阿部嘉昭『石のくずれ』(ミッドナイト・プレス、2016年07月28日発行)
阿部嘉昭『石のくずれ』は 200ページを超す詩集。 101ページまで読んだ。音と意味が、引き返すようにして前へ(詩の終わりへ)動いていく。その方法は最近の現代詩の流行のように感じられる。(だれそれの、とはあえて明記はしないが。)その往復は、切断と接続の瞬間に「感性の形(感性の論理)」を見せる。その瞬間的に見える「感性の形」を好きか嫌いか、が詩の批評の基準になっているようにも見える。私は、その「感性の形」が好きか嫌いかというよりも、その感性を論理にしてしまう「方法」が嫌いである。明治・大正、あるいは戦前のある種の小説の「文体/方法」に似ていると感じる。「新しい」というより「古くさい」。スピードと軽さ、明瞭さがない。
というような「抽象論」は、阿部は感性を論理にするという方法だけで書いているわけでもないし、まあ、書いてもしようがないか……。
「石のくずれ」という作品。詩集のタイトルにもなっている。自信作なのだろうか。
これは対句。
「あるさま」とは「ありさま/あるときの姿・形」ということだろうが、「ありさま」というときの「透明感(固く結晶している感じ)」はない。「ある」という「動詞」を強く感じさせることばが「動き」を含んでいる。
これに対して、それを「あること」と言いなおした上で「持続」ということばへ動いていくとき、「持続する」という「動詞」が「名詞」へと変化し「動き」が固定化する。「名詞」の方が強くなる。
「あるさま」(動詞)と「持続」(名詞)が、「石」ということばを中心にして往復する。「あるさま」は「ありさま」であり、「ありさま」ならば「名詞」。「持続」は「持続する」であり、「持続する」ならば「動詞」。
そういう「行き来」のなかで、「あるさま」(動詞)は見える(感性/感覚でとらえることができる)、「持続」(名詞)は見えない(感性/感覚でとらえることができない)と「定義する」。そうして、その「定義した」世界(感性/感覚)を、別のことばで言いなおす。「感性/感覚」を主語というか、テーマにして語り直す。
三行目。
「しずかさ」とは「名詞」、「おびえ」は「おびえる」であり「動詞」。石のありさま(形)という持続性(名詞)に対して、「名詞」なのに「動詞」を含むという激しさを感じ、「おびえる」。「しずけさ」のなかには「はげしい動き」が予感されているといえばいいのだろうか。
そのあと、詩は、こう展開する。
めんどうくさい書き方(古い書き方)だと私は思う。「現代語」に翻訳してみると、石を拾って放り投げることを空想した。石は遠くまでは投げられなかった。それでも石が空気の中を動くので、空気の中に揺れができる、ということも空想した(感じた)、ということになるだろう。(この「空想/感覚」が、いわゆる「鋭敏な感覚/感性」と呼ばれるとき「批評」になる。「批評」では、そういうふうに呼ぶ。私は「批評」を書いているのではないので、そういうことを「鋭い」とか「繊細」ということばで修飾しない。違うことを書く。)
「なげるうごきをつくりあげ」の「つくりあげ」が「肉体」の「空想する/想像する」運動(動き/動詞)である。実際に投げるわけではないが。そのあと「空想する/想像する」は「設計する」ということばで言いなおされる。「設計する」とは「完成」を「紙の上で空想する/想像する」ことである。この運動は「肉体」というよりも「頭の運動領域」の方が広い。こういう「肉体」から「頭/精神/理性」への「言い換え」、その「方法」を詩にする、詩と呼ぶことを、私は「古くさい」と感じてしまう。
その「設計図」のなかで、空気の乱れを「くうきが波紋めいたおのれをゆらし」と「波紋」という目に見えるもので言い直し、さらにそこに「おのれ」ということばを重ねることで、自己(阿部)をもぐりこませていく。「くうきの波紋」を「おのれ」の「比喩」にする。もちろんそのときの「おのれ」というのは、石を放り投げた「おのれ」とは完全に分離できるものではない。そこには「往復」がある。作用と反作用の往復といってもいい。
ここから、詩は、最後に向けて、こう展開する。
「波紋」は「ずれ」と言いなおされる。そこには、繰り返しになるが作用・反作用としての「おのれ」が含まれる。つまり「おのれ」の「ずれ」でもある。だからこそ「おのれ」が生きている「この世」というものも登場するのだが、そのあとの展開の仕方が「うごきをつくりあげる」「設計する」というほどの緊密感を持たない。
