いや、まぁ、玉縄も含めてね。
せっかく玉縄が再登場するから、また、あの意識高いカタカナ使いが聴けるかと思ったら、まさかのラップ対決w
で、一応、ラップが形になっているからアホらしいw
てか、あのラップバトルの場面は、単純に、物語があまりに辛気臭くなってきたことへの、一種のテコ入れだよねぇ。
ホント、なんで、こんな面倒なことになったのだろう。
そして、今回、思ったけど、あの缶コーヒーは、一応、八幡の象徴なのね。
となると、前回、いろはすが、八幡から、缶コーヒーとおしるこ?の二択を迫られたところも、実は、八幡を選ぶのかどうか、の比喩でもあったのだろうね。
まぁ、あの場面は、いろはすが、多分、八幡のことを慮って、缶コーヒーを八幡に譲ったって解釈するほうが自然だけど。
うーん。
あ、そうか、ということは、前回冒頭のいろはすの「ご立腹」は、前々回の最後で八幡がもろもろ「責任」をとるために雪乃と対立する道をあえて選択した場面を見て、八幡がいろはすに対してはそのような「責任」をひしひしと感じるような対象として見てくれてないことに対する苛立ちだったのか。
なるほど。
つまり、八幡にとって、雪ノ下や由比ヶ浜と同じステージに立たせてもらえていないことにムッとしたのね。
八幡からしたら、いろはすは、マジでこまちのカテゴリーなんだろうな。
うーん。
これでいろはすが末脚を見せて、そのステージに無理やり乗っかって、二人をぶっちぎったら、ラブコメとして上等の出来だったのだろうけど。
でも、この作品は、「アンチ・ラブコメ」と自己規定しているから、ここからむりやり、雪乃という地雷女のほうにむりやり付き合う道を八幡は選んでしまう、ということなのね。
うーん。
これほどまでに、「あえて」の「逆張り」が鬱陶しい物語もないかもしれない。
これで八幡が普通の高校生らしく、ちょっとは恋愛に対してポジティブであったら、仮に雪乃を最終的に選ぶとしても、由比ヶ浜やいろはすとまずは付き合ってみる、という展開がワンクッションあって、そこからひっくり返す、という話になったのだろうけど。
裏返すと、最初に雪乃を気にかけたのなら、それは一種の当て馬で、本命は、後ろに控える由比ヶ浜かいろはすになる、ということだと思っていたのだけど。
でもまぁ、そうはならないんだろうな。
今回の玉縄のように、恋愛モードになったらその自意識から自分を見つめ直して日頃の行動パタンを変えていく、というのは、よくある展開だと思うのだけど。
でも、そのよくある展開を玉縄を使ってわざわざ表現したってことは、八幡はそうはならないよ、ということの宣言でもあるのだろうな。
だって、八幡は、玉縄の変化に、あと、その変化の理由に、ちゃんと気づいていたものね。
あくまでも神視点のような超越した視点から眺めているように。
まぁ、だから、雪ノ下のように、同じく自分の置かれた状況を超俯瞰して、自分自身をもその状況の一つの駒のように扱うことを理解できる女子がいい、ってことになるのだろうけど。
というか、雪ノ下は、そんな超然とした判断が習性になっている自分が嫌で、由比ヶ浜のような普通の女子になりたいと思い始めているわけだけど。
そして、そんな「普通の女子」意識を、自分と出会うことで持たせてしまったことに、八幡は責任をとりたいと思っているということか。
なぜなら、雪ノ下よりも八幡のほうがさらに超然とした視点をとってしまうから。
同時に、その視点から、駒となる人びとを具体的に動かせてしまうから。
それが、八幡の「あえて泥をかぶる」姿にあらわれてしまう。
で、由比ヶ浜もいろはすも、そんな八幡の「不器用さ」に気づいてしまって支えてあげたい、と思っているわけだよね。
ホント、普通なら、そんなふうに感じてくれている由比ヶ浜といろはすになびくところなのになぁ。
まるで、罪人は罪人どうしでしか生きていけない、という割り切りを八幡は、そして雪乃はしてしまっているようで・・・
ホント、なんだかなぁ、だよ。
しかし、こういうふうにこの物語を捉え直してみると、最近のラブコメが終盤で失調する理由もなんとなくわかってきた気がする。
きっと内面を描くのではなく、状況から「妥当な」相手が誰かをまずは決めて書いてしまう作者の方が増えているのだろうな。
で、それはきっと、マルチシナリオが当たり前のゲーム脳からくる副作用なんだろうな。
ともあれ、今回、いろはすが出なかったので、次回は、ぜひ、いろはすを。
