小笠原茂介「遺言」(「火牛」58、2007年03月05日発行)。
感想を書こうとして、なにも書くことがない、という詩にときどき出会う。小笠原の「遺言」がそれである。とてもいい。とてもいいとしか、ことばが出てこない。
「もういらないというのも可哀想で」がとてもいい。次の行の「またすこしでも側にいてほしかったので」も、しみじみと読んでしまう。「で」「ので」と、言い切ってしまわない口語の調子が、「肉体」を感じさせる。
私たちはたぶんことばを肉体に隠すようにしてつかっている。
ことばはたいへん危険だ。相手を簡単に傷つけてしまう。そういうことを意識してかしないでかはわからないが、ことばがことばとして勝手に歩いていってしまわないように、半分くらいを体のなかに隠したままつかっている。
そういう不思議な、どこか、言った人の体の奥へ引き返してゆくような感じ。
「可哀想で」、それからどうした。「ほしかったので」、それからどうした。
というような詰問を私たちはしない。
「で」「ので」のあとにつづくことば(こころ)は、ことばにしないまま、肉体で受け止めるものである。
「いつまでたっても字は読めないが/なぜか意味は伝わってくる」
そういうことは、たしかにあるのだ。これは「で」「ので」を繰り返し繰り返し、共有してきた人間のあいだで起きることがらだ。
「可哀想で」、それからどうした。「ほしかったので」、それからどうした。そのあとは、誰もいわない。それから先のことばは誰もことばにしないし、聞くことはできないが、「意味は伝わってくる」。
この不思議な感覚を、私たちは大切なものだと知っているが、ついつい、そこを踏み越えてしまうこともある。ことばにしないまま、共有しているものが、いっぱいになり、肉体からあふれだしてしまうのかもしれない。
「いってはならないことをいってしまったが」。
それから、どうなるんだろう。
言わないことで感じあっていたものが、一瞬、崩れる。肉体の奥で通じ合っていたものが、ちょっと乱れる。でも、悪い感じじゃない。とてもいい感じなのだ。たぶん、あふれだしたものに、無理がないからだ。あふれだしたものを、あふれるままにしておくことができない。あふれてゆくものは、ことばが必要なのだ。
それで、つい、ことばにしてしまう。
それから、どうなるだろう。
「くすぐったい」。
ああ、「くすぐったい」か……としみじみと思う。「くすぐったい」は肉体の感覚(皮膚感覚)であると同時に、こころの感覚でもあるのだ。
くすぐられると人は笑う。
こころが笑っているのか、肉体が笑っているのか、よくわからない。わからないけれど、その笑いが何かをときほぐす。
何かが肉体からあふれてくる。ことばにならないから、笑う。この幸福。愛にあふれた幸福。
どう感想を書いていいか、わからない。
でも、とてもいい詩だ。今年読んだなかで、一番いい。そしておそらく、これをこえる詩を今年は読むことはないだろう、という予感もする。
死を描いた作品を読んで、とても幸せになったと言ったら、不謹慎だろうか。
だが、私は、幸せ、としかいいようがない。
愛を静かに語って、ひとことも嘘がない。そんな愛に触れさせていただいたことに、ただ感謝したい。
感想を書こうとして、なにも書くことがない、という詩にときどき出会う。小笠原の「遺言」がそれである。とてもいい。とてもいいとしか、ことばが出てこない。
暗くして古いレコードを聴いていると
隣の椅子がカタカタ音を立てる
遺言状を忘れたのでこれから書くという
もういらないというのも可哀想で
またすこしでも側にいてほしかったので
なにか紙は?---探していると
もう机には紙が置かれ
手に毛筆らしいものももっている
書きながら激しく震え
水のなかのように墨が滲んでいくので
ほとんど字になっていない
---よっぽど寒いところからきたの?
聞いたが 黙って書きつづける
紙はいつか巻紙のようなものになり
どこまでもするする延びていく
いつまでたっても字は読めないが
なぜか意味はつたわってくる
ふと手をとめ
型がひどく凝ったという
小首を傾げてこっちを流し目でみるようすが
いかにも誘っているようで つい
---揉んであげようか
いってはならないことをいってしまったが
はにかんだように笑い
くすぐたいからいい という
「もういらないというのも可哀想で」がとてもいい。次の行の「またすこしでも側にいてほしかったので」も、しみじみと読んでしまう。「で」「ので」と、言い切ってしまわない口語の調子が、「肉体」を感じさせる。
私たちはたぶんことばを肉体に隠すようにしてつかっている。
ことばはたいへん危険だ。相手を簡単に傷つけてしまう。そういうことを意識してかしないでかはわからないが、ことばがことばとして勝手に歩いていってしまわないように、半分くらいを体のなかに隠したままつかっている。
そういう不思議な、どこか、言った人の体の奥へ引き返してゆくような感じ。
「可哀想で」、それからどうした。「ほしかったので」、それからどうした。
というような詰問を私たちはしない。
「で」「ので」のあとにつづくことば(こころ)は、ことばにしないまま、肉体で受け止めるものである。
「いつまでたっても字は読めないが/なぜか意味は伝わってくる」
そういうことは、たしかにあるのだ。これは「で」「ので」を繰り返し繰り返し、共有してきた人間のあいだで起きることがらだ。
「可哀想で」、それからどうした。「ほしかったので」、それからどうした。そのあとは、誰もいわない。それから先のことばは誰もことばにしないし、聞くことはできないが、「意味は伝わってくる」。
この不思議な感覚を、私たちは大切なものだと知っているが、ついつい、そこを踏み越えてしまうこともある。ことばにしないまま、共有しているものが、いっぱいになり、肉体からあふれだしてしまうのかもしれない。
「いってはならないことをいってしまったが」。
それから、どうなるんだろう。
言わないことで感じあっていたものが、一瞬、崩れる。肉体の奥で通じ合っていたものが、ちょっと乱れる。でも、悪い感じじゃない。とてもいい感じなのだ。たぶん、あふれだしたものに、無理がないからだ。あふれだしたものを、あふれるままにしておくことができない。あふれてゆくものは、ことばが必要なのだ。
それで、つい、ことばにしてしまう。
それから、どうなるだろう。
「くすぐったい」。
ああ、「くすぐったい」か……としみじみと思う。「くすぐったい」は肉体の感覚(皮膚感覚)であると同時に、こころの感覚でもあるのだ。
くすぐられると人は笑う。
こころが笑っているのか、肉体が笑っているのか、よくわからない。わからないけれど、その笑いが何かをときほぐす。
何かが肉体からあふれてくる。ことばにならないから、笑う。この幸福。愛にあふれた幸福。
どう感想を書いていいか、わからない。
でも、とてもいい詩だ。今年読んだなかで、一番いい。そしておそらく、これをこえる詩を今年は読むことはないだろう、という予感もする。
死を描いた作品を読んで、とても幸せになったと言ったら、不謹慎だろうか。
だが、私は、幸せ、としかいいようがない。
愛を静かに語って、ひとことも嘘がない。そんな愛に触れさせていただいたことに、ただ感謝したい。