詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(12)

2020-03-26 10:13:03 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくは海へ向う旅びとであつた)

ごうごうと鳴る松林がどこまでもつづいていた
そのなかへ消える遠い道があつた

 「ぼくは海へ向かった」ではなく「ぼくは海へ向う旅びとであつた」と嵯峨は書く。「ぼく」の「動詞(動き)」を書くというよりも、「ぼく」を「旅びと」と虚構化することを優先している。そのとき「ぼく」だけが虚構化されるのではなく、「海」もまた虚構化されていると考えるべきだろう。
 それは「道」にも影響する。「道」はほんらいなら「海」へつづくはずだが、「海」はつづかず「松林」のなかに消える。あるいは「松林」の「ごうごうと鳴る音」のなかに消える。しかし、それは実際には「消えない」。
 それらはすべて「遠い」という認識を明確にするためのことばなのだ。
 「遠い」何か、それは「虚構」のなかで浮かび上がる「真実」のようなものだ。そんなものは存在しない。けれど虚構によって存在するように見えてしまう。「ぼく」を「旅びと」であると言い聞かせる(自分に嘘をつく)ときに、虚構ははじまる。

*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(11)

2020-03-25 16:56:01 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

老残

失つたものが心では無限に大きくなる

 この一行は、二通りの読み方ができる。
 一つは「失つたもの」が「心のなかでは」無限に大きくなる。「失つたもの」とは、たとえば「女の名」であり、「一つの善意」である。その結果「自分の姿はますます小さくなつて遠ざかる」ということが起きる。自分が小さく感じられる。
 たぶん、そう読むのが普通なのだと思うが。
 私は別の読み方をしたい。
 「失つたものが心では」とつづけて読む。「心を失ったので」、そのために、と読む。そのとき何が大きくなるのか。すべてのものが大きくなる。「女の名」とか「一つの善意」ではなく、私のまわりにあるものすべてが無限に大きくなる。それは圧迫するというよりも、むしろ稀薄になる。「もの」も大きくなるが、「場(世界/宇宙)」そのものが大きくなる。「もの」がどれだけ大きくなろうが、「充実」はやってこない。
 つまり、虚無になる。こころを失い、虚無の大きさを知る、と読みたい。


*

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感染者は急増している

2020-03-25 09:34:30 | 自民党憲法改正草案を読む
感染者は急増している
       自民党憲法改正草案を読む/番外324(情報の読み方)

 2020年03月25日の読売新聞(西部版・14版)の1面。

東京五輪1年延期/来夏までに開催/首相・IOC会長合意

 「来夏までに開催」の「までに」がわからない。「夏」を含むのか、含まないのか。会談のポイントには

2021年夏までに開催することで合意
「2020年」の大会名は引き継ぐ

 これを読むと、私の感覚では「2021年の夏」は含まない、という感じがする。本来の開催予定だった「7月24日」までに開催する。つまり「2020年7月24日から2021年7月23日までに開催する」となる。これなら「会期」を2週間ではなく1年間にしたと考えることができる。つまり、「2020年7月24日に開始したが、事情があって8月9日には終わることができなかったので、2021年7月23日までかかった」と言うことができる。
 こういうことは単なる詭弁、ごまかしだけれど、政治の世界はこういう詭弁・ごまかしに「面子」をかけているところがある。

 で。
 こんな「面子ごっこ」の影に隠れて、ひっそりと報道されているニュースの方が私には気になる。

 30面(社会面)に、

新型コロナ 新たに71人/福岡では3人 感染者 東京最多に

 感染騒動が起きてからすでに2か月近くになる。本来なら対策が軌道に乗り感染者が増え方が減っていいはずなのに増え始めた。
 最初に話題になった和歌山では、この日の感染増加は0、北海道は1人。こうなるのが普通だろう。
 そして、北海道、和歌山の「経験」を生かし、他県でも増加は抑制されるというのが常識的な「推測」になると思うが、東京では18人増えている。
 ちょっと振り返ると、23日は北海道3人増加、24日0、25日1人増加、和歌山はずっと増加0、東京は23日2人増加、24日16人増加、25日18人増加。
 どうして?
 どう考えても、これまで検査を抑制していたから感染者を発見できなかったということになると思う。
 東京五輪の今夏開催見込みが消えたから、五輪のことを気にせずに検査をしはじめた。その結果、感染者が増えはじめたとしか考えられない。(志村けんが、新型コロナウィルスに感染し、重篤というニュースがネットで流れていた。)これからもっと増えてくるだろう。
 東京は、通勤圏が広い。感染の拡大は確実に広がっている。ちなみに、新潟、石川、福井の感染者全員には、東京から帰って来たひとという共通項がある、という。(3月21日、情報速報ドットコム、https://johosokuhou.com/2020/03/21/27837/?fbclid=IwAR2TfMyOaJ7j4HZ4P-0Ql3etR0OynoqeRSQvaeXtDJ6ub8HCwhLWiTmw-54)たまたま東京へ用事で行って帰って来たひとが感染するなら、日々東京へ通っているひとがもっと多く感染していると考えるのが普通だろう。

 一方、海外の感染者の変化はどうか。気になるのが台湾である。台湾は長い間感染者が「45人(死者1人)」でとまっていたが、欧米を含む世界の急増にあわせるかのように、25日の集計では感染216人、死者2人。海外から渡航してきた人の感染者が増えているのだろう。(読売新聞の一覧表では詳細がわからない。)台湾に限らず、海外では感染者、死者が増えている。増え方が減っている韓国でも増えていることに変わりはない。

 そういうことを考えると、気になるのが「一斉休校の中止(学校再開)」の動きである。「一斉休校」に入ったとき、感染者が増えていないのに、どうして?という疑問が起きた。いま、「学校再開」にむけて動くのはなぜ? 今度は、そういう疑問が起きるはずなのに、なぜか、あまり聞かない。
 どうして?
 「一斉休校」のとき、こまることのひとつに、子供のめんどうを見るには仕事を休まないといけない、というものがあった。親が困る。しかし、金もうけのことしか考えない虻にはもっと困ることが起きたのだ。休業補償の問題が発生するし、仕事が停滞するという問題もおきる。
 いま「学校再開」に踏み切るのは、きっと、このことが関係している。休業補償に金をつかいたくない。働いてもらわないと経済が停滞する。子供のために仕事を休んでいるに復帰してもらうには、学校を再開するしかない、ということだろう。
 まったくいい加減であるというか、「経済」のことしか考えないのか、とあきれかえる。東京五輪の中止(延期)で、五輪で入ってくるはずだった金が入ってこなくなる。だから、働いてもらわないと困る、ということだろう。五輪がないんだから、病気になろうがどうしようが、国民は働け働け、ということだ。
 国民をばかにしていないか。
 五輪の夏開催はむり、というのはずいぶん前から予測がついたことだ。絶対むりと確信して、先に「学校再開」を打ち出したのだ。五輪中止のあと「学校再開」を打ち出すと、五輪さえ中止になるのに、なぜ、いま「学校再開」という声がおきるはずだと予測して、先に「学校再開」といったのだ。
 きっと、感染が拡大し、どうしようもなくて、もう一度「一斉休校」というに決まっている。
 初期からきちんと検査し、対応していれば、韓国のように被害をかなり抑制できたのに、感染者が増えては五輪が開けない(金がもうからない)というので、検査さえしなかった。その「つけ」がこれから、爆発する。
 安倍の五輪開催のとき首相でいたいという欲望(もっともっと金もうけがしたいという欲望)のために、とんでもないことが起きるのだ。
 五輪は「延期」ではなく「中止」しないといけない。
 実際、今後の日本の感染者(死者)の状況次第では、たとえ感染がおさまったとしても「中止(返上)」を要求する声が起きるだろうと思う。







#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(10)

2020-03-24 09:50:12 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

箕島

わたしの血のなかに明るい寺が建てられた
ちかくを子供たちが歌ひながら通る

 「体のなか」ではなく、あるいは「肉のなか」でもなく、「血のなか」。
 このとき、その寺は「血の流れ」にそって動いてくのか。「血の流れ」に逆らって、同じ場所にとどまっているのか。
 子供たちが近くを通るというのだから、寺は動かずにいるのかもしれないが、その子供たちが「通る」というときの動詞が、不思議に、私に反映してくる。
 もちろん「通る」は「血が通る」と読めるのだが、私は寺が「通る」(動く)と読みたくなる。子供たちといっしょに、歌いながらどこかへ行ってしまう。
 幼いときの「遊び場」、寺や神社の境内というのは、いつも記憶のなかにあらわれる。そのあらわれるときのスピードは「血」と同じように、動いているのに動いているとは意識しない何かだ。


*

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経済損失の計算の仕方

2020-03-24 09:17:22 | 自民党憲法改正草案を読む
経済損失の計算の仕方
       自民党憲法改正草案を読む/番外323(情報の読み方)

