詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大谷良太「日々」

2007-03-14 13:07:47 | 詩(雑誌・同人誌)
 大谷良太「日々」(「ガーネット」51、2007年03月01日発行)。

 終わりの3連に惹かれた。

佇っている、雨
伝う滴、
(開かれた場所で閉じ籠もる方法,)

廂の下で振り払い、
石段に腰かけ
待っている嗚咽

だがいつまでも来ない
この伏見の古い波止場で
私は徒に日を過ごす

 「いつまでも来ない」の主語は何か。「嗚咽」だ。嗚咽は、普通はおさえようとしてもおさえきれないものである。しかし、大谷は、それを待っている。しかも、それは「いつまでも来ない」。
 この不思議な感覚。
 廿楽が「肴町」での書いていた「ぜつぼう」ということばを思い出してしまった。
 肉体に深く絡んでいて、ことばを拒絶している何か。

 「嗚咽」は感情だろうか。肉体だろうか。

 こういう問いは無意味かもしれない。直感で、私は「嗚咽」は感情ではなく、肉体だと思う。肉体の変化だと思う。
 肉体をみて、そこから私たちは感情を知る。そういうときの、肉体。

 これに先立つ連。(3連目)

宇治川の派流に釣り糸を垂れている
男の姿を橋の上から眺め、
男も私も同じ傘の下にいることがおかしい

 ここに書かれている肉体感覚。感情ではなく、肉体の状態への「感情移入」(というのは、奇妙な言い方かもしれないが。)雨の中で、傘をさして、傘の中で閉じ籠もっている。閉じ籠もるときの、人に共通する「感情」を分け持つ感じ。
 釣り人が何を感じているか。そんなことはわかるはずもないが、傘に閉じ籠もっているという肉体に反応してしまう肉体があり、そういう反応を起こしてしまうこと、起きてしまった反応を、ていねいにすくい上げることばの動きが、「待っている嗚咽/ /だがいつまでも来ない」ということばにつながっていく。
 この感じが、私は好きだ。「待っている嗚咽/ /だがいつまでも来ない」の1行空きも、意識の呼吸のようで、とても美しい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする