詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

サラマーゴの文体、時制の選択

2021-11-17 10:25:04 | その他(音楽、小説etc)

サラマーゴの文体、時制の選択

 

 きのう書いたことのつづき。

 サラマーゴは突然あらわれた女(私は、「あなたと行くところならどこへでもついて行きます」といった女が「生まれ変わった」姿として読んだ)が放火するシーンは現在形で書かれている。

 私が感動したと紹介した部分(228ページ)、女が「あなたと行くところならどこへでもついて行きます」と言った部分からはじまる文章さえ、

 la mujer habló, A donde tu vayas, ire yo

 女は言った(habló)、「あなたと行くところならどこへでもついて行きます」と過去形で書かれている。聞いた眼帯の老人も、

 El vieno de la venda negra sonrió

 黒い眼帯の老人は笑った(sonrió)と、その反応を過去形で書いている。

 そういうことを理解すると、放火シーンがなぜ現在形なのかがわかる。

 さらに、生々しさだけで言うなら、医師の妻たちが強姦されるシーンはどうか。210-211ページ。

 La mujer del medico se arrodilló           

 医師の妻はひざまずいた(se arrodilló)

 やはり過去形なのだ。なぜ、生々しいシーン、そこれこそスケベごころを刺戟するシーンが過去形なのか。ここが現在形で書かれていたら、私なんかは、スケベだからもっと興奮する。若いときなら勃起したかもしれないし、オナニーをするために読み返したかもしれない。

 だが、そんなところ(描写)はサラマーゴにとって重要ではなかったのだ。こんなところで、思春期の少年が興奮するように興奮してもらっては困るのだ。人間の「本質」とは関係がないのだ。「生きる」ということとは関係がないのだ。

 この小説の中に、女は何度でも生まれ変わる、というようなことが書いてある。(サングラスの少女が言う。)「生まれ変わる」瞬間、新しい自分が生き始める瞬間、それは絶対に「過去形」ではないのだ。こういうことこそが、「文体の思想」である。ことばは、その人が到達した思想の到達点を示すといったのは、誰だったか。三木清だったか。

 そうした「思想としての文体」を訳出しない限り、それは翻訳とは言えない。

 

 私はポルトガル語ではなく、Basilio Losadaという人が訳したスペイン語版を読んでいるのだが、ポルトガル語とスペイン語は姉妹言語だから、翻訳するときに「時制」を変えるということはしていないだろう。サラマーゴの「文体」は正確に踏襲されているはずである。

 意味というのは「ことば(単語)」のなかにあるのではなく、「文体」のなかにある。それは、そして「名詞」のなかにあるだけではなく、「動詞」のなかにこそあるし、その「動詞」は「時制」という複雑な「味」を持っている。これを読み取ること、味わうことが文学の楽しみだと私は思っている。

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サラマーゴの文体

2021-11-16 10:23:51 | その他(音楽、小説etc)

サラマーゴの文体。
245ページで、ハッと衝撃を受ける。
上から二行目。
La mujer ha salido ....
現在完了形。言わば、過去形。ただし、意識は現在につづいている。
それが
Va por el corredor
と現在形にかわり、クライマックスの放火のシーンでは
La mujer está de rodillas....
以下、現在形がつづく。
ナレーションの文体を変えているのだ。
日本語でいえば、「した」でも意味は通じる。実際、日本語訳は過去形である。
でも、現在形の方が臨場感がある。
女の行動だけれど、自分が行動している気持ちになる。
現在完了形→現在形→現在形の連続と変化していくところが、本当に素晴らしい。
文学の醍醐味は、こういうところにある。
よく読むと、こういう文学的仕掛け、しかも本質的な仕掛けが、この小説にははりめぐらされている。
以前書いたが、最初の信号の描写から、それは始まっている。
これを無視した(気づかない?)雨沢泰の訳文は、ちょっとひどすぎる。 

 
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新倉葉音「見られている」、長嶋南子「赤い靴」

2021-11-15 11:10:26 | 詩(雑誌・同人誌)

新倉葉音「見られている」、長嶋南子「赤い靴」(「Zero」17、2021年11月03日発行)

 新倉葉音「見られている」は、カラスとの出会いを書いている。

誰もいない樹林
萌え木のドームの下で
ひとりだけのピクニック
おにぎりを手にとると
嘴細鴉が低空飛行で向かってきて
隣のベンチの背に留まった
首を回してずっとこちらを見ている
春を楽しみにきただけなのに
気が気ではない

 カラスは人間のまわりへ平気でやってくる。いたずらもする。気になるね。狙ったように、糞を落としてくることもある。詩は、つづいていく。

ふといなくなったが
ゆっくりする気にもなれず
立ちあがり見あげると
ヤツはいた
横へと伸びた桂の枝に留まって
私を見下ろしている
急いで通り過ぎ 振り向くと
座っていた足下をつついている

縄張りで覚えこんだルーティンを
こなしているだけなのだと思うと
途方に暮れるが
生きるためのルーティンを
毎日こなしている私と
そう変わりはない

 「ルーティン」ということばのなかでカラスと新倉が一体になる。生きているものはみな似ているのだ。「ルーティン」をことばにして、ことばは、こうしめくくられる。

とりえあず今日一日は
いつもと同じに終わるのだろう
同じ場所で
私もヤツも

 「途方に暮れた」けれど、「ルーティン」がその「く途方に暮れる」ことから救い出してくれる。
 なんでもないことのようだけれど、こういうなんでもないことを、そのまま「ことば」にするというのはいいなあ、と思う。ひとはことばなしでは、それこそ途方に暮れる。ことばがあるから考えることができる。
 ところで。
 この詩では、私はあえある部分(四行)を省略して引用している。その四行は、読者が想像すればいいことかな、と思ったからである。
 せっかくの詩なのだから、なんでもないことでも、やはり、その人だけにしか書けないことを書いてもらいたい。
 長嶋南子の「赤い靴」は、長嶋にしか書けないことを書いてる。

手をつないで歩いていた
交番の前にくるとパッと手を離し
赤い靴履いて
胸元の大きく開いたワンピースを着て

ずっと赤い靴履いている
手をつないで歩いた男の顔を忘れ
別の男は似合うねといって死んでいった

 と、いっても、私はこういう書き出しを長嶋にしか書けないことと思っているわけではない。瀬戸内寂聴だって書くだろう。人目をひきつけるけれど、これはある意味では「定型」である。「定型」だから長嶋も安心して書いている。これくらいの「遍歴」は、いまでは「遍歴」とは言わないし、エピソードとも言わないかもしれない。「別の男は似合うねといって死んでいった」ときうことばの強靱さには、長嶋を感じるけれど。
 このあと詩はどんどん転調していく。

だれもいなくなった部屋で
あたたかい肌が欲しくなって
ネコを飼う
四つ足に赤い靴を履かせる
ネコは避妊手術をしたので
フェロモンが分泌されない
わたしのフェロモンは食べてしまった

 肌が「恋しく」なって、ではなく「欲しく」なって。いいなあ。避妊手術からフェロモンの話に変わっていくところもいいなあ。
 でも、ネコに靴を履かせるって、ほんとうかなあ。私は、ネコには近づかないことにしているので、こういうことはわからない。ネコの出てくる詩は、読みたくないなあ、と思いながら、それでも読んでいくと、詩はこんなふうに変わる。
 新倉がカラスと「ルーティン」で一体化したように、長嶋は「赤い靴」をとおしてネコと一体になる。

赤い靴履いたら踊り狂うしかない
ネコもわたしも狂い死にするの
だからね
生きているのがとても好きになる つかのまだけど
ほら ネコがおもちゃをくわえて飛んでくる
遊び呆けよと
おもちゃのネズミがいった
たのしいね たのしいねネコ