 東京五輪の延期予測が2020年03月24日の読売新聞(西部版・14版)に載っている。安倍の欲望を満足させるためだけに開かれる大会は、さっさと中止決定し、コロナ対策に全力を注ぐべきなのに、何をやっているのだろう、と思う。
 で、そのなぜ五輪を中止しないか、ということに関するニュースが2面に小さく載っている。1段見出しで、こうある。

1年延期の場合/経済損失6408億円

 関西大学・宮本勝浩名誉教授の試算による。どうやって計算したのか。記事を引用する。(番号は私がつけた。)

①具体的には競技場や選手村、関連施設の維持や管理、清掃、修理などにかかる費用が増えたり、競技種目によっては選考会ををやり直したりすることが想定されている。②中止になった場合の経済損失は約4兆5151億円と推定している。
③宮本氏は「1年間大会を延期しても経済損失がほとんどないというのは間違いだ」と指摘している。

 もっとらしいが、素人から見ると、どうしてそうなる?と疑問に思う。
 ①に関しては、「競技場や選手村、関連施設」は何にも使用せずに、ただ「維持や管理、清掃、修理」をするだけなのか。会場として貸し出せば、そこから収益が入るのではないか。「維持や管理、清掃、修理」を見込んで料金を設定すれば、損失(赤字)にならないだろう。損失が出るような運営ならば、その運営方法が間違っているだけのことだ。問われるのは「運営方法」である。損失が発生する運営方法しか考えられないなら、それは運営者が間違っている。
 ②には、①と違って「具体的」な指摘がない。中止し、何もしなかったとしたら、その段階で発生する損失は、施設の建設費やさまざまな準備の運営費(人件費)などであろう。それが「約4兆5151億円」か。たぶん、違うだろう。この推計の中には、大会を開催したら収入として入ってくる「利益」が見込まれている。「収益予測(たとえば放送権料、入場料、付随する観光客の旅費)」から「これまでにかけた経費」を差し引いたもの(純粋利益)を「約4兆5151億円」と推定しているのだと思う。
 でも、これは、いわゆる「とらぬ狸の皮算用」ではないだろうか。そんな計算をするから「損失」が大きく見えるだけなのではないのか。中止した場合の「損失」は、単純に「これまでつかってきた費用」だけと見るべきだろう。
 そして、中止を前提に、つくってきた施設をどう活用して、「収益」を上げていくかということを考えれば、「損失」額は違ってくるだろう。企画次第では、つくってきた施設が活用できるし、大会後の活用を前提として施設をつくっていないとしたら、それはつくった方が悪いのだ。後から利用できなものを金をかけてつくるようなことは、普通のひと(自分で稼いだ金で何かを企画するひと)は考えない。そういうことを考えていないとしたら、それは最初から「巨額損失」が発生する大会だったのだ。
 ③は、もう、どう批判していいのかわからない。経済損失が出ないように考えるのが、大会にかかわる人間の考える仕事。「これだけ損失が出る」と計算できるひとが、どうして「こうすれば損失が出ない」と考えられないのか、それがわからない。

 結局五輪は、「五輪が開かれたら、私のところに収益の一部がまわってくる」と考えている安倍のために開かれるだけなのだ。「開会式で、おれが開いてやった大会だ、と自慢するだけで膨大な金が転がり込んでくるのに」という「とらぬ狸の皮算用」が成り立たなくなった安倍がごちゃごちゃとぐずっているだけなのだ。
 コロナウィルスのために世界中で何人ものひとが次々に死んでいる。そして、これからも死んでゆく。五輪など気にせずに、ひとの命のことを考えるときなのだ。ひとが生きていなければ、その後の「経済活動」も生まれない。どんな「収益」も生まれない。生きているひとが働いてこそ、世界は動いていく。




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*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(9)

2020-03-23 08:58:19 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

檍村

よく熟れた稲穂が刈りとられてうづたかく積んである
そしてそれが夜なかまで体温を保つてあたたかく匂ふ

 「檍村」は宮崎県の地名。「あおきむら」と読む。
 秋の田園の風景だが、嵯峨が実際に「夜なかまで」そこにいて、刈りとられた稲穂の匂いを嗅いでいるわけではない。日のあるうちに、その匂いをかいだ。そして匂いがあまりにも印象的だから、きっと夜も匂っているだろうと想像している。
 「保つ」という動詞が使われているが、その匂いを保つのは稲穂ではなく、嵯峨である。だからこそ「体温」ということばもつかわれる。嵯峨は、それをまるで自分の肉体であるかのように感じている。
 「実り」はいつでも「あたたかい」。「匂い」はいつでも「豊か」だ。



