。「野蛮」ということばを中心にして交錯する。「アドルノ」という「過去/引用」と「生きている詩人」という「いま/つけ加える」が交錯する。「野蛮」は「否定」の意味でつかわれ、同時に「肯定」のいみでもつかわれる。ここにも矛盾の交錯がある。「野蛮」のなかには「暴力」が隠れている。見え隠れしている。
 そういう具合に「世界」をとらえなおした上で、四連目。「夢」あるいは「言語」と「事実」が交錯する。

夢も言語も失って世界はただの事実でしかなくなった

 は、このとき、「言語」では「事実」をもう語れなくなっている、「事実」を「現在形」で語る力を「言語(ことば)」は失っているということになるかもしれない。このとき「事実」というのは「過去」のこと。「取りかえしがつかない」もの、ということ。あるいは「事実」とは「暴力」であり、「野蛮」であるということ。それが「実行された」というのこと。
 「ことば(夢)」が生きていたとき「現実」は「事実」とは違って「実感」だったということ。その「実感」を、谷川は、ここで求めている。「詩」を求めていると言い換えてもいいかもしれない。
 で、そのあとの、「嗚咽」「すすり泣き」「号泣」というのは何だろう。「言語」である。ある「事実(泣き方)」を指し示すことば。しかし、「泣き方」を「事実」というのは、変だなあ。これは、きっと「嗚咽」でも「すすり泣き」でも「号泣」でも、谷川の「泣きたい」という「実感」を「事実」にはしてくれないという「絶望」を語っているのかもしれない。
 名詞にならない「泣き方」、「泣く」という「動詞」、その「衝動(実感)としての「現在形の/泣きたい」。それを「実感」のまま隠している。「実感」を「過去形(名詞)」にせずに、自分のなかでもっていたい。それが「思っている」ということばになってあらわれているように感じる。泣いてしまえば、それは「過去形の事実」になってしまう。「現在形の実感」のまま生かすには(その実感を生きるには)、泣いてはだめなのだ。「泣きたい」と思うことでしか「実感」を生かし続けることができないのだ。
 このとき「実感」は「野蛮」になるかもしれない。「「詩人には野蛮人としての一面が必要だ」ときの「野蛮」に。それは何者かに「規制されていな状態」のこと。ととのえられていないこと、可能性のこと。形にならないエネルギー、谷川がよくつかうことばでいえば「未生」ということ。生まれる前、何になるかわからないまま生まれてくるという野蛮。強いエネルギー。
 「泣きたい」は「泣く」が「未生」の状態である。谷川は「肉体」のなかに「泣く」を「未生」のまま、持っている。それを書いている。「未生」のまま、書こうとしている。
自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店
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小谷松かや「包むほどに」

2016-10-04 11:18:31 | 詩(雑誌・同人誌)
小谷松かや「包むほどに」(「妃」18、2016年09月22日発行)

 小谷松かや。気になって、しかたがない。で、きょうは「包むほどに」を読んでみる。この詩は、きのう読んだ「春の布」とはまったく違う。

わたしの皮膚は、外気を遮断して、
何かからわたしを守る
いつか、わたしの皮膚が伸びて
男のひとを包んだのに、
かれは破いて逃がれて行ってしまった
わたしの皮膚は透明でやわらかく
蜜蝋を灯した燭台をつかめば、
腕ごと炎のいろに赤く透けたのに
すでに誰も怨んだりしていなくて、
ただ、やわらかく
悲しむひとを包むほど強くあるのに
世界から何かを遮断して
わたしを守り続ける
いったい何時まで
ほんとうはもう
裏がわから拡がり伸びきって
世界を包みたい
わたしの全身全霊の皮膚
そして指先の皮膚を使い
とりあえずスミレの花殻を摘み
子猫の餌を用意する

 「男のひと」が出てくるが、抽象的である。「男」が見えない。ここには「わたし」しか書かれていない。そこが一番の違い。そして、その「わたし」を「定義」するのに「皮膚」という「肉体」をつかっている。

わたしの皮膚は、外気を遮断して、
何かからわたしを守る

 これは「定義」として「正確」であるかどうか、わからない。けれど、直感的に「そうだなあ」と思う。納得ができる。「皮膚」は「肉体」の一番外側にある。その「外側」という意識が「外(気)を遮断して」と結びついて納得してしまうのだと思う。「外気=空気/寒暖」を「皮膚」は遮断するわけではなく、それに触れているのだけれど。
 しかし、そのあと、

いつか、わたしの皮膚が伸びて
男のひとを包んだのに、
かれは破いて逃がれて行ってしまった

 うーん。
 「論理」としては、そういうことが「ある」ということは、「わかる」。「肉体」の「外側」である「皮膚」が伸びて、「わたし」の「外」にある(いる)何かを「包む」。
 でも、私は(私の皮膚は)、そういうことができない。
 ここには、私の知らない「肉体」が生きている。私の知らない「肉体」がある。
 そして、このとき「肉体」というのは、どうみても「現実」の「肉体」ではなく、一種の「比喩」である。それも「運動/動詞」の「比喩」である。「伸びる→包む」と動いていくときの「連続した動き」を描写するための(定義するための)ための「比喩」、その「運動」を描き出すための便宜上の「主語」である。
 それが「事実」ではなく「比喩」であるということは、そこに「新しい哲学/思想」が書かれているということ。いままでの「事実」を積み重ねることでは描き出せない「新しい」ものが書かれているということ。
 「包む」ということの「哲学」が書かれているか、その前の「伸びる」ということの「哲学」が書かれているのか、「伸びる→包む」ということの哲学が書かれているか。区別がつかない。
 もし、この三行が、こんな形だったら、どうだろう。「皮膚」が「腕」だったら、どうだろう。