 いいなあ。この最終連は長嶋にしか書けない。「赤い靴履いたら踊り狂うしかないね/ネコもわたしも狂い死にするの」のネコを手をつないで歩いた男に書き換えてみたい。「生きているのがとても好きになる つかのまだけど」もいいなあ。男がいったのか。男に対して長嶋がいったのか。
 わからないけれど、こういうことも「一体」になった男と女のことばだから、どっちが言ってもいいのだ。
 でも、ここまでも瀬戸内寂聴も書くかもしれない。私は瀬戸内寂聴を一冊も(一ページも)読んだことがないので、かってに想像しているだけだけれど。
 おもちゃのネズミの呼びかけもいいけれど、最後の一行がとってもいい。私の嫌いなネコが出てくるけれど、それでも気に入っている。
 「たのしいね たのしいね」
 これを、長嶋はどんな声でいうのか。声に出さずに、こころのなかだけでいうのか。そして、そのこころのなかだけでいったために、こらえきれなくなって、ことばが詩になってふきだしてきたのか。長嶋の「肉体」を突き破って、ことばが、そこにことばとして存在している。この「たのしいね」に私はどれだけの感情をぶちまけることができるか。私の感情をこのことばのなかに捨て去って(あるいは、そうすることで忘れることができなるかもしれないのだが)、きょうを生きていけるか。
 「感情」はだれにでもある。思想と同じように。
 だから、詩には、その感情の入り口だけを書けばいい。あとは読者の仕事。

 私が新倉の詩で省略した部分と、長嶋の最終行を、比較することができる人がいれば比較してみてください。

 

 

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Tengo algo que decirte

2021-11-14 20:44:50 | 

Andreas Martin Andersen - Hendrik Andersen and John Briggs Potter in Florence (1894)


Tengo algo que decirte

 

Me siento en el borde de la cama y me pongo los calcetines

La luz de la mañana entra por los huecos de las cortinas

La luz corre veloz sobre tu blanca desnudez

Como mis dedos se movieron sobre tu piel anoche

 

Lentamente abres tu cuerpo, apartas las sábanas

Recuerdas el amor en tu sueño

Tu dedo traza suavamente sobre la luz

Para prolongar el tiempo del éxtasis

 

Veo tus labios abiertos pequeños

Dientes más blancos que la luz están húmedos

La lengua recorre el paladar en busca de sonido.

Una voz débil se filtra, llama a un nombre que no es mio

 

Entiendo todo, todos tuyos

Pero no son los celos ni la tristeza lo que me atrapa

Es un placer que no me puedo nombrar

Es aburrido amarte que no es amado por nadie

 

No es un amor que todos adoran

Entonces necesito un rival

Es más importante que tú

Solo ese hombre conoce el significado de este amor

yachishuso

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自民党憲法改正草案再読(38)

2021-11-14 11:21:10 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(38)

(改正草案)
第九章 緊急事態
第98条(緊急事態の宣言)
1 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。
2 緊急事態の宣言は、法律の定めるところにより、事前又は事後に国会の承認を得なければならない。
3 内閣総理大臣は、前項の場合において不承認の議決があったとき、国会が緊急事態の宣言を解除すべき旨を議決したとき、又は事態の推移により当該宣言を継続する必要がないと認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、当該宣言を速やかに解除しなければならない。また、百日を超えて緊急事態の宣言を継続しようとするときは、百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない。
4 第二項及び前項後段の国会の承認については、第六十条第二項の規定を準用する。この場合において、同項中「三十日以内」とあるのは、「五日以内」と読み替えるものとする。

 重複するが、もう一度引用しておく。きのうは茂木の発言に引っ張られすぎた。
 「緊急事態条項」のいちばんの問題点は、「主語」が「内閣総理大臣」であることだ。主語、テーマの視点からこれまで読んできた憲法を振り返ってみる。
 「前文」は、現行憲法は「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」と始まる。「国民」が主語。そして、国というのは「国会(国民の代表者)」を通して動くという「テーマ」が語られる。「テーマ」を遂行するよりどころが「憲法」である。改正草案は「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち」と「日本国」がテーマ。国民は「脇役」になっている。
 「第一章 天皇」は、現行憲法も改正草案も「天皇は」で始まる。これは「主語」というよりも「テーマ」である。
 「第三章 国民の権利及び義務」は現行憲法「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」、改正草案「日本国民の要件は、法律で定める」。このときの「日本国民(たる要件)」は「テーマ」である。「主語」にみえるが、「主語」であることを明確にするために、「テーマ」を掲げる。「テーマ」を隠すために、改正草案は「これを」を削除している。
 「第四章 国会」は、現行憲法、改正草案とも表記に一部違いはあるが「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である」。ここでも「国会」が「テーマ」でるあることを明示している。
 「第五章 内閣」は、現行憲法が「行政権は、内閣に属する」、改憲草案が「行政権は、この憲法に特別の定めのある場合を除き、内閣に属する」。書き方は違うが「行政権=内閣(内閣=行政権)」と「内閣」を定義している。「主語」ではなく、ここでも「内閣」は「テーマ」である。
 「第六章 司法」は、表記が一部違うが現行憲法、改正草案とも「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」である。ここでも「司法権」とはどういうものか定義される。この定義によって「司法」が「テーマ」であることが明確になる。
 「第七章 財政」は現行憲法、改正草案とも「国の財政を処理する権限は」とはじまる。これも「テーマ」が何であるかをしめしている。
 「第八章 地方自治」は、現行憲法が「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて」ではじまる。改憲草案は「地方自治体は、基礎地方自治体及びこれを包括する広域地方自治体とすることを基本とし」とはじまる。やりは「地方自治」が「テーマ」であることが提示される。「主語」にみえるが「テーマ」である。
 憲法は、まず、「テーマ」を掲げ、それを定義し、それから細部をつめていくという構造になっている。
 ところが「緊急事態」は違うのだ。
 「内閣総理大臣は」とはじまる。「主語」が先にくる。「緊急事態」とは何か、という「テーマ」の定義がない。これでは、この章は「内閣」の章のなかに組み込まなければならないことになる。なぜ、内閣の章に組み込まなかったのか。内閣の章に組み込めば、内閣の「独裁指向」が鮮明になりすぎるから、それを避けたということである。
 つまり。
 言いなおせば、この「緊急事態条項」というのは「内閣独裁」を推進するためにつくられた特別のものなのだ。
 「内閣」は何をするのか。「緊急事態」とは何なのか。

内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは

 「認めるときは」の主語は「内閣」である。「内閣が必要と認めるときは」である。

法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる

 「法律の定めるところにより」と断り書きがあるが、「閣議にかけて、緊急事態の宣言を発する」の「主語」は「内閣」である。
 つまり「内閣」が独断で、今起きていることは緊急事態であると認め(判断し)、閣議にかけて緊急事態と「宣言する」。「内閣」という「主語」で貫かれた条項なのである。
 「安倍昭恵は私人である」とか、なんとかかんとか(忘れてしまった)の意味はこれこれであるというどうでもいいことが(安倍昭恵はどうでもいい問題ではないかもしれないが)、「閣議決定」されている。いずれも安倍の「発言」が問題になったときである。そのレベルで「緊急事態」であるかどうかが判断され、閣議で宣言されるのである。つまり、内閣総理大臣の思いのままに、「緊急事態」が発令されるということである。
 安倍昭恵問題もそうだが、すでに戦争法制定のとき、国会周辺に押し寄せたデモを取り締まるために地下鉄の出入り口まで操作するということが起きている。「緊急事態」ということばはつかわれていないが、それは安倍の私的に「緊急事態」を宣言し、それに警察、機動隊が同調したということだろう。
 こういうことがあったあとで、2項で、「国会」を持ち出してきても、「国会」は主語でもなんでもない。お飾りである。
 2項は、よくみると、奇妙な文体である。

緊急事態の宣言は、法律の定めるところにより、事前又は事後に国会の承認を得なければならない

 最初にあらわれた(そして3項でもあらわれる)「内閣総理大臣は」という「主語」が隠され「緊急事態(の宣言)」という「テーマ」が冒頭にあらわれる。この文章は、内閣総理大臣を「主語」にすると、どうなるか。

内閣総理大臣は、法律の定めるところにより、緊急事態の宣言について、事前又は事後に国会の承認を得なければならない

 である。こう書いてしまうと、やはり内閣総理大臣の独断が目立ってしまうので、それを隠すために「緊急事態の宣言は」と書き始めているのだ。
 こういう「文体の罠」にもっと私たちは注意しないといけない。
 新型コロナのようなことが起きたとき、「緊急事態宣言」が必要なのかどうかということと同時に、それを定めたことばがどのように書かれているか、その「文体」にまで踏み込んで、そのことばの狙いをつかみ取らないといけない。
 2項で消えたはずの「内閣総理大臣」が3項で復活してきている。「内閣総理大臣は」「閣議にかけて、当該宣言を速やかに解除しなければならない」と内閣総理大臣の独断に拘束をかけているようにみえるが、先日書いたように、「百日」の運用次第で、どうとでもなる。
 4項は、国会を登場させることで、内閣総理大臣の「独断」を解消しようとしている。4項によって、内閣総理大臣の「独断」が否定されるわけではない。