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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(8)

2020-03-22 22:05:36 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

にげる神

一瞬 わたしと遠い祖先がつひに交叉する
宇宙ははてもない真実だ

 「宇宙(空間)」で「わたし」と「遠い祖先」が出会う、ということだろうか。「遠い祖先」とは「神」のことだろうか。「宇宙」とは「天」のことだろうか。
 私は、「わたし」と「遠い祖先」が出会う「場」を「いま/ここ」と読み直したい。
 そのとき「宇宙」は「天」ではなく、この「地上」になる。「宇宙」が「地上」におりてくる、と読みたい。



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豊島圭介監督「三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実」

2020-03-22 15:28:06 | 映画
豊島圭介監督「三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実」(★★★★★)

監督 豊島圭介 出演 三島由紀夫、芥正彦

 いろいろなことが語られているが、見せ場は「解放区」についての討論。「他人」「もの」「時間」をどうとらえるか。このテーマは、三島のテーマというよりも、この時代のテーマでもある。だからこそ、全共闘の芥正彦との対話が成り立っている。(ついでに書いておくと、私が大好きな安部公房も、他人、もの、時間について書いていた。つまり、解放区について。)
 私が理解した範囲で語りなおすと。
 三島は、「もの」のなかには「もの」が「もの」として存在するまでの過程としての「時間」を含んでいる。いま、ここに「机(もの)」がある。それが「机」として存在するのは、木を加工し、机という形にととのえたひとがいて、またそこに労働があるからだ。これを破壊しバリケードとしてつかう。壊してつかうことも可能だし、そのままの形としてつかうこともできる。いずれにしろ、そのとき、机をつくったひとの「時間/労働」は否定される。「時間」が否定され、「もの」が瞬間的に「空間(場)」を構成(形成)するものとしてあらわれる。これが「解放区」。そして、この「解放区」を構成する「もの」を「他人/他者」と呼ぶことができる。ただ「自分」の欲望のためにだけ存在する「対象」のことである。これに「人間(自分)」がどうかかわっていくか。自分の中には「自分の時間」がある。また、ともに存在する他の人間(他者ではない)へどうつなげてゆくか。言い直すと「連帯」するか。それを「もの」の破壊(解放)にあわせて、どうつくりかえていくかという問題でもある。そのとき、三島は「時間」と直面する。自己延長としての「時間」である。
 芥はこれに対して、途中までは三島と意見を一致させるが、「時間」の問題と向き合うときから、完全に違ってくる。「自己延長」としての「時間」(他者を自己に従属させるということになる)は「解放区」を否定する。持続(連続)としての「時間」を存在させてはならない。常に「解放区」は「解放区」として存在しなければ存在の意味がない。「解放区」を出現させ続けることが「革命」だ。
 論理としては、芥が完全に三島を論破している。
 しかし、「論理」の問題は、どちらが勝ったかということではケリがつかないところにある。三島の論は論として「完成」している。だから、どんなに芥に論破されようと、三島は三島の「論理」に帰っていて、そのなかで「自己完結」できる。
 芥は芥で、三島を「論破」したところで、それから先に何があるわけでもない。芥の論理は論理として「完結」している。つまり、それを実行できるのは芥だけであり、結局はだれとも共有できないのだ。
 もちろん一部のひととは共有できる。だから、生きている。
 私がここで書く「共有」とは、たとえばボーボワールの「女は女に生まれるのではない。女に育てられるのだ」というような、だれもが納得し、常識として定着するということである。だれもがそれを指針として行動できる。女性差別をやめる、という具体的な行動としてボーボワールの哲学は「共有」されるが、三島の「論理」も芥の「論理」も、そういうひろがりを獲得できない。
 それは、言い直せば、あくまで「個人限定」の「論理」であり、「個人の思想」なのだ。ひとりで生きるしかないのだ。そしてふたりはそれを生きている。(三島は、生き抜いて、死んだ。)
 この激烈な対立をわくわくしながら見ていて、ふと思ったのが「演劇」である。三島は小説以外に「演劇」を書いている。芥は(私は見たことがないのだが)、演劇をいまもつづけている。
 演劇が小説と違うところは何か。
 演劇は基本的に「過去」を語らない。小説はあとから「過去」を追加できるが、演劇は役者が出てきたら、それから起きることだけが「勝負」である。もちろん「せりふ」で実はこういう「過去」があったと言うことはあっても、それは「過去」を語らなければならない事態が発生したということにすぎない。だから、役者は舞台に登場したときに、すでに「過去」を背負っていなければならない。(存在感がなければならない。)
 そして、それぞれの人間が「過去」を背負っているにもかかわらず、舞台の上で起きるのは、その「過去」を否定して、新しい「もの」としての人間として相手とぶつかることである。芝居とは、いわば「解放区」そのもののことなのである。
 で、こう考えるとき。
 というか、こう考えて、この映画を思い出すとき、二人がいかに「演劇」としてそこに存在していたかがわかる。ふたりはそこで討論しているのではない。「演劇」の瞬間を生きているのだ。
 芥が幼い娘(?)をつれて壇上に登場する。それ自体が「演劇」だ。ほかの学生とは違って、「赤ん坊を持っている」という「過去」を背負っている。「存在感」がほかの学生と完全に違っている。彼が発することば以上に、赤ん坊が「過去」を語るのだ。しかし、芥は当然のこととして、その「過去(赤ん坊)」を無視して、ことばそのものを三島にぶつける。
 三島は、そのときすでに知られていたように「作家」という「過去」を背負っているが、そしてボディービルで肉体を鍛えているという「過去」も背負っているが、そんな「虚構」でしかない「過去」、ことばで説明するしかない「過去」では、赤ん坊という「現実」そのままの「過去」に太刀打ちできるはずがない。
 もう、それだけで三島は芥に負けているのだが、二人とも「演劇」を生きる人間だから、「存在感」の勝負はわきにおいておいて、ことばを戦わせる。あいまにタバコのやりとりというような「間」の駆け引きもみせる。
 勝利を確信した芥は、途中でさっさと姿を消す。ほかの学生にはわからなくても、三島には芥が勝った(三島が負けた)ことは明瞭だから、それでいいのだ。三島を「もの」にして、芥の「解放区」は出現した。三島のことばは破壊された机、バリケードに利用される机のように、「もの」そのものとして三島の作品から切り離され、「単発の論理」としてそこに存在するだけのものになったのだ。それは「持続」させる必要はない。瞬間的にそれが出現し、その衝撃が、ほかのひとを揺さぶればそれだけでいい。最初に書いた芥の「解放区」をそのまま、そこに実行したのだ。だから、知らん顔して赤ん坊(過去)と一緒に帰っていく。
 三島は、そういうわけにはいかない。敗北の形であれ、それは確かに「解放区」であり、それが「解放区」である限りは、三島は三島の「論理」を完結させるために、それをことばで「時間」として存在させなければらならない。これは、まあ、矛盾しているというか、悪あがきなのだが、三島がすごいのは、その悪あがきをきちんと最後まで、「演劇」でいえば、幕が下りるまで実行するところである。これは、偉い。思わず、そう叫びたくなる。
 芥が「天才」だとすれば、三島は「秀才」を最後まで生きるのである。「秀才」だから、一度自分で決めた道は決めた通りに歩かないと「実行」した気持ちになれないのだろう。それが自衛隊での自決につながる。芥は「天才」だから、何かを「実行」するにしても「規定路線」など気にしない。自分で決めた道であっても、瞬間的にそれを否定し「解放区」を新たに出現させ、「解放区」と「解放区」を断絶させたまま生きるのだ。「解放区」を持続させる人間と、「解放区」さえももう一度「解放区」にしようとする人間の生き方の違いだ。

