大坂の名妓夕霧と親に勘当された大店の若旦那藤家伊左衛門の物語。
編み笠と紙衣に身をやつした伊左衛門が、恋仲の夕霧を吉田屋に訪ねて来て、再会するのだが、客を取っている夕霧に嫉妬して恨みつらみを並べ立て拗ねながらも仲直りする。そこに、勘当が解けて見受けの為の千両箱が運び込まれて目出度し目出度しとなる、言うならば、全く他愛のない話なのだが、関西和事の代表的な舞台で、仁左衛門の決定版とも言うべき至芸を楽しむための舞台である。
この舞台は、やつしの典型として、大店の若旦那が無一文になって極貧生活を送っていると言う設定で、紙で作った紙衣を着て寒い中を京都から大坂まで訪ねて来るのだが、
舞台は、そんなことは全く無縁だと言う風情の一寸頭の弱い鷹揚なぼんぼんと言った感じで、それも、しまりのない女型で、これが、恋しくて恋しくて堪らない夕霧がやって来ても、狸ねいりをして拗ねると言う全く様にならない優男を仁左衛門は実に上手く演じていて、その三枚目ぶりは正に名演である。
大店の若旦那なので世間離れした鷹揚さと、随所に関西で言ういちびりと言う雰囲気が出ていて本当に上手いと思って感心して観ていた。
やつしの世界は、この面明りを用いた花道の出の編み笠を被り紙衣を着た伊左衛門の扮装と仕草に象徴されているのだが、後は、伊左衛門が紙衣を着ているだけで、やつしとは全く無縁な華やかな廓の世界で、その落差と浮世離れした展開が正に歌舞伎であり、理屈を考えて観るのではなく、舞台を楽しむべき典型でもある。
そう思って観ていると、やはり、仁左衛門は絶品で、同じ近松からの関西歌舞伎でも、この舞台は、近松の心中モノとは違った善意の人ばかりが登場しているハッピーエンドの物語でもあり、関西オリジンの笑いとユーモアの世界を、軽妙でコミカルなタッチで演じており、現在の吉本にも通じる世界である。
前回は、藤十郎、その前は仁左衛門の伊左衛門を観たが、やはり、この役は、関西歌舞伎役者の世界であろう。
初めて演じたと言う福助の扇屋夕霧だが、病気上がりだが格の高い太夫を、少し控え目だが実に品良く、それに、優雅に演じていて、玉三郎とは違った、仁左衛門との魅力的な舞台空間を創っていて好感が持てた。とにかく、一つ一つのシーンが絵になっていた。
この時は、伊左衛門に恋焦がれて病気になったと言う設定だが、実際の夕霧は、非常に活発でしっかりした頭の良い傾城であったと言うことである。
吉田屋喜左衛門の左團次は、言葉の雰囲気も大坂と言う感じがしないので一寸異質だが、情に厚い善人として味のある主人を演じていたし、女房おさきの秀太郎は、言うまでもなく正にピッタリと言うか絶品で、当然、仁左衛門との呼吸と間合いは抜群である。
太鼓持豊作の愛之助は、太鼓持を見たこともなく演じると言っていたが、軽妙なタッチが面白い。
このように毒にも薬にもならない美しくてリラックスして楽しめる舞台は、非常に貴重であり、私などは、何時も楽しみにしている。
編み笠と紙衣に身をやつした伊左衛門が、恋仲の夕霧を吉田屋に訪ねて来て、再会するのだが、客を取っている夕霧に嫉妬して恨みつらみを並べ立て拗ねながらも仲直りする。そこに、勘当が解けて見受けの為の千両箱が運び込まれて目出度し目出度しとなる、言うならば、全く他愛のない話なのだが、関西和事の代表的な舞台で、仁左衛門の決定版とも言うべき至芸を楽しむための舞台である。
この舞台は、やつしの典型として、大店の若旦那が無一文になって極貧生活を送っていると言う設定で、紙で作った紙衣を着て寒い中を京都から大坂まで訪ねて来るのだが、
舞台は、そんなことは全く無縁だと言う風情の一寸頭の弱い鷹揚なぼんぼんと言った感じで、それも、しまりのない女型で、これが、恋しくて恋しくて堪らない夕霧がやって来ても、狸ねいりをして拗ねると言う全く様にならない優男を仁左衛門は実に上手く演じていて、その三枚目ぶりは正に名演である。
大店の若旦那なので世間離れした鷹揚さと、随所に関西で言ういちびりと言う雰囲気が出ていて本当に上手いと思って感心して観ていた。
やつしの世界は、この面明りを用いた花道の出の編み笠を被り紙衣を着た伊左衛門の扮装と仕草に象徴されているのだが、後は、伊左衛門が紙衣を着ているだけで、やつしとは全く無縁な華やかな廓の世界で、その落差と浮世離れした展開が正に歌舞伎であり、理屈を考えて観るのではなく、舞台を楽しむべき典型でもある。
そう思って観ていると、やはり、仁左衛門は絶品で、同じ近松からの関西歌舞伎でも、この舞台は、近松の心中モノとは違った善意の人ばかりが登場しているハッピーエンドの物語でもあり、関西オリジンの笑いとユーモアの世界を、軽妙でコミカルなタッチで演じており、現在の吉本にも通じる世界である。
前回は、藤十郎、その前は仁左衛門の伊左衛門を観たが、やはり、この役は、関西歌舞伎役者の世界であろう。
初めて演じたと言う福助の扇屋夕霧だが、病気上がりだが格の高い太夫を、少し控え目だが実に品良く、それに、優雅に演じていて、玉三郎とは違った、仁左衛門との魅力的な舞台空間を創っていて好感が持てた。とにかく、一つ一つのシーンが絵になっていた。
この時は、伊左衛門に恋焦がれて病気になったと言う設定だが、実際の夕霧は、非常に活発でしっかりした頭の良い傾城であったと言うことである。
吉田屋喜左衛門の左團次は、言葉の雰囲気も大坂と言う感じがしないので一寸異質だが、情に厚い善人として味のある主人を演じていたし、女房おさきの秀太郎は、言うまでもなく正にピッタリと言うか絶品で、当然、仁左衛門との呼吸と間合いは抜群である。
太鼓持豊作の愛之助は、太鼓持を見たこともなく演じると言っていたが、軽妙なタッチが面白い。
このように毒にも薬にもならない美しくてリラックスして楽しめる舞台は、非常に貴重であり、私などは、何時も楽しみにしている。