森永エンゼル財団主催のダンテフォーラム2008「混迷の時代の叡智フィレンツェ・ルネサンスに学ぶ」がイタリア文化会館で開かれたので聴講した。
哲学者今道友信東大名誉教授の「哲学から見たルネサンス」と言う演題の非常に格調の高い講演に始まり、樺山紘一氏の「ルネサンス:諸言語の饗宴」、田中英道東北大名誉教授の「芸術から見たルネサンス」と講演が続き、最後に、松田義幸実践女子大教授の司会で3氏による討論会が開かれた。
聴衆は、テーマがテーマなので、教育水準の高い老壮年が主体のようで非常に熱心に午後の4時間聴講していた。
私自身、講師たちの著書を読んでいて深く感銘を受けている人達なので、是非聞きたいと思って出席していたので、非常に有意義であった。
一番身近に感じたのは、芸術を論じた田中教授の話で、レオナルド・ダ・ヴィンチの専門家であり、これまでに何冊か著書を読んで、その学識と造詣の深さに感じいっていたので、興味深かった。
ルネサンスの芸術について、アラビアやモンゴル文明の影響について触れ、特に、最近の発見であるレオナルドの母親がアラビア人であった可能性が強いと言ったことに言及し、彼の鏡文字や、風景に人物を入れない技法などアラビアの影響を受けているなどと語っていた。
元々、ルネサンスは、ギリシャ・ローマ時代の文化文明の復活・再生なのだが、当時最も進んでいたのはイスラム文化であり、これを通じての移入で、サラセン系の学問経由でアラビア語で入って来ているものが極めて多いと聞く。
興味深かったのは、モナリザは、フィレンツェ第一の貴婦人であるイサベラ・デ・デスティの肖像画で、レオナルドが絶対に手の届かない高貴で教養豊かな神秘性を帯びた理想的な貴婦人への騎士道愛を描いたもので、この愛は、ダンテのベアトリーチェのそれに匹敵するという指摘であった。
そう言われれば、モナリザは非常に神秘的だが、ラファエロの聖母には、世俗的で美しいけれど精神性は全く感じられないのも頷ける。
田中教授は、素晴らしい芸術には、そこへ行ってその前に立ってナマのものを見ようと言う人を惹きつけて感動を与える魅力があり、その価値観を理解することが大切だという。
その為には、見て考えて感動する見る目・鑑賞眼を養う必要があり、豊かな教養、感受性や宗教観が必要であり、絶えず習慣づけて勉強して訓練しなければならないと言う。
日本の芸術教育について、樺山氏は、進んだのは技術教育だけで、芸術の素晴らしさを味わう為の鑑賞教育が決定的に遅れてしまったと嘆く。
今道教授は、良いものを良いと認識できるココロザシ教育の復活が至上命題だと言う。
特に、全員が、日本の教養教育軽視、乃至、欠如を嘆いていたが、俗に言うリベラル・アーツ教育の貧困さが日本の教育の致命傷だと言うことであろう。
松田教授が、ナベツネに頼んで、古典の森、中公クラシックスを出版してもらったが、殆ど売れずに帰って来ていると嘆く。岩波も売れないようで、これが日本の教養水準の限界と言うところであろうか。
余談だが、更に、冒頭で、このダンテフォーラムの聴講者は熱心だが、今の大学の授業では、授業中に学生の相当数は携帯を操作していて、授業が終わる頃には半数の学生がいなくなってしまっていると言う。
偉大な芸術が生まれ出でるためには、ルネサンス期に、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロと言った3大巨匠が同時に現れたように、創造の為の傑出した条件が整った時に起こるものであって、それはその瞬間限りであり、連続はない。
パドヴァで成功していたドナテルロが、フィレンツェに帰ったのは、フィレンツェには批判する目がある、良いものは良いといってくれる人がいるからだ言ったが、これが、創造的な学問・芸術が爆発したメディチィ・イフェクトの真髄なのである。今道教授の話では、クリティクがあると言うことで、この言葉の意味は、良いものを発見すると言うことのようである。
従って、文化は、偉大な文化遺産を修復して活性化することによって進化するのであって、遺産を守り再解釈し、その当時の時代を復元することに意味がある。
法隆寺の金堂の壁画の消失や高松塚古墳の壁画の色彩退化などは、文化庁の怠慢・バンダリズムの極致で、文化政策の貧困の極みだと言う。
フィレンツェの1966年のアルノ川の大洪水で、文化遺産が大きな被害を受けたが、その後の修復技術の進歩には目を見張るものがあり、この技術が、システィナ礼拝堂壁画の修復などに大いに貢献したと言う。
21世紀は、観光の時代だと言う田中教授の指摘も面白いが、イタリアが過去の遺産で食っていると言うのも決して悪いことではなく、これこそ文化なのだと言うのである。