 それにしても。
 あの時代はすごかった。ことばがことばとして生きていた。ことばをつかって「時間」を断絶、拒否するのか(芥)、ことばをつかって「時間」を持続させるのか(三島)。どちらを目指すにしろ、ことばをないがしろにしていない。
 この映画では(討論では)問題になっていないが、いま、私が聞きたいと思うのは「ことばの肉体」についてふたりがどう思うかである。しかし、こういうことは聞くことではなく、ふたりのことばを読むことで、私自身が考えなければならないことである。
 肉体がことばであるように、ことばも肉体である。そのことばの肉体を動いている「時間」はどういうものか。
 私はぽつりぽつりと考えているだけだが、まあ、考え続けたい。

(中州大洋スクリーン2、2020年03月22日)

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五輪のことを語る時間はあるのか

2020-03-21 22:34:15 | 自民党憲法改正草案を読む
五輪のことを語る時間はあるのか
       自民党憲法改正草案を読む/番外322(情報の読み方)

 2020年03月21日の読売新聞(西部版・14版)の一面。トップニュースは「新型コロナ/一斉休校 延期せず」という見出し。これを読むと、新型コロナ感染が落ち着いてきたのかな、と思ってしまう。だが、簡単にはそうは言えない。
 それを裏付けるように、二番手の見出しは、

五輪「様々なシナリオ」/IOC会長 中止、議題にならず

 これは、読み方(内容の推測)がむずかしい。IOCが東京五輪について「様々なシナリオ」を考えているが、中止は考えていないと言ったらしい。「中止」ではないなら、まあ、延期か。その延期の仕方は「様々」ということだろうか。どちらにしろ、七月の開催はないということだろうなあ。
 それにしても、一面の記事には、安倍はおろか、日本の関係者の声(主張/方針)も載っていない。おかしくないか。
 かわりに29面(社会面)で「五輪どうなる・・・波紋」という見出し(4段)で反応が掲載されている。ただし、その前分には、

国内でも予定通りにの開催を疑問視する言動が表面化し始めた。

 と書かれている。
 そして、

「対応決めてない」/首相、G7で説明/トランプ明かす(1段)

 とひっそりと記事が付け加えられている。あれっ、これは、これまで安倍が主張していたことと違うぞ。そうなのだ。一種の「訂正記事」なのだ。しかも、安倍は自分で自分の発言を訂正するのではなく、トランプを利用して、トランプに語らせるという方法をとっている。
 ここから、わかること。
 どうも、安倍は「方針転換」したらしい。「東京五輪」の「7月開催」をあきらめたようだ。

 というようなことを考えていたら、2020年03月21日の読売新聞夕刊(西部版・4版)の6面(社会面)に、こんな見出し。

五輪開催方針に異論/ノルウェー五輪委「制御されるまで」(3段見出し)

 さらに、

米水泳連盟が1年延期要求(1段見出し)

 内容は、見出しどおり。
 延期や中止の主張は、これまでも少しずつ出ていたが、きょう21日の朝刊を境にして、政府(安倍)の「意見」が見出しから消え、姿を消した。これは、はっきりとした変化だ。
 おかしいのは……。(と、私は考える。)
 それならそうで、早くそう言えばいいではないか。なぜ、そうしないのか。
 ふたたび、見出しを見直してみる。朝刊1面、夕刊とつないでみる。

五輪「様々なシナリオ」/IOC会長 中止、議題にならず

五輪開催方針に異論/ノルウェー五輪委「制御されるまで」

米水泳連盟が1年延期要求

 何か気がつかない? 主語は何?
 IOC会長、ノルウェー五輪委、米水泳連盟と、いずれも「日本以外」の組織である。安倍ではない。安倍は、トランプが語ったということのなかに「伝聞」で出てくるだけで、主張していない。(過去に、こう語ったということは書かれているが。)
 これは何を意味するか。
 東京五輪が「中止(あるいは延期)」になったとき、安倍が、「海外からの要請があったので、中止することにした。世界の動きに配慮した」と「弁明」するためなのだ。安倍は、実行したい。けれども、世界が反対している、だからその声に従った、という印象を強めるための「情報操作」なのだ。
 東京五輪が中止になると経済損失がいくらということは、しきりに語られてきた。安倍が、経済を気にしていることを明確に語っている。きっと、安倍に献金している企業から苦情がくるのだ。その苦情を「だって、世界が中止しろといっているんだもん」と言ってかわすつもりなのだ。「ぼくちゃん、何にも悪い子としていな。ぼくちゃんは、東京五輪開催を願っているんだもん」というわけだ。

 この「情報操作」をだれが仕組んでいるのか知らないが、なんともはや、次に何を言うべきなのか、ことばが出てこない。
 安倍が率先して、「新型コロナウィルスで世界が苦しんでいる。いまは、コロナウィルスとの戦いに集中し、世界のために団結しよう。そのために東京五輪を中止しよう」と呼びかければ、安倍の評価も高まるだろうに、そういう決断ができない。「ぼくちゃん、何も悪くない」という言い訳しかできない。その言い訳のために、「日本以外の声」を利用している。
 情けない。

 日本でも感染者が増えている状況のなかで、「一斉休校」がどうなるかわからないが、朝刊のニュースを「一斉休校 延長せず」ではじめたのは、安倍の「新型コロナ対策」が効果を上げたと印象づけるための「操作」なのだ。
 安倍の判断とは別に、たとえば「クラスター」が発生したらしい大分市では小中学校の終了式は中止、というニュースがあった。感染者が増え続ける限りは、そういう方針をとる「現場」が必ず出てくるだろう。
 そのときはそのときで「現場の判断で休校したのであって、ぼくちゃんは無関係」と言うだけだろうなあ。「休校するなら、すればいい」と今度は突然「現場主導」に方針を転換するのだ。