いつか、わたしの腕が伸びて(私が腕を伸ばして)
男のひとを包んだのに、(男の人を両腕で包み、抱き締めたのに)
かれは破いて逃がれて行ってしまった(かれはわたしの両腕をほどいて逃がれて行ってしまった)

 ということになる。これは、普通の詩。ただし、このときの「腕が伸びて」は腕そのものが「伸びる」のではなく、腕のある方向に「伸ばす/差し出す」ということ。「伸ばす」という「他動詞」が「伸びる」という「自動詞」になっている。「腕が伸びて」という「自動詞」で書かれたものを「腕を伸ばして」と「他動詞」に言いなおして、私は「誤読」していることになる。
 「自動詞/他動詞」というのは文法(頭)が整理する(ととのえる)ことであって、「肉体」は、そういうことを「意識」しないで、いや、その区別を「飲み込んで」動くものかもしれない。「肉体」には、何か、そういう「原始的」な力がある。

 で、ここから、私の「誤読(妄想)」は暴走するのである。

 あ、小谷松が「わたし」というとき、そしてその「わたし」を「皮膚」でとらえ直すとき、その「わたし」の「肉体」というのは「頭/手/足/胴」という具合に「分節化」された「肉体」ではなく、もっと「原始的/未分節」の状態にあるもの、たとえば「細胞」というものではないのか、と感じたのだ。
 「皮膚」は「細胞膜」だ。
 私は「無知」であること、何も知らないことを利用して、どんどん「妄想」するのだが、どこかで見た「アメーバー」のようなものの「運動」を、ふっと思い浮かべるのである。「楕円形」みたいな「肉体」が、別の「固体/肉体」に触れる。そのとき、「わたし」の「細胞膜」がするすると「伸びて」、別の固体(肉体)を「包む」。そうして「ひとつ」になる。
 「細胞膜」は「形」が「固定化(分節化)」されていない。まだ、どのような「形」でもなることができる。だから、そういうことが可能なのだ。
 小谷松は、人間(わたし)というものを、そういうこと(そういう運動/生き方)ができる可能性を秘めたもの、「未知の新しい細胞」として見ているのではないのか。

 生物学のことは、私はまったく知らない。
 だから、テキトウなことを書くのだが、小谷松は、何か、「生物学」的なところから「人間」を新しく見つめなおしている、「哲学」しているのではないか。
 そのことに、私の「生物学」の「原始的な部分」、私の「細胞」が、意識できない形で反応しているのかもしれない、というような「妄想」を暴走させるのである。

 詩にもどろう。

わたしの皮膚は透明でやわらかく
蜜蝋を灯した燭台をつかめば、
腕ごと炎のいろに赤く透けたのに

 この「皮膚」も、私には「細胞膜」のように思える。細胞膜が「透明」であるかどうか、私は知らないが、まあ、顕微鏡で見ないと見えないのだから「透明」と言ってかまわない。「透明=見えない」である。(こんな「定義」は学問的には間違っているだろうけれど、詩とは、学問ではないのだから、私は平気で間違いを押し通す。)アメーバーのように動くものを見ていると、その「細胞膜」は「やわらかい」。
 「つかむ」は「包む」である。「包む」ことが「つかむ」こと。「燭台をつかむ」は「燭台を掌でつつむ、そして持つ」ことである。自分の「肉体」に属するものにするということである。「飲み込む」ことでもある。
 細胞膜が、他の細胞を包み込む(飲み込む)と、その細胞膜の内部に、飲み込まれた細胞が動いているのが見える。こういう感じが「透けて」見える。
 これを、小谷松は、さらに言いなおす。「感情」として言いなおす。

すでに誰も怨んだりしていなくて、
ただ、やわらかく
悲しむひとを包むほど強くあるのに
世界から何かを遮断して
わたしを守り続ける

 「怨む」「悲しむ」という「感情の動き」。
 細胞膜は「恨み/悲しみ」というような「感情/実体/核(?)」を持たない。逆に、あらゆる「核/感情」をつつむ。「感情/核」が「露出」するのを防ぐ。「感情」を「世界」から「遮断する=感情(わたし)を守る」。
 もちろんこの部分は、先の男の部分の書き直しと読むことができる。(その方が、詩らしくなるかもしれない。)つまり、去って行った男をもう怨んでいない。その男の悲しみ、あるいは別の新しい悲しむ男を抱き締めることができるくらいに、わたしは立ち直っているはずなのだが、何かが(皮膚が)、わたしを閉じ込め、世界と「遮断している」という具合に。二度と傷つくことがないように世界を遮断して、「わたしを守り続ける」という具合に、「抒情詩」として読むことができる。
 しかし、私は、そうしたくない。 
 詩は、ここで終わらないからだ。
 私の「妄想」やセンチメンタルを、安直な「結論」にたどりつかせて、それでおしまい、ということにはさせてくれないのだ。

裏がわから拡がり伸びきって
世界を包みたい

 「裏がわ」に、私は、どきりとする。
 私が「皮膚」を「細胞膜」と読み替えたとき、私には「細胞膜の表側/外側」しか存在しなかった。「外側」が「外」に向かって、のびる。動いていく。そういう運動しか、私は思い描かなかった。
 でも小谷松は、その「細胞膜/皮膚」には「裏側/内側」があるという。
 この二行の読み方は、いろいろあると思う。一番、簡単(?)なのは、「私」と「世界」の「反転」。包むことで「世界」を自分の「細胞膜の内側」に取り込むのではなく、「世界」を「包む」形で「細胞の核/わたし」を「世界」の「外」に出してしまう。
 でも、これでは、なんといえばいいのか、

