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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

千人のオフィーリア(メモ1)

2016-10-24 23:03:50 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ1)

川は流れる、川という川はすべて流れる
けれど私はここにいる
空には星が満ちて沈黙になる
けれど私はここにいる
花が咲かない草が群がって影を落としている
けれど私はここにいる
あの淵にはいかない

八月の花が死んでも私は泣かなかった
私のものではないから
この切り揃えた髪も、この屈辱をひっかいた爪も、
(じゃあ、だれのもの)
知らないわ、知りたくないわ、
私のものじゃないことだけはわかるの
好きじゃないもの
(好きなものはみんな他人のもの、
他人が持っているものよ)
もうひとりのジュリエットが
脇腹のあたりをつついている







*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)発売中。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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ケヴィン・バーミンガム『ユリシーズを燃やせ』

2016-10-24 20:57:12 | その他(音楽、小説etc)
ケヴィン・バーミンガム『ユリシーズを燃やせ』(小林玲子訳)(柏書房、2016年08月10日発行)

 ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』がどうやって出版されるようになったか。これを三つの方向か描いている。執筆するジョイス。彼を支えた側。出版を禁じようとした側。完成されていな作品の可能性を信じて、ジョイスを支える人々もすごいが、まだ本になっていない作品を取り締まろうとする側の姿勢には驚く。
 なぜ、完成していない作品なのに、問題なのか。私は、ここにいちばんおもしろいものがあると思う。
 ジョイスには『ユリシーズ』に先立って『ダブリン市民』と『若き芸術家の肖像』がある。その作品でも「ことば」が問題になった。「わいせつなことば」とか「汚いことば」とか「神を冒涜することば」とか、簡単に言うと「芸術にふさわしくないことば」)読者を不愉快にさせることば)がつかわれていた。そして、雑誌に掲載された一部にも、「芸術にふさわしくないことば」があった。たとえば「テレマコス」でバック・マリガンがスティーヴン・ディーダラスから借りるハンカチの色。「青ぱなの緑」(丸谷才一、永川玲二、高松雄一訳、集英社版)。現在の「ことばの状況」から見ると、なぜ?と思うが、ジョイスの時代は厳しかったのだ。(最終章の「ペネロペイヤ」が「わいせつ」という問題ではいちばん論争になった部分だけれど、それが完成するのはずっとあとだ。)
 で、ここからわかること。当時の「取り締まりの基準」というのは、その作品にひとつでも「文学にふさわしくないことば」があれば、それ取り締まり対象ということ。これが最終的にどうかわるか。なぜ発禁処分(焚書処分)が解かれたか。端折っていうと考え方が逆になったのである。「一語でもわいせつ/汚いことば/不愉快なことば」があれば発禁処分から、「一か所でも人間の真実に触れることば」があれば「文学」と認められるようになったのである。(筆者も、訳者も乱暴すぎる要約と言うかもしれないけれど。)どこに目を向けるか、その「向けどころ」が違ってきたのである。
 ここから、ジョイスを支えてきた人の「本質」がわかる。様々な人間がジョイスを支えてきたが、彼らはジョイスの書くものが「人間の真実に触れることば」であるとわかっていたのである。そして、その支える側の多くが、文学者ではなく、文学(本)が好きな女性というところが、なんともおもしろい。「ペネロペイヤ」の主役が「女性」であるように、20世紀の文学は女性が切り開いたとも言えるのである。20世紀は女性の時代なのだ。
 少し『ユリシーズ』から離れてしまうが、これはたとえばボーボワールを考えるとよくわかる。いろんな思想家がいて、いろんな思想があるが、マルクスさえ世界に行き渡らなかった。ところがボーボワールのフェミニズムは世界中に行き渡った。女性差別は間違いであると、いまでは誰もが認識している。思想が思想家のものではなく、常識になった。ボーボワールは世界を変えた。ここから、私は20世紀最大の思想家はボーボワールであると考えているのだが。
 20世紀は女性の時代、女性が世界を変えた時代。そういう意味で言えば、「ペネロペイヤ」こそが『ユリシーズ』のハイライトである。「YES」ということば、ひとりの女性が発する「肯定」が真実の中心にある。ケヴィン・バーミンガムは、その点を、実に劇的に描いている。この「ひとりの女性の発する肯定」の前では、男はみんな脇役である。
 『ユリシーズ』(ジョイス)を支えたのは、多くの(ひとりひとりの)女性の「YES」(肯定)だったのである。古い男は、このひとりの女性の「YES」(肯定)に打ちのめされたのである。そのことが、とてもよくわかる。
 エピローグに、こんな文章がある。

 ジョイスの小説は(略)満天の星を眺め、計り知れないものの前で自分たちの小ささを肯定するのだ。その肯定が揺れ動くことこそ、たとえ不行儀に映ったとしても、それをより強いものにする。

 人間を「肯定」する力が、ジョイスのことばにはあるのだ。それも「ひとり」の、言い換えると「個人の肯定」の力があるのだ。

 「文学」は「社会」のものではなく、「個人」のものである。そういう視点で書かれているから、この本を読んでいると、ただただ『ユリシーズ』を読みたくなる。もう一度、それを自分自身のものにしたくなる。厳しい「検閲」を生き延びた『ユリシーズ』。そのことばを、もう一度読みたくなる。私は何とか『ユリシーズを燃やせ』を読み終わるまで『ユリシーズ』を開かなかったのだが、『ユリシーズ』と併読してもおもしろいかもしれない。そうすると、ああ、ジョイスを「肯定」してくれた人がいて、ほんとうによかったという思いが、読み進むのにあわせていっそう強くなるかもしれない。
 ケヴィン・バーミンガムの「あとがき」というのだろうか、「謝辞」が最後にある。そこには夥しい数の名前が出てくる。彼らはケヴィン・バーミンガムを支えた。それはジョイスを「肯定」した人が、また限りなくいたということを想像させる。そうなのだ。名前こそ登場しないが、無数の読者(個人)が『ユリシーズ』とジョイスを突き動かしたのだ。いま目の前にある『ユリシーズ』の奥に、そういう人々(多様な人々)がいる、いた、ということに深々と頭をさげたい。いま『ユリシーズ』を読むことができることに感謝したくなる本である。


ユリシーズを燃やせ
ケヴィン バーミンガム
柏書房
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鶴見俊輔『敗北力』(2)

2016-10-23 12:01:31 | 詩集
鶴見俊輔『敗北力』(2)(編集グループSURE、2016年10月19日発行)

 「敗北力」とは鶴見俊輔の造語である。こんなふうに定義している。

敗北力は、どういう条件を満たすときに自分が敗北するかの認識と、その敗北をどのように受けとめるかの気構えからなる。

 私には、鶴見は後半の「敗北をどのように受けとめるかの気構え」の方をより重視しているように感じられた。
 『敗北力』という本の感想を書くのだから、このことばについてもっと書かなければならないのだろうけれど、それは省略する。鶴見が「敗北力」ということばを見つけ出すまでの過程そのものが、私の「肉体」にはなっていない。鶴見の書いていることは「頭」では理解できるが、自分の「肉体」では「わからない」。つまり、私には「敗北力」というものが、まだ、ない。それが大切であるということは鶴見のことばを追いかけながら納得したが、それを実践できるとは思えない。
 私が利口ぶって「敗北力こそが大切である(人間の生きる力にとって必要である)」と言ってもそれは私自身の「実感」ではない。鶴見の「要点」はここに書かれている、といくつかの文章を抜き出すことはできるが、それは「借り物」である。それをやってしまうと、それを言ったのは鶴見なのに、まるで自分で考えたことと勘違いしてしまう。
 あ、こういうことは、どこかに書いてあったなあ。「大学についての私の定義は、「他人、特に欧米人の言ったことを、自分の考えたことと錯覚させる機械」。この機械はそれなりに有効であり、……」=104 ページ。rさに通じる。
 感想を書こうとすると、どうしてもこんな具合になってしまうのだが、なるべく、そういうところから離れて、私がほんとうに「わかる」ことば、このことばは「わかった」と言える部分を取り上げて感想を書きたい。「これならできる(かもしれない)」とほんとうに思う部分を取り上げ、感じたことを書いてみる。

 たとえば「呼び覚まされた記憶--「井上ひさし」という不在」の次の部分。

軍事上必要のない核爆弾を、第五福竜丸をふくめて三度落としたのだから、日米交渉のたびに、まずそのことについてのいやがらせを言って、会をはじめる。

 ここに書かれている「いやがらせ」。あ、これは、わかるなあ。「日本にはもう戦争をつづける力はなかったんですよ。わかっていたでしょ? それなのに広島に核爆弾を落とし、そのうえもう一種類の性能を確かめるために長崎にも。そんなことをして、それでも軍人なんですか?」というような「いやがらせ」。私の「要約」が正確に鶴見を「代弁」しているかどうかはわからないが、その「いやがらせ」ということばといっしょに、私の「肉体」のなかで、何か、ことばにならないものがむずむずと動く。
 いま書いたような「論理的(?)」な「いやがらせ」ではないけれど、私はひとに「いやがらせ」をしたことがあるし、また「これはいやがらせだなあ」と感じながら我慢したこともある。そういうものが思い出され、そうか、「いやがらせ」は身にこたえるぞ、などと思うのである。
 この「肉体感覚」(鶴見は「しぐさ/身振り」ということばで表現している)は、「敗北力」よりも、ぐっと身に迫ってくる。なんといっても、私はそれを「知っている」「覚えている」「やったことがある」。
 こういう「だれでもつかうことば」を「論理」のなかに持ち込んできて、それを「論理」の力にする。ここが、私は、とても好きだ。あ、鶴見俊輔にしか言えないなあ、と思う。