#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(7)

2020-03-21 20:29:51 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

順番

たれも知らないものが手から手の闇を通りすぎたのだ

 これは何の「比喩」だろうか。
 たれも知らない「もの」と書かれているが、「もの」なのか。「手」ではないのか。手と手をつなぐ。そのつないで「手」の「つなぐ」という動詞の中を、「手」というものが通りすぎる。あるいは「つなぐ」という動詞そのものが通りすぎるのだが、動詞(動き)は固定したものとして指し示すことができないので「もの」という表現になる。
 そして、そのとき「つなぐ」にしろ「通りすぎる」にしろ、動詞というものは「名詞」に比べると「闇」のように暗いのだ。「ある」ことはわかる。しかし、その「ある」は光のなかで見えるようなものではない。
 たとえて言えば、肉体の内部で肉体を動かしている「力」。
 それは目に見えない。しかし、「ある」ことは確かだ。

 私は、いったい何を書いているのだろうか。





*

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2020年03月20日(金曜日)

2020-03-20 11:57:18 | 考える日記
対話していて「正義」ということばが出てくると驚いてしまう。
「対話」は正義を追求するものではない。「正しさ」さえ求めたりはしない。ただ「わからない」を確かめるためにある。
わからないから「対話」する。その結果「わからない」が残っても、それが対話というものだろう。

私はソクラテスから踏み出すことができない。
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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(6)

2020-03-20 11:51:32 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

塔の中の神

塔の中にゐるおまへの世界の話だ
その安全は神にとどいてゐる垂直にあるやうだ

 「塔」は「垂直」に立っている。したがって「塔の中の世界」とは「垂直な世界」ということになる。広さではなく、高さの世界。
 そして、この詩ではその「垂直」が「とどく」という動詞と一緒に動いている。
 「神」に「とどく」と「垂直」を組み合わせると、「神」の居場所は「塔の上」ということになる。簡単に言い直すと「天」(とどかない高さ)にいるのが「神」だ。
 「神」と「天」の組み合わせは「思考の定型」だが、それはどうも納得がいかない。
 「神」が「天」ではなく、すぐ隣にいてもいいし、また遥かな地平線のかなたにいてもいいかもしれない。いや、どこにもいなくてもいいかもしれない。
 私は、どこにもいなくていいと考えるので、神の存在場所としての「天=垂直のかなた」というものに疑問を持つのだろうか。「塔」が自己を「垂直」の方向に育てていくための比喩であると考えるとき、その先に「神」が存在すると考えるのは、私には自己と神の一体化、同一視のようにも感じられ、異議を差し挟みたくなる。




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ちぐはぐな「情報」

2020-03-20 10:10:38 | 自民党憲法改正草案を読む
ちぐはぐな「情報」
       自民党憲法改正草案を読む/番外322(情報の読み方)

 2020年03月20日の読売新聞(西部版・14版)の一面(社会面)。新型コロナウィルスについて専門家会議が「爆発的患者増を警戒」という見出しにつづいて、

大阪-兵庫 往来自粛を/知事要請 3連休中、感染拡大防止

 という見出し。なぜ、大阪と兵庫だけ? 大阪と兵庫で感染者が増えているというのが理由だが。
 ページをめくって読み進んで行くと34面に、こういう記事がある。なぜ自粛要請をしたか。

(吉村・大阪府知事が)根拠として挙げたのは、国から派遣された専門家から示されたとする「試算」だ。大阪、兵庫両府県では19日までの1週間で感染者が約80人に増加。試算では、このまま放置すれば今後の1週間で最悪の場合、感染者が568人に増え、さらに1週間後は3374人に達するという内容だった。

 数字の大きさに驚くと同時に、私は、その数字の「具体性」さに驚いた。概数、約、ではなく、端数まできちんと書いてある。
 おかしいでしょ?
 わかっているはずの、既存の感染者については「19日までの1週間で感染者が約80人」と「約」という表現がついている。概数。
 それなのに予測の方は「568人」「3374人」と一桁の数まで明確にされている。これは、どうして?

