詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岬多可子「苺を煮る」

2007-03-03 10:58:31 | 詩(雑誌・同人誌)
 岬多可子「苺を煮る」(読売新聞、2007年02月13日夕刊)。
 ことばと意味はどんなふうに出会うのだろうか。
 岬多可子「苺を煮る」を読むと、岬は「辞書」、つまり他人がつくりあげてきた「定義」を頼りにせずに、自分の現実を手がかりにして、意味を自分のものにしていることがわかる。

赤い苺(いちご)を甘く
煮ているのであるが
そんなとき
底のほうからどんどんと
滲み出てきて 崩れていく。
 
たとえば。
奪ってきたんだ という
とうとつなおもい。
じくじくと 苺は赤い血を吐くが
忸怩(じくじ)たる とはこういうことか。
うつくつと 琺瑯(ほうろう)の鍋は音をたてるが
鬱屈した とはこういうことか。

 ことばにならない思いをかかえて岬はイチゴジャムをつくっている。「忸怩たる思い」とか「鬱屈」とか--たとえば、人は(辞書では)、そう呼ばれる思いをかかえているんいだろうなあ、とうっすらと感じながらジャムをつくっている。
 そうするとイチゴがじくじくと赤い血を吐く。うつくつと鍋が音を立てる。そんなふうに岬には聞こえる。そしてその聞こえた音を手がかりに「忸怩たる」「鬱屈」ということばを岬自身のものにする。
 「忸怩たる」はもちろん辞書の定義ではイチゴの煮崩れる音ではない。「鬱屈」ももちろんイチゴが煮詰まるときの鍋の音ではない。
 いわば岬の「定義」は間違っている。しかし、その間違っていることが「詩」なのである。「事実」をねじまげてしまうこと。「意味」をゆがめてしまうこと。そこに「詩」の命がある。「詩」とは辞書の定義する「意味」をゆがめてしまう力である。ゆがめることで「辞書」から解放する。ことばを自由にする。「辞書」からことばを奪い返すのである。岬だけのことばにしてしまうのである。
 この詩は、後半も非常におもしろい。
 
しなかったけれども
かんがえたことというのは
たくさん ある。
形のなくなるまで
って こわいじゃないか。
 
罪を犯して連れて行かれるひとのこと
あ こういう顔をしているんだ
と思って見ていて。
鍋の わたしの
赤くかがやいている内側を
他言はできない。
それから静かに瓶につめ
蓋(ふた)を閉め
日付を書いて
春のさなかへ向かう。当分は
だめにならない。 

 「他言はできない」。岬は、「辞書」からことばを奪い返しながら、その奪い返したもののすべてを語ってはいないのである。
 前半を手がかりに、岬は生活(台所?)からことばをつくりなおしている、実際の生活、たとえばイチゴジャムをつくるという暮らしのなかから、こころとことばを新たに組み合わせて独自の「意味」をつくりだしている、ということはできる。
 しかし、それだけではないのだ。
 それ以上の、ことばにならないことばが「詩」の奥には潜んでいる。隠されている。それは岬だけが知っている。「他言」せずに、ジャムを瓶のなかにしまうように、ことばのなかに隠しているのである。
 「忸怩たる」がイチゴの煮崩れる「音」でおわるはずがない。「鬱屈」が鍋の音であるはずがない。それは岬のほんとうの思い、ことばにならない思いを隠すための「方便」である。岬の、ことばにならない思いを隠し、しまっておくために、岬は「辞書」からことばを奪い返すのである。

 岬の詩はいっけん静かである。しかしほんとうはとんでもなく強暴なものを秘めている。
コメント
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