わたしの皮膚は透明でやわらかく

 と、うまくあわない。私の直感は、それは「違う」と言っている。「世界」を封じ込め、「わたしという核」が外側に出るというのは、どうもおかしい、と言っている。もっと、違うふうに考える必要がある、と言っている。
 では、どんなふうに。
 うーん、わからないのだが。
 「細胞膜(外側)/細胞核(内側)」という「分節」の仕方ではとらえきれないものがあるのだろう。
 「細胞膜」の「表側/裏側」の「表裏一体」から、「世界」そのものをとらえていかないといけないのだろう。「表側/裏側(表裏一体)」のなかに、何か、「未知の情報」のようなものがある。「未分節」のものがある。
 その「未分節」の存在を小谷松は書いている。その「未分節」こそ、「全身全霊」という「一体」そのものなのだ。
 ここからもう一度「細胞膜」へもどっていかないといけないのだが、私のことばは「細胞膜」「細胞核」くらいしかなくて、また「細胞」の運動についても何も知らないので、往復することができない。
 「表側/裏側」と、方便として「分節」できるが、ほんとうは「相対化」できない「ひとつ」としての「皮膚」。そこにこそ、小谷松の「哲学/肉体」があるのだが、それは私のことばでは「分節化」できない。
 他の詩、他のことばと、突き合わせて、もっと小谷松のことばのなかを動いてみないと、何もわからないということかもしれない。
 私は、これまでに小谷松の詩を読んだことがあるのかどうか、記憶にない。読みとばし、読み捨ててきたのだとしたら、大変申し訳ない。今回、偶然出合えてよかった、と心底思う。

 最後の三行は、まるで「禅問答」のような感じがするが、そうとしかいえない「瞬間の真実」のようにも感じられる。

詩誌「妃」18号
瓜生 ゆき,後藤 理絵,管 啓次郎,鈴木 ユリイカ,田中 庸介,月読亭 羽音,仲田 有里,長谷部 裕嗣,広田 修,中村 和恵,小谷松 かや,細田 傳造,尾関 忍,宮田 浩介
妃の会 販売:密林社
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小谷松かや「春の布」

2016-10-03 08:44:12 | 詩(雑誌・同人誌)
小谷松かや「春の布」(「妃」18、2016年09月22日発行)

 小谷松かや「春の布」は「棒立ちのまま過ぎていった日のこと」という「詩群」の一篇。どの作品もおもしろくて、どれについて書こうか目移りがしてしまう。こういうときは最初に読んだ作品に限る、と思い「春の布」。

おかさん
布をみつけました
ふきんにもおしめにもなりそうです
おとさん
春の市で布を買いました
開襟シャツを仕立てましょう

テーブルの上に一葉の書おき
米、調味料、麸菓子 さば一尾、布
ふきんになった布はいつも濡れています
開襟シャツになった布は湿っています

 何が書いてあるのか、うーん、わからない。
 と、書いて、この「わからない」というのは「意味」のことだな、と思う。何を書こうとしているか、「結論」が見えてこない。
 と、書いてしまうのは、私のこの感想が、きのうの広田修の詩をひきずっているからである。広田の詩には「結論」があった。「抒情」が「結論」として浮かびあがった。そして、そこには「論理」というものもあった。
 小谷松の詩には?
 「論理」がない。
 そのかわりに(?)、「暮らし」がある。
 あ、そうだ、昔は布で「ふきん」も「おしめ」もつくった。「開襟シャツ」というような立派なものを私の母はつくれなかったが、ふきん、おしめ、雑巾は、つくっていたなあ。それはつかいまわしというか、古い布が、ふきん、おしめ、雑巾になるということでもある。
 「暮らし」のなかで「布」の「肉体」が変化していくのを、私は見ていた。みんな、つながっている、という感じがあった。
 この「つながり」というのは、「布」だけではない。

テーブルの上に一葉の書おき
米、調味料、麸菓子 さば一尾、布

 その「書き置き」の「単語」は、私には「つながり」には見えないけれど、小谷松がそれを読んだとき、そこには「つながり」があった。そのことばで母(たぶん)が何を言おうとしているか「わかった」はずである。
 「米、調味料、麸菓子 さば一尾、布を買ってきておきなさい」か「買ってあるから、それで夕食の準備をしておきない」か。「布を用意してあるから、それでふきんをつくっておきなさい」かもしれない。
 それは「わからない」のに、何かが小谷松には「わかった」ということは「わかる」。「わからない」のに「わかる」。私は最初に「わからない」と書いたのだが、これは「わかる」と書いてしまうと何がわかるか書かなければならないので、それがいやで「わからない」と書いたということ。
 あ、こういうことを書いていると「めんどうくさくなる」のだが、その「めんどうくささ」へと誘い込むことばの「肉体」が、私は好きなのである。そういうものを信じてしまうのである。あ、小谷松がいる、と思ってしまう。小谷松という人間を知らないのに。

ふきんになった布はいつも濡れています
開襟シャツになった布は湿っています

 小谷松は、そういうことが気になる人なのだ。「布」は乾いていてほしいのかもしれない。「濡れている」「湿っている」には、何か、それにつきまとうような形で人間が動いている。「暮らし」が動いている。つながっている。「濡れている」「湿っている」は、書き置きのことばのように、母や父の「肉体」の動きを小谷松に語りかけてくる。布の変化で、小谷松は母や父が「わかる」。私は、先に書いたように小谷松を知らない。当然、彼女の母も父も知らない。それなのに、小谷松が母や父の「肉体」を「わかっている」ということが「わかる」。
 ことばを読むまでは、小谷松のことも、彼女の母、父のことも知らない(わからない)はずだったのに、いまは、何かが「わかっている」。
 そして、この「わかる」は広田のことばのように「論理」として何かをめざして動くものでもない。

 何だろうなあ。

わたしは大人になったので、
自分の布が欲しくなりました
それから
すこし長い旅にでました
外国の海の波も寄せては返すを
繰り返します
波の泡は白布のようにひろがり
ひき千切れます