 思うに。
 吉村が提示されたのは、新聞に書かれている「試算(数字)」だけではないのだ。そのときに必要になる医師の数、病棟の数、ベッドの数など、もっとたくさんある。そして問題は、患者数よりもそれに対応できる「医療体制」なのだ。
 だから、記事には、こんな文章がつづく。

試算では、2週間後に重症者も227人に上るとされ、吉村知事は「この数字になれば、軽症者は病院で対応できなくなる」と、感染者数を抑制する必要性を強調した。

 ここでも重症者の数は「227人」と具体的だ。その一方、確保できる病棟、ベッド数はあいまいで「軽症者は病院で対応できなくなる」と発言している。
 でも、それは「227人」だから、できなくなるのか、もっと少なくてもできなくなるのか、それは書かれていない。「100人」でもできないのだとしたら、それはいつの段階? 
 ここには可能なベッド数(確保しているベッド数、さらに追加できるベッド数)が明記されていないので、そこから「逆算」して、何人までなら、つまり、いつまでなら対応ができるかがわからない。
 こういうことは、一種の「情報の隠蔽」なのである。
 具体的な「数字」がわかったとしても、一般市民にできることはかぎられているが、認識の持ち方、自分の行動の仕方が違ってくる。パニックになるかもしれないが、落ち着かなければという意識が浸透するかもしれない。どちらになるかわからないから公表しないというのではなく、パニックにならないようにするにはどうすればいいのか、ドイツのメルケルのように冷静なことばで語りかける必要がある。
 正確な数字と、正確な「指針」。その二つが必要なのに、やっていることがちぐはぐだ。
 私の印象では、いちばん落ち着かないといけない知事が「パニック」になっている。何もしなければ、自分の責任が問われる、と思ったのだろう。もし、そう思ったのなら、単に「移動自粛」を呼びかけるだけではなく、医療システムをどうすると考えているのか、そこまで語らないといけない。このままでは「対応できなくなる」とうろたえるのではなく、そういう事態に対応するために、「ホテルを借り上げて病床を確保できるよう準備を進めている。国とも協議している」くらいのことをいわないといけない。そういう「根回し」をした上で「情報公開」しないと、不安をあおるだけだろう。

 記者にしたって、「不足する病院の対策については国と協議しているのか」くらいの質問をして、それを記事にしてほしい。記者会見で発表されたことなのだろうから。
 安倍にしろ、ふたりの知事にしろ、いちばん落ち着かないといけない人間が浮き足立っている。
 比べてもしようがないのだろうけれど、メルケルは立派だなあ。私は当事者のドイツ人ではないから落ち着いて受け止めることができるだけなのかもしれないが、あの演説のことばを聞くと、よし、落ち着いて行動しよう、という気になる。安倍や、ふたりの知事のことばでは「おいおい、おれたちに何ができる?」という疑問しか起きない。

 あ、だんだん、ずれてしまったが。
 「公表される情報」がどうも不規則すぎる。「整理した情報」を提供する意思を欠いているとしか思えない。










#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(5)

2020-03-19 10:54:43 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

彗星

きふに一群の駒が一つの方向にむかつて駆けだした
詩語のやうに並んだ駒に風がつよくあたる

 「並んだ」は「並んで駆けている」ということだと思う。つまり「一つの方向」を言い直したものだ。そしてそれは「ばらばら」ではなく「並んだ」状態。「並ぶ」には「整える」という意味があると思う。
 これはそのまま「詩語」の比喩、「詩」の比喩になっている。
 詩は「詩語のやうに」と「詩語」が比喩であるかのように書かれているが、逆に「一群の駒」が「詩」の比喩なのだ。
 「風がつよくあたる」は、だから、とてもおもしろい。新しい「詩」はいつも「逆風」のなかで生まれる。「逆風」をついて走るとき、「詩」は輝く。




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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(4)

2020-03-18 10:41:40 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

ある意図になる習作

はるかに高い空 その直下に並んでいる多くの窓
真昼の窓にあつまつてくるぎらぎらする夏


 夏の光の強靱さは「ぎらぎら」としか言いようがない。そして、この「ぎらぎら」を説明するのはむずかしい。「きらきら」ではなく「ぎらぎら」というとき、何が違うのか。もちろん光そのものも違うのだが、受け止めている私自身の感覚も違ってはいないか。「きらきら」が無機質なのに対し、「ぎらぎら」は有機質な感じがする。つまり「肉体的な」感じが。「あつまつてくる」ということばが、さらにそういう印象を駆り立てる。私のなかに集まってくる。いや、私のなかの何かを集めるように(凝縮させるように)、あるいは剥き出しにするように、そこに存在するもの。
 光(夏)がぎらぎらと存在するのか、私がぎらぎらした存在になるのか。

なにも映つてゐない新しいフイルムのような一つの窓

 私は、そんなふうに生まれ変わる。何かを映し出し、生み出す新しいフィルムに。




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