 「受け身の力」には、広島、長崎で二重被爆したひとのことばが引用されている。そして、鶴見の感想が書かれている。

 「もてあそばれたような気がするね」。
 この現実認識から、日本は戦後を始めるとよかった。

 鶴見は「もてあそばれている」ということばを「肉体」で感じ取った。それは被爆者が語ったことば。被爆体験そのものは、鶴見にはわからない。「肉体」で体験していない。だけれど「もてあそぶ」ということは、「わかる」。それを論理的なことばで言いなおすことはむずかしいが、あ、そうか、「もてあそぶ」とはこういうことなのか、と「思い出す」。それを「現実認識」と言っている。このときの「現実」とは日本とアメリカがどういう関係にあるとか、武力の相対的な関係はどうあるとかということではない。自分の「肉体」で受け止める、何か、どうしようもない「感覚」である。「現実認識」というよりも「肉体感覚」、肉体の奥にしみこんでくる何か。
 こうしたことばを見逃さず、それを自分の「論理」の核に持ち込んで、自分自身を作り替えていく力。これは、いいなあ、と思う。
 どこかから(欧米から?)入ってきた「新しいことば」ではなく、いつもだれもがつかっていることば。そのなかにある「論理にならない何か」を組み込みながら、自分を鍛えなおしていく。「読む」べきものは完成された「哲学書」ではない。「思想書」ではない。生きているひとの「声」を「聞く」べきなのだ。

 鶴見が、そういうふつうの人の「声」を聞く人だったからこそ、同じようにふつうの人の「声」を聞き、それを自分の思想の核にした人に共感を寄せている。「兵役拒否と日本人」の中で、憲法の起草に関わった幣原喜重郎のことを書いている。幣原は八月十五日に満員電車の中にいる。そして、こんな乗客の声を聞く。

「いったい、君はこうまで日本が追い詰められていたのを知っていたのか。なぜ戦争をしなければならなかったのか。おれは政府の発表したものを熱心に読んだが、なぜこんな大きな戦争をしなければならなかったのか、ちっともわからない。戦争は勝った勝ったで敵をひどくたたきつけたとばかり思っていると、何だ、無条件降伏じゃないか。足も腰も立たぬほど負けたんじゃないか。おれたちは知らぬ間に戦争に引き込まれて、知らぬ間に降参する。自分は目隠しをされて場に追い込まれる牛のような目にあわされたのである。けしからぬのは、われわれをだまし討ちにした当局の連中だ」
 初めはどなっていたのが、最後にはオイオイ泣きだした。そうすると、乗っていた群衆がそれに呼応して「そうだ! そうだ!」とわいわい騒ぐ。(略)
 (略)この人が、戦後組閣したとき考えたこと、また憲法草案について相談を受けたときに考えたことは、バンヤンでも、ミルトンでもなく、カント、ルソーでもなく、電車の中で聞いたこの男の声だという。
 そして、あの光景を思い出して「これは何とかして、あの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく、努めなくてはならぬ、と堅く決心したのだった。それで憲法のなかに未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならぬということは、ほかの人は知らぬが、私だけに関するかぎり前に述べた信念からであった」といっている。

 幣原を突き動かした男の「声」。
 私が特に強く反応してしまうのは「だまし討ちにする」という「動詞」である。「だまし討ちにする」ということばの「定義」はむずかしい。負けている戦争を勝っていると偽ることは「だまし討ちにする」というのとは違うかもしれないが、嘘をつかれた方は「だまし討ち」と感じる。「実感」が「だまし討ち」なのである。「知らぬ間に」が「だまし討ち」なのである。それは「目隠しをされて場に追い込まれる牛のような目にあわされる」ようなものである。男は「だまし討ち」を、そういう具合に自分の知っている「現実感覚」で「定義」している。それは、人間は生きているのだからときには牛に目隠しをして場につれていかなければならないようなこともある、と知っているからこそ出てくることばである。自分は牛にされたという怒りでもある。「だまし討ち」ということばには、男の「思想」そのものがある。
 幣原は、それを違うことばでととのえなおして「戦争の放棄」という「思想/理念」に高めた。「だまし討ちにされた」という怒りと「戦争の放棄」を結びつけて説明することはむずかしいが、そのむずかしさのなかにこそ「思想」というものがある。生きている「肉体」がある。「肉体(いのち)」そのものが引き継がれている。
 鶴見は、幣原の「体験」を引用することで、鶴見自身を、幣原の見た男、幣原の聞いた声につなげようとしている。その声を引き継ごうとしている。ひとりの男の「体験」を自分の「肉体」で引き受けようとしている。
 こういうところから、出発しないといけないのだ。
 いま、国会でTPP問題が審議されている。自民党は「TPP絶対反対」と言っていた。それがいまは「賛成/条約批准」という動きをしている。これなども「だまし討ち」である。どんな「理屈」をこねても「だまし討ち」である。「だまし討ちは許せない」というところから、「反対」の思想をつくりあげなければならない。それがTPPか、日本の経済発展に不可欠であるかということとは関係ないのだ。論理にならない「しぐさ/身振り/ばくぜんとした気持ち」を組み入れながら、それを「行動できる」ものとして「ことば」にしないといけないのだ。
 これは、とてもむずかしい。誰もが幣原のように日常の声を「思想のことば」にまで高めることはできるわけではない。鶴見は、懸命に、そうしたことをしようとした人間に思える。さまざまな人間の生き方を取り上げ、何を教えられたか(何を学んだか)を、丁寧に描いている。そのことに感動し、私は本のあちこちに傍線を引き、書き込みを、付箋をつけた。とても、整理しきれない。特に「兵役拒否と日本人」は傍線だらけになってしまった。
 だから、感想を整理するかわりに、こう書いておく。この本で私は「いやがらせ(いやがらせで自己主張する)」と「だまし討ちにする(だまし討ちは許せない)」ということばと出会いなおした。こういう自分の知っていることば、意味を正確に言おうとするとむずかしいけれど「肉体」が覚えていることば、「感情」が覚えていることばこそを「思想の根拠」にしないといけないのだと思った。



 この本は一般書店では購入できない。編集グループSUREからの直接購入しか方法がない。http://www.groupsure.net/ に詳細が書かれているので、アクセスしてみてください。定価2200円+税+送料=2591円かかります。郵便で振込後の発送なので、手元に届くまでに1週間から10日ほどかかります。


日本人は何を捨ててきたのか: 思想家・鶴見俊輔の肉声 (ちくま学芸文庫)
クリエーター情報なし
筑摩書房
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鶴見俊輔『敗北力』

2016-10-22 08:49:03 | 詩集
鶴見俊輔『敗北力』(編集グループSURE、2016年10月19日発行)

 鶴見俊輔『敗北力』は「遺稿集」ということになるのだろうか。巻頭の方に詩が掲載されている。その感想を、まず書いておきたい。
 「おぼつかなく」という作品。

記号論理学から
はずれた記号
「かがく」なんてものの
できるまえの
ただの「か」

そのりんかくは
それでないものと
の区別さえ
おぼつかなく、

ものと記号のわかれめが
つくのか
つかないのか
ぶよぶよとふわふわと

たよりなく
それを手がかりに
私は考える
といえるのか

ただ一つ言いたいことは、分類され
ならべられた記号から考えはじめないということだ。

 一連目の「かがく」から「思想の科学」の「かがく」を思い出す。私はときどき本屋でページをめくる程度のことしかしたことがないが、あの本には「輪郭」になる前のことが書かれていたと思う。ひとりひとりが「自分のことば」で語っていた。だから、何というのだろう、鶴見がここで書いていることばを借りて言えば、「わかれめ」のつかない部分があった。「科学」というよりも「書いている人の肉体」といえばいいのか、あ、こういう人がいるのだという感じがした。こういう「考え」があるといよりも前に、「考えつづけている人」がいると言う感じ。「考え(思想)」になるまえの、それをつかみだしていく「過程」があるといえばいいのかなあ。
 「考え」という「名詞」ではなく、「考える」という「動詞」がある。その「動詞」の感じが、私にはとてもうれしかった。「考え」に昇華されなくても、「考える」という動きがあればいいのだ、という感じ。

ただ一つ言いたいことは、分類され
ならべられた記号から考えはじめないということだ。

 この二行をどう読むか。いろいろな読み方があるだろうけれど、私は「分類されたもの」(既存のもの/記号化しているもの)ではなく、まだ「分類」されていないもの、「未分節」のものから「考える」という鶴見の「肉体/思想」を思い浮かべるのである。
 それは「ぶよぶよ」「ふわふわ」としている。「おぼつかない」。でも「おぼつかない」からこそ、「権力」からは「遠い」(権力には利用されない)。自分の中にだけあるもの、という感じがする。
 そういうものを、鶴見は、鶴見だけの力ではなく、多くの「市民」といっしょに探していたと思う。

 「それをさがしあてたい」という詩がある。

憲法、それは私から遠い
むしろ、自分からはなれず、
私の根の中に、
憲法とひびきあう何かをさがしあてなければ、
私には憲法をささえることはできない。

 「憲法」と既成のもの。そこにあるもの。前の詩のことばを借りていえば「分類」され「記号」になっている。「かがく」になっている。しかし、「私から遠い」。あるいは、だから「私から遠い」。それを利用して何かをしようとは思わない。ささえにしない。つまり、憲法の前で、鶴見は「おぼつかなくなる」。
 だから「自分から離れず」という立場をとる。自分がほんとうにできることだけをみつける。憲法が照らしだしてくれる「自分の中の何か」を探す。「憲法と同じもの」というよりも「憲法と響きあうもの」、違っていることによって、その二つが出合うとよりいっそう「美しい和音」になるようなもの、「自分の正直」をさがしあてたいと言ってるように思える。憲法を利用するではなく、憲法を「生きる」、「憲法といっしょに生きる」と言っているように思える。
 それは、どうやれば見つかるのだろう。
 鶴見は書いてはいない。でも、私は「感じる」。自分のことばで語る、自分のできることを確かめる、自分から「離れない」。そうするしかない。つまりだれかのことばを借りたり、だれかがそういうからそうするそうするというのではなく、ただ「自分でいること」、「個人」でいることを支える何かを見つけなければならないと言っているように思える。

 私も、それを探している。私の書いていることは「間違っている」。それは承知している。しかし、私は「間違える」ことしかできない。「間違える」、「間違ったことばを書く」ということを繰り返しながら、まだ繰り返し続けることができる何か、「間違い」を超えたものが自分のどこかにあると信じ、「間違えつづける」ということをしたい。

