佐々木安美「妹」「車輪」(「一個」創刊号、2007年春)。
「ヒトもモノも混ざり合っている」という行が「妹」にある。佐々木の詩を読んで感じるのは、この「混ざり合い」を佐々木が受け入れているということだ。「混ざり合った」ものを分けない。混ざり合ったことを受け入れながら、混ざり合ったものを、揺らぎながら生きる。つまり、視線が常に変化し、「私」というものに拘泥しない。固執しない。固執しないということにおいて一貫した生き方をする。
水のなかに泳いでいる泥の動きに似ている。動き続け、やがておさまる。泥は沈み、清らかな水が上澄みとして残る。それまでの時間を受け入れる。そんな生き方である。
「かすかな」「すこし」。そういう力に頼っている。信頼している。「かすかな」「すこし」の繰り返しの果てに、「激しく」がやってくる。「激しく」に至るまで、佐々木は「混ざり合っている」ことを受け入れる。受け入れていれば、必ずすこしずつそれぞれのものが落ち着くところに落ち着く。「激しく」落ち着く。
「車輪」では「ヒト」と「モノ」ではなく、「ヒト」と「ヒト」が混ざり合う。あるいは「ヒト」(私)と「詩人」(詩を読む人)が混ざり合う。「詩人」は「ヒト」ではなく「モノ」かもしれない。
「詩を読む人」の身体がひしゃげていると気づく(気づいた、わかっていた)わたし。そのわたしが風景を見つめて、「ものの輪郭が重な」っていることに気がつく。気がつく主体は「わたし」なのだから、その気づくという行為の原因(せい)は「読む人」の「せい」でありうるはずがない。そのありうるはずのないことを、わざわざ「読む人のせいではなく」と断るのは、佐々木の中で「詩を読む人」と「わたし」が混ざり合っているためである。「詩を読む人」になったり、「わたし」になったりしている。それを明確に識別せず、どちらの視点(視線)も、受け入れて生きる。
細かな泥が渦を巻く水。それはほんとうに細かな泥が渦を巻いているのか、それとも水が渦を巻いていて、泥がそれにつられて動いているのか。その区別がつかないように、佐々木は混ざったものを混ざったまま動くにまかせている。
激しい動きはしない。
その激しい動きを拒んでいるところに、佐々木の「激しさ」がある。
この詩には「おとろえ」とか「むなしさ」とか「はかなく」とかがことばをかえながら繰り返される。それを、動かずにじーっと見据えようとする「激しさ」が佐々木である。他人を、ものを、受け入れてしまう「激しさ」が佐々木である。
「ヒトもモノも混ざり合っている」という行が「妹」にある。佐々木の詩を読んで感じるのは、この「混ざり合い」を佐々木が受け入れているということだ。「混ざり合った」ものを分けない。混ざり合ったことを受け入れながら、混ざり合ったものを、揺らぎながら生きる。つまり、視線が常に変化し、「私」というものに拘泥しない。固執しない。固執しないということにおいて一貫した生き方をする。
妹は地下を流れる川の
かすかな水音の中で眠っている
水音はこの世の外にも洩れていて
点在する外階段のひとつを見つけてのぼっていくと
わたしの家の屋上に すこしずつ姿をあらわす
日の光で薄れたり光ったり
部分的にはっきり見えたり
夕暮れまで言葉の断片は乱反射していて
ヒトもモノも混ざり合っている
水のなかに泳いでいる泥の動きに似ている。動き続け、やがておさまる。泥は沈み、清らかな水が上澄みとして残る。それまでの時間を受け入れる。そんな生き方である。
妹のうつくしいくちびるがすこしひらく
そこからすこしずつ顔が見えたと思ったのに
地下を流れる川はついに終点に到り
断崖から滝となって激しく落下している
「かすかな」「すこし」。そういう力に頼っている。信頼している。「かすかな」「すこし」の繰り返しの果てに、「激しく」がやってくる。「激しく」に至るまで、佐々木は「混ざり合っている」ことを受け入れる。受け入れていれば、必ずすこしずつそれぞれのものが落ち着くところに落ち着く。「激しく」落ち着く。
「車輪」では「ヒト」と「モノ」ではなく、「ヒト」と「ヒト」が混ざり合う。あるいは「ヒト」(私)と「詩人」(詩を読む人)が混ざり合う。「詩人」は「ヒト」ではなく「モノ」かもしれない。
一行の長い詩を読む人の
身体が途中でひしゃげているのはずいぶん前からわかっていた
そのほかに 遠くの風景をじっと見ていて気がついたのだが
ものの輪郭が重なり 濃くなっているところがあり
あるいは色褪せ めくれて裏がはみだしているところもある
ああこれは
読む人のせいではなく
わたしの気力のおとろえのためだと思う
「詩を読む人」の身体がひしゃげていると気づく(気づいた、わかっていた)わたし。そのわたしが風景を見つめて、「ものの輪郭が重な」っていることに気がつく。気がつく主体は「わたし」なのだから、その気づくという行為の原因(せい)は「読む人」の「せい」でありうるはずがない。そのありうるはずのないことを、わざわざ「読む人のせいではなく」と断るのは、佐々木の中で「詩を読む人」と「わたし」が混ざり合っているためである。「詩を読む人」になったり、「わたし」になったりしている。それを明確に識別せず、どちらの視点(視線)も、受け入れて生きる。
細かな泥が渦を巻く水。それはほんとうに細かな泥が渦を巻いているのか、それとも水が渦を巻いていて、泥がそれにつられて動いているのか。その区別がつかないように、佐々木は混ざったものを混ざったまま動くにまかせている。
激しい動きはしない。
その激しい動きを拒んでいるところに、佐々木の「激しさ」がある。
この詩には「おとろえ」とか「むなしさ」とか「はかなく」とかがことばをかえながら繰り返される。それを、動かずにじーっと見据えようとする「激しさ」が佐々木である。他人を、ものを、受け入れてしまう「激しさ」が佐々木である。