哲学者今道友信東大名誉教授の「哲学から見たルネサンス」と言う演題の非常に格調の高い講演に始まり、樺山紘一氏の「ルネサンス:諸言語の饗宴」、田中英道東北大名誉教授の「芸術から見たルネサンス」と講演が続き、最後に、松田義幸実践女子大教授の司会で3氏による討論会が開かれた。
聴衆は、テーマがテーマなので、教育水準の高い老壮年が主体のようで非常に熱心に午後の4時間聴講していた。
私自身、講師たちの著書を読んでいて深く感銘を受けている人達なので、是非聞きたいと思って出席していたので、非常に有意義であった。
一番身近に感じたのは、芸術を論じた田中教授の話で、レオナルド・ダ・ヴィンチの専門家であり、これまでに何冊か著書を読んで、その学識と造詣の深さに感じいっていたので、興味深かった。
ルネサンスの芸術について、アラビアやモンゴル文明の影響について触れ、特に、最近の発見であるレオナルドの母親がアラビア人であった可能性が強いと言ったことに言及し、彼の鏡文字や、風景に人物を入れない技法などアラビアの影響を受けているなどと語っていた。
元々、ルネサンスは、ギリシャ・ローマ時代の文化文明の復活・再生なのだが、当時最も進んでいたのはイスラム文化であり、これを通じての移入で、サラセン系の学問経由でアラビア語で入って来ているものが極めて多いと聞く。
興味深かったのは、モナリザは、フィレンツェ第一の貴婦人であるイサベラ・デ・デスティの肖像画で、レオナルドが絶対に手の届かない高貴で教養豊かな神秘性を帯びた理想的な貴婦人への騎士道愛を描いたもので、この愛は、ダンテのベアトリーチェのそれに匹敵するという指摘であった。
そう言われれば、モナリザは非常に神秘的だが、ラファエロの聖母には、世俗的で美しいけれど精神性は全く感じられないのも頷ける。
田中教授は、素晴らしい芸術には、そこへ行ってその前に立ってナマのものを見ようと言う人を惹きつけて感動を与える魅力があり、その価値観を理解することが大切だという。
その為には、見て考えて感動する見る目・鑑賞眼を養う必要があり、豊かな教養、感受性や宗教観が必要であり、絶えず習慣づけて勉強して訓練しなければならないと言う。
日本の芸術教育について、樺山氏は、進んだのは技術教育だけで、芸術の素晴らしさを味わう為の鑑賞教育が決定的に遅れてしまったと嘆く。
今道教授は、良いものを良いと認識できるココロザシ教育の復活が至上命題だと言う。
特に、全員が、日本の教養教育軽視、乃至、欠如を嘆いていたが、俗に言うリベラル・アーツ教育の貧困さが日本の教育の致命傷だと言うことであろう。
松田教授が、ナベツネに頼んで、古典の森、中公クラシックスを出版してもらったが、殆ど売れずに帰って来ていると嘆く。岩波も売れないようで、これが日本の教養水準の限界と言うところであろうか。
余談だが、更に、冒頭で、このダンテフォーラムの聴講者は熱心だが、今の大学の授業では、授業中に学生の相当数は携帯を操作していて、授業が終わる頃には半数の学生がいなくなってしまっていると言う。
偉大な芸術が生まれ出でるためには、ルネサンス期に、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロと言った3大巨匠が同時に現れたように、創造の為の傑出した条件が整った時に起こるものであって、それはその瞬間限りであり、連続はない。
パドヴァで成功していたドナテルロが、フィレンツェに帰ったのは、フィレンツェには批判する目がある、良いものは良いといってくれる人がいるからだ言ったが、これが、創造的な学問・芸術が爆発したメディチィ・イフェクトの真髄なのである。今道教授の話では、クリティクがあると言うことで、この言葉の意味は、良いものを発見すると言うことのようである。
従って、文化は、偉大な文化遺産を修復して活性化することによって進化するのであって、遺産を守り再解釈し、その当時の時代を復元することに意味がある。
法隆寺の金堂の壁画の消失や高松塚古墳の壁画の色彩退化などは、文化庁の怠慢・バンダリズムの極致で、文化政策の貧困の極みだと言う。
フィレンツェの1966年のアルノ川の大洪水で、文化遺産が大きな被害を受けたが、その後の修復技術の進歩には目を見張るものがあり、この技術が、システィナ礼拝堂壁画の修復などに大いに貢献したと言う。
21世紀は、観光の時代だと言う田中教授の指摘も面白いが、イタリアが過去の遺産で食っていると言うのも決して悪いことではなく、これこそ文化なのだと言うのである。