 ここに書かれていることも、「意味」がわからない。
 「意味」がわからないのに、「事実」が「わかる」。あるいは「存在」が「わかる」。
 ふきんになったり、おしめになったりと、「暮らし」のなかで、他人とつながっていく「布」ではなく、自分自身だけでつかいきってしまう「布」がほしい。「濡れている布」「湿っている布」ではなく、乾いている布、何かから断絶した布がほしいんだろうなあ。そして、この断絶/切断の欲望が「外国」というのことなんだろう。
 でも、どんなに遠くへ行こうと「つながり」は見つかる。「つながり」を見つけてしまうのが人間というものなのか。

外国の海の波も寄せては返すを
繰り返します

 この唐突な二行は「外国の」と書かれているにもかかわらず、なじみのある「日本の」波を呼び寄せてしまう。
 あ、これだな。
 私たちは(私だけかな)、どんなに知らない(わからない)ものに出合っても、その「知らない/わからない」はずのものから「知っている/わかっている」もの(事実/存在)を見つけ出し、それと「つながる」のだ。
 この「つながりの哲学(思想)」とでも呼ぶべきものが、「布」という「事実/存在」として書かれている。それは「意味」とか「象徴」ではない。そういうものにならないまま、「事実(暮らし)」そのものとして、手触りのように、ことばになっている。
 だから、「わからない」と突っぱねたくなる。
 だって、いやでしょ? ぜんぜん知らない人の「暮らし(肉体)」と自分が突然つながってしまうのは。
 たとえばこの詩を書いたのが「テス」のナスターシャ・キンスキーなら、わっ、なんとしてもつながりたい、「わかる」「とてもよくわかります」と書きたくなるけれど。
 そうじゃない。
 いつも濡れているふきん(母の暮らし/肉体)、いつも湿っている開襟シャツ(父の暮らし/肉体)が、小谷松のまわりで波のように「寄せては返す」を繰り返している。それは、いままで自分が見てきた「世界」とぜんぜんかわらない。せっかく他人と出会うのに、まるで自分の「過去」(記憶)へ引き返していくみたいじゃないか。
 文学(詩)なんて、絵空事。嘘っぱち。そうであるはずなのに、ずぶずぶと「事実(現実)」へ引き込まれていく。
 いやだなあ。
 「わかりません!」と突っぱねることができれば、楽だろうなあ。

故郷へ還りました
春のこと
家のタンスからなつかしい端切れ布が
みつかりました
ふと見れば
庭の古木の蝋梅は枯れています

わたし好みの
新しいカーテンをつけましょう

 「なつかしい」端切れ布だけでなく、「新しい」カーテンの「新しい」さえもが、「わかる」なんて、うーん、困ってしまう。「新しい」というのはいままでなかったもののことだから「わかる」はずがないのに、「新しい」ものにするという「動き」が「わかる」のである。
詩誌「妃」18号
瓜生 ゆき,後藤 理絵,管 啓次郎,鈴木 ユリイカ,田中 庸介,月読亭 羽音,仲田 有里,長谷部 裕嗣,広田 修,中村 和恵,小谷松 かや,細田 傳造,尾関 忍,宮田 浩介
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『詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント』の書評

2016-10-02 22:21:12 | 自民党憲法改正草案を読む
『詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント』の書評が、西日本新聞10月2日読書欄、毎日新聞(西部版)9月25日に掲載されました。
お読みください。


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自民党憲法改正草案を読む/番外28(情報の読み方)

2016-10-02 21:28:52 | 自民党憲法改正草案を読む
 西日本新聞2016年10月01日朝刊(18版)2面に衆院予算委(09月30日)のやりとりが書かれている。見出しは「改憲論議 野党に呼び水/首相、持論封じ柔軟姿勢/衆院予算委」。そのなかに、こう書いてある。

 民進党は安倍晋三首相に憲法改正について見解をただしたが、首相は「憲法審査会での議論にお任せしたい」と繰り返し、論戦を避けた。

 具体的には、どういうことか。

 「自民草案がベースになるに値するか議論を深めたい」。民進党の細野豪志代表代行はこう呼びかけ、自民草案が基本的人権を「侵すことのできない永久の権利」と規定した97条の削除している理由を繰り返し質問。首相は「いちいち条文について解説する立場にない」「憲法審で議論を深めるべきだ」と説明を避け、議論は深まらなかった。

 この安倍の発言は、先日指摘した問題に通じる。議論をしないということで「民主主義」を否定している。
 憲法審査会で審議するというが、それは「公開」され、新聞やテレビで詳報されるのか。国会でさえ、討論の全部が報道されるわけではない。きょう取り上げた西日本新聞でも「繰り返し」ということばがあるが、何回繰り返したか、これではわからない。「事実」というものは、見方によって、かわる。様々な視点から点検しないとわからないのに、その「様々な視点」が、現実にはすでに排除されている。
 「憲法審で議論を深めるべきだ」は、ことばを変えて言えば、密室で審議すること。議論を深めるのは「審議会のメンバー」であって、「国民」ではない、ということである。「国民」は審議会での「結論」だけを知らされる。専門家が審議したのだから、その「結論」を受け入れろ、ということになる。
 細野が安倍にどう食い下がったか(どう質問したのか)、具体的なやりとりは新聞ではわからないが、

「いちいち条文について解説する立場にない」

 という安倍の発言は大問題である。
 法律は「いちいちの条文」どころか、「いちいちの文言」が問題になる。なぜ、そのことばをつかうのか。なぜ、そのことばを変更するのかということを、「いちいち」見ていかないといけない。
 いろいろな交渉でも、たとえば外国との交渉(条約締結)などでは、訳文の単語ひとつひとつについて「議論」するだろう。どのことばが「有利」か、常にせめぎ合いがあるだろう。
 憲法ならば、細部にこだわらないといけない。「ことば」ひとつで「解釈」がまったく違ってくる。
 「いちいち条文について解説する立場にない」というは、無責任である。
 「いちいちの条文(文言)」について発言しても意味がないというならば、たとえば、安倍が以前「前文」の「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」に対して「みっともない/いじましい」という発言は、無意味になる。安倍は現在の憲法の「文言」に対して、具体的にその箇所を指摘して発言している。何かに対して文句を言うときは、そうするのがあたりまえである。安倍自身は、憲法に対して具体的に苦情を言うことはできるが、細野が自民党草案の条文に対して具体的に指摘し、発言することができないとしたら、対話など成り立たない。「議論」など成り立たない。安倍は「おれの言うことを聞け。おまえの言うことは聞く必要はない」と言っているのである。
 「いちいち条文について解説する立場にない」という答えに納得するのではなく、それはどういうことかと、細野は質問しなければならない。そんなことをするのは民主主義の否定だと批判しないといけない。