 

 

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自民党憲法改正草案再読(37)

2021-11-13 16:16:39 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(37)

 2021年11月13日の読売新聞(西部版・14版)の一面に、自民党幹事長・茂木のインタビューが載っている。「緊急事態条項の創設優先/自民・茂木氏 改憲論議を加速」という見出し。記事の前半部分。

 自民党の茂木幹事長は12日、読売新聞のインタビューに応じ、衆院選で憲法改正に前向きな日本維新の会や国民民主党が議席を伸ばしたことを踏まえ、改憲論議を加速し、緊急時に政府の権限を強化する「緊急事態条項」の創設を優先的に目指す方針を示した。
 茂木氏は「新型コロナウイルス禍を考えると、緊急事態に対する切迫感は高まっている。様々な政党と国会の場で議論を重ね、具体的な選択肢やスケジュール感につなげていきたい」と述べた。

 予想していたとおりにコロナウィルスと緊急事態条項を結びつけてきた。まるで緊急事態条項がなかったために日本のコロナウィルス感染が拡大したかのような主張である。まだコロナウィルス対策の検証もすんでいないのに、である。
 問題点はあれこれあるが、諸外国で「緊急事態条項」に類する「憲法」をもとにコロナ対策を進めた国があるか。そして、その国はその対策によって対策の効果を上げたのか。世界的に見てコロナ封じに成功した国は中国やニュージーランドなどわずかである。中国はたしかに「緊急事態条項」のようなものを適用したのかもしれない。権力が国民の自由を奪い、強引にコロナウィルスの移動を封じた。もし、茂木が目指しているものがそうであるなら、それは「中国共産党の政策」をコピーすること、自民党が「中国共産党」になり、独裁をなしとげるということだろう。コロナ対策を口実に、中国共産党並みの独裁を進めるということだろう。
 だいたい、諸外国のよう「都市のロックダウン」は日本には合わない、
というのが安倍や菅の主張ではなかったのか。いったい、「緊急事態条項」をもうけることで、コロナ対策をどう進めるのか。それを明確にしないで、「新型コロナウイルス禍を考えると、緊急事態に対する切迫感は高まっている」と言っても空論だろう。緊急事態条項新設のためにコロナを利用しているにすぎない。
 コロナ感染がはじまったときから、私は何度も隔離病院を建設する、PCR検査を徹底することが重要と書いてきたが、緊急事態条項があれば病院の建設が進み、PCR検査が進んだのか。緊急事態条項がなかったから病院建設ができず、検査もできなかったのか。違うだろう。ワクチンにしても緊急事態条項があれば、国産ワクチンができたのか。接種が進んだのか。緊急事態条項がなくてもできるのにしなかった。それが問題なのだ。
 緊急事態条項があれば、安倍のマスクを全国民に配布することができ、余剰のマスクのために無駄な管理費をつかなくてもすんだのか。違うだろう。
 コロナ感染状況は、日本は、11月13日現在落ち着いてみえる。これは緊急事態条項を新設すると茂木が言ったから、そうなったのか。違うだろう。また世界的に見れば、ヨーロッパでは再び拡大しているようにみえる。拡大がおさまらない。緊急事態条項のもとで対策を進めていないから?
 事実を無視して、自分の都合で「コロナ対策」を口実にして、緊急事態条項を盛り込もうとしている。こんな「非科学的」な論理で憲法を変えるのは、あまりにも乱暴である。
 その「緊急事態」。これは新設なので、現行憲法と比較できない。そのため問題点を指摘することがむずかしい。私は「法律」をほとんど読んだことがない。(憲法は何度も読んでいる。)どうやれば、問題点を指摘できるか。わからないまま、書き進めるしかない。

(改正草案)
第九章 緊急事態
第98条(緊急事態の宣言)
1 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。
2 緊急事態の宣言は、法律の定めるところにより、事前又は事後に国会の承認を得なければならない。
3 内閣総理大臣は、前項の場合において不承認の議決があったとき、国会が緊急事態の宣言を解除すべき旨を議決したとき、又は事態の推移により当該宣言を継続する必要がないと認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、当該宣言を速やかに解除しなければならない。また、百日を超えて緊急事態の宣言を継続しようとするときは、百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない。
4 第二項及び前項後段の国会の承認については、第六十条第二項の規定を準用する。この場合において、同項中「三十日以内」とあるのは、「五日以内」と読み替えるものとする。

 茂木の言っている「新型コロナウイルス禍」は、第98条1項の「武力攻撃」「内乱等による社会秩序の混乱」「地震等による大規模な自然災害」のどれにあたるか。人為によらないものだから「自然災害」か。
 ぜんぜん、わからない。
 そして、この「ぜんぜん、わからない」ということが、非常に問題なのだ。
 たとえば「我が国に対する外部からの武力攻撃」ということばは衝撃的で、私はうろたえてしまうが、今現在ある「法律」でいえば、「安全保障関連法」では集団的自衛権を認めている。日本が直接攻撃されなくても、ある戦闘が日本の存亡の危機に直結する場合は自衛隊が海外へ行って戦闘に参加することができる。最近話題になっている「台湾有事」の場合も、自衛隊が出かけていくのだろう。そうすると、それは中国(と、仮定しておく)から見れば「我が国に対する外部からの武力攻撃」にあたるから、当然のこととして日本へも攻撃を仕掛けてくるかもしれない。それは「攻撃」というよりも「反撃(防衛)」だろう。それでも日本は「我が国に対する外部からの武力攻撃」と定義し、緊急事態条項を宣言するのだろうか。もし、そうであるなら、日本がある国に先に何か行動を起こし、その国から反撃させ、「外部からの武力攻撃」と定義し、緊急事態宣言をすることもできるだろう。「集団的自衛権」が存在しないなら、安全保障関連法が存在しないなら、まだ、かろうじて「我が国に対する外部からの武力攻撃」の定義を受け入れることができるが、日本が、ある国で武力活動をできるようにしておいて「我が国に対する外部からの武力攻撃」というのは、あまりにも自分勝手である。
 「内乱等による社会秩序の混乱」の「内乱」の定義もわからない。いつの選挙だったか、安倍にヤジを飛ばしただけで市民が警察に拘束される(あるいはつきまとわれる)ということがあった。この事件など「内乱等による社会秩序の混乱」を先取り実施したものといえるだろう。「社会的秩序の混乱」も「他の聴衆が演説を聞くのを妨害した」というのが「混乱」にあたるというに違いない。だから、きっと、「自民党は政権から下りろ」というのは「内乱」にあたるし、政権交代を目指し立憲民主党と共産党が共闘するのも「内乱」あたる。しかし、たとえば立憲民主党と連合の対立は「内乱」でも「社会的秩序の混乱」ない。むしろ、自民党にとっては「連合による社会的秩序を回復させるための戦い(共産党を排除する戦い)」ということで、推奨されるだろう。「内乱」にしろ「社会的秩序」にしろ、それは、あるひとがどのような立場で社会に参加しているか、社会をどう定義しているかによって違ってくる。
 コロナ問題で考えれば、集団で飲食店で飲み食いするのは、コロナ感染を抑制したい側から見れば「社会的秩序」を乱すもの(混乱させるもの)だが、飲食店側から言わせれば十分な補償をしないことが「社会的秩序」を「混乱」させるもの、ということになる。店がつぶれる。失業者が出る。食べていけない。それは「被害者」にとって「社会的秩序の混乱」である。客がきて、飲食し、金が稼げるというのが飲食店の考える「社会的秩序」である。
 いったい、コロナ対策で、自民党は何をしたのか。それは、どんな効果を上げたのか。どんな問題があったのか。検証しなければいけないことがたくさんあるはずだ。それを放置しておいて、コロナ対策を進めるためには「緊急事態条項」が必要だというのは、それこそ、いまある「社会的秩序」を混乱させるものだろう。
 2項では、「事前又は事後」の「事後」が特に問題になるだろう。たいていの場合、緊急事態なのだから「事前」というのはむずかしい。「外部からの武力攻撃」や「自然災害」は予期しないときに起きる。だから「事前」に国会の承認を得るということは、まず、ありえない。「事前」が可能なのは「内乱等による社会秩序の混乱」である。「共産党が武力革命を計画している」という「情報」をもとに緊急事態宣言をし、共産党を拘束するということはあるかもしれない。私のように憲法改正反対ということを口にしている人間も「社会的秩序の混乱」を招くということで、「緊急事態」とはいわないが、その動きが大きくなる前につぶしておけ、という動きが出てくるかもしれない。
 「事後」にいたっては、いったい期限がいつなのか、わからない。3項に「百日」というひとつの目安があるが、その百日にしろ、いま起きていることは百日前に起きたこととは別問題(あるいは、さらに発展した問題)だから、百日の限定は当てはまらないと言って、緊急事態宣言の「継続」ではなく、第二の「緊急事態宣言」、第三の「緊急事態宣言」という具合に更新し続けることができるのではないか。更新と延長は違うと、自民党はきっというに違いない。

 

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇121)Joaquín Llorens

2021-11-13 10:04:26 | estoy loco por espana

Bienal Internacional de Arte Contemporaneo de Valencia CVOに招待されたJoaquín Llorensの作品。

 

 

Este trabajo es muy ligero.

