殆ど真っ暗な会場の壁面に、大きなスクリーンに映し出された巨大な滝が青白い水煙を伴いながら静かに滝壺に落ちている。
水琴窟のように澄み切った電子音楽の爽やかなサウンドが、おとぎの国の洞窟の中に入ったような雰囲気を醸し出していて、全く、異次元の世界にスリップアウトしたような錯覚を感じさせる。
そんな素晴らしい千住博が創り出した空間が、東京のど真ん中・高島屋日本橋店に展開されている。
これまでに、千住博は、ウォーターフォール作品を製作しているが、今回は「ハルカナルアオイヒカリ」と言うタイトルで、蛍光塗料で手漉きの和紙に壮大な滝を描き、その巨大なスクリーンに、ブラックライトとスポットライトを当てて、燐光のように幽かに妖しげな光を放ちながら揺れ動く(?)滝を浮かび上がらせている。
動いているのは、客の真っ白なワイシャツやブラウスの襟元だけで、私の小指の白い包帯が幽かに巨大な蛍のように光っている。
何時もは多くの絵などが壁面を埋めている広い会場は、間仕切りが取り外されて、総ての壁面に、単独の滝や、屏風のように連なる滝などが描かれて青白く光る滝のスクリーンだけで、真ん中には、所々に置かれた長いすしかなく、水琴窟の澄んだサウンドだけが生き物のようなリズムを刻んでいる。
千住博の滝は、実に穏やかで静かであり、滝壺に轟音を轟かせて怒涛のように流れ落ちる滝ではない。
白糸のように壁面を流れ落ちるような穏やかで実に優しい滝なのである。
私自身は、日本のあっちこっちで、色々な滝を見てきたが、急流や断崖絶壁の多い起伏の激しい日本であり、比較的水量の少ない激しい滝か、傾斜した壁面を白い糸を引いて流れ落ちる滝くらいしか記憶がないので、千住博のイメージは、豊かな創造の世界であろうと思って鑑賞していた。
巨大な滝が屏風のように延々と続いているのは、南米の3国に跨るイグアスの滝で、ここには、20回は訪れているが、中心の悪魔の喉笛などは途轍もない轟音を響かせて滝壺に流れ落ちていて、千住博の世界のような余韻も芸術的なイメージとも遥かに程遠く現実的である。
北欧のフィヨルドの高みから流れ落ちる滝は、遠いので音が聞えず静かに糸のように流れ落ちているので、ややイメージが近いかも知れない。
この千住博の作品は、ニューヨークで好評を博したようだが、あの厖大な水の塊が屏風のように流れ落ちているナイヤガラの滝のイメージを持ったアメリカ人には、正に驚天動地の一種スピリチュアルな哲学的な感慨を与えたのかも知れない。
近付いて筆の跡を見ると、上部から薄い絵の具を静かに流して自然の流れで描いたような雰囲気があったり、筆で絵の具の飛沫を飛ばしてアクセントをつけたり、とにかく、その繊細な筆遣いにはビックリするが、それが、強大な絵として統一が取れているのだから、気の遠くなるような創造の時間との格闘があったのだと思う。
東山魁威や平山郁夫のイメージとダブらせながら、絵を見ていたのだが、千住博の方が遥かに繊細で緻密である。
奈良や京都の風景のイメージや幻想的なインプレッション風の風景画を比べてみても、千住の絵は、写真のように正確で、輪郭線がハッキリしているので浮世絵の雰囲気に近い感じがする。
それに、とにかく、色彩感覚の凄さは抜群で、日本画で、これだけのイメージを膨らませることが出来るのかと思って感心して見ている。
水琴窟のように澄み切った電子音楽の爽やかなサウンドが、おとぎの国の洞窟の中に入ったような雰囲気を醸し出していて、全く、異次元の世界にスリップアウトしたような錯覚を感じさせる。
そんな素晴らしい千住博が創り出した空間が、東京のど真ん中・高島屋日本橋店に展開されている。
これまでに、千住博は、ウォーターフォール作品を製作しているが、今回は「ハルカナルアオイヒカリ」と言うタイトルで、蛍光塗料で手漉きの和紙に壮大な滝を描き、その巨大なスクリーンに、ブラックライトとスポットライトを当てて、燐光のように幽かに妖しげな光を放ちながら揺れ動く(?)滝を浮かび上がらせている。
動いているのは、客の真っ白なワイシャツやブラウスの襟元だけで、私の小指の白い包帯が幽かに巨大な蛍のように光っている。
何時もは多くの絵などが壁面を埋めている広い会場は、間仕切りが取り外されて、総ての壁面に、単独の滝や、屏風のように連なる滝などが描かれて青白く光る滝のスクリーンだけで、真ん中には、所々に置かれた長いすしかなく、水琴窟の澄んだサウンドだけが生き物のようなリズムを刻んでいる。
千住博の滝は、実に穏やかで静かであり、滝壺に轟音を轟かせて怒涛のように流れ落ちる滝ではない。
白糸のように壁面を流れ落ちるような穏やかで実に優しい滝なのである。
私自身は、日本のあっちこっちで、色々な滝を見てきたが、急流や断崖絶壁の多い起伏の激しい日本であり、比較的水量の少ない激しい滝か、傾斜した壁面を白い糸を引いて流れ落ちる滝くらいしか記憶がないので、千住博のイメージは、豊かな創造の世界であろうと思って鑑賞していた。
巨大な滝が屏風のように延々と続いているのは、南米の3国に跨るイグアスの滝で、ここには、20回は訪れているが、中心の悪魔の喉笛などは途轍もない轟音を響かせて滝壺に流れ落ちていて、千住博の世界のような余韻も芸術的なイメージとも遥かに程遠く現実的である。
北欧のフィヨルドの高みから流れ落ちる滝は、遠いので音が聞えず静かに糸のように流れ落ちているので、ややイメージが近いかも知れない。
この千住博の作品は、ニューヨークで好評を博したようだが、あの厖大な水の塊が屏風のように流れ落ちているナイヤガラの滝のイメージを持ったアメリカ人には、正に驚天動地の一種スピリチュアルな哲学的な感慨を与えたのかも知れない。
近付いて筆の跡を見ると、上部から薄い絵の具を静かに流して自然の流れで描いたような雰囲気があったり、筆で絵の具の飛沫を飛ばしてアクセントをつけたり、とにかく、その繊細な筆遣いにはビックリするが、それが、強大な絵として統一が取れているのだから、気の遠くなるような創造の時間との格闘があったのだと思う。
東山魁威や平山郁夫のイメージとダブらせながら、絵を見ていたのだが、千住博の方が遥かに繊細で緻密である。
奈良や京都の風景のイメージや幻想的なインプレッション風の風景画を比べてみても、千住の絵は、写真のように正確で、輪郭線がハッキリしているので浮世絵の雰囲気に近い感じがする。
それに、とにかく、色彩感覚の凄さは抜群で、日本画で、これだけのイメージを膨らませることが出来るのかと思って感心して見ている。