先日ブログに書いた山田監督の映画「母べえ」に登場する父べえのドイツ文学者野上滋氏の獄中での唯一の楽しみは、読書であった。
従って、差し入れに頼むのは、決まってドイツ語の専門書か高級な文学作品など高度な洋書で、我々の生活からは程遠い書物であった。
トルストイの「戦争と平和」を読みたいので差し入れて欲しいとナレーションが流れたところで、風来坊の叔父(笑福亭鶴瓶)がその分厚い洋書を重ねて枕にしていびきをかいて寝ていたのは、ご愛嬌としても、戦前の学者は、正に最先端の或いは本物の学問を追求するためには、このように洋書と首っ引きで生活していたのであろうと思う。
わがゼミナールの恩師もゲーテの「ファースト」を原書で読んだと語っていた。
今のように書棚に収用されているのではなく、壁の一番上の棚の上に並べられたり、部屋の畳の上に山済みされている風景が実に懐かしく、本が貴重だった時代の雰囲気が良く出ていて、こんな貴重な平和な学究の生活を軍国主義と言う一枚岩の暴挙が蹂躙したのかと思うと堪らなくなった。
しかし、思想犯で逮捕しておきながら、父べえの書物をあまり没収して持って行ったような形跡がなかったのが、一寸不思議であった。
もう一つ、今と違うのは、古本の値段で、愈々生活に困って来たので、本を売って生活費を捻出しようとしたら、吉永小百合の母べえが、そこまでしなくても私が何とかしますからと答えていたが、やはり、専門書や洋書が貴重な頃で、かなりの値段がしていたようである。
今では、新本をブックオフに持っていっても、公表は価格の10%で買いますと言っても、何とかかんとか言って精々50円で引き取ってくれれば良いところで、二束三文である。
父べえの蔵書も、恩師の蔵書も書き込みが一杯で、差し入れの時には受け取って貰えないので、みんなで一生懸命に消しゴムで書き込みを消していたのが印象的だったが、ペンの書き込みではなく鉛筆と言うところが面白い。
私のアメリカでのビジネス・スクールの時代の原書には、びっしり黄色やピンクのマーカーで線を引いてしまっているが、こんなのは、書き込みになるのであろうか。
若い頃は、書き込みなどしなくて読み飛ばすだけだったが、この頃は、歳の所為もあって、随所にポストイットを貼り付けて、鉛筆で傍線を引き、特別な所は書き込みをしているが、それでも、必要な時に、大切な所を見つけ出すのは至難の業である。
アメリカなどの洋書、それも、専門書や学術書では、必ず索引が付いているが、日本の本では、余程気が利いた専門書でない限り、コスト削減なのか付けていないが、これは、専門書としての価値を貶めているとしか思えない。
戦前とは違って、現在は、とにかく、知識や情報に触れる手段が沢山あり、それに、楽しみや興味をそそる対象が無数にあるので、野上先生ほど本にのめりこむ事がなくなったが、こんなに、インターネットが便利になって、どんな情報にも自由にアクセス出来るようになっても、私には、やはり本が一番都合が良くて便利なような気がしている。
あっちこっちに本を積み上げて、読めないのが分かっていても、また、本屋に出かけて行くのだが、この趣味ともつかない性癖は死ぬまで直らないような気がする。
従って、差し入れに頼むのは、決まってドイツ語の専門書か高級な文学作品など高度な洋書で、我々の生活からは程遠い書物であった。
トルストイの「戦争と平和」を読みたいので差し入れて欲しいとナレーションが流れたところで、風来坊の叔父(笑福亭鶴瓶)がその分厚い洋書を重ねて枕にしていびきをかいて寝ていたのは、ご愛嬌としても、戦前の学者は、正に最先端の或いは本物の学問を追求するためには、このように洋書と首っ引きで生活していたのであろうと思う。
わがゼミナールの恩師もゲーテの「ファースト」を原書で読んだと語っていた。
今のように書棚に収用されているのではなく、壁の一番上の棚の上に並べられたり、部屋の畳の上に山済みされている風景が実に懐かしく、本が貴重だった時代の雰囲気が良く出ていて、こんな貴重な平和な学究の生活を軍国主義と言う一枚岩の暴挙が蹂躙したのかと思うと堪らなくなった。
しかし、思想犯で逮捕しておきながら、父べえの書物をあまり没収して持って行ったような形跡がなかったのが、一寸不思議であった。
もう一つ、今と違うのは、古本の値段で、愈々生活に困って来たので、本を売って生活費を捻出しようとしたら、吉永小百合の母べえが、そこまでしなくても私が何とかしますからと答えていたが、やはり、専門書や洋書が貴重な頃で、かなりの値段がしていたようである。
今では、新本をブックオフに持っていっても、公表は価格の10%で買いますと言っても、何とかかんとか言って精々50円で引き取ってくれれば良いところで、二束三文である。
父べえの蔵書も、恩師の蔵書も書き込みが一杯で、差し入れの時には受け取って貰えないので、みんなで一生懸命に消しゴムで書き込みを消していたのが印象的だったが、ペンの書き込みではなく鉛筆と言うところが面白い。
私のアメリカでのビジネス・スクールの時代の原書には、びっしり黄色やピンクのマーカーで線を引いてしまっているが、こんなのは、書き込みになるのであろうか。
若い頃は、書き込みなどしなくて読み飛ばすだけだったが、この頃は、歳の所為もあって、随所にポストイットを貼り付けて、鉛筆で傍線を引き、特別な所は書き込みをしているが、それでも、必要な時に、大切な所を見つけ出すのは至難の業である。
アメリカなどの洋書、それも、専門書や学術書では、必ず索引が付いているが、日本の本では、余程気が利いた専門書でない限り、コスト削減なのか付けていないが、これは、専門書としての価値を貶めているとしか思えない。
戦前とは違って、現在は、とにかく、知識や情報に触れる手段が沢山あり、それに、楽しみや興味をそそる対象が無数にあるので、野上先生ほど本にのめりこむ事がなくなったが、こんなに、インターネットが便利になって、どんな情報にも自由にアクセス出来るようになっても、私には、やはり本が一番都合が良くて便利なような気がしている。
あっちこっちに本を積み上げて、読めないのが分かっていても、また、本屋に出かけて行くのだが、この趣味ともつかない性癖は死ぬまで直らないような気がする。