 同じ内容を毎日新聞(西部版・14版)と比較してみる。1面の記事によれば、

 首相は与野党の多くが憲法改正の案を出していない現状を踏まえ、野党が要求する草案の撤回は「意味がわからない。まずは(草案を)ベースに議論をお願いする」と述べた。

 とある。
 もし、ほんとうに自民党草案をベースに議論をすると主張するなら、その草案をもとに、細野が具体的に質問しているのだから、それに答えないことには議論にはならない。議論を誘いながら、議論はしないというのは矛盾である。細野が安倍に、疑問点をぶつけるというのは、議論の出発点としてあたりまえのことである。
 また「憲法改正案」を各党が出さないと議論ができないというのは、議論というものの性質を無視している。ある案があり、それに反対ということで、十分議論はできる。「反対」ということ自体が「対案」なのである。そこにある「案」の問題点を、ひとつひとつ指摘することが「対案」の提出であり、その「反対」について審議することが重要である。「反対」があるなら、どうやって「反対」の部分を解消していくか、それを吸収できる案をつくりだしていくか、ということが審議になるはずである。対話のポイントになるはずである。
 もし各党が案を出し、それを説明する。つまり、その「いちいちの条文、いちいちの文言」を審議するということになると、時間は膨大になる。どうしたって「審議」は省略される。
 各党の案が出揃った。では、どの案がいいか「多数決」で決めようということになる。「対案の提案」が、そのまま「各党での審議を踏まえたもの」ということになり、審議は省略されるのだ。
 「対案」の要求は、そのまま「多数決」の要求である。
 安倍の狙いはそこにある。
 だから「対案」など、野党は出してはならないのだ。「対案」を出さずに、自民党の「改正草案に反対」と言い続けること、条文のひとつひとつに「いちいち」反対を言うこと、反対の理由を国民に説明することが「対案の提出」になるのだ。そうやって国民の間に議論を深めていくことが「民主主義」なのだ。「国民」のなかで「対話/議論」がおこなわれない限り、それは民主主義ではないのだ。
 さらに毎日新聞では、西日本新聞で報道している部分について、こう書いている。

 民進党の細野豪志氏は「草案は(基本的人権の価値をうたった)憲法97条を削除している」などとして白紙撤回するよう迫ったが、首相は「削除は条文の整理だ」と応じない考えを示した。

 これは西日本新聞が報じていることと、かなり違うというか、もし安倍がそう答えたのだとしたら、激しく矛盾している。
 「削除は条文の整理だ」は、ひとつの「答」である。つまり、ほんとうに「条文」のひとつひとつについて審議することを完全に憲法審議会に委ねるというのが安倍の考え方なら、ここで「削除は条文の整理だ」と答えているのはおかしい。安倍は、第97条の削除については憲法審議会に議論を委ねていない。安倍主導で「結論」を出していることになる。
 こんなばかげた議論の委ね方はない。最初から憲法審議会で出す「結論」を決めていて、それにしたがって発言している。
 つまり安倍は、答えたい答え(模範解答)がある時は答え、模範解答がないときは答えないのである。自分の言いたいことしか言わないのである。これでは「議論(対話)」にならない。議論をしたという「証拠づくり」のために審議会を開くだけなのだ。
 翻って。
 もし安倍が「条文の整理」と主張したのなら、そのことばを「言質」にとって、細野は「基本的人権の価値」は改正草案のどの条文に書かれているのか、基本的人権をどの条文でどのように定義しているのか、その「答え」を引き出さないといけない。
 こういう「言質」になることばを発したとき、それは安倍を議論に引っぱりだすチャンスである。こういうチャンスを逃してはいけない。自分が用意してきた質問をするだけではなく、そこで出てきたことばに対してさらに質問をかぶせ、「議論」を自分の土俵に引き込むという工夫を民進党は全くしていない。

 議論を無視する、議論を「審議会」とか「有識者会議」とか、「静かな」環境での議論に任せるというのは、「民主主義」の否定である。それにのっかってしまう民進党の質問の仕方もまた、民主主義を否定するものである。
 何がなんでも、安倍に国会で憲法について語らせるという工夫を野党はすべきである。「しっかり説明」させる工夫をすべきである。
 戦争法もTPPも、安倍は「しっかり説明する」と言ったが、説明などまったくされていない。野党は、安倍に「しっかり説明させる」責任がある。
 安倍を批判した、戦争法に反対した、TPPに反対したから、それで責任を果たしたと思ってはいけない。安倍から「ことば」を引き出さない限り、野党は「民主主義」に対して責任を果たしたとは言えない。









*

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広田修「雨」

2016-10-02 14:02:04 | 詩(雑誌・同人誌)
広田修「雨」(「妃」18、2016年09月22日発行)

 広田修「雨」は、こんな「雨」。

こんな快晴の日だが
ひたすら過去の雨が私を打つ
水ですらなく重さもない
透明な過去の雨が激しく降ってくる
これまで辿ってきた体験が
内容を抜き取られてひたすら雨滴となる