 詩の紹介が前後するが、巻頭の「無題」は、とても美しい。

棒を
一本たてる。
ひろってきた
木のはし一個。
今はない人の
思いが
あつまってくる
自分ひとりの儀式。
流れついた
この岸辺に。

 「一本」「一個」「ひとり」。あるいは、これは「この指とまれ」とかかげた「憲法」のようでもある。鶴見は、「憲法」をかかげ、この指とまれ、と言っているようにも聞こえる。「この指とまれ」ということが、憲法を支えるということだ。
 「一本」「一個」「ひとり」。それは憲法第十三条の、

すべて国民は、個人として尊重される。

 の「個人」の「個」につながる。だれとも違う「ひとり/個人」。絶対に他人とはいっしょではないという「多様性」の「多」としっかり向き合っている「個」。「個」であるからこそ、人は集まってくる。集まる。「個」だけが、集まることで「多」になる。言い換えると、そこに集まってきたひとは、みんな「この指とまれ」と言うのである。
 「個」は「記号」ではないのだ。「算数」の「代数」のように「計算」できない。「個」は「多」、「記号化されないひとりひとり」である。
 この美しい「個」の力というものを、自民党の憲法改正草案は、

全て国民は、人として尊重される。

 と「個」を抹消することで、否定している。「個人」を否定し「人」という形に抽象化、記号化している。こういう、人間を抽象化、記号化する考え方と戦う方法を身につけいないといけない、とも思った。


言い残しておくこと
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西川美和監督「永い言い訳」(★★★★★)

2016-10-21 10:38:58 | 映画
監督 西川美和 出演 本木雅弘、竹原ピストル、藤田健心、白鳥玉季

 うーん、本木雅弘にみとれてしまった。と、書くと、あとはもう書くことがないくらいに、みとれてしまった。
 一か所、竹原ピストルの子どもたちと交流して「一家」のようになったところへ女が割り込んでくる。そして、女の子の誕生日のシーン。ここで本木雅弘はふてくされる。一種の「三角関係」。その、ふてくされてひとりで席を立ち冷蔵庫の氷をとる、酒をロックで飲むまでのシーンが、ちょっと「過剰」。ふてくされているんだぞ、ということがあからさますぎるかなあ。
 というあら探しをしてしまうほど、ひきつけられる。映画を見ているというよりも、そこに、そういう男がいるのを見ている感じ。
 長い坂道を女の子を乗せて自転車を漕ぐシーンなど、うーん、危ない、と思わず声を出しそうになるのだけれど。そういう「全身のシーン」も見応えがある。最初は途中までしか上れないのだが、最後の方は上りきる。かといって、楽々でもない。その動きが「演技」ではなく「実際」なのかもしれないが、その「実際」と「演技」の区別がつかないところがおもしろいなあ。
 藤田健心、白鳥玉季のふたりもすばらしい。このふたりがいなかったら、この映画は違っていたかもしれない。ふたりがいることで、この映画のいくつかのシーンは増えたかもしれない。藤田健心が白鳥玉季の聞き分けのなさにいらだち、怒るシーンなど、まるで「現実」。
 不満は、映像が美しすぎることかなあ。竹原ピストルが疲れて、背中を出したままこたつで眠っている後ろ姿さえ「絵」になっている。その「絵」の切り取り方が、「日常」なのに「日常」ではない印象になる。「芸術」になってしまう。冷静すぎて、なんというか、「絵」にときどき「好奇心」がない。見てはいけないものを「見てしまった」という感じがない。
 「見てしまった」という感じがするはずの、最初に書いた誕生パーティーの、本木雅弘の演技では「見てしまった」というよりも、「見せられている」感じだし……。
 うーん、むずかしいなあ。
 これを「怒り」みたいな映像にしてしまうと、また逆の「芸術(リアリズム)」になってしまう。「芸術」にせずに「日常」になるといいなあ。本木雅弘の、今回の演技は、そういうことを感じさせる。見ていて、見ている私を「欲張り」にさせてくれる。
                   (天神東宝スクリーン5、2016年10月20日)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
ゆれる [DVD]
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冨上芳秀「零余子御飯」

2016-10-21 08:51:17 | 詩(雑誌・同人誌)
冨上芳秀「零余子御飯」(「イリプスⅡnd」20、2016年10月10日発行)

 冨上芳秀「零余子御飯」は、こんな具合に始まる。

肉太の羅臼昆布を一晩水につけて出汁を取りました。その出汁に花
かつおを山のように入れてひと煮たしさせて漉しておきます。お米
にきよらかな水をいれてサラサラと五、六回軽くかきまぜ、水を捨
てます。それからお米を二十回ほどかきまぜて砥ぎます。さらに、
濃い白い米汁を捨て、また、きよらかな水をいれてサラサラと五、
六回軽くかきまぜ、水を捨てます。こんなことを三回ほど繰り返し、
釜のなかにお米を入れます。

 なんだか米を研いでいるばかりで、いっこうに「零余子御飯」にたどりつけそうにないのだが、この無意味な描写がなぜか気になった。「きよらかな水」「サラサラ」が繰り返し出てくる。「五、六回」というのも繰り返し出てくる。とても「不経済」な詩である。「米を研ぐ」ですむとこに、こんなにことばをつかうのはなぜだろう。
 よくわからない。よくわからないけれど、こんなに「ていねい」に書かれると、私の「肉体」の動きとの「違い」が見えてくる。私の米の研ぎ方と違うと感じてしまう。その違いの中に冨上が、知らず知らずにあらわれてくる。

             その釜の表面がおおわれるほどの零余
子をいれます。零余子というのは、ヤマイモのツルの濃い緑の葉っ
ぱの付け根にできる茶色い種のようなもので、これを土に埋めてお
くと芽を出すので、珠芽ともいいます。

 零余子の説明も、長い。そして、その「長さ」のなかに、私の知っている零余子とは違うものがあらわれてくる。いや、零余子自体は同じなのだが、「ヤマイモのツルの濃い緑の葉っぱの付け根にできる茶色い種」というような言い方の中に、私の知っていることとは「違う」ものが入ってきている。冨上が入ってきている。
 冨上は、実際に零余子がなっている「ヤマイモ」のツルを見たことがあるのかな? 本で調べたのかな? 私の家(こども時代の、私の古里での体験)では「ナガイモ」をつくっていたから、零余子をこんな「ていねい」にだれかにわかるように説明する気持ちになれない。
 米の研ぎ方もそうだが、そういうことは「肉体」が覚えていることなので、ことばにしないのである。私は。だから、冨上の「レシピ」に驚いてしまうのである。あ、ここに冨上がいるなあ、と思うのである。
 まあ、こんなことは、どうでもいいかあ、とは思うのだが、そう思ったとき、描写が突然変わる。

                      今日は翡翠のよう
な薄緑色の瓜の漬け物、緑鮮やかな胡瓜の浅漬け、濃い紫色の鮮や
かな茄子の漬け物、赤紫色の茗荷の漬け物、ポリポリ、カリカリ、
しなしな、サリサリと噛み音と歯触りを楽しみながら食べています。
醤油が好きなので紫の濃い漆黒の闇のようにねっとりと香りのよい
湯浅の醤油をかけています。毎日かきまぜているからヌカの状態は
よいようです。微妙な塩加減ですが、塩梅も今のところ申し分ない
のが、私の生活だと言っておきましょう。

 零余子御飯が消えてしまうのである。
 突然、漬け物があふれだす。それぞれに色と音がつかいわけられている。「漬け物」とひとまとめにせずに、はっきりと識別されている。まるで、零余子御飯は「漬け物」を食べるための添え物ではないか。省略した部分に零余子御飯の描写もあるのだが、その描写を忘れさせてしまうくらい、情熱を込めて「漬け物」が語られている。省略した零余子御飯の部分は「起承転結」の「転」になっており、この部分を中心に書けばまた違った感想になるのだが、私は「漬け物」の方にびっくりしてしまった。
 まるで「主食」が「漬け物」、零余子御飯は「副菜」。
 こういう「激変」することばのなかで……。

 漬け物に醤油をかけるなんて、私は、ぞっとしてしまうが、これが冨上の嗜好(肉体)なのだと感じる。

 で、
 この作品が、詩として、いいかどうかは、私にはよくわからないのだが、こんなふうに「テーマ」を忘れて、「私の(日常)生活」の、括弧にいれてしまっている「日常」が突然噴出してくるのは、不思議な「正直」かもしれないなあ、とも思う。
 この「正直」をさらけだすために、「きよらかな水」というらゔなことばを繰り返す必要があったのかもしれない。何か、冨上の「肉体」のなかにある「きよらかなもの/正直」へ少しずつ近づいていこうとする感じがあるのかもしれない。無意識に、「大事なもの」にふれる手つきがあらわれているのかもしれない。
 米の研ぎ方を読むと、それが冨上の「日常」とは思えない。だから「ぬか漬け」なんかも自分で手入れはしないのだろうけれど、(そういう日常を支えてくれている人に守られながら、安心して)、そうか「漬け物に醤油をかけるのか」という感想を誘うような「無防備」があって、そういうものが「日常」かなあ、なんていうことも思うのである。
 「日常」は「無防備」で「正直」。そういうものを「無意識」ではなく、意識的に書くとおもしろくなるかもしれないなあ、とも思うのである。
祝福の城―冨上芳秀詩集 (詩遊叢書)
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詩遊社
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葵生川玲『アメリカわずらい』

2016-10-20 11:31:36 | 詩集
葵生川玲『アメリカわずらい』(視点社、2016年10月15日発行)

 葵生川玲『アメリカわずらい』はタイトル通り、アメリカをテーマにした詩集。ただしアメリカ礼賛ではなく、アメリカ批判。
 巻頭に「鳩」という作品がある。この作品が、私にはいちばん印象に残った。

   *
ゲージの中にハトがいる。

白いハト
首と尾に模様のあるハト
これら様々な、
数千羽のハトは理由も明らかにせず集められたものだ。
   *
キャンプ・コヨーテに配属された
八羽のハトの世話にあたる
笑顔の、オベイド軍曹(28歳)の薬指には指輪が光っている。
   *
一月にはニワトリ数千羽を配備したが、
世話の難しさなどから
大半のトリが死んでしまったという。