Imagino:

Las olas chispeantes en el Mediterráneo.

El viento que sopla por las llanuras de España.

Los pájaros volando en el cielo de España.

Todos son su corazón libre.

この作品はとても軽やかだ。

私は想像する。

地中海のきらめく波。

スペインの平原を吹き抜ける風。

スペインの空を飛ぶ鳥たち。

それらは、すべてホアキンの自由なこころ。

 

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自民党憲法改正草案再読(36)

2021-11-12 11:05:40 |  自民党改憲草案再読

 

自民党憲法改正草案再読(36)

(現行憲法)
第八章 地方自治
第92条
 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。
(改正草案)
第八章 地方自治
第92条(地方自治の本旨)
1 地方自治は、住民の参画を基本とし、住民に身近な行政を自主的、自立的かつ総合的に実施することを旨として行う。
2 住民は、その属する地方自治体の役務の提供を等しく受ける権利を有し、その負担を公平に分担する義務を負う。
第93条(地方自治体の種類、国及び地方自治体の協力等)
1 地方自治体は、基礎地方自治体及びこれを包括する広域地方自治体とすることを基本とし、その種類は、法律で定める。
2 地方自治体の組織及び運営に関する基本的事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律で定める。
3 国及び地方自治体は、法律の定める役割分担を踏まえ、協力しなければならない。地方自治体は、相互に協力しなければならない。

 現行憲法の文言は改正草案第93条2項に吸収されている。前後に、たくさんのことばが追加されている。新設された改正草案の第92条は、現行憲法の「地方自治の本旨」を定義し直したものだろう。現行憲法に「定義」がないのは、たぶん、憲法の「本旨」が国家権力を拘束するものという意識で制定されているからだろう。地方自治体も「権力」であるけれど、国家権力とは性質が違う。地方自治は「住民参画/自主/自立」が基本であるという1項の定義はいいのだけれど、2項の「義務」ということばに私は注目した。
 現行憲法では、納税、勤労、教育が国民の義務である。
 新設された第92条では、「国民の義務」ではなく「住民の義務」が追加されている。これは、おかしくないか?
 国会、内閣、司法、財政の各章には、「国民の義務」は書かれていない。それは憲法が権力を拘束するものであって、国民を拘束するためのものではないからだ。国会の仕事はこれこれ、内閣の仕事はこれこれ、司法の仕事はこれこれ、とつづく。そこには「国民」が何かしなければならないという表現は出てこない。
 それが突然、ここに出てくる。
 菅は「自助共助公助」と言ったが、そのことばに従えば、地方自治は、たぶん「共助」にあたる。国(公)に頼る前に、自分たちでなんとかしろ。そのためには住民が税金を別途に払え。国は地方自治のために金など出さない、ということだろう。
 国は国民を支配する。地方自治は住民を支配しろ、ということなのだろう。権力の二段階構造。支配の二段階構造。そして、これは、何かあったとき、責任は「地方自治」にとらせる、国には責任はないという態度に豹変するだろう。国家権力の自由を最大限にするために国→地方自治という権力構造をつくりあげる。権力構造には、どうしたって「財政」が必要である。それは地方自治でかってに工面しろ、ということだな。
 それを明確に語っているが、新設された第93条3項だ。「国及び地方自治体は、法律の定める役割分担を踏まえ、協力しなければならない」のなかに「役割分担」と明確に書いてある。国がすることと、地方自治体がするのことは「別」なのだ。「協力しなければならない」とは都合のいいことばである。国はこれこれのことをするから、ほかのことは地方自治体がやれ、というのである。
 これにさらに「地方自治体は、相互に協力しなければならない」とつづく。地方自治体は「共助」しなければならない、というのである。「公助」(国)に頼るな。国と地方は別のもの。
 「権限委譲」ということばがあるが、権限を委譲するのではなく、仕事を押しつけるのが国なのである。
 コロナ対策を見てみればわかる。国がPCR検査の基準(高熱が4日以上つづく)を決めて通達し、それに従わせる。「基準を充たしていないので検査できない」と保健所にいわせる。現場の判断、裁量にまかせない。そのくせ問題が大きくなると、基準の解釈が間違っている、と言う。
 これが、これから起きるのだ。国は「権力の二重構造」を利用して、国が批判された場合、その責任を地方自治(現場)に押しつける、ということが起きる。

(現行憲法)
第93条
1 地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。
2 地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。
(改正草案)
第94条(地方自治体の議会及び公務員の直接選挙)
1 地方自治体には、法律の定めるところにより、条例その他重要事項を議決する機関として、議会を設置する。
2 地方自治体の長、議会の議員及び法律の定めるその他の公務員は、当該地方自治体の住民であって日本国籍を有する者が直接選挙する。

 改正草案のいちばんのポイントは「日本国籍を有する者が直接選挙する」。「住民」を「日本国籍を有する者」と言いなおしている。定住している外国人を締め出している。外国人にも税金を支払わせているが、その使い道について外国人は何言うな、ということである。権力構造を国と地方自治の二重構造にしたように、ここでは人間が「日本人」と「外国人」に二重構造でとらえられている。これは、差別の助長につながるだろう。いまでもよく耳にするが「日本がいやなら日本から出て行け」(日本に定住するな)という差別が国の推進する政策になる。もちろん、国はそうは言わない。地方自治体にそう言わせるのである。それが問題化すれば、個別の地方自治体での差別問題という形で国は知らん顔するだろう。こういうことは実際に起きている。「ヘイトスピーチ」について、国は対処する法律をつくろうとしていない。自治体にまかせている。「人権」の問題こそ、国できちんとした対応をしないといけないのに、それをしない。
 外国人差別だけではなく、日本人の問題である「夫婦別姓」「同性婚」も同じ。「同性婚」については地方自治体の取り組みで「パートナー制度」と呼ばれるものができているが、いつまで「容認」されるか。自民党の国会議員の中には、「同性愛者には生産性がない」と、平然と差別するひともいる。

 「権力の二重構造」と、私は、いま書いたばかりだが、次の改正草案読むと、「二重構造」ではなく、「中央集権化」だということがわかる。つまり、国による支配の強化のために国→地方自治という上下関係を明確にしているのが、この改正草案の狙いなのだ。

(現行憲法)
第94条
 地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。
(改正草案)
第95条(地方自治体の権能)
 地方自治体は、その事務を処理する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。

 「財産を管理し」「行政を執行する」権能が、改正草案では削除されている。地方自治体は、独自に「財産を管理し」「行政を執行する」ことができない。地方自治体の財産の管理、行政執行は国に従わなければならないのである。「二重構造」ではなく、「中央集権」の強化である。
 ここから、最初に問題にした住民負担の義務、「負担を公平に分担する義務を負う」を見ると、どうなるか。国が地方自治体を通じて、新たに税を取り立てるのである。地方のことは地方でやれ、である。
 これを明確にするために、さらに次の条項を新設しようとしている。

(改正草案)
第96条(地方自治体の財政及び国の財政措置)
1 地方自治体の経費は、条例の定めるところにより課する地方税その他の自主的な財源をもって充てることを基本とする。
2 国は、地方自治体において、前項の自主的な財源だけでは地方自治体の行うべき役務の提供ができないときは、法律の定めるところにより、必要な財政上の措置を講じなければならない。
3 第八十三条第二項の規定は、地方自治について準用する。