 「過去」と「内容」の関係がおもしろい。「過去」とは「体験」のことである。「体験」とは、たいていの場合「内容」のことである。
 「過去/体験」から「内容」を「抜き取る」と何になるか。
 ここでは、しかし、「意味」を考えてもしようがない。
 こういう「論理」を動いていくことばには「意味」などない。「意味」を「結論」と言い換えてもいい。「論理」は「結論」をめざすように動いていくものであり、「論理」であることにのみ「意味」を見いだし続ける運動なのだ。
 この詩で言えば「抜き取る」という「動詞」と「ない」という関係が「運動」の「数学的結論」である。詩は「ない」が先に書かれ、それを「抜き取る」という「動詞」で証明する形で動いているのだが。
 つまり、

水ですらなく重さもない

 この「ない」とは何かというと、「内容」を「抜き取った」結果のことである。
 私は、ちょっと興奮した。
 「論理」というのは「自己循環」というか、「完結」してしまうものだが、それが「ない」へ向かうならば、一種の「自己否定/論理であることの否定」にもなる。
 それを期待した。
 ところが、詩はこうつづく。

私はこれだけの量の過去を通過し
そしていまこれらの過去の先端にいる

 「内容」は「量」とも言い換えられていると読むことができる。「量」を「抜き取る/取り除く」と「ない」になる、というのも「論理」として、私には納得できる。
 しかし、「通過する」という「動詞」は「過去」と結びつくと「体験/体験する」と同じことになる。それでは「抜き取る」ということにはならない。むしろ、この「通過する」は「再認識する」である。あるいは「追認する」であり、そこからは「ない」ではなく、「ある」が必然的生まれてしまう。そこには「過去」か「ある」が明確になるだけだ。
 そして、その「結果」として「過去の先端にいる」ということばがやってくるのだが、これは言いなおすと、「過去には過去の奥底と過去の先端があり、私は先端にいる、私という存在が先端にある」ということ。
 「ない」が「ある」に変質してしまう。そして、最初の「詩」が消える。
 「論理」が破綻する。
 「論理」が破綻すると、どうなるか。「抒情」が生まれる。抒情という「論理」とは別な形の詩への欲望が動き出す。

私の人生が強く降り注いでいる
人生の深遠が雨を振り絞っている
そして私は再び快晴の夏へ
光と熱でいっぱいの明るい夏の日へ
過去をもう一度生きた人間として
遠い歌に耳を傾けながら

 「過去をもう一度生きた人間として」には「動詞」が省略されている。何が省略されているか。私なら「生まれる」を補うが、「生まれる」とは「いる/ある」ということ。完全に「ない」はなくなってしまった。
 かわりに「もう一度」という「反復」だけが「ある」。(ここから、この数行は、先に引用した二行の言い直しであることがわかる。)こうした「過去」の「いま」への「反復」のなかで、「遠い歌」を「感情」として「反復」される。「感情」の「反復」こそが「抒情」である。それは、「いま/ここ」に「ない」感情を取り戻すことができたと勘違いすることであり、「抜き取る」ということとはまったく逆のもの。 
 これでは、興ざめしてしまう。

 で、こんな「苦情」を書くくらいなら、感想を書かなくてもいのかもしれないのだが。次の部分は、「ない」と「抜き取る」の関係と同じように、気に入ったのである。それを書きたい。

雨の日に、僕は雨粒の音を数えている。僕が数えられるよりももっと速く雨粒は
降ってくるし、遠くの雨粒の音はよく聞こえない。それでも僕は雨粒の音を数え
ている。自分の感性の平原、その静寂に一番響く雨粒の音を探している。

 「数える」という「動詞」がおもしろい。「数える」は「測る」ということであり、「測る」とは「比較する」ということでもあるだろう。その「比較」の部分がおもしろいのである。
 「僕が数えられるよりももっと速く」には「速さ」の比較がある。
 この「速さ」ということばに、私は驚いた。
 雨(粒)の「量」ゆえに「数えられない」というのが一般的だと思うが、その「量」の前に「速さ/速度」があらわれてくるところが、なんといえばいいのか、見落としていた「ものの測り方(論理の作り方)」と「肉体」をゆさぶるのである。
 「速さ」を比較する「機能」というか、何で「速い」と判断するのだろうか。数えている対象は「音」なので「耳」で、自分が数えるときの「音/声」と雨の「音」の間合い(間隔/時間的距離)を比較していることになる。
 で、その耳が「速さ」から、

遠くの雨粒の音はよく聞こえない。

 と、「遠く」へといきなり「転換」する。「空間的距離」が出てくる。「耳」が「耳」いがいのものを動かしている。「耳」にも「空間的距離」は把握できるが、「空間的距離」を測るときはもっと別な「肉体」をつかったときの方が「適切/合理的」なときがある。「耳」が無意識のうちに他の「肉体(器官)」を刺戟する。この「肉体」への刺戟と一緒に「世界」がふいに拡大する。
 ここに「論理」を超える無意識の「何か」を感じ、私は、どきっとしたのである。
 詩を書かずにいられない広田の「肉体」を感じたのである。
 この「肉体」のことを広田は「感性」と呼び変えている、言いなおしているように思える。
 で、その「感性」ということばが出てきた瞬間に、「数える/比較する」が

その静寂に一番響く雨粒の音を探している。

 「探している」にかわる。「一番響く」の「一番」は露骨に「比較」をあらわしているが、その「一番」の「一」は「数える」ものではなく、「数えない」ことである。「数える」かわりに、それと「同化する」が「一」である。「探している」とは、実は、その雨音に「なる」(同化する)ことである。
 この「探す/同化する」(ひとつになる)は、次のように言いなおされる。

                                  全てが
ほとんど同じであろう雨粒の音のなかで、この世の正と負との境界を厳密に突くよ
うな雨粒の音を、たった一つでも聴き分けることができればいい。

 「一つになる」が「一つ」を「聴き分ける」、合体と分離という矛盾した動きが「肉体」のなかで結びつく。その「矛盾」を先取りする形で「正と負」という「論理的」なことばが動いている。