「音」と「しずか(無音)」が「対」になって動くのだが、「さそい」が「さそう」という「動詞」になりきれていない。「くずれだす」の「くずれる」と対にしているのかもしれないが、それが私にはわからない。ずーっと「みえる」という「視覚」の世界だったのが、突然「音/しずか」という「聴覚」の世界に変化している。もちろん「波紋/波動/空気の揺れ」は「音」に通じるが、その「音」を受け止める「肉体」が「動詞」として存在しないので、「あ、頭で書いている」と感じてしまう「頭」は融合するが、「感覚」と一緒にある「肉体の器官」は融合しない。結合しない。。
「しずかな」に焦点を当てて言いなおすと、この「しずかな」は三行目の「しずかさ」と通じているはずである。三行目の「しずかさ」のなかには「あるさま」「持続」という名詞とも動詞とも断定できない緊密感の「つながり/内在」とういものがあるのに対し、終わりから二行目の「しずかな」は単に「石」を形容する「外観」になっている。「外観」になってしまっているからこそ、それを「うちがわ」と強引に言いなおさざるを得なくなる。この言い直しに「頭」が露骨に動いている、と私は感じるのである。「うちがわ」と書くとき、その「うちがわ」への通路としての「肉体/動詞」が書かれないまま「くずれる」と言われても、わっ、嘘っぽい、「抒情」を狙っているという「作為」の方を感じてしまうのである。「うるわしく」という美辞麗句で詩を飾るのを見ると、古くさいとしか言えなくなる。
私がおもしろいと思うのは、たとえば「階段」の前半、
ここには「石のくずれ」の前半と同じように、「動詞/名詞」の行き来がある。そして、そこに「ひと」の「動き」が実際に想定されている。「かたち」と「規則」を阿部は見ているのだが、見ているだけではなく「ひと」が動くとき、その「ひと」に誘われるようにして見ている阿部の「肉体」も動いている。つまり、阿部の「肉体」が「規則」を「肉体」の外にあるものではなく、自分の「肉体」としてつかみとっている。「規則」は抽象ではなく、「肉体」として生まれてきている。その「肉体」のつかみとったものが、「そののままかたちをなしていて」、そのことばの、かたちをなす動きが詩なのだと、私は感じる。
「倚らない」の書き出し。
この三行も魅力的だ。「かたち」(名詞)と「ゆれる」(動詞)。詩は「ゆれ」と「名詞」として書いているだが、「ゆれる」という「動詞」から派生した名詞なので、「ゆれ」ということばから見えるのは「動き」である。「名詞/動詞」が、そんなふうに「わからなく」そこにある。融合している。その融合した世界を、「わからない」ということばで、ここではつかみとっている。相対化/固定化、つまりくべつしないという「こと/事件」としてつかみとっている。ここは、とてもおもしろい。
この「わからない」は流行りのことばで言えば「分節できない」である。私は「無分節」ではなく「未分節」ということばを好むのだが、そういう「未分節」の世界へ「動詞」を頼りに踏み込んでいくというのは、とても興奮する。
で、興奮するから書くのだが、この書き出しと似た三行が後半にも登場する。
しかし、この三行は、私は感心しない。魅了されない。「動詞」が、つまり「肉体」が動いていない。
「川」(名詞)ではなく、「流れ」という「動詞派生」のことばでないと、書き出しの三行と対応しない。「動詞」というのは「肉体」で追認できる。自分の「肉体」を「ゆらす」ことができる。自分の「肉体」を「流れに任せる/流れる」ということができる。「肉体」を実際に組み入れることで世界は新しく「分節」されていく。つまり、生み出されていく。「川」という「名詞」では、世界はすでに「川」として「分節」されている。
しかし、どこかで、阿部はこのことに気づいているかもしれない。
「ながれ」ということばが出てくる。しかし、気づきながらも、それを「倚らない」という形で拒否している。
ここが、私にはいちばん問題だと思う。
以前阿部の詩を批判したことに通じるのだが「倚らない」では、自分自身の「肉体の安全」が守られている。それでは詩にならないのだと思う。どうなってもかまわない覚悟をして、そこにあらわれてきた「動詞」そのものを生きる。そして、生まれ変わる。新しい自分を「生み出す」(分節する)。そのとき「動詞」としての「肉体/詩人」が「詩/絶対的なことば」になる。
「樹」には、こんな二行もある。
「異教」「異数」の「対」というのは、自分自身の宗教を明確にして語らない限り、「肉体」とは無関係、つまり「他人のことば」(借り物のことば)に終わってしまう。
私は誰が何を知っているかということには興味がない。
阿部嘉昭『石のくずれ』は 200ページを超す詩集。 101ページまで読んだ。音と意味が、引き返すようにして前へ(詩の終わりへ)動いていく。その方法は最近の現代詩の流行のように感じられる。(だれそれの、とはあえて明記はしないが。)その往復は、切断と接続の瞬間に「感性の形(感性の論理)」を見せる。その瞬間的に見える「感性の形」を好きか嫌いか、が詩の批評の基準になっているようにも見える。私は、その「感性の形」が好きか嫌いかというよりも、その感性を論理にしてしまう「方法」が嫌いである。明治・大正、あるいは戦前のある種の小説の「文体/方法」に似ていると感じる。「新しい」というより「古くさい」。スピードと軽さ、明瞭さがない。