 2項は国の責任になるが、あくまで補足。「自主的な財源をもって充てる」が原則。それをさらに説明しているのが第3項。「第八十三条第二項」とは「国の財政」について定めて部分である。地方自治について定めたものではない。それを地方自治の財政にも適用する。その文言は、こうである。「財政の健全性は、法律の定めるところにより、確保されなければならない」。地方財政の健全化は、地方自治の責任、と切って捨てているのだ。
 もちろん、ただ切って捨てるだけではなく、国が補助するときもある。ただし、それはいわゆる「アメとムチ」である。沖縄にその顕著な例を見ることができる。基地建設に反対するなら沖縄への予算を減らす。

(現行憲法)
第95条
 一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。
(改正草案)
第97条(地方自治特別法)
 特定の地方自治体の組織、運営若しくは権能について他の地方自治体と異なる定めをし、又は特定の地方自治体の住民にのみ義務を課し、権利を制限する特別法は、法律の定めるところにより、その地方自治体の住民の投票において有効投票の過半数の同意を得なければ、制定することができない。

 「地方自治特別法」に、どういうものがあるのか。どういう法律が制定されたことがあるのか。私は、何も知らない。聞いた記憶がない。
 私が気になるのは、現行憲法にあった「国会」という文言が改正草案では消えていることである。
 第8章は「地方自治」がテーマ。法律の制定は国会がする。「国会」という主語がぜっ絶対に必要な部分である。そこから「国会」という文言を削除したということは、国会を無視して地方自治の行政(財政を含む)を国が支配するということにつながらないか。

 

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自民党憲法改正草案再読(35)

2021-11-11 10:57:36 |  自民党改憲草案再読

(現行憲法)
第87条
1 予見し難い予算の不足に充てるため、国会の議決に基いて予備費を設け、内閣の責任でこれを支出することができる。
2 すべて予備費の支出については、内閣は、事後に国会の承諾を得なければならない。第88条
 すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない。
第89条
 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
(改正草案)
第87条(予備費)
1 予見し難い予算の不足に充てるため、国会の議決に基づいて予備費を設け、内閣の責任でこれを支出することができる。
2 全て予備費の支出については、内閣は、事後に国会の承諾を得なければならない。
第88条(皇室財産及び皇室の費用)
 全て皇室財産は、国に属する。全て皇室の費用は、予算案に計上して国会の議決を経なければならない。
第89条(公の財産の支出及び利用の制限)
1 公金その他の公の財産は、第二十条第三項ただし書に規定する場合を除き、宗教的活動を行う組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため支出し、又はその利用に供してはならない。
2 公金その他の公の財産は、国若しくは地方自治体その他の公共団体の監督が及ばない慈善、教育若しくは博愛の事業に対して支出し、又はその利用に供してはならない。

 第87、88条は表記の改正。第89条の改正が複雑だ。宗教活動に公金を支出してはならないという部分に「第二十条第三項ただし書に規定する場合を除き」と挿入している。「第二十条第三項ただし書」って、何?

(現行憲法)
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
(改正草案)
3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。

 「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない」が「ただし書」にあたる。現行憲法にはなかったものを追加している部分である。しかし「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」というのは非常にむずかしい。たとえば、ずーっと問題になり続けている「靖国神社(参拝/慰霊)」。死者を悼むことは「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」と言える。しかし、死者を靖国神社で慰霊することが「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」と言えるかどうかは問題である。神道には反対という人もいれば、キリスト教徒なのに神社に奉納されるのは人権侵害だと考える人もいるだろう。宗教の問題はあくまで個人の問題(個人の尊厳の問題)であって「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」を超える。何を信じるか、それを強制することは許されない。
 第20条での「信教の自由侵害を国に認める」という条項(国が宗教を押しつけることを推進する条項)を「財政」の面から補強するのが、改正案の目的である。何をするにしても金がかかる。宗教の押しつけを金で支援するためのものである。
 靖国神社での慰霊を強化することで、「安心して国のために死んでこい」と国民を戦場にかり出すために新設された条項だといえる。
 改正草案では「事前、博愛団体」への公金支出を別項仕立てにしている。その際、現行憲法の「公」を「国若しくは地方自治体その他の公共団体」と改正し、「支配に属しない」を「監督が及ばない」と改正している。国や自治体が「監督」できるようになるのだ。「支配に属する」と「監督が及ぶ」は微妙に違う。ある団体(組織)がどこに属するかというのは、単なる「構造」である。指揮命令系統があったとしても強固ではない。監督は、組織を超えて、国・地方自治体が「監督する」ということだろう。この条項は、逆に読めば国・地方自治体の「監督(指導)」に従わないならば、公金を支出しない(支出してはならない)という具合に読み替えることができる。
 これに関連することが最近起きた。「表現の不自由展」。すでに開催が許可されたものが、名古屋市長が批判し、それに国が同調することで、認可されていた予算が撤回された。「表現の不自由展」は、直接的には「宗教」の問題ではないが、公金の支出には関係する。すでに起きていること(改正草案の先取り実施)は、憲法が改正されればさらに頻繁に起きるだろう。
 「表現の不自由展」のとき、税金が国の方針(?)批判する(反日行為)もののためにつかわれるのは許されないという声があったが、税金を支払っているのは自民党支持者だけではない。共産党を支持する人もいれば、どの党をも支持しない人もいる。
 これ戦死者の慰霊に結びつけて言えば、靖国神社に奉納されたくない人もいればキリスト教徒もいるということである。そういうことを配慮せずに「国の監督」という名のもとで、信教の自由が侵害され、しかもそこに公金がつかわれるのだ。そういうことが確実に起きるのだ。

(現行憲法)
第90条
1 国の収入支出の決算は、すべて毎年会計検査院がこれを検査し、内閣は、次の年度に、その検査報告とともに、これを国会に提出しなければならない。
2 会計検査院の組織及び権限は、法律でこれを定める。
(改正草案)
第90条(決算の承認等)
1 内閣は、国の収入支出の決算について、全て毎年会計検査院の検査を受け、法律の定めるところにより、次の年度にその検査報告とともに両議院に提出し、その承認を受けなければならない。
2 会計検査院の組織及び権限は、法律で定める。
3 内閣は、第一項の検査報告の内容を予算案に反映させ、国会に対し、その結果について報告しなければならない。

 第90条の改正は私が何度も書いている「文体」の問題を端的にあらわしている。現行憲法は、まずテーマが「決算」であることを明確にしている。その「決算」のテーマのもとでふたつの「主語」が動く。会計検査院と内閣である。会計検査院が検査し、内閣が国会に提出する。
 ところが改正草案は「内閣は」と書き始める。内閣の仕事として、会計検査院の決算検査を受け、それを国会に提出し、承認を受けなければならない。これでは「テーマ」は「決算」ではなく、「内閣の仕事」になってしまう。この「文体」のままなら、「財政」ではなく「内閣」の章に含まれるべきものである。
 テーマを隠し、内閣(権力)を前面に打ち出す。すべてのことを内閣が「監督」する、「監督」という名の独裁をする。それが、ここにもあらわれている。
 そのことは、現行憲法の第2項が、いままで憲法に登場してこなかった会計検査院を定義するために書かれていることからもわかる。第1項だけでは会計検査院が何なのかわからない。だから、第1項を補足する形で第2項が書かれている。
 改正草案は、このあたりの「文体」がでたらめである。第1項で内閣を主語にし、第2項で会計検査院を主語にし、第3項でまた内閣を主語にしている。「文体」が統一されていない。これは逆に言えば「理念」がないということである。内閣の独裁を押し進めるために、できることだけ詰め込んでおこう、というのが改正案のやっていることなのだ。

(現行憲法)
第91条
 内閣は、国会及び国民に対し、定期に、少くとも毎年一回、国の財政状況について報告しなければならない。
(改正草案)
第91条(財政状況の報告)
 内閣は、国会に対し、定期に、少なくとも毎年一回、国の財政状況について報告しなければならない。

 現行憲法にあった「国民」が削除されている。「国会」にだけ報告すればいいことになる。国民の軽視がここにもあらわれている。
 ここでは書き出しが現行憲法も改正草案も「内閣」である。これはこの条項が先に書いている「決算」の補足であるからだ。「決算」をテーマにして定義しているが、そのなかで別個、「内閣」の主語にすることで補足する必要がなるので、そういう「文体構成」になっているのである。
 これは「財政」のはじまりが、まず財政の定義ではじまり、税収、支出、つまり予算とはどういうものかを定義した後で、その予算を補足するために「内閣」を主語にした第80条が書かれているのと同じである。
 予算があって、具体的な支出があって、その検査があって、そのあとの仕事は「内閣」が報告するということ。
 「テーマ」と「主語」の明確な区別。それが現行憲法の「文体」であり、「テーマ」の強調が「これを」ということばでの重複提示スタイルなのである。改正草案は、このスタイルを「これを」削除することで見えにくくする。「テーマ」は存在しない。存在するのは「内閣」だけである、という「独裁」指向が、こういうところに隠れている。
 「文体」問題は、見逃してはいけない問題なのである。

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇120)Roberto Mira Fernandez

2021-11-11 09:24:16 | estoy loco por espana

Obra Roberto Mira Fernandez

 

Hay un momento, de repente, un día, en el que puedo entender todo.
(Esa puede ser mi ilusión.)