 広田のことばには、「論理」と「論理ではないもの」が衝突しているのだが、私は、この衝突がおもしろいと感じている。ただし、それが「論理」から「抒情」へと変化してしまうときは、私の好みではなくなる。
 いま引用した部分でも「正と負」はいいけれど、それに先立つ「この世の」が、どうも気持ちが悪い。
 まあ、これは私の好みであって、そういう部分が好きという人もいるだろう。

zero
広田 修
思潮社
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萩野なつみ『遠葬』

2016-10-01 11:12:46 | 詩集
萩野なつみ『遠葬』(思潮社、2016年09月25日発行)

 萩野なつみ『遠葬』を読むと、ことばの「美しさ」にとまどう。ことばは、こんなに美しかったか。
 いま、私は、詩集を読み返しているのだが、その最初に読み返す詩(つまり、二度目の最初の詩、巻頭の詩)、「朝に」。

百葉箱のしろさを
おぼえていますか、あの
伸びきったみどりにかこわれた
少しくさりかけた足と
すずやかな、夏

 「くさりかけた」ということばさえ、直前の「少し」によって美しくなる。あ、意識は「くさる」という「動詞」から「少し」という「比較」という「形容詞」の方に重点を置いているということがわかる。
 この「形容詞」とは何だろうか。
 この詩の書き出しは、百葉箱を描写している。百葉箱を、それがある場(たとえばまわりに草が生えている)と一緒に描いている。百葉箱は白い。その箱を支えている脚(足)は雨などが跳ね返した泥で汚れている。腐りかけているようにも見える。季節は、夏。たぶん、夏休みだろう。
 そういう「状況/ものの存在同士の関係」のなかで「しろい」「みどり」「すずやかな」という「形容詞/形容動詞」が書かれている。「伸びきった」「かこわれた」も「動詞」そのものというよりも「修飾語(形容詞)」の働きをしている。「形容詞」が過剰に書かれている、ということになるかもしれない。
 で、再び思うのだが、「形容詞」とは何だろうか。
 百葉箱は「もの/存在」、それを修飾する「しろい」は「もの/存在」と比べると、「存在力(?)」が少し弱い。「もの/存在」が変化せずにそこにあるのに対して、何か「変化していくもの」に思える。たとえば百葉箱の脚も白いはずだが、跳ね返った泥で汚れ「くさりかけ」ているように見える。「形容詞」には、何か、「判断/主観」のようなものが含まれている。「私」というものがあり、それが「もの/存在」を特徴的にとらえるためにつけくわえたもののようにも思える。百葉箱が「もの/存在」だとすれば、「しろい」という「形容詞」は「意識/精神」として考えてみることもできるかもしれない。「形容詞」は「もの/存在」に属するというよりも、「もの/存在」を認識する「私」が、その「もの/存在」に与えた「特徴」と考えてみることができるかもしれない。
 あるいは、「形容詞」とは「もの/存在」に対して、「私」が付け加えた「イメージ」と呼んでみることができるかもしれない。百葉箱は「もの/存在」。「しろい」は、その百葉箱のイメージ。それはつまり百葉箱と「私」をつなぐ何かなのだ。
 ここには百葉箱(もの/存在)-しろい(形容詞)-私(認識する精神)という関係がある。「しろい」を取り除いてしまうと、「もの/存在」と「私」が切断されてしまう。イメージは「もの/存在」と「私」を結びつける「接着剤」のようなものなのだ。
 で。
 この「接着剤」のようなものに対して、萩野はおもしろいことばをつかっている。

おぼえていますか

 「おぼえている/おぼえる/記憶する」という「動詞」が、「もの/存在」と「私」をつなぐのだ。このとき「おぼえていますか」と問われたのは百葉箱というよりも「しろい」というイメージであり、また「伸びきったみどりにかこわれた」というイメージであり、「少しくさりかけた足」というイメージであり、「すずやかな」というイメージなのだ。百葉箱という「もの/存在」を目の前に出現させるいくつものイメージ、それを記憶しているかと問いかける。そのイメージが全部つながったとき百葉箱のある「世界」があらわれる。
 「もの/存在」を「おぼえている形容詞として思い出す」という形で、「いま/ここ」に再び生み出されるときに、そこに「イメージ」が噴出してくる。その「イメージ」こそが「私」を代弁する。「もの/存在」が「私」とは別個に存在する何かなのに対して、「イメージ」は「私」そのものなのだ。「イメージ」によって、萩野は「私」を語っている、と言いなおすことができるかもしれない。「記憶」によって「私」を「いま/ここ」に生み出し続けると言ってもいい。
 あらると行間に「おぼえていますか」(私はおぼえている)ということばを補って読むことができる。そこに書かれているのは「もの/存在」ではなく、萩野が「もの/存在」をつかみとるときの「イメージ/萩野の精神」なのだ。
 「もの/存在」と「私/意識」という「二元論」が「イメージ」のなかで融合する。つながる。「おぼえている」という「動詞」を媒介にしてつながっている。そのつながり方が「イメージ」であるからこそ、それが「美しい」。何か「ととのえられている」という印象が「美しい」という感じを呼び覚ますのである。

仄暗い
抜け道を知っていた
岩場で切ったあしうらの
赤はサンダルの模様に
まぎれて消えた

 「赤」は血の色。「血」という「もの/存在」ではなく「赤」という「イメージ」で世界をととのえる。そのとき「消えた」のは「赤」という「色/イメージ」ではなく「血」そのものである。「イメージ」は残り、いま/ここに呼び出されるが、「もの/存在」は消される。そうやって「世界」はととのえられる。
 説明の順序が逆になったが、「仄暗い/抜け道を知っていた」の「知っていた」は「おぼえていた」である。「おぼえていた」ことを「おぼえている」。思い出す。そしてそのとき重要なのは「抜け道」が「仄暗い」ことである。この「仄暗い」は「あしうら」の「うら」とも「まぎれて消えた」の「まぎれる」「きえる」にも通じる。「血」を「赤」と言いなおすことの中にも、同じものがある、と言えばいいすぎになるだろうか。