このハトは、
イラクのVXガスに怯える
米軍の、
「警報機」として部隊に届けられたものだ。

 炭鉱のカナリアではなく、戦場のハト。ガスに触れたら最初に死ぬ。その警報機。そういう「事実」に驚くが、その「事実」ではなく、

笑顔の、オベイド軍曹(28歳)の薬指には指輪が光っている。

 この一行に、私は「詩」を感じた。戦争とは無関係の、その無関係さ、あるいは無意味さに詩を感じた。
 ふいにまぎれ込んだ日常である。指輪は何の指輪か書いていないが、結婚指輪だろう。28歳だから新婚かもしれない。アメリカには若い妻がいるのだろう。ほんとうならハトの世話ではなく、若い妻の世話をしたい。そう思っているかもしれない。
 数千羽のハトは、想像するのが難しいが、八羽ならそれぞれに名前をつけて識別もできる。「日常」とは、そういうものだろう。その「日常」が、そのままアメリカの新婚生活へとつながっていく。オベイド軍曹に名前があるように、妻にも名前があって、たがいに呼び合っている。そのしあわせ。
 こういう瞬間に、「反戦」がある。「反戦意識」がある。ふつうの暮らしを生きるよろこび。そっちの方が大切なのに、と思う気持ち。
 それがぱっと噴出している。
 ここにある「名前」といえば「キャンプ・コヨーテ」だけである。イラクとは無関係の、かってにつけた「名前」。「名前」に含まれる残酷さ/暴力。
 それも、ぱっと噴出してきている。

   *
バグダッドに進軍する海兵隊の、
軍事車輛で運ばれる
ゲージの中のハトは、
何処にも、
飛んで行けない。

 けれど、若い軍曹の「想像力」はアメリカの新婚の妻のことろへ飛んで行く。「想像力」だけが飛んで行く。
 それは美しいがゆえに、悲しい。
   
葵生川玲詩集 (新・日本現代詩文庫)
葵生川玲
土曜美術社出版販売
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皇后の悲鳴

2016-10-20 10:45:15 | 自民党憲法改正草案を読む
皇后の悲鳴/「生前退位」ということば
               自民党憲法改正草案を読む/番外35(情報の読み方)

 2016年10月20日読売新聞朝刊(西部版・14版)の一面に、びっくり仰天する記事が載っている。「皇后さま82歳/「生前退位」事前に相談/陛下 皇太子・秋篠宮さまと」という見出しで、皇后が82歳になったこと、宮内庁記者会の質問に文書で答えたことが書かれている。その記事の途中に、

「表現に驚き」

 という1段見出しがあり、記事はこうつづいている。

 「生前退位」という表現で報道されたことについては「衝撃は大きなものでした」と述べ、その理由を「それまで私は、歴史の書物のなかでもこうした表現に接したことが一度もなかったので、一瞬驚きとともに痛みを覚えたのかもしれません」と続けられた。

 そうか、「生前退位」は、皇室側から出てきたことばではないのか。ここに仰天したのである。天皇が皇太子、秋篠宮と「相談」するとき「退位」ということばをつかっていたのなら、その相談の場に皇后がいなくても、それは当然、皇后にも自然に伝わったであろう。
 では、「相談」の場では、どんなふうなやりとりがあったの。「6年前から「譲位」ご意向」という見出しの記事に、こうある。

 関係者によると、陛下が退位の意向を示されたのは、2010年7月22日の「参与会議」だった。皇室の相談役となる参与や当時の宮内庁長官、侍従長らの前で、高齢の天皇の対処として「摂政」という制度もあるが、陛下は「譲位したい」と表明された。

 天皇は「生前退位」ではなく、「生前譲位」の意向を持っていたことになる。読売新聞は「陛下が退位の意向を示されたのは」と書いているが、正確には「陛下が譲位の意向を示されたのは」と書かないことには、天皇の意思が伝わらないだろう。
 問題は「生前退位」ということばをだれが言い始めたか、つかい始めたかということである。
 皇后の回答全文には、

 新聞の一面に「生前退位」という大きな活字を見た時の衝動は大きなものでした。

 とあるが、新聞が「生前退位」ということばをつかう前に、籾井NHKが夜7時のニュースで「生前退位」をつかったと私は記憶している。「生前譲位」とは言っていなかったと思う。
 そうであるなら、なぜ籾井NHKは「生前譲位」ではなく「生前退位」ということばをつかったかである。
 今回の報道は宮内庁側からリークされたという見方があるが、もしそうであるなら、宮内庁側は「生前退位」ではなく「生前譲位」という表現で伝えただろう。天皇が「譲位」ということばをつかっていて、「退位」ということばをつかっていないことは、宮内庁関係者の間ではわかっているからである。天皇が「譲位」と言っているのに、それを「退位」と言い換えた人間がいる。そうでなければ「退位」ということばは生まれない。

 私は一連の報道のはじまりは「官邸」にあると感じている。天皇を「退位」させたい人間がいて、その人間が「退位」という表現で天皇の動向をリークしたのである。天皇の健康などに配慮し、「譲位」を勧めるのではなく、「退位」を勧める。
 「譲位」ならだれに「譲位」するか、という部分に天皇の気持ちが入る。もちろん憲法にも皇室典範にも「皇位継承」の規定はあるから、それにのっとっての「譲位」ではあるが、「譲る」という思いが入る。
 しかし「退位」では、「思い」が入らない。ただ規定にしたがって「継承」が進む。
 これは別の角度から言えば、天皇の「思い」以外のものを「継承」に組み込むことができるという「余地」を残すことである。

 私の書いていることは「妄想」かもしれない。しかし、「妄想」であっても、それを書いておきたい。「論理」として、私の「妄想」が成り立つなら、そういうことを考える人がほかにいてもかまわないことになるからだ。
 「生前退位(生前譲位)」は当然「皇位継承」の言い換えである。その「皇位継承」を審議する「有識者会議」の検討項目に、「女性・女系天皇」が含まれていない。「特例法(現在の天皇に限っての法)」だから検討項目にしないということなのかもしれないが、いまの規定で行けば、皇位は皇太子に継承される。皇太子が天皇になると、皇太子の不在という状態になる。それがわかりきっているのに、ただ天皇を「退位」させることだけを考えて討議するように見える。
 こんな場当たり的な討議しかしないのに、それで「有識者会議」と言えるのか。将来を視野に入れない「場当たり会議/主催者の言いなり会議」である。
 「女性・女系天皇」については小泉内閣時代に審議された。そこでは「女性・女系天皇」を認める方向で意見が集約されたのに、安倍が強行に反対した。「皇位継承者」のなかに男児(悠仁)が誕生したからである。「女性・女系天皇」を認めれば男子(悠仁)が皇位を継承する可能性が低くなる。安倍は、最終的に悠仁に皇位を継承させたいのである。「悠仁天皇」の「生みの親」とし自分を位置づけたいのである。それは小泉内閣時代からの安倍の野望なのである。その野望のもとで、「生前退位」ということばが動いている。籾井NHKをつかって「情報操作」をしている。

 もし「生前退位」ではなく「生前譲位」ということばで報道されてたら、今回の報道、国民の関心は、どうなっていただろうか。
 「生前退位」では視線はどうしても「退位する」という動詞の「主語」、天皇に向かう。そうか、天皇は高齢で、いろいろなことが負担になっているのか。それについて配慮する必要があるという具合。
 けれど「譲位」ではどうか。「譲位する」の「主語」は天皇だが、「譲位」にはもうひとつ「譲位される」という「動詞」があり、そのとき「主語」は皇太子になる。視線は天皇を見つめていた時よりも、さらに長い将来へ向けられる。皇太子が天皇になったあとは、どうなる? その次の天皇は? どうしたって、人は、そう考える。
 「生前退位」ということばをつかい、情報操作をしている人間は、国民に「皇太子が天皇になったあとは、どうなる?」ということを考えさせたくないのだ。どうするか、という考えを「独占」したいのだ。
 私は、そう「妄想」するのである。この「妄想」を、今回の皇后のことばが後押ししてくれる。皇后のことばに後押しされ、私の「妄想」は「確信」に近くなる。皇后の「驚きと痛み」は、何も歴史の書物のなかに「生前退位」という表現がないことに起因するわけではないだろう。だれかが天皇のことばを「言い換えている」ということに対する批判/悲鳴なのである。
 天皇の「生前退位」は、安倍が籾井NHKうつかって流した情報操作なのである、と私はあらためて「妄想する」。「確信」する。





*

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このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
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「生前退位有識者会議」と野党の仕事

2016-10-20 01:44:04 | 自民党憲法改正草案を読む
「生前退位有識者会議」と野党の仕事
               自民党憲法改正草案を読む/番外34(情報の読み方)

 2016年10月19日読売新聞夕刊(西部版・4版)の一面に「生前退位「通常国会に法案」 官房長官」という見出しの記事がある。

 菅官房長官は19日午前の衆院内閣委員会で、生前退位の意向を示唆された天皇陛下の公務負担軽減を巡る法整備について、「できれば(来年の)通常国会に出したい」と述べた。政府は、現在の天皇陛下に限って生前退位を認める皇室典範の特例法制定を軸に検討を進めている。(略)
 菅氏は、政府の「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」が17日に初会合を開いたことを受け、「有識者会議が論点整理で一定の方法性を出した時点で、国会で説明し、議論いただく形になる」と述べた。有識者会議が来年1月にも示す論点整理を国会に提示し、法案提出に向けて与野党の合意形成を図る考えを示したものだ。

 記事にあるように「有識者会議」は17日に開かれたばかり。そして、そこでは「検討項目」が八つ示されたばかりである。

①憲法における天皇の役割
②天皇の国事行為や公的行為のあり方
③高齢となった天皇の負担軽減策
④摂政の設置
⑤国事行為の委任(臨時代行)
⑥天皇の生前退位
⑦生前退位の制度化
⑧生前退位後の天皇の地位や活動のあり方