 

Los dibujos de Roberto Mira Fernández me parecieron algo lejano.

No he visto su obra de teatro, pero conozco sus poesías y sus esculturas y me encantan ellos.

Sin embargo, las pinturas son incómodas para mi. Observandolas, permanezco una extraña ansiedad.

Pero en otro dia, Roberto me dijo: "Me gusta Dalí".

"¿Es así?"  Te dije,….es decir que…..Quiero te decir que: “Ahora te entiendo ”


Tengo que mirar el espacio en blanco que rodea la "forma", no la "forma" que dibuja Roberto.

Tengo que mirar “NADA”.

Para mí, Dalí es un pintor que dibuja un espacio absoluto.

Dibuja muchas cosas, pero lo que importa no es el objeto dibujado, sino el espacio que lo rodea.

 

No dibuja la perspectiva de la vista cercana, la vista media y la vista lejana, sino que dibuja un espacio eterno. Los humanos están vivos en él.

La eternidad también significa ABSOLUTO NADA.

Hay una distancia infinita y los humanos no pueden alcanzarla. Allí los humanos están siempre solos.

Incluso si hay varias cosas, todos los humanos se sienten solos.

 

Somos impotentes para el "espacio absoluto". La solidaridad no puede llenar el espacio.

Para las dos obras subidas aquí, el espacio que las rodea me parece más absoluto que las formas (líneas) dibujadas.

Es muy difícil vivir luchando contra este espacio absoluto.

Esto se debe a que todas las perspectivas creadas por los humanos se sienten como ilusiones.

Pero Roberto siente que es una realidad, no una ilusión.

 

Tengo que mirar el espacio en blanco que rodea la "forma", no la "forma" que dibuja Roberto.

Tengo que mirar “NADA”.

 


ある日突然、ああ、あれはこういうことだったのか、と納得できる瞬間がある。

Roberto Mira Fernandezの素描は私には、何か遠いものに思えた。

芝居は見たことがないが、私は彼の詩と彫刻に親近感を覚える。

ところが、絵画はどうも落ち着かない。見ていて、妙な不安が残る。
しかし、あるとき、Robertoが「ダリが好きだ」と言った。
その瞬間に、私は「そうだったのか」と納得したのである。

私には絶対的な空間のなかで人間を描く画家である。

近景、中景、遠景という遠近感ではなく永遠の空間があり、そのなかで人間が生きている。永遠というのは絶対的という意味でもある。果てしない遠さと、いまそこにあるものだけが存在する。それは激しい孤独感と言ってもいい。

この孤独感は、たとえそこに複数のものが存在していても孤独という感じである。

私たちは私たちを存在させる「絶対的的空間」に対しては無力である、という感覚。

ここにアップしたふたつの作品も、描かれた形(線)よりも、その周辺にある空間の方が、私には、絶対的なものに感じられる。

この絶対的な空間と戦いながら生きていくのは、非常に厳しい。
人間がつくりだす遠近感はすべて幻のように感じられてしまうからだ。

しかし、見なければなさらないのは、その「空間」としての「無」なのだ。

 

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Estoy loco por espana(番外篇119)Joaquín Lloréns

2021-11-10 13:16:34 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns

El mismo trabajo, pero el de la derecha es más emocionante.

El anillo superior se extiende más allá del marco de la foto.

La fuerza se debe a la fuerza del anillo que la sostiene desde abajo.

Sin el anillo abajo, el movimiento del anillo superior estaría limitado.

La maravilla de la foto, la maravilla de la diferencia según el ángulo de visión.

Aun así, el balance de este trabajo es hermoso.

Hay "imposible" en alguna parte. En otras palabras, hay "antinatural".

Sin embargo, eso "antinatural" crea "belleza".

Si bien hay belleza creada por ser "natural", hay belleza creada por ser "antinatural".

Es una belleza que no puedo alcanzar, pero ciertamente me da la impresión de la belleza que EXISTE allí.

Yo creo que lo que no puedo lograr es la ABSOLUTA belleza.

 

作品は見る角度によって違う。さらに写真になると、トリミングによっても違って見える。

右の写真は、ある意味で不完全である。作品の左側が写っていない。

しかし、私は右の写真(作品)に強い刺戟を感じる。

宙に浮いている部分を支え、立ち上がる下の部分の力を強く感じる。
それがさらに宙に浮いている部分の躍動感、左側へはみ出していく力を感じさせる。
これは不思議な体験だ。

 

それにしても、この作品のバランスは美しい。

どこかに「無理」がある。つまり「不自然さ」がある。
しかし、そのことが「美」を生み出している。

「自然」であることによって生み出される美がある一方、「不自然」によって生み出される美がある。
それは、私には到達できない美であるが、たしかにそこに存在する美という印象につながる。

そうなのだ。自分には実現できないものこそが絶対的な美なのだ。

 

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自民党憲法改正草案再読(34)

2021-11-10 13:12:32 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(34)

(現行憲法)
第七章 財政
第83条
 国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない。
(改正草案)
第七章 財政
第83条(財政の基本原則)
1 国の財政を処理する権限は、国会の議決に基づいて行使しなければならない。
2 財政の健全性は、法律の定めるところにより、確保されなければならない。

 改正草案の、2項の追加(新設)は、どういう意味なのだろうか。財政が「健全」でなければならないのは当然のことなのだが、それを「法律の定めるところにより、確保」するというのがわからない。これは、逆に読めば「法律の定めるところにより、健全性を無視できる」ということにならないか。つまり、「法律」でこれこれの支出は財政の健全性を度外視して優先するということが起きるのではないか。
 もっと露骨に書けば。
 大企業の収益は株価に直結するから法人税は最優先で優遇する(低い税率にする)、軍備費は国の安全に直結するから最優先で優遇する(支出がどれだけになってもかまわない)ということが起きるのではないのか。財源が不足するなら、消費税を上げる。消費税の使途は、大企業の税率を下げた分の補てん、必要な軍備を購入するための資金に当てる。財政の健全性は無視する、という法律ができるのではないか。
 「法律の定めるところにより」だけでは、はっきりしない。さらに、「国会の議決」と「法律」のどちらを優先するのか。国会では「予算」に反対している。けれど、「法律」にもとづいて「予算」を強行執行するということがあるのではないのか。
 
(現行憲法)
第84条
 あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。
第85条
 国費を支出し、又は国が債務を負担するには、国会の議決に基くことを必要とする。
(改正草案)
第84条(租税法律主義)
 租税を新たに課し、又は変更するには、法律の定めるところによることを必要とする。第85条(国費の支出及び国の債務負担)
 国費を支出し、又は国が債務を負担するには、国会の議決に基づくことを必要とする。
 「あらたに租税を課し」と「租税を新たに課し」の違いがわからないし、「又は現行の租税を変更するには」から「現行の租税」を削除し「又は変更するには」に変える狙いがわからない。私の想像できないことを企んでいるに違いないと思う。もし、同じ意味(意図)なら、わざわざ削除する必要はない。