せっかく玉縄が再登場するから、また、あの意識高いカタカナ使いが聴けるかと思ったら、まさかのラップ対決w
で、一応、ラップが形になっているからアホらしいw
てか、あのラップバトルの場面は、単純に、物語があまりに辛気臭くなってきたことへの、一種のテコ入れだよねぇ。
ホント、なんで、こんな面倒なことになったのだろう。
そして、今回、思ったけど、あの缶コーヒーは、一応、八幡の象徴なのね。
となると、前回、いろはすが、八幡から、缶コーヒーとおしるこ?の二択を迫られたところも、実は、八幡を選ぶのかどうか、の比喩でもあったのだろうね。
まぁ、あの場面は、いろはすが、多分、八幡のことを慮って、缶コーヒーを八幡に譲ったって解釈するほうが自然だけど。
うーん。
あ、そうか、ということは、前回冒頭のいろはすの「ご立腹」は、前々回の最後で八幡がもろもろ「責任」をとるために雪乃と対立する道をあえて選択した場面を見て、八幡がいろはすに対してはそのような「責任」をひしひしと感じるような対象として見てくれてないことに対する苛立ちだったのか。
なるほど。
つまり、八幡にとって、雪ノ下や由比ヶ浜と同じステージに立たせてもらえていないことにムッとしたのね。
八幡からしたら、いろはすは、マジでこまちのカテゴリーなんだろうな。
うーん。
これでいろはすが末脚を見せて、そのステージに無理やり乗っかって、二人をぶっちぎったら、ラブコメとして上等の出来だったのだろうけど。
でも、この作品は、「アンチ・ラブコメ」と自己規定しているから、ここからむりやり、雪乃という地雷女のほうにむりやり付き合う道を八幡は選んでしまう、ということなのね。
うーん。
これほどまでに、「あえて」の「逆張り」が鬱陶しい物語もないかもしれない。
これで八幡が普通の高校生らしく、ちょっとは恋愛に対してポジティブであったら、仮に雪乃を最終的に選ぶとしても、由比ヶ浜やいろはすとまずは付き合ってみる、という展開がワンクッションあって、そこからひっくり返す、という話になったのだろうけど。
裏返すと、最初に雪乃を気にかけたのなら、それは一種の当て馬で、本命は、後ろに控える由比ヶ浜かいろはすになる、ということだと思っていたのだけど。
でもまぁ、そうはならないんだろうな。
今回の玉縄のように、恋愛モードになったらその自意識から自分を見つめ直して日頃の行動パタンを変えていく、というのは、よくある展開だと思うのだけど。
でも、そのよくある展開を玉縄を使ってわざわざ表現したってことは、八幡はそうはならないよ、ということの宣言でもあるのだろうな。
だって、八幡は、玉縄の変化に、あと、その変化の理由に、ちゃんと気づいていたものね。
あくまでも神視点のような超越した視点から眺めているように。
まぁ、だから、雪ノ下のように、同じく自分の置かれた状況を超俯瞰して、自分自身をもその状況の一つの駒のように扱うことを理解できる女子がいい、ってことになるのだろうけど。
というか、雪ノ下は、そんな超然とした判断が習性になっている自分が嫌で、由比ヶ浜のような普通の女子になりたいと思い始めているわけだけど。
そして、そんな「普通の女子」意識を、自分と出会うことで持たせてしまったことに、八幡は責任をとりたいと思っているということか。
なぜなら、雪ノ下よりも八幡のほうがさらに超然とした視点をとってしまうから。
同時に、その視点から、駒となる人びとを具体的に動かせてしまうから。
それが、八幡の「あえて泥をかぶる」姿にあらわれてしまう。
で、由比ヶ浜もいろはすも、そんな八幡の「不器用さ」に気づいてしまって支えてあげたい、と思っているわけだよね。
ホント、普通なら、そんなふうに感じてくれている由比ヶ浜といろはすになびくところなのになぁ。
まるで、罪人は罪人どうしでしか生きていけない、という割り切りを八幡は、そして雪乃はしてしまっているようで・・・
ホント、なんだかなぁ、だよ。
しかし、こういうふうにこの物語を捉え直してみると、最近のラブコメが終盤で失調する理由もなんとなくわかってきた気がする。
きっと内面を描くのではなく、状況から「妥当な」相手が誰かをまずは決めて書いてしまう作者の方が増えているのだろうな。
で、それはきっと、マルチシナリオが当たり前のゲーム脳からくる副作用なんだろうな。
ともあれ、今回、いろはすが出なかったので、次回は、ぜひ、いろはすを。