 これをとりまとめ、を検討する。その「論点整理」が「来年1月」というのは非常に早いように私には思える。専門家からヒアリングし、論点を整理するのだろうけど、そんなに簡単に整理できる問題なのだろうか。
 週に一回会合を開き、それぞれの会合で一テーマずつ語り合っても8週間かかる。12月の中旬になる。年末年始は会合がないだろうから、「1月」に「論点整理」を提出するには、どうしても一週間に一テーマずつ、順序よく処理しないといけない。
 そんなこと、できる? 「有識者」だから、できる?
 いや、そうではなくて、もう「提示する論点」は整理されてしまっているのだろう。専門家からヒアリングするといっても「白紙状態」で質問し、回答を待つというのではないだろう。①から⑧まで、有識者会議では、もうすでに「結論」が出ている。その「結論」にあった答えをしてくれる専門家を呼び、ヒアリングという形で、アリバイづくりをする。専門家は、こう言っていました、ということを付け加えるだけなのだろう。
 有識者会議の「結論」がすでに出ているということは、政府(安倍)の答えはもっと前に出ているということだろう。その「答え」をそのまま「論点整理」という形で提示してくれるメンバーを選んだということだろう。
 このことは何度も書いてきたことだが、今回も記事中に書かれている、次の部分が「証明」している。

政府は、現在の天皇陛下に限って生前退位を認める皇室典範の特例法制定を軸に検討を進めている。

 有識者会議の「結論」を待って、皇室典範を改正するか、それとも特例法にするか、検討するではない。もう検討を進めている。有識者会議が皇室典範を改正し、生前退位ができるようにするという「結論」を出すことを想定していない。繰り返すが、もう「特例法を制定するという結論」が決まっているのである。
 こんな「アリバイづくり」を認めてはいけないと思う。
 ⑥⑦⑧は憲法にも皇室典範にも規定がないから、「特例法」は何にもしばられない。しかし④摂政の設置⑤国事行為の委任(臨時代行)は憲法にも皇室典範にも規定がある。特例法は、それを無視するということになるのか、それとも現行の憲法、皇室典範に拘束されるのか。私の関心は、ここにある。
 私には「有識者会議」での検討項目の「摂政の設置」の検討順位が、どうにもひっかかる。現行憲法通りなら、もっと前に「国事行為のあり方」「負担軽減」の前に検討すべきだろう。「摂政」が「生前退位」後の「新天皇」との関係で設置することを念頭に置いているなら、⑦か⑧でいいのではないのか。
 何か、奇妙である。

 ④⑤のうち、「摂政」についてだけを取り上げると、憲法と皇室典範では次のように規定している。

 「設置」に関しては、
摂政は、皇室典範の定めるところにより置く(憲法第5条)。
天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。また、天皇が、精神・身体の重患か重大な事故により、国事行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く(皇室典範第16条)。
 「順序」に関しては、
摂政は、次の順序により、成年に達した皇族が就任する(皇室典範第17条)。
1皇太子(皇太孫)
2親王・王
3皇后
4皇太后
5太皇太后
6内親王・女王

 「特例法」にしてしまったとき、これは、どうなるのか。つまり、天皇が「生前退位」し、皇太子が「天皇」になって、その「新天皇」が「精神・身体の重患か重大な事故により、国事行為をみずからすることができないとき」、「摂政」はどうなるのか。現行の憲法と皇室典範に拘束されるのか。それとも違った形で「摂政」が設置されるのか。
 とりあえずは何も決めず、フリーハンドにしておいて、「新天皇」の動きを見ながら、新たな「特例法」で対処するということを考えているかもしれない。それとも、「特例法」のなかに「摂政の設置」の「特例法バージョン」をふくめて制定するのか。
 「特例法」というのは、何か「恣意的」な操作を狙っているようにしか思えない。

 先に「有識者会議」のような「アリバイづくり」は認めてはいけない書いたが、このことに関して私が思っていることはもうひとつある。野党(民進党)への失望である。
 野党(特に民進党)は、安倍のつくったような「有識者会議」を独自に持つことは考えないのか。どういう「天皇制(生前退位)」がいいのか、提案しないのか。安倍のつごうのいいような「特例法」が提案される前に、民進党はこう考えているという「案」を国民に示したらいいのではないか。安倍が国会に提案する前に、民進党の考えをはっきりさせたらどうなのだ。安倍案に「合意」するのではなく、民進党案に安倍が合意するという形で「生前退位」問題をリードする気持ちはないのか。
 「特例法」ではだめだ、「皇室典範」を改正して、きちんと制度化しないとだめだ、くらい言ったらどうなのだ。
 一部に、天皇が「生前退位」を持ち出したのは、安倍の憲法改正阻止を狙ったものであるという意見がある。憲法改正よりも、皇室典範の改正の方が急務。そういう動きをつくりだすことで憲法改正を阻止すべきだという意見もある。民進党は、そういう意見を発する人たちとどういう「連帯」の仕方をするのか。あるいは、独自の「路線」を提唱したいのか。それを明確にすべきである。
 安倍が「対案」を求めてきていないから、安倍の案を待つというのは、なんだかいいかげんである。








*

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このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
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谷川俊太郎「石」

2016-10-19 12:38:38 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「石」(「午前」10、2016年10月15日発行)

 谷川俊太郎「石」について語るのは、なんだか、めんどうくさい。

雑木林の中の朽ちかけた神社の裏手に、ごろんとヒトの頭ほどの大きさの石が
転がっている。
石を見ていたら、石の中に何かがあるのを感じた。
何も見えないし、何も聞こえない、匂いもしない、だけど何かある。
何かとも呼べない途方もなく大きなもの、いや信じられぬほど小さいもの、い
や大きさも重さもないもの、訳のわからんもの。

 「めんどうくさい」と感じるのは、ことばが動いていかないからである。動いているのだけれど、動いていくという感じではなく、同じところにと止まっている感じがするからである。
 石の中に「何かがある」。それはいいけれど、その「何か」って何? それが「動いていかない」。「何かがある」と書いたあと、いきなり「ある」ではなく「ない」が書かれる。何も見え「ない」し、何も聞こえ「ない」、匂いもし「ない」。何もないじゃないか。「だけど何かある」。
 で、「ある」と言ったはずなのに、また、何かとも呼べ「ない」途方も「なく(ない)」と「ない」が来る。「いや」という否定語を挟んで、信じられ「ぬ(ない)」、大きさも重さも「ない」、訳のわから「ん(ない)」という語がつづく。その「ない」は「もの」と結びついている。
 ここから「何か」とは「もの」であることが、わかる。「何か」としか呼べない「もの」。それを谷川は「感じた」と書いている。これは、「感じ」が「ある」と言いなおすことができるかもしれない。「感じ」を「何か」「もの」と呼んでいることになるかもしれない。

 このあと、詩は、

石はなんの変哲もないただの石だ。地質学上の学名はあるのだろうが知らない。

 という一行(ここにも「ない」と「ある」が交錯している)を挟んで、こう転調する。

訳の分からんものを感じたら、笑いだすしかない、あるいは泣きだすしかない。
訳の分からんままに、祈れるヒトもいるだろう、訳の分からんものなんかすぐ
忘れてしまうヒトもいるだろう。

 「感じた」ということばが、再び出てきた。「感じた」というのは「感じ」という「名詞」ではなく、「感じる」という「動詞」。
 「感じる」というのは、「何か」があって、それに対する反応。いわば「受動」。「感じる」と「能動」でつかうけれど、これは「何か」に「感じさせられる」ということ。
 「感じさせられた(感じた)」ら、どうする?
 「笑う」「泣く」「祈る」。谷川は三つの「動詞」をあげている。三つの「動詞」で「肉体」を動かしている。「祈る」というのは「笑う」「泣く」と比較すると「精神的」な動きという気もしないではないが、「祈り」にはある種の「肉体的な動き」が伴うから、「肉体」を動かしているととらえてもいいと思う。
 そのあと、「忘れる」という「動詞」も出てくるが、私はここにびっくりした。どうじに、あっ、ここに谷川がいる、と感じた。
 「忘れる」という「動詞」のなかには「ある」と「ない」が共存している。「ある」のに「ある」ことを「忘れる」。「ない」と思う。でも、逆のこともある。「ある」とわかとわかっているのに、「思い出せない」ということがある。「ある」のに、それが「ない」という形でしかつかみ取れない。「忘れられない」という、さらにめんどうくさい動きもあるのだが、そういうことには深入りせずに、「忘れる」ということのなかに「ある」と「ない」が共存していることだけに目を向けたい。
 で。
 ちょっと飛躍するが、「忘れる」という動詞のなかにある「ある」と「ない」なのだが……。「忘れる」という動詞にとって、どちらに重点があるだろうか。私は「ない」だと感じている。「ある」のに「ない」という状態になるのが「忘れる」。
 この「ない」を「無(無意味)」という具合に押し広げていくと、谷川の詩の「ナンセンス」指向(嗜好?)につながる。
 谷川の詩の強さ(絶対的な感じ)は、「意味(文脈)」を拒絶して「もの」が存在する、「もの」が「ナンセンス」を主張するところにある。その「ナンセンス」の「絶対的存在感」というものが、この「忘れる」ということばに、「動詞」として噴出してきていると思う。
 この部分の「忘れる」という動詞は谷川にしかかけないと思う。
 この谷川独特の「忘れる」が、こんなだらだらした(?)、めんどうくさい詩にも「ナンセンス」の哲学として働きかけ、それが全体を清潔にしている。何か、「よどみ」のようなものを洗い流している。

 「よどみ」が清められた結果、詩は、「清潔」の象徴である「妖精」ということばを含む一行、

石は何億年もの時間でできているから、時間の妖精が棲んでいるかもしれない。

 この一行で、さらに転調する。
 この転調の特徴は、時間でできて「いる」、棲んで「いる」という「ある(存在の肯定)」が前面に出ていることである。忘れてしまうヒトも「いる」だろう、の「いる」を引き継いでいる。かもしれ「ない」という形で「ない」も出てくるが、この「ない」は「ある」を際立たせるための「方便」。
 何が「ある」のか。

妖精はヒトの言葉を知らない。でもそれも訳の分からんものではない。
訳の分からんものは、言葉では捕まえられない、かと言って素手でも無理だ。
じっと動かない石の中で、何かが動き始めているのを感じる。