(現行憲法)
第86条
 内閣は、毎会計年度の予算を作成し、国会に提出して、その審議を受け議決を経なければならない。
(改正草案)
第86条(予算)
1 内閣は、毎会計年度の予算案を作成し、国会に提出して、その審議を受け、議決を経なければならない。
2 内閣は、毎会計年度中において、予算を補正するための予算案を提出することができる。
3 内閣は、当該会計年度開始前に第一項の議決を得られる見込みがないと認めるときは、暫定期間に係る予算案を提出しなければならない。
4 毎会計年度の予算は、法律の定めるところにより、国会の議決を経て、翌年度以降の年度においても支出することができる。

 1項の変更は、2点。ひとつは「案」の挿入。これは国会で議決されるまでは「案」であるということなのだろうが、気になってしようがないのが読点「、」の挿入。「国会に提出して、その審議を受け議決を経なければならない」と「国会に提出して、その審議を受け、議決を経なければならない」はどう違うか。現行憲法は「審議を受ける→議決を経る」はひとつづきのことがら。「国会の審議を受ける→国会の議決を経る」。国会のということばが共通する。ところが改正案では、このひとつづきのことがらのあいだに「、」がある。「議決を経る」の「議決」が「国会の議決」ではなくて、ここには書かれていない別の機関の議決でも可能になる。「文脈」から考えれば、そういうことはありえない、とふつうは考えるが、しかし、自民党のやっていることは「ふつう」ではないのだ。憲法は権力を拘束するものだが、自民党の改正草案は逆に憲法で国民の権利を拘束し、内閣が独裁をすすめるためのよりどころなのである。「国会の議決を経て」ではないというために「、」を削除したのだと考えておいた方がいい。もし「国会の議決を経て」という現行憲法と同じ意味であるとするならば、わざわざ変更する必要はない。
 「これを」というテーマの提示を、「うるさい(日本語らしくない)」という理由で削除するなら、「、」の挿入はうるさくないのか。微妙なところにこそ、なにかとんでない企みが隠されていると疑う必要がある。
 2、3、4項の新設は、いずれも内閣の「裁量権」の拡大だが、4項の新設は非常に問題があると思う。「翌年度以降」があいまいである。「翌年度」だけではない。何かの都合で、どうしても執行できなかったら(たとえばある工事が障害物のために期間内におわないことが明らかになったから)1か月執行期間を延長するというようなことではない。もっと「長期」を見込んでいる。あらかじめ「複数年度」にわたる予算をつくり、それで財政を拘束するということが起きうるのだ。きっと。国防費の予算を「計画」だけではなく、「長期予算」として確保してしまう、ということが起きるのだ。そして、その場合、状況の変化に応じて「追加」するということはあっても、けっして「削減」という形での「補正予算」は提出しないだろう。
 2項の「予算を補正するための予算案を提出することができる」は、そのことを意味していると思う。
 3項は、いままでも「暫定予算」というものがあったのではないのか。いわゆる「必要経費(人件費など)」としての予算が成立していないと、働いている人が困ってしまう。わざわざ、こんなことを書いているのは、予選審議がもめたとき(野党の反対が強くて、年度内の議決が不可能になったとき)を想定し、時間をかけても内閣提出の予算案を必ず成立させる(修正案を封じ込める)という狙いがあるのではないのか。どれだけ時間がかかってもかまわない。かならず思い通りの予算にする、という狙いである。
 これは、こんなふうに考えてみればわかる。
 自民党はよく野党に「対案を出せ」という。しかし、予算に関して、野党は「案」を出すことができない。憲法で予算(案)を提出するのは内閣と定義しているからである。第73条5項に内閣の事務(仕事)を定義して「予算を作成して国会に提出すること」と定めている。野党は、したがって、その「案」に対して問題点を指摘し、変更を求めるということしかできないのである。その変更を求めるしかできないという野党の「弱点」を利用して、審議をだらだらといつまでも長引かせ、力づくで狙いどおりの予算を成立させるというのが、改正草案の狙いだろう。

 

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細田傳造「スザンナ、スザンナ」

2021-11-09 11:15:00 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造「スザンナ、スザンナ」(「Ultra Bards」36、2021年10月31日発行)

 細田傳造は何を書いている。「他人」である。そして、「他人」とは自分の中の一番遠くて一番近い存在である。と、書くと矛盾したことを書いているようだが、そう書くしかない。ことばがとどく限りの一番遠いところ、ことばがとどかないところに突然現われる「超新星」のような輝き。それなのに、ことばにした瞬間、まるで自分のなかから生まれてきたような近さ。どうしようもない。ことばにしてしまったら、存在するしかない「力」。それが、「他人」である。
 「スザンナ、スザンナ」では、こう書かれている。

巴里では
五日間
スザンナに乗っかっておった
朝から晩まで乗っかっておった
スザンナは観光バスである
車体両脇に流麗な横文字Suzanna おゝスザンナ
スザンナ嬢は
われらが入間郡農協釣上支部御一行様の
貸切バスである
昼飯時にはスザンナを大通りに停めて
わしらだけでにぎやかに飯を食った
バスに戻ると
購買部長のミー坊がガイドに
女郎買いの案内を乞うている
「その森には行かないでください危険ですから」
ガイドの佐藤さんはきっぱりとミー坊を牽制
「しゅっぱーつ。ほらほら左手に有名なミラボー橋が見えてきましたよ」
有名なミー坊橋を見てみんなして笑った
有名なスケバな橋である
スザンナは今
旧区の石畳み下地の
アスファルトの轍の道を
無口になって滑ってゆく
「みなさまお待ちかねのノートルダムにもうすぐ着きます」
フランスまできて水なんか見てもしょうがあんめい
ミー坊がガイドの女性を咎めている
セーヌの水は濁っている
されどわれらの巴里は
清澄な五日間であった

 長い詩(私が引用するには、という意味である)だが、全行引用した。
 「他人(ミー坊)」について語るだけなら、「購買部長ノミー坊がガイドに」以降の行だけでも、冒頭に書いた「趣旨」は説明できるだろう。だが、それではだめなのだ。「購買部長」から「女郎買い」へと動いていく、その動きのぬるりとした、滑るような、とめることができない、つかむことができない動きに「他人」の本質がある、と書いても、それでは不十分なのだ。
 「スケベ」ごころを抱えたまま、無口になって、ノートルダムと言われて「フランスまできて水なんか見てもしょうがあんめい」と無駄口で反論する。やっぱりフランスに来たからにはフランスでしかできないこと、フランス女を買わずにどうする、ということなのだが……。
 でもね。
 私は、きょうは他のことを書いておきたい。もちろん、ここに書かれている「ミー坊」こそが「他人」であることによって「細田自身」なのだが、その「ミー坊」を生き生きと動かしているのは何か、ということについて書いておきたい。
 「巴里」なのだ。漢字で書かれた「巴里」はもうすでに「パリ」ではない。ことばのとどく一番遠いパリであり、「巴里」と書いた瞬間に、その遠いところが一番近くなる。パリは「巴里」だった。そして「巴里」と書いた瞬間に「巴里」になった。パリのままなら「女郎買い」ということばはやってこない。「女郎」ということばはやってこないだろう。「スケベ」も時代とともにかわる。「女郎」ということばで娼婦をもとめる人は、いまはいない。「娼婦」ということばも、もう遠いかもしれない。
 「パリ」は場所だが、土地の名前だが、それは、ことばのとどく一番遠い場所だ。
 ここから、もう少し考えてみる。細田は「巴里」を知っている。だから「巴里」と書けた。おそろしいことに、私たちは「知らない」ことは書けない。「知っている」ことしか書けない。つまり、「他人」を書いたつもりでも、それは「知らない他人」ではありえないのだ。どこかで「知っている人間」だからこそ書けるのだ。ここに、とんでもない「矛盾」がある。ミー坊のスケベを書けるのも、細田がスケベを「肉体」として知っているからなのだ。
 しかし、「知っている」ことを「知っている」と確認する。それが、ことばなのだ。
 こういうことは、書き始めると「面倒くさい」ので端折ってしまう。
 「知っていることを知っていると確認する」と、どうなるか。細田は「清澄」ということばを引っ張りだしてきている。「濁り」が消えてしまうのだ。「他人」でも「自分」でもなく「人間そのもの」にもどり、うまれかわるのだ。
 これは、とんでもない「まぼろし」だ。だからこそ「現実」なのだ。
 ほんとうの「声」を聞いたあと、何か、自分の頭の上というか、肉体の上を、さーっと光が駆け抜けたような、風が鳥の声になって渡って行ったような感じがする。「ミー坊」の声は、「だみ声」のようにも聞こえるかもしれないが、細田がそれを語り直すとき、そのあとに残される「沈黙」は、いままで存在しなかった響きなって広がってくる。語り直されることで「清澄」が残される。
 その不思議。
 書き出しの四行、終わりの三行。美しいなあ。