うごけないでいるのです、
手の先に海
明け方にやわらかくしばられて
(音楽)
おぼれることを
わたしは望む

 これは「わたし(私)」のイメージであると同時に百葉箱のイメージでもある。「足」があるのに動けない百葉箱。同じく、足があるのに、足を切って動けない「わたし」。もちろん「わたし」の方は動こうと思えば動ける。だから「やわらかくしばられて」というイメージになる。その、動こうとすれば動けるというのは、百葉箱そのものとは合致しないが、「うごけないでいる」という瞬間は、ひとつのイメージとなってかさなる。
 イメージは、「もの/存在」のように、確固としたものではないのである。「わたし」の意識によって動くのである。「おぼえている」ことを「おもいだす」ときに、「わたし」そのものとして、そこにあらわれてくる。
 そのまま、ふと、「おぼれること」を「望む(夢見る)」、そうしたことを「おぼえている」。そして、この「動けないでいる」から「おぼれることを望む」への「飛躍(切断と接続)」の間に、「音楽」が入り込む、というのが萩野の大きな特徴である。
 「イメージ」というと「映像」、「目」の働き(力)が中心になるが、萩野の場合、これに「音楽/耳」がくわわる。ことばの「音」に何か共通した「しずかさ」があるが、その「しずかさ」が萩野の「音楽」である。
 「おぼれる」は間が敵イメージではなく、次のように言いなおされる。

ととのいすぎた呼吸
あいま あいま
気管をすりぬけるように
蜩が鳴いている
からだの奥で

 「呼吸」のなかに「おぼれる」という動詞につながるものがあるのだが、それは見イヴに静かだ。
 「しずかさ」は「ととのう」(ととのいすぎた)という「動詞」が生み出し、それは他のことばへとつながっていく。「呼吸」から「気管」へ、さらに「からだの奥」へ。この「からだの奥」ということばは、とてもおもしろい。「イメージ」が「からだの外」にあり、目で見えるのに対して、「音楽」は萩野の場合、「からだの奥」にあって、それは「呼吸」となって「からだ」の内外をつなぐ。あるいは入れ代わる。こういう「感覚」もの萩野は「おぼえている」。
 この運動は、イメージほど明確にことばにされていない。(ことばになっているのかもしれないが、私には、はっきりとはつかめない。ただ「しずかな音の響き」がことば全体に共通するものとして聞こえてくる。) 

百葉箱をぬける
風がまなうらをしめらせる
しろく改行されてゆく
朝を しずめて

 「ぬける」は二連目の「抜け道」と行き来する。「まなうら」は「あしうら」と響きあい、「しめる」は「しろさ」とも「仄暗い」の「仄」とも通い合う。何よりも「風」が「気管をすり抜ける」という「呼吸」そのものにかさなる。
 そうした「重なり」を「改行」することで、そこに「あいま」(余白)をつくり、その「余白(あいま)」の変化こそが、「ことば」にならない「イメージ」なのだ、と言えば萩野の詩の「全体の動き」をとらえることになるだろうか。「イメージ」は「完結」するのではなく「余白」を利用しながら変化する。その「変化」を「音楽(ことばの肉体の呼吸)」で統一する、ということかなあ。

 あ、だんだん抽象的になってきた。
 つまり、私の論理がいいかげんになってきた。「頭」が勝手にことばを動かしていて、「肉体」がついていっていない。
 これでは、何も言ったことならない。
 言いなおそう。

 萩野は「もの/存在」と「わたし」との関係を、あいだに「イメージ(視覚)」を置くことで統一しようとしている。そうやって「世界」を生み出そうとしている。そのとき、明確な意識ではないが、どこかで「音楽」が「イメージ」に働きかける。「音」を「呼吸」がととのえる。この無意識の動きが、イメージに「奥」をつくりだしている。
 それは、なんといえばいいのか、「音におぼれる」ような快感を思い起こさせる。自分の意思ではどうにもならないものに、つかまってしまう。それに動かされてしまう。自分が自分でなくなる、というのはかなり快感である。
 「イメージ」は絵画的だが、萩野の「本質」は音楽的なところにあるのかもしれない。「音楽」が「イメージ」をつきやぶって動くと詩の力が圧倒的になるかもしれない。「蜩が鳴く」というのでは、ちょっと違う感じがしてしまう。これでは「音楽」につかまっていない、「音楽」を客観的に聞いている感じ。「耳」が前面に出てきすぎる。 

 「花信風」には、「余白(あいま)」に「イメージ」を動かす、「あいま」を広げ、解放するという動きとは別の運動もある。ここに「音楽」があるかもしれない。

あなたの

わずかに伸びた爪から船が発つ気配がして、背骨をさぐる。そこここに点在するうつろな呼気の裂け目に足をひたせば、近く、真昼の葉ずれのような声で渡される無彩色のわかれ。舌にのせたままの明星を合わせて、うすくわらうあなたの、まなうらに明滅する春にいる。

 「余白」を埋める、いや「余白」の奥へ分け入っていくような感じ。ことばの「切断/飛躍」が句読点によって「接続」にかわるような不思議な印象。「呼吸(句読点)」が「余白(あいま)」を密着させる。妙な言い方になってしまうが、そういう感じだ。もしかすると、この「切断」を「接続」にかえてしまう「呼吸」が「音楽」というものかもしれない。
 改行のある詩では旋律が断片的だったが、ここでは旋律が長くうねり、「音楽の肉体」となって迫ってくる。
 そんなことをふと思ったが、これは私の「感覚の意見」。いつか、また考えてみよう。


遠葬
萩野 なつみ
思潮社
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