 この部分で、私が興味深く感じるのは「訳の分からんものは、言葉では捕まえられない」という部分。「妖精」は「言葉」。「言葉」になっているから、谷川は「妖精」を「捕まえられる」のである。私は「妖精」のような「自分が見たことがないもの/触れたことがないもの」の存在を「ある」とは認めないので、この部分にはとても違和感をおぼえるのだが、それはそれとして脇に置いておいて……。
 ここから先に書いた部分に戻ると。
 「忘れる」という「動詞/ことば」を動かすとき、谷川は「忘れる」ということをとらえているということになる。さらに、詩を書く(ことばを書く)ということは、それが「何か」としか言えないとしても、それを「捕まえている」ということ。そういうことを、谷川は、もう一度「感じる」という動詞が念押ししているように思う。
 「何か」としか呼べない「もの」がある。それは「動き始めている」から「こと」かもしれない。それをあらわすことばを、谷川は「忘れて」いる。思い出せずに、いる。それを「忘れる」ではなく、思い出そうとしている。「感じる」を、少しずつととのえて、覚えているにととのえ、さらに思い出すにつなげようとしている。
 そういう運動がある。

石から目を逸らしたい。

 最後の一行は、また、おもしろい。
 目を逸らし、石を「忘れたい」。でも、書いてしまえば、忘れられない。
 
 めんどうくさい詩を読みながら、めんどうくさいことを考えてみるのだった。私の考えがととのえられないから、めんどうくさいという感想になっているだけなのだけれど。


自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
クリエーター情報なし
岩波書店
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自民党憲法改正草案を読む/番外33(情報の読み方)

2016-10-19 02:28:48 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党改憲草案と憲法審査会
               自民党憲法改正草案を読む/番外33(情報の読み方)

 2016年10月18日の朝日新聞、毎日新聞、読売新聞(ともに西部版・4版)の一面に憲法審査会、自民党憲法改正草案のことが書いてある。見出しだけを読むと、これはいったいどういうことだ?と首をかしげてしまう。

朝日新聞
自民改憲草案撤回せぬ方針/盗難議論の土台に

毎日新聞
自民改憲草案棚上げ/本部会合 議論加速へ野党に譲歩

読売新聞
憲法審 27日にも再開/昨年6月以来 衆院与野党一致

 朝日新聞と毎日新聞は、正反対のことを報道しているように見える。だが、どちらも「正しい」のである。
 朝日新聞の記事を引用する。

 自民党は18日、憲法改正推進本部を開き、本部長の保岡興治元法相が2012年の党憲法改正草案を撤回しない方針を表明した。党の「公式文章」と位置づけて、党内議論の土台とする。ただ、改憲草案の内容には野党の反発が強いため、保岡氏は「草案やその一部を切り取って(衆参の憲法)審査会に提案することは考えていない」と表明。党内外で取り扱いを分ける考えだ。

 つまり、自民党内で審議するときは2012年の草案をそのままつかうが、憲法審査会では草案をそのまま提示しない。つまり、「棚上げ」する。
 簡単に言いなおすと「二枚舌」作戦である。
 これを、読売新聞は、こう書いている。

 (保岡は)12年草案への野党からの批判などを踏まえ、「所属議員で議論を行い、党の考え方を整理する必要がある」との認識を示した。与野党の議論の場では、草案の一部をそのまま提案することはしない方針も示した。自民党は衆院憲法審査会では草案にこだわらず、各党が合意できる改正項目をさぐる。

 「各党が合意できる改正項目をさぐる」とは、議論を進める上でまっとうな方法のようにも聞こえるが、これは、何としても「憲法改正」を議題にしようという作戦である。
 朝日新聞の次の「表現」の方が、このあたりの「事情」を正確に伝えている。

 (「国防軍」という表現を含む改憲草案に対して)民進党の野田佳彦幹事長が代表質問で撤回を求めたが、安倍晋三首相は拒否。衆院憲法審査会の与野党の筆頭幹事間でも議題になり、議論再開の壁になっていた。保岡氏の方針は、野党側を議論に呼び込む狙いがある。

 「狙い」という表現が巧みだ。自民党は何としても野党を取り込む形で、憲法審査会で改憲をテーマにしたいのである。そのために、自民党の2012年草案を「棚上げ」にして見せるのである。そして背後、自民党の内部では、2012年草案について議論する。
 きっと憲法審査会で議論が進めば、つまり、野党が「対案」などを出した段階になれば、自民党内で練り上げた「改正草案」にぱっとすり替える作戦なのだ。野党の対案を待って、自民党は「新しい対案(野党案に対する案)」という形で2012年案を提案し、それを「多数決」で押し切るつもりなのである。
 野党が反対といっている2012年案を提出しないのだから(譲歩しているのだから)、野党も審議にふさわしい案をそれぞれ出すべきだ、と誘いかけて、野党の改憲草案を促しているのである。
 これは、もちろん「だましの手口」である。野田は、この誘いには乗ってしまうだろう。それが「だましの手口」であると指摘することはしないだろう。
 現行憲法を変えないということこそ、自民党草案に対する「対案」なのだが、「対案を」と言われれば、それにあわせて「対案」を出してしまうのが野田と民進党である。憲法を守るという意識があいまいである。

 で。
 おもしろいのが、最初に引用した読売新聞の見出しである。読売新聞は自民党の憲法改正推進本部の全体会合のことは記事の後半に見出しなしで紹介し、ニュースを「憲法審
27日にも再開」という点に焦点を当てている。

 衆院憲法審査会の与野党筆頭幹事は18日、国会内で会談し、27日にも審査会を開催することで合意した。

 これに該当する部分を朝日新聞で探すと、

衆院憲法審査会の与野党の筆頭幹事は推進本部会合に先立ち、協議を行った。20日に幹事懇談会を開き、今後の審査会の日程調整に入ることで合意した。

 朝日新聞では「日程」が決まっていない。けれど読売新聞では決まっている。想像だが、たぶん、読売新聞の記事が「正しい」。「日程」が決まったからこそ、保岡は「自民党内では2012年の改正草案を審議し、与野党が参加する憲法審査会では草案を棚上げするふりをする」という「二枚舌作戦」をとると、自民党内に語ったということだろう。「日程」が決まっていないなら、まだ「作戦」を自民党内に説明もしないだろう。「作戦」を徹底させる必要があるから、「作戦」を語るのである。

 で、気になるのが、この「27日にも開催」という「日程」である。昨年6月以来開催されていないのに、なぜ、急に? 昨年6月の憲法審査会では、戦争法案を憲法学者3人が「違憲」と指摘した。そのために、それ以後、憲法審査会は開かれなくなっている。
 何か、事情が変わった?

 私が思いつくのは、「生前退位」をめぐる「有識者会議」の開催である。天皇の「生前退位」の審議が動き出した。
 国民の目は、「生前退位」の行くへの方に向いている。いまなら、国民の意識が憲法改正に集中しない。そう判断したのではないか。あるいは、逆に憲法審査会の方に国民の目を引きつけ、その間に「生前退位」の問題に決着をつけようというのかもしれない。
 どっちにしろ、二つの大問題を同時に強い関心を持って追い続けるのはなかなかむずかしい。
 自民党(安倍)は「二枚舌作戦」と同時に「攪乱作戦」も進めるつもりなのだろう。



 昨日、書き漏らした「生前退位」を巡る「有識者会議」の8項目に関することを補足する。
 有識者会議は、

①憲法における天皇の役割
②天皇の国事行為や公的行為のあり方
③高齢となった天皇の負担軽減策
④摂政の設置
⑤国事行為の委任(臨時代行)
⑥天皇の生前退位
⑦生前退位の制度化
⑧生前退位後の天皇の地位や活動のあり方

 を検討する。この①から⑧の順序と、現行憲法の「条」の順序を比較してみる。
 ①これは第一条「天皇は、日本国の象徴である」に相当する。この「象徴」としての「務め」について天皇は8月8日に語ったのだが、「象徴の務め」が具体的に何を指してしているかは、よくわからない。憲法では天皇の「務め」を「国事行為」としか書いていない。
 天皇は、その憲法に書かれていない「象徴としての務め」に重点を置いている。①を天皇の考えで膨らませている。
 これが安倍の気に入らないことがらである。
 だから、この問題を先になんとか整理したいという思いが、検討事項の順序に反映されている。

 言いなおそう。
 ②の「国事行為」は第三条である。本来なら三番目の検討項目。なぜ、「皇位継承」を押し退けて二番目に検討するのか。さらに現行憲法の第三条には「公務」というようなことばはない。「公務」は定義されていない。なぜ「公務」ということばをつけくわえて、それを検討するのか。きっと安倍は「公務」ということばで「象徴としての務め」を「限定」したいのだ。
 具体的にいえば、天皇が各地に出かけ国民と交流し、親しまれることを阻みたいのだ。
 「公務」ということばは自民党憲法改正草案にもないが、類似したことばが、次の部分に出てくる。「公的な行為」ということばがある。

第六条の5
天皇は、国又は地方自治体その他の公共団体が主催する式典への出席その他の公的な行為を行う。

 地方に出かける、地方で国民と触れる「公的な行為」。これが「公務」といえるかもしれない。(天皇は、それ以外の災害被害者へのお見舞いや、地方を見て回ることをも「象徴の務め」と感じている。)それを③の「負担軽減」という形で制限したいのだ。さらに「負担軽減」というものを積極的に推し進めるために「摂政を設置する」という具合に、「議論」を進めたいのだろう。

 別な角度から見ていこう。
 ①天皇の役割のあと、現行憲法で問題にするのは、

第二条
皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

 「皇位継承」問題である。
 「生前退位」は、ことばを変えていえば「生前の皇位継承(譲位)」である。憲法の定義の順序で議論を進めるのがいちばん「論理的」というか、「中立」の立場だと思うが、有識者会議は、これを後回しにしている。
 これは、私には「意図的」な操作に見える。
 なぜ、そうするのか。
 繰り返しになるが、天皇を「象徴」と定義したあと、天皇が語った「務め」を定義(限定)したいのである。天皇の活動(国民とのふれあい)を制限したいのである。国民に親しまれる天皇というのは、安倍の「理想の天皇像」とは違うのだ。
 自民党憲法改正草案では、天皇をまず「元首」と定義している。「象徴」である前に「元首」。つまり「絶対権力者」。そういう「地位」に天皇をまつりあげて、その「地位」を利用する。そういうことを安倍は考えていると私には思える。