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照井知二『夏の砦』

2021-11-08 11:12:26 | 詩集

 

照井知二『夏の砦』(思潮社、2021年10月31日発行)

 照井知二『夏の砦』の詩篇は、どれも非常に短い。巻頭の「大神」。

もみくちゃの漂白に
なぜ中心と辺境を展くのか
遠吠えの
なせる王権が
狼煙と
滅ぶ岳で
不意に生きかえってみせる

 「短い」が「狭い」わけではない。
 二行目に「中心と辺境」ということばがある。視点がふたつある。そのことが世界を広げている。「大神」は「オオカミ=狼」であり、それは「狼煙」ということはのなかに隠れながら現われている。「隠れながら現われる」は「中心と辺境」でもある。「隠れる」が辺境か、「現われる」が中心か。あるいは逆か。わからないし、わかる必要もない。ふたつが向き合い、ふたつであることによってひとつである、ということなのだ。
 「生きかえる」という動詞が最後の行に出てくるが、これは「隠れる/現われる」が同時に(瞬時に)起きたときの状態である。「隠れる」は「死ぬ」、「現われる」は「生まれる」。死んで、同時に(瞬時に)生まれるを「生きかえる」という。
 その「瞬時/同時」に何を見たか。
 そのことが書かれている。
 そして、この「瞬時/同時」を別なことばで言いなおせば「即」である。
 「大神」即「狼」。「狼」即「大神」。それは「交代」というよりも「合体」である。「生きかえる」は「生き返る」ではなく「生き変わる」かもしれない。そのとき生まれてきたものは、まったく新しい。だから、ことばをもたない。名付けようとすれば「狼」と「大神」という「過去」に引き戻されてしまう。その力と戦いながら、なお、これからを「展いていく」。それが照井にとっての詩を書くということか。

 そう理解しながらも、あるいはそう理解してしまうからなのか、私は、逆に「ひらがな」だけで書かれた次の詩に引きつけられた。「やまきしゃ」。

ゆっくりながいカーブにさしかかる
しろいあしうらをそろえ
ねつかれない めで
すぎさるやまのおもてをなぞる
やみおえれば
はいのあなだけのこるのだろうか
しばしばあかりのちぎれるらんぷのほのおを
のばせば てのふれられる
まどべにおく
はじまりがひとつなのに
ゆめは いつもばらばらだった
かたちだけのころうとするものをはなれ
なにひとつしらされることなくきしゃはどこへいくのか
はいこうの
やまへらんぷのほのおははげしくもえおちていった

 ここには「中心と辺境」という「切断と接続」ではなく、何かしら「持続」と呼びたいものがある。
 「あな」とは何か。私は女性性器を思う。そして、そこから、たとえば「姉」を思い浮かべるのだ。母ではなく、姉。「私」(ここには書かれていない)という存在は母とは「切断と接続」の関係にある。ところが「姉」と「私」とは、「切断と接続」ではない。「即(一の概念)」は入りこまない。母は私にとって「一等親」なのに対して、姉は「二等親」。「一」から「二」にかわるためには「持続」が必要なのだ。意識がつくりだす「持続」。肉体ではなく精神がつくりだす「持続」。「持続」とは精神に属する運動なのだ。
 闘病がおわり、死ぬ。「灰」が残る。そうか、ほんとうに、そうか。「灰」は肉体に属する。しかし、「灰」のほかに「記憶」が残ってしまう。「記憶」とは精神の持続が生み出すものである。つねに精神が何事かを想起し続ける。「あしうら」という肉体の記憶も、精神の持続として動いていく。
 私が「あな」として書かれた存在を「姉」だと思うのは、もうひとつ理由がある。

はじまりがひとつなのに
ゆめは いつもばらばらだった

 はじまりは「父母」。しかし、そこから「切断と接続」として誕生してくる「私」と「姉」は、ぜったいに「一」ではない。「ばらばら」である。複数。「ふたつ」であることによって存在する関係である。「ゆめ」とは「個人」である。「ゆめ」を通して、「姉」は「姉」に生まれ変わる。
 しかし、「姉のゆめ」とは?
 そんなものは「知らされない」。たとえどんなに仲がよくても何もかも話し合っているように見えても、「私」と「姉」とは「ひとつ」ではありえない。

 この詩集は、ある意味での「神話」をつくろうとしている。非情と有情が交錯している。

 

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ロベール・ブレッソン監督「田舎司祭の日記」

2021-11-07 18:15:27 | 映画

ロベール・ブレッソン監督「田舎司祭の日記」(★★★★+★)(2021年11月07日、キノシネマ天神スクリーン1)

監督 ロベール・ブレッソン 出演 クロード・レデュ

 この時代の映画がいいのか、ブレッソンがいいのか。
 両方いいんだろうなあ。
 「田舎司祭の日記」というくらいで、「日記」のアップはあるし、ことばことばことばの連続。アクションが少ない、というか、そのアクション自体がなんとなく「演じています」という感じ。司祭が汗を拭くシーンなんか、リアルではなくて、「様式美」としてのアクション。
 でもね。
 これがいい。とってもいい。肉体の動きを、はっきり動いているという感じでみせる。つまり、誇張があるのだが、その誇張は役者の「表情」を引き立てるためにある。肉体の動きが明確なので、何をしているか、すぐ「意味」がわかる。「意味」がわかるので、見ている方に「余裕」が生まれる。どういう余裕かというと、そういうとき「顔/表情」はどう動くのかを見る余裕だ。顔に集中できる。目の動きに集中できる。
 映画は、やっぱり「顔」を見せる。
 顔の大きさは、どんな人間も、そんなに変わらない。どんなに近づいても大きさに限度がある。でも、それがスクリーンに拡大されて映るとき、見えなかったものが見える。こころの動きが見える。
 肉体の動きは「形式美」であらわし、こころの動きは「表情のアップ」で見せる。このバランスが、とってもいい。
 そして、ここからもうひとつ。
 人は他人を見るとき、全部を見ているようで、そうではない。一部を見て、それを拡大し、自分のなかに「ある人物」をつくりあげてしまう。特に、他人の「こころ」をつくりあげてしまう。それが時には「誤解」を生み、そこから人間ドラマが複雑に動く。
 この映画そのものが、そういうストーリーでもある。新しく赴任してきた司祭は村人のことを知らない。わかるのは「一部」である。その「一部」から全体を想像し、想像したことを「理解」と勘違いする。これは、村人の方にも言える。司祭の全部を知っているわけではない。でも、司祭が何をしているか、わかったつもりになる。
 「形式的(常套句のような)」行動を彩る瞬間的な「表情」。
 これは、最初の方のシーンで象徴的に描かれる。
 司祭が自転車で村にやってくる。汗を拭いている。離れたところで男と女がキスをしている。女がキスをしながら司祭の方を見る。男と女は、どう見ても「不倫」である。「不倫」を司祭に目撃されて、ふたりは去っていく。不倫かどうかは、村にやってきたばかりの司祭にはわからないはずである。でも、不倫だと感じる。それは、女が司祭を見るときの「目つき」、何を見ているの、と非難するような目つきにあらわれている。若い恋人なら、司祭に見られても司祭を見ている司祭を非難するような目つきはしない。それを司祭自身が感じ取る。もちろん観客である私も感じてしまう。これを鮮明にするには、行動はやはり「形式的」でなくてはならないのだ。
 このバランスが、とってもいい。
 さらに(追加の★のための注釈)。
 出演者は、誰が誰だか、私にはわからないのだが。
 領主(?)の妻を演じた女優に見とれてしまった。まるで杉村春子。ものすごく、うまい。そこにたしかに人間がいる、という感じ。一度も会ったことがないのだけれど、この人に会ったことがある。この人は、いつもこういう話し方、こういう表情をする、と感じてしまう。
 司祭(クロード・レデュ)が主役なのだけれど、二人の対話のシーンでは誰かわからないこの女優に見とれてしまった。

 


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