『一瞬』はさまざまな一瞬を描いた詩集だ。巻頭の「ある眩暈(くるめき)」には「一瞬」ということばは登場しない。隠れている。
「かすかな驚き」「ひそかな戦き」「ほのかな/眩暈」。「かすかな」「ひそかな」「ほのかな」という「小さなもの」。それが「一瞬」だ。そしてそれは「意識するまえの」の「まえ」でもある。「まえ」とは、出会っているものが何か、それが明確に意識される寸前の小さな小さな「間」だ。その「間」を「驚き」「戦き」「眩暈」が駆け抜ける。
そうしたものを清岡は「美」と対比しながら「好きだ」と告げる。「美」を何よりも尊ぶ清岡が、ここでは「美」よりも「美/であると意識するまえの/かすかな驚きが好きだ」という。隠れている「一瞬」が好きだという。
「一瞬」のほかにも隠れているものがある。「と」。「と」が隠されている。
この詩では「何かと清岡」が出会っている。「何か」は省略され、「清岡」も省略されている。
何かと清岡は出会い、「それ(何か)が美/であると意識するまえの/かすかな驚きが好きだ。」何かと清岡が省略されたために「と」も省略されている。
かわりに「が」がある。
「それが美/である」「敵が美/である」の「が」。
「が」は主語と述語を結ぶ格助詞だ。この詩では、すこし不自然な形でつかわれている。清岡の詩にはめずらしく行のわたりがおこなわれており、述語部分は「美/である」という不思議な「間」とともにつかわれている。
「間」には何かが隠されている。潜んでいる。何が潜んでいるのか。「運動」(動き)だ。「意識する」という精神の運動が潜んでいる。この「意識する」という運動の主語は省略された清岡である。清岡という主語が省略され、「それ」というあいまいなものを主語にかかげたために「美/である」とという不思議な「間」ができてしまった。
清岡という隠された主語を完全に消し去ると最初の書き出しはどうなるだろうか。「意識する」という運動を消し去ると、どうなるだろうか。
「それが美/になるまえの/かすかな驚きが好きだ。」
「ある」ではなく「なる」。
ほんとうに隠されているのは「なる」という動詞だ。「意識する」という動詞は「なる」という動きを隠すために書かれている。
清岡はいつでも「なる」を描いている。「と」によって始まる世界、それが「円き広場」を通って、いままで存在しなかった「美」に「なる」。
「なる」とは再生であった。
再生を意識すると、「敵が美/であると意識するまえ」の「敵」の理由がわかる。再生のためには、いったん死ななければならない。死をもたらすものが「敵」である。そして、その死があたらしい美を誕生させることを知っているがゆえに、清岡は敵を受け入れる。敵なしには、それまでの自分を破壊しないかぎりは、真の再生はないからだ。
清岡の選択には「敗れる」「逃れる」はあっても「打ち勝つ」はない。つまり、以前の自分は否定されている。以前の自分を否定し、再生することだけが美と出会う方法だ。
「なる」と「再生」は「美」のなかで一致する。「ひとつ」になる。「円き広場」のような「全体」になる。
それが美
であると意識するまえの
かすかな驚きが好きだ。
風景だろうと
音楽だろうと
はたまた人間の素顔だろうと
初めて接した敵が美
であると意識するまえの
ひそかな戦(おのの)きが好きだ。
やがては自分が無残に
敗れる兆しか。
それともそこから必死に
逃れる兆しか。
それほど孤独でおろかな
それほど神秘でほのかな
眩暈(くるめき)が好きだ。
「かすかな驚き」「ひそかな戦き」「ほのかな/眩暈」。「かすかな」「ひそかな」「ほのかな」という「小さなもの」。それが「一瞬」だ。そしてそれは「意識するまえの」の「まえ」でもある。「まえ」とは、出会っているものが何か、それが明確に意識される寸前の小さな小さな「間」だ。その「間」を「驚き」「戦き」「眩暈」が駆け抜ける。
そうしたものを清岡は「美」と対比しながら「好きだ」と告げる。「美」を何よりも尊ぶ清岡が、ここでは「美」よりも「美/であると意識するまえの/かすかな驚きが好きだ」という。隠れている「一瞬」が好きだという。
「一瞬」のほかにも隠れているものがある。「と」。「と」が隠されている。
この詩では「何かと清岡」が出会っている。「何か」は省略され、「清岡」も省略されている。
何かと清岡は出会い、「それ(何か)が美/であると意識するまえの/かすかな驚きが好きだ。」何かと清岡が省略されたために「と」も省略されている。
かわりに「が」がある。
「それが美/である」「敵が美/である」の「が」。
「が」は主語と述語を結ぶ格助詞だ。この詩では、すこし不自然な形でつかわれている。清岡の詩にはめずらしく行のわたりがおこなわれており、述語部分は「美/である」という不思議な「間」とともにつかわれている。
「間」には何かが隠されている。潜んでいる。何が潜んでいるのか。「運動」(動き)だ。「意識する」という精神の運動が潜んでいる。この「意識する」という運動の主語は省略された清岡である。清岡という主語が省略され、「それ」というあいまいなものを主語にかかげたために「美/である」とという不思議な「間」ができてしまった。
清岡という隠された主語を完全に消し去ると最初の書き出しはどうなるだろうか。「意識する」という運動を消し去ると、どうなるだろうか。
「それが美/になるまえの/かすかな驚きが好きだ。」
「ある」ではなく「なる」。
ほんとうに隠されているのは「なる」という動詞だ。「意識する」という動詞は「なる」という動きを隠すために書かれている。
清岡はいつでも「なる」を描いている。「と」によって始まる世界、それが「円き広場」を通って、いままで存在しなかった「美」に「なる」。
「なる」とは再生であった。
再生を意識すると、「敵が美/であると意識するまえ」の「敵」の理由がわかる。再生のためには、いったん死ななければならない。死をもたらすものが「敵」である。そして、その死があたらしい美を誕生させることを知っているがゆえに、清岡は敵を受け入れる。敵なしには、それまでの自分を破壊しないかぎりは、真の再生はないからだ。
やがては自分が無残に
敗れる兆しか。
それともそこから必死に
逃れる兆しか。
清岡の選択には「敗れる」「逃れる」はあっても「打ち勝つ」はない。つまり、以前の自分は否定されている。以前の自分を否定し、再生することだけが美と出会う方法だ。
「なる」と「再生」は「美」のなかで一致する。「ひとつ」になる。「円き広場」のような「全体」になる。