 現行憲法は、天皇を「象徴」と定義したあと、「継承」について定義し、そのあと天皇は「国事に関する行為」のみを行うと定義し、そのあとで「国事行為」を詳細に定義している。「公務」というものは現行憲法では書かれていない。それなのに有識者会議では「公務」を検討する。しかも「負担減」という口実で。
 「生前退位⑥」の前に「摂政の設置④」が検討されるのも、とても奇妙である。「生前退位」を認めるのではなく「摂政」を設置したいという「意図」がここに隠れている。




*

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マイケル・グランデージ監督「ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ」(★)

2016-10-18 12:04:21 | 映画
監督 マイケル・グランデージ 出演 コリン・ファース、ジュード・ロウ、ニコール・キッドマン、ガイ・ピアース

 作家と編集者。編集者によって作家はどうかわるか。予告編ではおもしろそうだったのだが。
 アメリカが舞台なのに、イギリス人とオーストラリア人が出ている。まあ、英語だからいいのかな? よくわからない。
 わかるのは、ジュード・ロウがやたらとしゃべること。これがうるさい。おおげさである。そのために、「小説」というものが感じられない。
 「小説」っぽいのは、ニコール・キッドマンの感情かなあ。自分がめんどうを見てきたのに、コリン・ファースにジュード・ロウを盗られてしまう。「盗まれた」というのが、実感なのだろうなあ。そのために怒りまくる。これは、なかなかおもしろい。この「激情」タイプの女と、ことばを洪水のようにあふれさせることで精神の統一を保っている小説家、それなのにことばを削除するよう迫る編集者というのは、興味深い関係だ。この関係は、ニコール・キッドマンを主役にして、ジュード・ロウを助演に、さらにコリン・ファースを脇にひっこめる。狂言回しというのか、ストーリーの展開を促す訳に徹底させるとおもしろくなるかもしれない。
 この監督は、映画は「人間」こそが主役である、ということを見逃している。
 「小説」を編集する、といっても「余分なことば」をつぎつぎに削除させる、というのは、あくまでも「ことば」の世界なので、よほどことばに精通していないとおもしろくない。「ことば」と「肉体」が交錯しない。単なる「紙の上」の線、いらない部分への斜線の記入になってしまう。
 だから。(だから、でいいのかどうか……。)
 この映画で唯一「演技」をするのは、コリン・ファースの「帽子」ということになってしまう。コリン・ファースはいつでも帽子をかぶっている。仕事場でもそうだが、家に帰って家族と食事をするときも帽子を脱がない。あれは「頭を下げない」という宣言なのだ。編集者は「黒子」のようなもの、コリン・ファースは「裏方」と言っていたが(字幕では)、それは口先のこと。自分こそが「主役」と思っている。自分こそが「作家」と思っている。
 それが、ラストシーン。
 死んでしまったジュード・ロウから手紙が届く。病院のベッドで書いたものだ。それを読むとき、コリン・ファースが「帽子」をとる。頭を下げる。ジュード・ロウの、こころからのことばに出会い、自分が主役である、と言っていられなくなる。まあ、「人間宣言」のようなものである。
 でも、このシーン、感動的であるはずなのに、あまり感動しない。それまで人間のドラマが丁寧に描かれていないからだ。だからこそ、言うのである。これはニコール・キッドマンを主役にして、捨てられた女、言わば「寝取られ女房」という視点から映画にすると傑作になるぞ、と思うのである。ラストの「脱帽」も単にジュード・ロウへの思いというよりも、ニコール・キッドマンへの思い、さらにはコリン・ファースの家族への、「許してくれ」「ありがとう」に変わるのである。裏方の力、美しさが、突然「主役」として浮かび上がるだろう。
 うーん、リメイクしたい、という欲望をそそる映画である。
                        (2016年10月16日、天神東宝4)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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自民党憲法改正草案を読む/番外32(情報の読み方)

2016-10-18 11:23:37 | 自民党憲法改正草案を読む
「生前退位」有識者会議。
               自民党憲法改正草案を読む/番外32(情報の読み方)

 天皇の「生前退位」について審議する「有識者会議」が始まった。2016年10月15日読売新聞(西部版・14版)から、気になる点を取り上げる。
 一面の見出し。「生前退位 8項目検討/有識者会議が初会合」。その8項目は、こう整理されている。

①憲法における天皇の役割
②天皇の国事行為や公的行為のあり方
③高齢となった天皇の負担軽減策
④摂政の設置
⑤国事行為の委任(臨時代行)
⑥天皇の生前退位
⑦生前退位の制度化
⑧生前退位後の天皇の地位や活動のあり方

 私が気になるのは「④摂政の設置」である。「生前退位」の意向表明があったのは、何度か書いてきたが、天皇の側に官邸側(安倍)が「摂政ではだめなのか」と持ちかけたことがあるからだ。天皇は「摂政」を置いても、天皇は死ぬまで天皇である、だからダメ、と答えている。そのことを明確にするために「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(平成28年8月8日)」があった。天皇は「天皇の務め」を「象徴」ととらえていて、「摂政」では「天皇の務め」はなくならないと言っている。このとき「天皇の象徴としての務め」とは「国事行為」よりも「公的行為」の方である。たとえば被災地の訪問、被災者への激励とか、地方を見て回るとかである。
 「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行おこなって来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。」
 天皇は、こころをこめて、そう語っている。高齢になると、そういうことを果たすのがむずかしくなる、と嘆いている。「国事行為」については、こういうこころのこもったことばを語っていない。
 このことは二面の「「公的行為」の整理 焦点」という記事に書かれている。
 「天皇の務め」をそういうものと考えるからこそ「摂政ではダメ」と言っている。それなのに、「生前退位」の項目の前に「摂政の設置」が検討される。「摂政の設置」を決めてから「生前退位」を審議するということだろう。この「摂政の設置」へのこだわりに、私は、安倍の強い意思を感じる。今回の一連の動きが、天皇の動きというよりも、安倍の主導した動きに見えてしまう。
 安倍は、天皇が国民と「直に」接触し、そこに「信頼関係(?)」のようなものができると、安倍が国民を支配することができにくくなると考えているのかもしれない。
 安倍の有識者会議での「あいさつ」(13面)に、次のことばがある。

 今上陛下が現在82歳とご高齢であることも踏まえ、公務の負担軽減党を図るため、どのうようなことができるのか、今後様々な専門的な知見を有する方々のご意見もしっかりとうかがいながら、静かに議論を進めてまいりたいと考えている。

 「公務の負担軽減」の「公務」をどう定義するか、むずかしいが、天皇が国民との直接接触を「公務(象徴としての務め)」と考えていることを踏まえると、安倍は、それを「負担軽減」ということばをつかって遮断しようとしている、そのために何ができるかを模索している。「公的行為のあり方」を二番目のテーマにしていることも、天皇と国民との接触を遮断しようとするために、「公的行為」を減らすという「結論」を出したいからだろう。先に「公的行為(国民との直接接触)」を減らし、天皇が公の場に出てくるのを阻止するために何ができるか考える。そのために「有識者会議」を利用しようとしていると、私には読めてしまう。
 天皇の国民との接触を重視する考え、そこにこそ「象徴としての務め」があるのと考えに対して、読売新聞(編集委員 沖村豪)は、びっくりするようなコメントを付け加えている。

 こうした考えは、お言葉で断られてように「個人」としてのものだ。

 これは、「象徴天皇」の「定義」は国が決めることであって、天皇が決めることではない、ということ。天皇がどう定義しようが、それは関係がない、ということ。言い換えると、天皇が国民との接触を求めても、それに配慮する必要はない、ということ。さらに言えば、これは天皇と国民の接触を「分断」しようとする安倍の思いを代弁しているように見える。
 私の意見では、憲法を尊重し、遵守しようとする天皇は、日本でもっともラディカルな人間である。その姿勢は安倍の政策と全く反対である。護憲派の天皇が国民と接触を強めるというのは、安倍にとっては苦々しいことなのだろう。

 少し論点がずれてしまったか……。

 別な角度から「摂政の設置」の問題を見てみる。摂政の設置については、憲法第五条では

皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。

 つまり、「摂政の設置」は「皇室典範」に従わなければならない。「生前退位」と「摂政の設置」をきちんと法的に整理しようとするならば、どうしても皇室典範の改正が必要になる。けれど、安倍は今回の「生前退位」を「皇室典範」の改正とは切り離して、「特例法」で対処しようとしている。当然、「特例法」で「摂政」が設置されるなら、それは「皇室典範」とは関係のない「摂政の設置」、「皇室典範」にしばられない「摂政」、言い換えると、安倍にとって都合のいい「摂政」ということになる。
 そういう「都合」のために、安倍は天皇を「生前退位」させようとしている。この「都合」を露骨に語っているのが、「政府、平成30年譲位を視野」という記事である(一面)。最初から「特例法」「平成30年譲位」が安倍によって決められていて、その「アリバイ」のために「有識者会議」が開かれているのである。

 さらに別の角度から。
 「特例法」に安倍がこだわるのはなぜか。「皇室典範」そのものの改正に目を向けないのはなぜか。二面には「女性・女系天皇 議論せず」という見出しと記事がある。天皇が退位するということは、「天皇」がだれかに「継承」されるということである。どうしたって、「継承」という問題を審議しなくてはならないはずである。そのとき「女性・女系天皇」の問題も出てくるはずである。
 しかし、

皇室典範改正の方向となれば、安倍首相が慎重な女性・女系天皇の容認や女性宮家創設というテーマにも触れざるを得なくなり、「議論が収拾できなくなる恐れもある」(自民党幹部)という懸念もある。

 このときの「議論が収拾できなくなる」とはどういうことだろうか。会議のメンバーにまとめる能力がないということか。そういう問題をまとめられないメンバーを選んだということだろうか。どうして有識者会議のメンバーの議論の行方を予測できるのだろうか。これは、もし有識者会議で皇室典範の改正を議論し、小泉時代のときのように「女性・女系天皇を容認」という「結論」が出てしまうと、安倍がそれに反対し(小泉のときがそうだった)、「収拾がつかなくなる」ということではないのか。これは逆に言えば、安倍の意向に沿った「結論」を出すメンバーを選んだということの「証拠」でもある。
 「有識者会議」はお飾りにすぎない。安倍が「結論」を国民に押しつけるときの「アリバイ」づくりにすぎない。
 安倍は「有識者会議」で、次のようにも語っている。