というような「抽象論」は、阿部は感性を論理にするという方法だけで書いているわけでもないし、まあ、書いてもしようがないか……。
「石のくずれ」という作品。詩集のタイトルにもなっている。自信作なのだろうか。
石がそこにあるさまはみえるが
あることの持続じたいはみえない
これは対句。
「あるさま」とは「ありさま/あるときの姿・形」ということだろうが、「ありさま」というときの「透明感(固く結晶している感じ)」はない。「ある」という「動詞」を強く感じさせることばが「動き」を含んでいる。
これに対して、それを「あること」と言いなおした上で「持続」ということばへ動いていくとき、「持続する」という「動詞」が「名詞」へと変化し「動き」が固定化する。「名詞」の方が強くなる。
「あるさま」(動詞)と「持続」(名詞)が、「石」ということばを中心にして往復する。「あるさま」は「ありさま」であり、「ありさま」ならば「名詞」。「持続」は「持続する」であり、「持続する」ならば「動詞」。
そういう「行き来」のなかで、「あるさま」(動詞)は見える(感性/感覚でとらえることができる)、「持続」(名詞)は見えない(感性/感覚でとらえることができない)と「定義する」。そうして、その「定義した」世界(感性/感覚)を、別のことばで言いなおす。「感性/感覚」を主語というか、テーマにして語り直す。
三行目。
しずかさへのおびえとはそんなもので
「しずかさ」とは「名詞」、「おびえ」は「おびえる」であり「動詞」。石のありさま(形)という持続性(名詞)に対して、「名詞」なのに「動詞」を含むという激しさを感じ、「おびえる」。「しずけさ」のなかには「はげしい動き」が予感されているといえばいいのだろうか。
そのあと、詩は、こう展開する。
ひろってなげるうごきをつくりあげ
わずかなとおさを野へ設計すると
くうきが波紋めいたおのれをゆらし
めんどうくさい書き方(古い書き方)だと私は思う。「現代語」に翻訳してみると、石を拾って放り投げることを空想した。石は遠くまでは投げられなかった。それでも石が空気の中を動くので、空気の中に揺れができる、ということも空想した(感じた)、ということになるだろう。(この「空想/感覚」が、いわゆる「鋭敏な感覚/感性」と呼ばれるとき「批評」になる。「批評」では、そういうふうに呼ぶ。私は「批評」を書いているのではないので、そういうことを「鋭い」とか「繊細」ということばで修飾しない。違うことを書く。)
「なげるうごきをつくりあげ」の「つくりあげ」が「肉体」の「空想する/想像する」運動(動き/動詞)である。実際に投げるわけではないが。そのあと「空想する/想像する」は「設計する」ということばで言いなおされる。「設計する」とは「完成」を「紙の上で空想する/想像する」ことである。この運動は「肉体」というよりも「頭の運動領域」の方が広い。こういう「肉体」から「頭/精神/理性」への「言い換え」、その「方法」を詩にする、詩と呼ぶことを、私は「古くさい」と感じてしまう。
その「設計図」のなかで、空気の乱れを「くうきが波紋めいたおのれをゆらし」と「波紋」という目に見えるもので言い直し、さらにそこに「おのれ」ということばを重ねることで、自己(阿部)をもぐりこませていく。「くうきの波紋」を「おのれ」の「比喩」にする。もちろんそのときの「おのれ」というのは、石を放り投げた「おのれ」とは完全に分離できるものではない。そこには「往復」がある。作用と反作用の往復といってもいい。
ここから、詩は、最後に向けて、こう展開する。
ずれたがるこの世がたしかにずれ
音のさそいであるしずかな石も
うるわしくうちがわがくずれだす
「波紋」は「ずれ」と言いなおされる。そこには、繰り返しになるが作用・反作用としての「おのれ」が含まれる。つまり「おのれ」の「ずれ」でもある。だからこそ「おのれ」が生きている「この世」というものも登場するのだが、そのあとの展開の仕方が「うごきをつくりあげる」「設計する」というほどの緊密感を持たない。
「音」と「しずか(無音)」が「対」になって動くのだが、「さそい」が「さそう」という「動詞」になりきれていない。「くずれだす」の「くずれる」と対にしているのかもしれないが、それが私にはわからない。ずーっと「みえる」という「視覚」の世界だったのが、突然「音/しずか」という「聴覚」の世界に変化している。もちろん「波紋/波動/空気の揺れ」は「音」に通じるが、その「音」を受け止める「肉体」が「動詞」として存在しないので、「あ、頭で書いている」と感じてしまう「頭」は融合するが、「感覚」と一緒にある「肉体の器官」は融合しない。結合しない。。