国家の基本に関わる極めて重要なことがらであり、予断を持つことなく十分に審議をいただき、国民の皆様の様々な意見を踏まえ、提言をとりまとめていただけるよう、よろしくお願いします。

 「予断を持つことなく」というのは、簡単に言いなおせば、安倍が望んでいる考え方以外は審議するなということだろう。たとえば「女性・女系天皇」については審議するなということだろう。「予断」というのはだれにでもある。「予断」は自分と違う意見にであったとき、議論を通して否定/訂正していくものである。それは「静かに議論を進めていく」ということではなく、侃々諤々と対話することである。「静かに」進む議論というのは「結論」が決まっている議論である。
 「予断を持つことなく」というのであれば、「生前退位」の問題を「特例法」で処理するのか、皇室典範を改正するのか、ということろからはじめなければならない。「皇室典範改正」という方向に議論が動いてしまえば時間がかかりすぎるというのは、これもまた「予断」にほかならない。自分の都合にあわないことを、人は「予断」といいたがるものである。他人の意見を聴きたくない(排除する)ときに、「静かに」議論する、というのである。
 「決まっている結論」への過程で、どれだけ安倍の「野望」が見えてくるか。報道は、どうそれを伝えるか。そのことを見ていきたいと思う。






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自民党憲法改正草案を読む/番外33(情報の読み方)

2016-10-17 16:39:55 | 自民党憲法改正草案を読む
TPPの安倍答弁の嘘
     自民党憲法改正草案を読む/番外33(情報の読み方)

 TPPをめぐる審議が衆院特別委で始まった。2016年10月17日読売新聞夕刊(西部版・4版)一面に、次のくだりがある。


政府がTPPの交渉記録を黒塗りで公開したことを民進党などが批判していることに関し、首相は「合意内容は情報を全て提供している。それを議論せず、開示できない交渉途中の経過が黒塗りだからおかしいというのは、中身をしっかり議論しないための議論としか言えない」と批判した。

もっともらしく聞こえるが、問題点がいくつかある。
(1)合意文書の文言に込められた「意味」を正確に把握するためには、日本語に対応する外国語(英語、フランス語など)の文書とつきあわせる必要がある。「訳文」は、それぞれの国内事情に配慮したものになるのが、外国との「交渉文章」というものである。
 (2)「訳文」の文言にこめた「意味」は、外国語との対比だけでは不十分。交渉経過を知ることで、なぜあることばをそう「翻訳」したのかがわかる。交渉経過は、いわば「注釈」である。その「注釈」を「政府」が独占するのは、「嘘」を信じろというに等しい。
 (3)安倍の「開示できない」は、他国との信義の問題よりも、「注釈」を公開すると、「嘘」がばれるからだろう。
 それが証拠には、読売新聞には次の文章がある。

 外務省が作成したTPP協定文書の日本語訳などに18か所の不備があったことについて、民進党の近藤洋介氏は「非常に見逃せない大きな問題だ。(承認案・関連法案を)出し直すのが本来の姿だ」と追及した。首相は「大変申し訳ない」と謝罪したうえで、「今後とも審議を続けさせていただきたい」と述べ、承認案・関連法案を提出し直すことは拒否した。

すでに「18か所の不備」があったことが明らかになっている。交渉経過と照らし合わせれば、さらに「誤訳」や「不備」が見つかるかもしれない。それを点検するためには「交渉過程」の「記録」が必要だ。
 「合意内容」だけでは、わからない重大な問題が隠されている可能性がある。
政治は「ことば」である。それを忘れてはならない。
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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高貝弘也「紙背の子」

2016-10-17 08:28:30 | 詩(雑誌・同人誌)
高貝弘也「紙背の子」(「午前」10、2016年10月15日発行)

 高貝弘也は、私の感覚では「名詞」の多い詩。あるいは「動詞」が省略されている詩、ということになる。「紙背の子」。原文は「ルビ」があるのだが、引用では省略。(行間も複雑に配慮されているのだが、正確に引用できそうにないので、複数行を引用するときは一行空きで引用する。)

--とてもちいさい草の泡だちが、遠い汐のように…

 この書き出しの一行。「遠い汐のように…」と「動詞」は「…」で書かれている。補うならなんだろう。「引いて行く」と、すぐに思い浮かぶ。潮は引くだけではなく満ちるという「動詞」も可能だが、「ちいさい」「泡だち」「遠い」が「満ちる」よりも「引く」に通じると思う。「しお」をサンズイに「朝」ではなく「夕」と書いていることも、そう感じさせる。「朝」なら光が満ちてくる。「夕」なら消えていく。いままでに読んだ「文学/ことばの伝統」が影響して、そう読んでしまうのである。
 高貝のことばは、こういう「無意識」に呼びかけてくる。高貝のことばは「文学の肉体」を持っている、ということができると思う。
 「名詞」と「動詞」の関係だけではない。

肌理こまやかな 腿

熟れすぎた にがい果肉は、

水陽炎 白壁の背ろへ

 「肌理こまやかな」のあとには「脛(すね)」ということばは絶対にこないだろう。
 女の肉体、それもなんとなくセックス(欲情)を誘うことばを呼び寄せる。そして「腿」が呼び寄せられれば、どうしたって「桃」へと連想が広がる。熟れ過ぎて苦くなる果肉は桃とはかぎらないが、前の「肌理こまやかな 腿」は「桃」を、さらには「腿につながる女の肉体/尻」なども呼び寄せる。さらに「肌理こまやかな」は「白壁」の「白」へ、(白壁自体も泥壁に比べるときめがこまかい)、「腿/桃/尻」は「背」へと視点を自然にずらしていく。
 「形容動詞」「名詞」が自然につながっていく。その「自然」のなかに「文学の肉体」がある。
 で、この一連の「名詞」とつながる「動詞」は何か。まだ書かれていない。ここまで読んできて「動詞」をむりやり探せば「熟れすぎた」の「熟れる」と「過ぎる」であるが、それは「果肉」を修飾することばとして働いていて、「述語」としての「動詞」はまだ出てきていない。書かれていない。
 書かれていないけれど、何となく一行目で想像した「引いていく」ということばに近いものを感じる。欲情は満ちてくるものだが、この詩の場合、詩はひそやかに隠れて動いているので、強く前面には出てこない。どこか「抑制されている/引いている」感じである。そこへ「背へ」だから、なおのこと「隠れる」ということばも思い浮かぶ。
 そういう「連想」を次の行が開く。

(逃げていく、緯糸としての)

 この一行は「緯糸として逃げていく」という文の「倒置法的」一行として読むことができる。括弧のなかに入っているのだから、それまでのことばとは関係がないもののようにも思える。しかし「逃げていく」という「動詞」が「白壁の背ろへ」と強い力で結びついている。
 そうか、「隠れる」ではなく「逃げていく」か。そして「逃げていく」なら「汐」の「引いていく」も「逃げていく」と言いなおすことができるなあと感じる。
 このとき、私は、自分の中の「文学のことば/文学の肉体/ことばの呼吸」がととのえられていくのを感じる。「汐が引いていく」ではなく「汐が逃げていく」とつなげると、「叙述」が突然「詩的」にかわる。普通の口語ではつかわない「言い回し」が、ふっと出てきて、しかも落ち着く。
 この感じは、きのう読んだカニエ・ナハの「馬引く男」にはなかったものだ。
 高貝のことばには「具体的」な「動詞」、「名詞」としっかり結びついた「述語」としての「動詞」がないにもかかわらず、「動詞」が「肉体」に迫ってくる。「文学の肉体」なのだが、どこかで「生身の肉体」にも重なるものがある。たぶん汐が引くのを見たことがある、だれかが壁の背後に逃げて隠れるのをみたことがある、あるいは自分自身が隠れたことがある、ということが影響しているのだと思う。「いま/ここ」から違う場へ動いていく。その運動を描写する「動詞」として「逃げる」ということばがある、ということを「文学の肉体」としてだけではなく「自分自身の肉体」としても確認する。そういう「言い方」で「肉体」をとらえ直すことができると気づく。
 この「気づき」のなかに「詩」があるのだろう。発見があるのだろう。あ、これを知っていると思い出すときの、静かな感動がある。

ふいに 一滴の、かげ

--ああ 三角座りの、あの子よ

 この「ふい」の転調。しかし、転調といいながらも、「一滴」のなかには「水陽炎」の「水」があり、呼応している。「かげ」のなかには「逃げていく/逃げていった」ものの「おもかげ」がある。消えることによって、逆に、ふっとそこに存在していたものとして「かげ(実像ではない)」ものが見える印象。
 「三角座りの、あの子」からは「腿」がのぞいてみる。「あの子」、たぶん幼い少女。幼いから「熟れすぎた」肉体ではないのだが、それを見ている詩人は「熟れすぎた」おんなを知っているから、幼い少女のまぶしい肌からも、逆の幻として「熟れてゆく」ものを見るのである。
 時間が、一瞬にして、交錯する。その「目眩」のような、瞬間。その「瞬間」を「逃げていく」ものがある。実際の「時間」の流れを「縦糸」とすれば、それは「緯糸」か。
 詩はつづいている。

節ぶしに ほそい微光が、

(そのそばで、しろい苞がほぐれて)

悲しげな口もとの ピロピロ笛はもう…

 「ほそい微光」「ほそい」と「微」の二重形容。少女の腿(桃/尻)の幻の輝きが一瞬だったことを強調する「二重形容」といえるだろう。
 「逃げていく」は「ほぐれる」ということばのなかにつながっていく。「集まっていたもの」が「散るように逃げていく」。「集まり」が「ほぐれる」。それは集まり(充実していたもの/たとえばしっかり実っていた桃の果肉)が「ほぐれ」うしなわれてしまうことでもある。
 「ピロピロ笛はもう…」と、最後の「動詞」はやはり省略されている。しかし、ここには「失われた」という「動詞」が自然に入るような気がする。「消えた」かもしれない。「失う」と「消える」は同じ。「遠く去る(遠く逃げる/遠く引いていく」汐ということばにもつながる。

 高貝の詩を、私はいつも、こんなふうに「文学の肉体/ことばの肉体」をととのえなおしてくれるものとして読んでいる。






露光 (Le livre de luciole)
高貝弘也
書肆山田
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