「しずかな」に焦点を当てて言いなおすと、この「しずかな」は三行目の「しずかさ」と通じているはずである。三行目の「しずかさ」のなかには「あるさま」「持続」という名詞とも動詞とも断定できない緊密感の「つながり/内在」とういものがあるのに対し、終わりから二行目の「しずかな」は単に「石」を形容する「外観」になっている。「外観」になってしまっているからこそ、それを「うちがわ」と強引に言いなおさざるを得なくなる。この言い直しに「頭」が露骨に動いている、と私は感じるのである。「うちがわ」と書くとき、その「うちがわ」への通路としての「肉体/動詞」が書かれないまま「くずれる」と言われても、わっ、嘘っぽい、「抒情」を狙っているという「作為」の方を感じてしまうのである。「うるわしく」という美辞麗句で詩を飾るのを見ると、古くさいとしか言えなくなる。
私がおもしろいと思うのは、たとえば「階段」の前半、
階段のかたちをきれいだとおもうのは
おどりばをまがってゆくひとらの規則が
そのままかたちをなしていて
ここには「石のくずれ」の前半と同じように、「動詞/名詞」の行き来がある。そして、そこに「ひと」の「動き」が実際に想定されている。「かたち」と「規則」を阿部は見ているのだが、見ているだけではなく「ひと」が動くとき、その「ひと」に誘われるようにして見ている阿部の「肉体」も動いている。つまり、阿部の「肉体」が「規則」を「肉体」の外にあるものではなく、自分の「肉体」としてつかみとっている。「規則」は抽象ではなく、「肉体」として生まれてきている。その「肉体」のつかみとったものが、「そののままかたちをなしていて」、そのことばの、かたちをなす動きが詩なのだと、私は感じる。
「倚らない」の書き出し。
どこまでがかたちで
どこからがゆれか
わからなくみえていた
この三行も魅力的だ。「かたち」(名詞)と「ゆれる」(動詞)。詩は「ゆれ」と「名詞」として書いているだが、「ゆれる」という「動詞」から派生した名詞なので、「ゆれ」ということばから見えるのは「動き」である。「名詞/動詞」が、そんなふうに「わからなく」そこにある。融合している。その融合した世界を、「わからない」ということばで、ここではつかみとっている。相対化/固定化、つまりくべつしないという「こと/事件」としてつかみとっている。ここは、とてもおもしろい。
この「わからない」は流行りのことばで言えば「分節できない」である。私は「無分節」ではなく「未分節」ということばを好むのだが、そういう「未分節」の世界へ「動詞」を頼りに踏み込んでいくというのは、とても興奮する。
で、興奮するから書くのだが、この書き出しと似た三行が後半にも登場する。
どこまでがみずで
どこからが川なのか
わからなくみえていた
しかし、この三行は、私は感心しない。魅了されない。「動詞」が、つまり「肉体」が動いていない。
どこまでがみずで
どこからが「流れ」なのか
わからなくみえていた
「川」(名詞)ではなく、「流れ」という「動詞派生」のことばでないと、書き出しの三行と対応しない。「動詞」というのは「肉体」で追認できる。自分の「肉体」を「ゆらす」ことができる。自分の「肉体」を「流れに任せる/流れる」ということができる。「肉体」を実際に組み入れることで世界は新しく「分節」されていく。つまり、生み出されていく。「川」という「名詞」では、世界はすでに「川」として「分節」されている。
しかし、どこかで、阿部はこのことに気づいているかもしれない。
ただの前方へむけ
おもうことはいまもって
ながれにすら倚らない
「ながれ」ということばが出てくる。しかし、気づきながらも、それを「倚らない」という形で拒否している。
ここが、私にはいちばん問題だと思う。
以前阿部の詩を批判したことに通じるのだが「倚らない」では、自分自身の「肉体の安全」が守られている。それでは詩にならないのだと思う。どうなってもかまわない覚悟をして、そこにあらわれてきた「動詞」そのものを生きる。そして、生まれ変わる。新しい自分を「生み出す」(分節する)。そのとき「動詞」としての「肉体/詩人」が「詩/絶対的なことば」になる。
「樹」には、こんな二行もある。
うれいをかりたてる異教ではなく
その夜その夜の異数にすぎない
「異教」「異数」の「対」というのは、自分自身の宗教を明確にして語らない限り、「肉体」とは無関係、つまり「他人のことば」(借り物のことば)に終わってしまう。
私は誰が何を知っているかということには興味がない。
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